帝都バーハラの南東、宗教都市エッダ。
セティの『バルキリー』の光と、コープルの『フォルセティ』の暴風が敵陣の防衛線を粉砕した直後、城内へと雪崩れ込んだのは、トラキアの凄惨な泥沼を生き抜いてきた歴戦の猛者たちであった。
「オラァッ! 帝国軍の坊ちゃん共、死にたくなきゃ道を開けな!」
ダグダとゴメス、そしてマーティの三人が、巨大な戦斧を振り回しながら大型獣のように僧兵の列を轢き潰していく。洗練された騎士の戦技などではない、ただ力と質量で敵を肉の塊へと変える、圧倒的な暴力の蹂躙。
「へっ、隙だらけだぜ!」
その巨漢たちの足元を縫うように、オーシンが『プージ』を的確に敵の急所へ叩き込み、マチュアの流麗な剣技が確実に残敵の息の根を止めていく。
「……パーンさん、ロングアーチの基部は全部ぶっ壊したぜ。もう限界だし、トンズラしねえか?」
「馬鹿野郎、まだ宝物庫の鍵が開いてねえだろうが! ラーラ、リフィスを蹴っ飛ばしてでも働かせろ!」
城の裏側では、パーンの指示を受けたリフィスとラーラが、敵の罠を次々と解除し、内部の指揮系統を完全に麻痺させていた。
「……見事なものですな、リーフ王子」
前線の制圧劇を後方から見つめながら、老将ドリアスが深く頷く。
「綺麗事では国は獲れん。アウグストの盤面構築と、連中の生き汚さが見事に噛み合っている。……エッダの陥落は、時間の問題です」
「……ああ」
リーフは、光の剣を握りしめながら、制圧されていく城塞を静かに見つめた。
その彼の背中を、三つの異なる眼差しが見守っている。
(リーフ様……どうか、ご無理だけは……)
彼の背負う重圧をただ献身的に支えようとするナンナ。
(……すべてを一人で抱え込もうなんて、許さないわ。あなたの重荷は、私も一緒に背負うのですから)
不器用な優しさと共に隣に並び立とうとするミランダ。
(……ふふっ。運命の糸が、全部バーハラに向かって収束していくわ……)
この血みどろの戦争そのものを退廃的な瞳で観察するサラ。
彼女たちもまた、言葉には出さずとも、若き王の隣という「泥まみれの玉座」を懸けた静かな死闘を繰り広げている。
「伝令! 西方のドズル城、セリス様の本隊によって完全に制圧されたとのこと!」
「……そうか。ヨハルヴァ殿やヨハン殿も、血族の業を断ち切ったんだな」
リーフは短く息を吐き、全軍に向けて鋭い号令を放った。
「エッダの残敵掃討はトラキア騎士団に任せる! マギ団および主力部隊は、これより北西へ進路を取り、セリス本隊と合流! ついに帝都バーハラへ向けて進軍を開始する!」
解放軍の二つの巨大なうねりが、帝都へ向けて一つに収束しようとしていた。
***
セリス軍進軍の数刻前。帝都バーハラの西、フリージ城の軍政執務室。
重い扉が音もなく開かれ、一人の男が静かに足を踏み入れていく。
帝国最強の騎士、ラインハルトである。彼は密かに帝都の監視網を抜け、単独で彼女の元へとやってきたのだ。
「……ラインハルト。一体何の用かしら。今は私に会うこと自体が危険だと分かってるの?」
実権を奪われ、誇りを傷つけられたイシュタルは、執務机に力なく座り込んだまま、絞り出すように呟いた。彼女の顔は、月明かりの下で透き通るほどに青白い。
「……イシュタル様。我々は今日、この呪われた鎖を断ち切ります」
「……え?」
イシュタルは弾かれたように立ち上がった。彼女の瞳に、ユリウスの底知れぬ狂気への『純粋な恐怖』がフラッシュバックする。
「ラインハルト……狂ったの? ユリウス様に反逆するなど……もしそんな素振りが露見すれば、フリージの家族も、貴方も皆殺しにされるのよ!」
だが、ラインハルトは氷のように静かな瞳で、主君の前に深く片膝をついた。
「ご安心を。……貴女の母君であるヒルダ女王の身柄は、すでに私とサイアス殿下の描いた盤面に組み込まれております。最悪の場合、すべての罪はマンフロイになすりつける手筈も」
「サ、サイアス殿下が……!?」
「はい。殿下はセリス軍を帝都へ導き、ユリウス様から暗黒神の呪縛を引き剥がすおつもりです。……そして、貴女の『トールハンマー』の力を貸してほしいのです。……そして……」
ラインハルトは一度目を伏せ、サイアスから託された残酷な伝言を口にした。
「『どうか彼の弱さを許し、恐怖の底から救い出すために、共に剣を取ってほしい』……と」
「……!」
イシュタルの呼吸が止まる。
ユリウスを救う。それはかつての彼女の願いでもあった。だが、今の彼女にあるのは、あの男に対する純粋な恐怖と絶望だけだ。
「……サイアス殿下はそう申されておりました。ですが、私は貴女様に、そのような残酷な十字架を一人で背負わせるつもりはありません」
ラインハルトが顔を上げ、その瞳の奥に狂気にも似た重い情念を宿してイシュタルを見据えた。
「イシュタル様。貴女様がどのような地獄に落ちようとも、このラインハルトが最期まで泥を被り、その御身をお守りいたします。……どうか、私に命じてください。貴女を縛るすべての恐怖を、斬り捨てることを」
それは、一人の男としての熱烈な、そして重すぎる献身の叫びだった。
イシュタルは、目の前の男が、自分をこの地獄から救い出すためだけに、命懸けで『皇帝への反逆』という大罪を背負おうとしている事実を悟った。
「……」
長い、息の詰まるような沈黙。
やがて、イシュタルは静かに目を閉じ、そして、決意に満ちた瞳を開いた。
「……分かりました。ラインハルト。……フリージの軍政権限を、すべて貴方に委ねます。私のトールハンマーも、貴方と共に」
それは、帝国最強の雷神が、自らの意思で「暗黒への反逆」を肯定した瞬間であった。
「……感謝します、イシュタル様。では、これより作戦を『同時』に展開します。貴女様はメングたち三将と共に、城内の制圧とヒルダ女王の確保を。私はこの足で大聖堂へ向かい、教団の元凶たるマンフロイの首を獲ります」
「ええ。どうか武運を……!」
二人は短く頷き合い、それぞれの戦場へと向かうべく、同時に執務室の扉を開け放ち、別の回廊へと駆け出した。
***
「……城門突破! 逆らう者は斬り捨てなさい!」
イシュタルの冷酷な号令と共に、メング、ブレグ、メイベルの天馬騎士三姉妹が率いる直属部隊がフリージ城内を制圧していく。
防衛線の兵士たちは、自分たちの最高司令官であるイシュタルが牙を剥いたことに対応できず、瞬く間に無力化されていった。
「な、なんだいお前たちは! あたしを誰だと……ぐあっ!」
子供狩りの責任者であり、イシュタルの実の母であるヒルダ女王は、喧騒に訝って外に出ようとしたところを急襲され、あっけなくイシュタル軍の兵達に押さえつけられた。
「母上……。子供狩りの罪は重い。ですが、処刑は免れさせます。……一生を、虜囚としてお過ごしください」
イシュタルの氷のような宣告に、ヒルダは血走った目で喚き散らしたが、すぐに猿轡を噛まされ、地下牢へと引きずられていった。同時に、彼女の腹心であった暗黒司祭ダゴンも捕縛され、フリージ城の機能は完全にイシュタルの手に落ちた。
***
同じ頃――フリージ城の裏門。
イシュタルと別れたラインハルトは、選りすぐった少数の精鋭騎士たちを率い、最大の標的であるマンフロイ暗殺へ向けて闇夜の進軍を開始しようとしていた。
だがその時。先頭を馬で駆ける彼の前に、物陰からふらつく足取りで立ち塞がった影があった。
「……兄上。あなたは、本当にユリウス様を裏切るのですね」
ミレトスの戦線から転移魔法で敗走し、心身共に限界を迎えていたはずの妹・オルエンであった。
「オルエン……! お前、なぜここに……」
「将軍、あの方は……!」
「待て! 誰も手を出すな、下がっていろ!」
背後の部隊が困惑と共に動揺するのを、ラインハルトは悲痛な声で制止し、自ら馬を下りて妹の前に進み出た。
「オルエン……! お前、なぜここに……」
「兄上が、イシュタル様と密かに話しているのを聞きました。……許せない。あの女は、ユリウス様を裏切るのですね。そして兄上も、あの女のために、私とユリウス様を……!」
オルエンの瞳は、もはや完全に正気を失い、凄まじい嫉妬と狂信でドロドロに濁りきっていた。かつてユリウスを救おうと誓った気高さは消え失せ、ただユリウスへの依存と、寵愛されるイシュタルへの憎悪だけが彼女を動かしている。
「違う、オルエン! 私はお前を……!」
ラインハルトが、妹のあまりの変貌に一瞬だけ言葉を失い、悲痛な顔で手を伸ばそうとした。
だが、その「肉親に対する一瞬の迷い」こそが、致命的な隙となった。
「……触らないで!! 私は、ユリウス様をお守りする!!」
オルエンは持てる限りの魔力を解放し、部隊の軍馬をも怯ませる凄まじい『ダイムサンダ』の閃光(目眩し)を放つと、ラインハルトの視界を奪い、そのまま帝都の中心部へと脱兎のごとく逃走した。
「しまった……! オルエン!!」
ラインハルトの叫びが虚しく響き渡る。
狂信に呑まれた妹の逃亡により、クーデターの完全な隠密性は崩れ去った。ユリウスだけでなく、最大の暗殺標的であったマンフロイにもいち早く情報が伝わるのは、もはや確実となってしまったのだ。
***
同時刻――帝都バーハラ、地下深層に設けられた秘密の魔道拠点。
「……やはり、盤面は完璧にはいきませんか。人の『情』までは、計算しきれない」
フリージ城からの合図を待っていたサイアスは、遠方から感じ取った魔力の乱れ(オルエンの逃走によるダイムサンダの余波)を瞬時に察知し、小さく息を吐いた。
隠密作戦は破綻した。ユリウスとマンフロイが事態に気付けば、クーデターは失敗に終わり、逆に圧倒的な暗黒魔法の物量によって自分達が包囲されてしまう。
だが、天才軍師の瞳に焦りの色は一切ない。彼は手元の盤面に置かれた駒を、冷徹に、そして大胆に弾き飛ばした。
「作戦を最終段階に移行します。もはや隠密行動は無用。王城を封鎖する大城門――その防衛の要所を地下から完全に焼き尽くし、セリス軍の本隊が帝都へ直行できる『道』をこじ開けなさい!」
サイアスの号令に応え、地下に潜伏していたヴェルトマーの離反魔道士たちが一斉に詠唱を開始する。
サイアスは、自らの内に秘めた『ファラフレイム』の熱を感じながら、静かに地上を見上げた。
彼の目的はただ一つ。最も確実なタイミングで、光の剣(セリス)を暗黒神の喉元へと突き立てるための、完璧な舞台装置を完成させることであった。
血塗られた帝都バーハラに、ついに終わりの始まりを告げる号砲が鳴り響こうとしていた。