異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第69話

鉛色の厚い雲が、戦場を覆い尽くしていた。

解放軍の頭上に、耳を劈くような轟音と共に、無数の紫電が狂ったように降り注ぐ。

 

(……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……!)

 

イシュタルは、血の気の引いた唇を噛み締めながら、手にした聖書『トールハンマー』のページを開いていた。 彼女の魔力が天に渦巻き、大地そのものを消し飛ばすほどの絶対的な破壊の雷光が収束していく。

 

だが、トールハンマーの莫大な雷撃は、解放軍の兵士たちの頭上ではなく、彼らの進軍ルートの「直前」の荒野を正確に穿ち、巨大なクレーターを作って足止めをするに留まっていた。

 

イシュタルは、解放軍を殺せない。彼らは、彼女が密かにすがりついている、この地獄を終わらせるための『唯一の希望』なのだ。

しかし、ここで自分が本気を出していないことが背後のユリウスに露見すれば、フリージの家族も、自分のために不本意な屈辱を耐え忍んでくれている彼(ラインハルト)も拷問され、殺される。極限のジレンマが、イシュタルの精神を八つ裂きにしていた。

 

「……イシュタル様! 何を遊んでおいでなのですか!」

 

不意に、泥溜まりの中に這いつくばっていたはずのオルエンが、血走った目でイシュタルを激しく睨みつけた。

 

「そんな威嚇射撃で、反乱軍が倒せると思っているのですか!? やはりあなたは、ユリウス様への忠誠など口先だけの……!」

「……違うわ、オルエン。下がっていなさい……!」

 

イシュタルは、オルエンの罵倒を真っ向から浴びながらも、必死に彼女を制止しようとした。

だが、すべてを失い心が壊れかけているオルエンの頭の中で、イシュタルの「手加減」は、自らのすべてを懸けた献身に対する最大の侮辱として変換された。

 

(なぜ、こんな小手先の魔法で誤魔化しているの……! 私が命を懸けて守ろうとしたものを、この女は馬鹿にしているの!?)

 

嫉妬と絶望が、彼女の理性を完全に焼き切る。

 

「……あの女よりも早く、残酷に! そうすれば、ユリウス様は必ず私を……!」

 

オルエンはふらつく足で立ち上がると、味方の防衛線から単騎で突出した。 解放軍の最深部、セリスとリーフがいる本陣へ向けて、残された命を燃やすようなダイムサンダの特攻を仕掛けたのだ。

 

「馬鹿な……やめなさい、オルエン!!」

 

イシュタルが血相を変えて叫ぶ。

だが、歴戦の猛者である解放軍が、その無謀な突出を見逃すはずがなかった。

 

「……隙だらけだ、帝国の魔道士」

 

オルエンの死角、瓦礫の陰から音もなく跳躍したのは、風の魔道書『グラフカリバー』を構えたアスベルであった。 一切の詠唱を省いた、極限まで圧縮された不可視の風の刃が、迎撃のためにオルエンの無防備な横腹へと放たれる。

絶対の死の軌道。オルエンがそれに気づいた時には、すでに回避不可能な距離にまで風の刃が迫っていた。

 

(あ……ユリウス、様……。最後に一度だけでいい……私を、見て……)

 

死の瞬間、狂気に塗りつぶされていた彼女の脳裏によぎったのは、かつての優しかった皇子の幻影だった。

 

だが、その肉体が切り裂かれる直前。

凄まじい雷光を纏った影が、オルエンの横から強引に割り込んだ。

 

「……きゃあっ!!」

「……ぐっ、うぁぁぁっ!!」

 

風の刃はオルエンを逸れ、彼女を突き飛ばして盾となったイシュタルの右肩から脇腹にかけてを、無慈悲に深く切り裂いた。 鮮血が、荒野の冷たい風に乗って派手に舞い散る。

 

「あ……イシュ、タル……様……?」

 

泥の地面に転がり落ちたオルエンは、自分の身代わりとなって重傷を負い、膝をつくイシュタルの背中を、信じられないものを見るような目で見つめた。

 

「なぜ……私を……? 私は、あなたを憎んで……あなたを蹴落とそうと……」

「……あなたは、死んでは駄目……」

 

イシュタルは、傷口からとめどなく流れる血を押さえながら、荒い息を吐いてオルエンを振り返った。

その瞳には、今まで見せていたような冷たい人形の表情はない。すべてを失い、それでも狂気にすがってしまった哀れな少女に対する、痛切なまでの憐憫が宿っていた。

 

「死んで、証明することなんて……何もないのよ。あの人は……私たちの命なんて、ただの石ころとしか……思っていないのだから……」

「え……?」

 

イシュタルが吐き出した凄惨な真実。それは、オルエンが最後まで縋り付こうとしていた『狂った依存の土台』を、根底から叩き壊すものであった。

 

「――つまらない」

 

その時。凄惨な戦場の空気を一瞬で凍結させる、ひどく場違いで、不満げな声が響いた。

背後の空間が黒く歪み、そこからロプトウスの暗黒のオーラを纏ったユリウスが歩み出てきた。

 

「ユ、ユリウス……様……っ」

 

イシュタルが、激痛に耐えながらその場に平伏する。

 

「……反逆者を仕留めるゲームだと言ったはずだぞ、イシュタル。わざと魔法を外した挙句、あんなの(オルエン)を庇って血を流すなんて」

 

ユリウスは、血溜まりの中に座り込むイシュタルの前に立つと、その傷を気遣うというより、お気に入りの玩具に醜い罅(ひび)を見つけたかのような、ひどく冷たく苛立った視線を落とした。

 

「……申し訳、ありま……せん……」

「ユ、ユリウス様! 私はまだ戦えます! イシュタル様が不甲斐ない分も、私が……!」

 

心が壊れかけたオルエンが、それでもなお必死にすがりつこうとするが、ユリウスはやはり、彼女を一瞥すらしなかった。

 

「……もういい。ゲームは終わりだ。盤面を汚されたら、やる気も失せる」

 

ユリウスが指を鳴らすと、彼らの足元に、周囲の空間ごと彼らを飲み込む巨大な転移の魔法陣が展開された。

 

「……また遊んでやろう、セリス。せいぜい、私の所まで這い上がってくるのだな」

 

ユリウスの酷薄な笑い声と共に、暗黒の光が辺りを包み込む。 次に瞬きをした時、そこにはユリウスも、重傷を負ったイシュタルも、呆然と立ち尽くすオルエンの姿も、跡形もなく消え去っていた。

 

「……消えた、か」

 

リーフは光の剣を下ろし、彼女たちが残した生々しい血溜まりを見つめた。

帝国中枢の盤石さなど、とうに崩れ去っている。あの狂気の皇子と、彼に縛り付けられ傷つけ合う女たち。彼女たちが抱えていた絶望の深さを、リーフは確かに肌で感じ取っていた。

 

ミレトスの荒野に、重い静寂が戻る。 だが、この血塗られた進軍の先には、帝国という巨大な悲劇の元凶、皇帝アルヴィスが待ち受けていた。

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