異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第68話

ロプト教団による子供狩りの最前線、ミレトス地方。

解放軍は港町からの過酷な行軍の末、沿岸部の防衛線を次々と食い破り、ついにこの地の中枢である『ミレトス城』の足元へと迫っていた。

 

「……ハァッ、ハァッ……! ここから先へは、一歩も通さないッ!」

 

砲雷のごとき爆音と共に、ミレトス城外の荒野に青白い閃光が弾ける。

後退に後退を重ね、退路のない最終防衛線の泥濘の中で、フリージの魔法騎士オルエンは、雷魔法『ダイムサンダ』を限界まで行使し、迫り来るセリス軍の精鋭たちと血みどろの死闘を繰り広げていた。

 

美しいはずの彼女の軍服は、すでに敵の返り血と泥に塗れ、魔力の酷使によってその端正な顔は蒼白に透け上がっている。

だが、彼女の瞳には、狂気にも似た熱い光が宿っていた。

 

(私が……私がこの城を守り抜くのだ! 兄上のように目を背けたりはしない。ユリウス様の真の孤独を理解しているこの私こそが、あの方の最後の盾になるのだと……ここで証明してみせる!)

 

泥水を啜りながら剣と魔法を振るうオルエンの脳裏にあるのは、絶対的な暗闇の中で怯えていた、あのかつての優しい皇子の姿だけだ。自分がここで血反吐を吐いて、彼の居城を守り抜けば、必ずユリウスは自分を見てくれる。必要としてくれる。

その悲しくも純粋な庇護欲だけが、彼女が死線に立ち続ける唯一の理由であった。

 

だが、彼女のその健気な献身は、肝心の彼には届いてすらいなかった

 

***

 

激戦の最前線からすぐ背後。高くそびえるミレトス城の城壁の上。

吹き荒れる冷たい海風の中で、暗黒の皇子ユリウスは、自分の足元で繰り広げられる血みどろの防衛戦を、まるで這いずり回る蟻の行列でも観察するかのように見下ろしていた。

 

「……随分と泥だらけになって、よくここまで這い上がってきたものだ」

ユリウスの唇に、酷薄で無邪気な笑みが浮かぶ。

「イシュタル。ここは暗黒司祭どもに任せて、帝都へ帰ろう」

 

彼の傍らに侍るフリージの王女イシュタルは、その言葉にビクリと肩を震わせた。

ユリウスは、敗北を重ねながらも最前線で必死に戦うオルエンのことなど、ただのの一度も視界の端にすら入れていなかったのだ。自軍の指揮官の命を懸けた決死の奮闘すら、彼にとっては存在自体が認識されておらず、『裏方にいる暗黒司祭にでも任せておけばいい些事』に過ぎない。

 

「……そうだ。ついでにおまえと二人で遊びたいな」

 

ユリウスは、イシュタルの背後からその細い腰に腕を回し、耳元で毒蛇のように甘く囁いた。

 

「反逆者を一人、血祭りに上げる。どちらが早くしとめられるか……腕だめしだ」

「っ……!」

 

イシュタルの呼吸が浅く、不規則になる。

彼女は帝国の非道な『子供狩り』に心を痛めながらも、己の力では何も止めることができずにいた。ケンプフやレイドリックのような卑劣な輩に実権を奪い取られるという屈辱に甘んじてまで、暗闇に紛れてほんの数人の子供を逃がすという、ひどく惨めで消極的な抵抗を続けるのが精一杯だったのだ。

 

眼下で泥に塗れて戦うセリス軍は、そんな逃げ場のない地獄を歩く彼女が密かにすがりついている、この狂った帝国を終わらせてくれる『最後の希望の光』である。

 

それを、自らの手で遊び半分に殺戮しろというのか。

 

(……できない。でも、ここで私が少しでも拒む素振りを見せれば……ユリウス様は間違いなく、見せしめとしてフリージの家族を皆殺しにし、私のために不本意な屈辱を耐え忍んでくれている彼(ラインハルト)にまでも、想像を絶する拷問を加える……!)

 

極限の恐怖と重圧が、イシュタルの精神を冷たい万力のように締め上げる。

だが、彼女は血の気が失せた唇を強く噛み締め、絶望の底で、完璧に美しく、ひどく歪んだ『嘘の笑顔』を作ってみせた。

 

「はい、わかりました。……そういうことなら、喜んで!」

 

心の中では血の涙を流し、精神を八つ裂きにされながらも、愛する家族を守るために狂王の残虐な愛人を演じ切る。それこそが、イシュタルに課せられた、決して誰にも理解されない凄惨な地獄であった。

 

「……フフッ、いい子だ。さあ、行こうか」

 

***

 

「……ぐっ! まだだ、私はまだ……!」

 

最前線の荒野。セリス軍の猛攻を前に膝をつきかけ、それでも血塗れのダイムサンダを構え直そうとしたオルエンの目の前に、突如として圧倒的な暗黒の波動が舞い降りた。

 

吹き荒れる風塵が晴れた先に立っていたのは、漆黒の外套をなびかせる皇子ユリウスと、トールハンマーを携えたイシュタルであった。

 

「あ……」

オルエンの瞳が、狂喜と希望に見開かれる。

(ユリウス様……! ユリウス様が、私を助けるために、わざわざこの前線まで降りてきてくださったのだわ……!)

 

傷だらけの身体を引きずり、泥に塗れたまま、オルエンは縋るような笑みを浮かべてユリウスの元へ這い寄ろうとした。

私を見て。私があなたのために、ここまで……!

 

だが。

ユリウスは、足元で縋るように彼を見上げるオルエンの存在に、文字通り『一瞥も』くれなかった。

彼は血に塗れた忠臣の横を透明な空気のように完全に素通りし、ただ腕の中のイシュタルだけを見つめながら、楽しそうに笑い声を上げた。

 

「さあ、イシュタル。的はあそこにたくさんいるよ。おまえの雷で、あの蟲どもがどんな面白い悲鳴を上げるか、私に見せてくれ」

「……はい、ユリウス様」

 

イシュタルは、足元で這いつくばったまま硬直しているオルエンの姿に、痛ましい視線を一瞬だけ向けながらも、それ以上何もできず、ただ虚ろな瞳で聖書を開いた。

 

「…………え?」

 

オルエンの口から、間の抜けた声が漏れた。

彼女が流した血も、すべてを投げ打って戦った騎士としての誇りも、彼を救いたいというあの気高い誓いすらも。

この狂王にとっては、イシュタルとのデートの邪魔にすらならない、道端の石ころ以下の価値しかなかったのだ。

 

戦場を切り裂く絶叫と、空を焦がすトールハンマーの雷鳴。

まるで遊技場のように無邪気に命を刈り取っていくユリウスの背中を、オルエンは泥まみれの地面に這いつくばったまま、ただ呆然と見つめていた。

 

「あ……ああ……っ」

 

彼女の胸の奥底で、何かが決定的に、そして無惨に音を立てて砕け散った。

狂気に依存した少女の純粋すぎる献身と、恐怖に支配された雷神の血塗られた遊戯。

それぞれの地獄の底で、ミレトスの荒野は黒焦げの屍と業の火に包まれていくのであった。

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