異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第70話

ミレトス地方で、セリス軍と帝国軍が凄惨な激突を繰り広げているその夜。

激戦地から遠く離れた帝都バーハラの片隅で、帝国を内側から崩壊させるための静かなる裏工作が、ついに具体的な形を成そうとしていた。

 

天才軍師サイアスは、外套の奥に『ファラフレイム』と、もう一つ、ある人物から託された重い荷物を隠し持ちながら、人気の途絶えた古城の裏庭へと静かに降り立った。

 

「……お待ちしておりました。サイアス殿下」

 

月明かりの届かない柱の陰から、静謐な声が響いた。 そこに立っていたのは、かつての名将・ラインハルトであった。

 

彼はシレジアのザクソンに左遷されながらも、その地の反乱を完璧に鎮圧してみせた。だが、その後の統治はユリウス皇子が送り込んだ連中に奪い取られ、ラインハルトは身動きの取れない『帝都の守備』という名の完全な閑職に押し込められたのである。

 

「ラインハルト将軍。……いえ、今はただの『同士』と呼ぶべきでしょうか」

 

サイアスは、彼に向けられた警戒の視線を受け止めながら、ゆっくりと歩み寄った。

二人は共に帝国の重鎮でありながら、ロプト教団による子供狩りには一切関与せず、むしろ裏で密かに抵抗を続けてきた者同士である。だが、お互いに「どこまで踏み込んでいるか」は探り合いの段階であった。

 

「……ミレトスからの報告によれば、私の妹オルエンが、ユリウス様の気まぐれな遊戯の駒として日々使い潰され、心身共に限界を迎えているとのこと」

 

ラインハルトの声は、ひどく静かだった。だが、その裏には血を吐くような悔恨と、自らの妹を狂気の玩具としたユリウスへの、底知れぬ静かな殺意が渦巻いていた。

 

「……心中お察しします」

 

サイアスは目を伏せた。

 

「今のユリウス皇子に、かつての人としての情は微塵も残されていません。彼は完全に暗黒神ロプトウスに呑まれました。……このまま彼を玉座に置いておけば、帝国だけでなく、世界が灰になります」

 

「殿下は、あの方に手をおかけになるのですか?」

 

ラインハルトの問いは、主君を弑逆するという極大の禁忌を確認する、騎士としての重い葛藤を含んでいた。

 

「いいえ」

 

サイアスは顔を上げ、ラインハルトを真っ直ぐに見据えた。

 

「私は、あの方からロプトウスの呪縛を引き剥がし、一人の人間として『救い出し』たいのです。……それが、亡きディアドラ様と、自らの罪を清算するために今まさに死地へ赴こうとしている父上(アルヴィス)の、最後の悲願でもあります」

 

ラインハルトの瞳の奥が、微かに揺れた。

 

「……しかし、どうやって。あの狂った神の力に抗う術など」

「セリス率いる解放軍と、光の聖女ユリア。……彼らこそが、唯一の希望です」

 

サイアスは外套の奥から、美しく輝く一筋の装飾品と、布に包まれた聖剣を取り出した。

 

「これは、今は亡きディアドラ様の忘れ形見である『聖なるサークレット』。そして、シグルド殿の遺品である聖剣『ティルフィング』。……私はこれを、密かに解放軍へ届けます」

 

「あなたが直接動くのですか?」

 

「いいえ。帝都の地下に匿っている子供たちの管理者である、パルマーク司祭に託します。彼ならば、教団の目を盗んで解放軍に接触できるはずです」

 

サイアスは遺品を懐にしまい直すと、ラインハルトに向けて最も危険で、そして決定的な提案を突きつけた。

 

「ラインハルト将軍。……私は、解放軍を最も被害の少ないルートで帝都へ導き、ユリウス皇子と引き合わせます。最悪の場合、すべての反逆の罪をマンフロイになすりつける算段も整えてある。……どうか、私に協力していただけませんか」

「……」

「そして……イシュタル王女を、我々の側に引き入れていただきたい」

 

その名前が出た瞬間、ラインハルトの周囲の空気が、張り詰めた氷のように冷え上がった。

 

「……彼女は、あの方を恐れています」

 

サイアスは、ラインハルトの殺気にも似た気迫に怯むことなく言葉を続ける。

 

「今のあの方に従っているのは、家族とあなたを人質に取られているからです。……ですが、あなたが蜂起し、私という皇族の隠れ蓑があれば、彼女の命は守られる。彼女の『トールハンマー』があれば、ロプト教団の防衛線を容易く崩すことができる」

「……イシュタル様に、剣を取ってあの方に刃を向けさせようと言うのですか」

 

ラインハルトは、苦痛に顔を歪めた。

愛する主君を、再び血塗られた戦場のジレンマに立たせること。それは、ラインハルトにとって自分の命を捨てるよりも重い決断であった。

 

「……分かっています。イシュタル王女は、優しい頃の彼(ユリウス)を知らない。彼女の中にあるのは、純粋な恐怖だけです」

 

サイアスは、かつての心優しい異母弟の顔を思い浮かべながら、深く頭を下げた。

 

「だからこそ……どうか、イシュタル王女に伝えてほしいのです。『どうか、彼の弱さを許してやってほしい。彼を、恐怖の底から救い出すために力を貸してほしい』と」

(……この人は、あの方にどれほど重く残酷な十字架を背負わせる気か)

 

長い、沈黙が降りた。

ラインハルトは目を閉じ、自らの内で渦巻く無数の葛藤――妹を狂気に追いやられた絶望、イシュタルへの狂気にも似た無償の献身、そして騎士としての誇り――を噛み砕くように、一つ一つ飲み込んでいった。

 

「……承知いたしました、サイアス殿下」

 

やがて、ラインハルトが静かに目を開ける。

 

「私は、これより密かにイシュタル様の元へ向かい、あなたの提案をお伝えします。……あの方がどのような決断を下されようとも、私の命はあの方と共にあります」

 

それは、帝国最強の雷神の背中を守る騎士が、初めて自らの意思で「絶対君主への反逆」を肯定した瞬間であった。

 

「感謝します、将軍」

 

二人は短く頷き合い、それぞれの戦場へと背を向けて歩き出した。

パルマーク司祭の手によって、希望の品(サークレットとティルフィング)がセリスの元へ届けられる手筈は整った。 帝国の権力中枢を根底から崩壊させる、静かで、しかし致命的な宮廷クーデターの火種が、今まさに燃え上がろうとしていた。

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