異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第7話

グランベル暦761年、秋。

凍てつくシレジアの雪原を越え、岩肌の露出した荒野を這うように進んだレヴィン一行は、ついに旧イザーク王国のティルナノグへと辿り着いた。

 

「……見えたぞ。イザークの隠れ里だ」

 

二人の幼子(ファバルとパティ)の重みで背中を泥だらけにしたデューが、崖の稜線から身を乗り出し、掠れた声を絞り出す。

眼下に広がるのは、豊かな里などではない。険しい山々の裂け目に身を隠すようにへばりついた、敗残兵たちの泥臭い掃き溜めだった。

 

「やっと、息がつける……」

 

レヴィンが、肺の奥で固まっていた血の塊を吐き出すように息を漏らす。

彼の背後では、熱の下がりきらないシルヴィアが二人の赤子(コープルとリーン)を抱き抱えたまま雪混じりの土にへたり込み、身重のフュリーが天馬マーニャの首筋にすがりついて、声もなく肩を震わせていた。

安堵の涙すら枯れ果てている。ただ、この命たちをなんとか帝国から隠し通したという、重い疲労の極致だけがそこにあった。

 

隠れ里の入り口で彼らを迎えたのは、かつての面影を残しながらも、その瞳から子供らしい光を完全に喪失した二人の少年だった。

 

「レヴィンさん……! 本当に、レヴィンさんなんですか……!」

 

シグルド軍の生き残り、オイフェ。そして彼の背後には、鋭く冷ややかな目つきをした黒髪の少年――イザークの王子シャナンが立っていた。

二人の少年は、泥だらけのレヴィン一行の姿に、言葉にならない絶望と希望がないまぜになったような表情を浮かべた。

 

「おう、オイフェ。それにシャナンも。……シグルド様の最期を、守ってやれなくてすまなかったな」

 

レヴィンは、ひび割れた手で二人の少年の肩を抱いた。

シャナンはギリッと唇から血が出るほど歯を食い縛り、オイフェはレヴィンの胸に顔を押し付けて嗚咽を漏らした。彼らもまた、バーハラの灰を被り、この痩せた隠れ里で重すぎる遺恨を背負って生き延びていたのだ。

 

***

 

イザークの隠れ里での生活は、飢えと寒さとの絶え間ない戦いだった。

だが、帝国の追手から身を隠せる土の壁と、焚き火の温もりだけが彼らの命を繋いでいた。

 

粗末な天幕の中で、血と汗の混じった凄惨な叫び声が響いた夜。

フュリーは、極限まで削られた母体を震わせ、双子の赤ん坊――セティとフィーを産み落とした。

泥に塗れたシーツの上で、クロードの忘れ形見の産声が上がった瞬間。シルヴィアは血だらけのフュリーの身体を力強く抱きしめ、二人の女は額をこすり合わせて声もなく泣き続けた。男の庇護を失い、自らの身体ひとつで命を現世に引きずり出した女たちの、痛切なまでの生の証明だった。

 

だが、その平穏な時間の裏で、一人の男が静かに牙を研いでいた。

 

「……オイラ、行くわ」

 

ある夜の焚き火のそば。デューが、血糊を完全に拭い去った短剣の刃を指の腹でなぞりながら、ぽつりと呟いた。

 

「デュー」

レヴィンは、リュートを調整する手を止めた。

 

「オイフェやシャナンは、ここでセリス様を守って爪を研ぐ。フュリーもシルヴィアも、ガキたちを生かすのに必死だ。……でもよ。オイラの『半身』は、まだこの天幕の中にはねえんだよ」

 

デューの瞳には、かつての軽薄な色など微塵もない。焚き火の炎を反射するその目は、たった一人の女――炎のような誇りを持った海賊の女、ブリギッドへの狂気じみた渇望で黒く濁っていた。

 

「バーハラでオイラを庇って散り散りになった後……あいつの匂いが、死体の山からはしなかった。……絶対に生きてる。オイラは、あいつの熱をもう一度引っ張り出さなきゃならねえ」

「あてもないのに、か?」

「盗賊の鼻を舐めんな。……それに、このままここに籠ってたら、いつか必ず帝国に押し潰される。オイラが外を回って、教団が何を企んでるか、嗅ぎ回ってきてやるよ」

 

デューは立ち上がり、短剣を鞘に収めた。

その背中から立ち上る、誰にも止められない極限の執着。レヴィンはそれ以上何も言わず、ただ短く頷いた。

 

「……死ぬなよ」

「へっ。オイラの女を取り戻すまでは、死神が来ても喉笛掻き切って逃げてやるさ」

 

翌朝の猛吹雪の中、デューは誰に見送られることもなく、たった一人で隠れ里を後にした。

その足跡はすぐに雪に掻き消されたが、彼の向かった先には、果てのない血みどろの孤独な探索行が待ち受けているのだった。

 

***

 

グランベル暦771年、春。

バーハラの悲劇から10年。

ユグドラル大陸は、グランベル帝国とロプト教団の恐怖政治に完全に覆い尽くされていた。各地で『子供狩り』の悲鳴が上がり、空は常に暗雲に閉ざされている。

 

イザークの隠れ里もまた、徐々に帝国の監視の網が狭まりつつあった。

レヴィンは抵抗軍の核として活動を続けながら、世界の実態とロプトの闇を暴くため、身分を偽り各地を巡る過酷な旅を繰り返していた。

 

そして今、彼は南の死地――トラキア半島へ向かう密航船のタラップに足をかけていた。

 

「父様。僕も行く」

 

冷たい海風が吹く波止場。レヴィンのボロボロのマントを、十歳になった少年が背後から力強く握りしめていた。

淡い緑色の髪を持った少年、コープルだ。シルヴィアから受け継いだ柔らかな顔立ちに反して、その小さな手から伝わる握力は、大人の男であるレヴィンが容易に振りほどけないほどに強ばり、執念に満ちていた。

 

「駄目だ、コープル。手を離せ。トラキアはガキが遊びに行くような場所じゃねえ。血と泥しかねえ地獄だ」

 

レヴィンが厳しく突き放すが、コープルは絶対にマントを離そうとしない。

見下ろした少年の瞳は、十歳の子供がしていい色をしていなかった。恐怖も、好奇心もない。ただ、底知れぬほどに透明で、静かな『自己犠牲の覚悟』がそこにあった。

 

「遊びじゃない。……父様が外の世界で、苦しんでる人たちの血を被ろうとしてることくらい、分かってる。だから、僕も行くんだ」

「お前にはまだ早い!」

 

「……いいえ、レヴィン殿。私も、彼に賛成です」

 

レヴィンの背後から、氷のように冷徹な声が響いた。

フュリーから生まれ、クロードの面影を色濃く残して成長した少年、セティ。彼は幼いながらも、すでに周囲の気配を完全に支配するほどの風の魔力と、一切の感情を排したような論理的な思考を身につけていた。

 

「私たちにも、外の地獄を見る義務があります。それに、私の魔道と、コープルの『杖』の才能は、必ずレヴィン殿の生存確率を引き上げる盤面の駒となります」

 

父親であるクロードがそうであったように、己の命すらも「盤面の駒」として扱うセティの冷酷なまでの合理性。

 

レヴィンは、目の前の二人の少年を見て、戦慄にも似た重い疲労を覚えた。

彼らは、間違いなく自分たちの血を引いている。だが同時に、自分たちが背負いきれなかった「世界を救うための狂信」を、幼い魂の奥底で既に完成させてしまっているのだ。

 

「……フュリーとシルヴィアが知ったら、俺を殺しにくるぞ」

 

レヴィンが渋面を作りながら抵抗を諦めると、コープルはマントを握りしめたまま、ふわりと笑った。

 

「大丈夫だよ、父様。……僕の命は、全部僕の責任で使うから」

 

それは、子供の無邪気な笑顔などではない。

母親(シルヴィア)から受け継いだ、他者の心臓を無自覚に絡め取るような甘さと、底知れぬ狂信的な『自己犠牲の呪い』を孕んだ、ひどく純粋で恐ろしい微笑みだった。

レヴィンは、その少年の笑顔の中に、いずれ彼が世界中の女たちの逃げ場のない『執着の対象』となるであろう、圧倒的な業の萌芽を確かに見ていた。

 

「……勝手にしろ。死んでも恨むなよ」

 

海風が唸る中、泥まみれの父親と、重すぎる業を背負った二人の息子たちは、トラキアという名の新たな地獄へと出航したのだった。

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