紅蓮の皇帝アルヴィスが己の業を背負ってシアルフィの石畳に散った翌日。
セリスとリーフが率いる解放軍は、休む間もなく北上を開始した。次なる標的は、帝都バーハラの南西に位置する堅牢なる軍事拠点、ドズル城である。
進軍するセリスの背中には、両親の霊から受け取った『真実は一つではない』という残酷な教えと、アルヴィスに託されたグランベルの未来の重みがあった。それらすべてを己の双肩に背負い込んだ若き聖王の歩みは、氷のように静かで、そして恐ろしいほどの威圧感を伴っていた。
「……セリス様の気配が、昨日までとまるで違う」
進軍の列の只中で、解放軍の騎士が息を呑むように呟いた。
軍師アウグストもまた、馬上のセリスの背中を見つめ、底知れぬ凄みを纏ったその横顔に、己の主君であるリーフとはまた異なる、完成された『統治者の器』を見て取っていた。
だが、帝都への道は平坦ではない。
彼らの行く手を遮るように、荒涼とした平原の向こうから、地鳴りのような重低音が響き始めた。
「……来たか。ドズル家の誇る重装斧騎士団『グラオリッター』……!」
最前線に立つヨハンとヨハルヴァの兄弟が、愛用の斧を固く握りしめた。
地平線を黒く染め上げて迫り来るのは、全身を分厚い甲冑で覆い、巨大な戦斧を掲げた帝国最強の重装騎兵部隊である。
その先頭で、一際巨大なオーラを放ちながら軍馬を駆る男。ドズル家正統の後継者にして、彼らの従兄にあたる武将・ブリアンであった。
「反逆者どもめ! 我がドズルの大地を、これ以上貴様らの薄汚い足で踏みにじらせはせん!」
ブリアンが天高く掲げた巨大な斧――ドズル王家の象徴である神器『スワンチカ』から、大地を揺るがすような地の魔力が迸る。
「……ブリアン殿……」
ヨハルヴァが、苦々しく顔を歪めた。
彼ら兄弟は、かつてはイザーク討伐軍の指揮官として帝国側に立っていた。だが、イザークの戦場という極限の死地の中で、それぞれラクチェとラドネイという刃のように鋭い女たちの生き様に魂を魅入られ、己の居場所をドズルから解放軍という泥沼へと移したのだ。
「ヨハン! ヨハルヴァ! 貴様ら、よくも厚顔無恥にこのドズルへ戻ってこられたものだ!」
ブリアンの怒声が、激突する両軍の喧騒を切り裂いて響き渡る。
「叔父上(レックス)だけでなく、貴様らまでが誇り高きドズルの血を汚し、賊軍に与するとは! 貴様らのその薄汚い裏切りが、どれほどドズル家を帝都で窮地に立たせたか、分からぬ貴様らではあるまい!」
ブリアンの怒りは、単なる帝国への狂信ではない。彼もまた、狂った皇帝とロプト教団が支配する帝都の中で、血族の裏切りによる「粛清の恐怖」に耐えながら、必死にドズル家という家門を、泥を被って守り抜いてきた一人の責任ある当主なのだ。
「……分かっています、ブリアン殿。俺たちの身勝手な裏切りが、あなたにすべての責を押し付けたということは」
ヨハンは、自らの戦斧を肩に担ぎ直し、スワンチカを構える従兄の前に、逃げることなく立ち塞がった。
「だが、ブリアン殿。俺の魂は、もうあの血の匂いと腐敗に満ちたバーハラの宮廷にはない! 彼女(ラクチェ)が切り開く、この息苦しい血みどろの戦場にしか……俺の息継ぎできる居場所は残されていないんだ!」
「狂ったか、ヨハン! 女一匹への妄執のために、己の国と血脈を捨てるというのか!」
「ああ、狂っているさ! このイカれた世界で、まともな理屈にすがりついて生き延びられるもんかよ!」
激突。
スワンチカの圧倒的な質量による一撃が、ヨハンの戦斧と激しく交差する。
火花が散り、両者の軍馬が悲鳴を上げて嘶く。単純な武の力量と神器の力では、ブリアンが圧倒的に勝っている。ヨハンの腕の骨が軋み、口から鮮血がこぼれた。
だが、ヨハンは決して引かない。その後方から、ヨハルヴァが怒濤の勢いで突入し、ブリアンの死角から斧を振り下ろす。
「悪いな、ブリアン殿! あんたの背負ってる家門の誇りより、俺たちがすがった生きる執着の方が、ほんの少しだけ……重いんだよォッ!」
「貴様らぁぁぁッ!!」
ブリアンの咆哮と共に、スワンチカが荒れ狂う。
グラオリッターの重装騎兵たちと、解放軍の歴戦の猛者たちが入り乱れ、平原は瞬く間に血と臓物が飛び散る凄惨な肉弾戦の地獄と化した。英雄譚にはほど遠く、互いのエゴを斧に乗せて叩きつけ合う、血族同士の救いのない殺し合いであった。
その泥沼の戦場の中央を、まるで無人の野を駆けるように真っ直ぐに突き進む影があった。
光の皇子、セリスである。
彼の瞳には、グラオリッターが放つ恐怖の威圧感など一切映っていない。彼の視線はただ、ドズル城の奥、さらにその先のバーハラに巣食う『暗黒の根源』だけを捉えていた。
「セリス……! 貴様だけは、このスワンチカの錆にしてくれる!!」
ブリアンが、ヨハン兄弟を強引に弾き飛ばし、渾身の力を込めてセリスの頭上へと跳躍する。
大地を砕く絶対的な破壊の重力。
だが、セリスは表情一つ変えることなく、無造作に右手の剣――シグルドの魂を宿した聖剣『ティルフィング』を振り抜いた。
「な……っ!?」
ブリアンが驚愕に見開いた瞳の中で、スワンチカの重力場が、ティルフィングの放つ神聖なる光のオーラによって、まるで薄紙のように切り裂かれていく。
交差したのは、ほんの一瞬。
セリスの銀色の軌跡が、ブリアンの分厚い甲冑を音もなく両断していた。
「が、はぁっ……!」
ブリアンの巨体が、重い金属音と共に平原の泥の上へと叩きつけられる。
「……見事だ……光の、皇子……」
ブリアンは口から大量の血を吐き出しながら、己を討ち果たした若き王の、あまりにも静かで底知れぬ瞳を見上げた。
「……ヨハン……ヨハルヴァ……。貴様らの執着した光は……確かに、我らの誇りよりも……本物であった、か……。ならば……泥まみれのまま、生き足掻け……」
ドズルの誇りを最期まで守り抜いた猛将は、裏切りの従弟たちに微かな許しと皮肉の入り交じった微笑みを残し、静かに息絶えた。
「……ブリアン殿……」
ヨハンとヨハルヴァは、泥と血に塗れた己の斧を下ろし、血族の骸の前で深く、重い沈黙の祈りを捧げた。
彼らは故郷を取り戻したのではない。故郷の誇りを自らの手で切り殺し、取り返しのつかない罪を被って、それでも愛する女の背中を追うという地獄を完全に選択し終えたのだ。
指導者を失ったグラオリッターは瞬く間に瓦解し、解放軍はドズル城を完全に制圧した。
「……ドズルは落ちました。エッダも陥落しているでしょう。これで、帝都への橋頭堡が確保できました」
リーフが、血の滴る光の剣を鞘に収め、セリスの隣に並び立つ。
「ええ。……行きましょう、リーフ王子。すべての因縁を、終わらせに」
セリスの冷徹な号令と共に、解放軍はついに、暗黒神が玉座に座る帝国の心臓部へと、その切っ先を向ける。戦争の終りが近づきつつあった。