帝都バーハラの北東、ヴェルトマー城。
「……グアアァァッ!!」
祭壇へと続く広大な回廊に、暗黒司祭の悲鳴が谺する。
ラインハルトは無表情のまま右手の『ダイムサンダ』から紫電を放ち続け、立ち塞がるロプト教団の魔道士たちを文字通り消し炭に変えながら直進していた。
「ククク……フリージの騎士風情が、ワシに刃を向けるか」
最深部の祭壇。おびただしい数の暗黒司祭と魔物たちを従えた大司教マンフロイが、傲慢な冷笑を浮かべてラインハルトを見下ろしていた。
「お前の妹が喚き散らしてくれたおかげで、ネズミどもの反逆などとうに筒抜けよ。あのような壊れた玩具を追わず、自ら死地に飛び込んでくるとは、おろかな男だ」
「……黙れ」
ラインハルトの周囲の空気が、パキパキと音を立てて帯電していく。
己の肉親への迷いがクーデターの機密性を破壊したという、血を吐くような後悔。だが、彼の瞳にあるのは絶望ではなく、自らの業すらも焼き尽くす静かな殺意であった。
「フン、青二才が! 絶望の中で『ヨツムンガンド』の毒牙に沈むがいい!」
マンフロイの杖から、生物の命を瞬時に腐らせる猛毒の闇が放たれる。
だが、ラインハルトは回避すらしない。彼は自らの命を削るほどの極限まで魔力回路を開き、ダイムサンダによる「不可視の連続雷撃」を正面から叩き込んだ。
凄まじい雷鳴。
ヨツムンガンドの闇は、ラインハルトの放つ常軌を逸した手数と出力の前に、物理的に相殺・粉砕され、そのままマンフロイの結界を鋭く打ち据えた。
「が、はっ……!? ば、馬鹿な……人間の分際で、ワシの闇を……!」
「ああ、私は、ただの人間だ。……だが、愛する主君(イシュタル)の地獄を終わらせるためならば、雷神にでも悪鬼にでもなる!」
ラインハルトの放った最後の一撃がマンフロイの杖を弾き飛ばし、その老躯を床へと叩き伏せた。
「……貴様の首は、セリス軍に差し出す。生きて、己の罪の報いを受けろ」
帯電した剣先を首筋に突きつけられ、ロプト教団の元凶はついにその身柄を拘束されたのである。
***
同時刻――帝都バーハラ・中央玉座の間。
「……鬱陶しい。あの地下のネズミ(サイアス)どもめ」
広大な空間の最奥。玉座に浅く腰を掛ける黒衣の皇子ユリウスは、足元の地中深くから響いてくる炎の熱を感じ取り、不快げに目を細めた。
その時、玉座の間の巨大な扉から、泥と汗に塗れ、息を乱した少女が転がり込んできた。
ラインハルトの迷いを突いて逃亡してきた、オルエンであった。彼女は玉座に立つユリウスを見ると、血走った瞳に凄まじい歓喜と狂信を浮かべた。
「ユ、ユリウス様……! ご報告いたします! イシュタル様が……そして私の兄が、ユリウス様を裏切りました!」
オルエンは、己の肉親を売ることも厭わず、狂王にすがりつくように這い寄った。
「私だけは、最後まであなたの味方です! あの裏切り者の女がいない今……私が、あなたの盾に……!」
だが、ユリウスの瞳には、ただの一滴の感情も浮かんでいなかった。
「……おまえが、イシュタルの代わりになるだと?」
「え……?」
「身の程をわきまえろ」
ユリウスが指先を軽く振るうと、不可視の闇の圧力がオルエンの体を弾き飛ばし、大理石の床に激しく叩きつけた。
「が、ああっ……!?」
「イシュタルは良い女だった。女であることを自覚していて、良い声で鳴いてくれるしな。……だが、おまえのような端から壊れている玩具には、何の面白みもない」
ユリウスは、血を吐いて這いつくばるオルエンを、文字通り路傍の石を見るような目で見下ろした。
「……防衛線に戻って、セリスの足止めでもして死ね。わたしの視界をこれ以上汚すな」
「ユ、ユリウス……様……?」
愛する者に完全に切り捨てられ、命を懸けた忠誠を『ゴミ以下の汚物』として払いのけられたオルエンの顔が、凄惨な絶望に歪む。
すべてを失い、己の魂すらも泥に沈めた少女は、もはや涙を流すことすらできず、ただ虚ろな目で玉座の間の冷たい床に崩れ落ちた。
***
同時刻――帝都地下、秘密魔道拠点。
サイアスの限界を超えた魔力の咆哮と共に、帝都の地下から天を衝くほどの巨大な火柱が吹き上がり、王城への道を塞いでいた巨大な防衛城門を、周囲の城壁ごと完全に熔解・粉砕した。
「……道は、開きましたよ。セリス……様……」
全身の血管から血を流し、魔力回路を焼き切られたサイアスが、膝をつきかけたその時。
『――小癪な真似を』
地下の冷たい空間が、ぐにゃりと歪んだ。
虚空から音もなく現れたのは、暗黒のオーラを纏ったユリウスであった。自らの絶対的な結界を破られたことに激怒した闇の皇子が、玉座の間から直接、空間転移によってサイアスの眼前に降り立ったのだ。
「ユリウス……様……」
「アルヴィスの隠し子か。小賢しい盤面を引いたようだが、貴様から先に消し炭にしてやろう」
ユリウスの手から、物理的な質量を伴った闇の濁流が放たれる。
サイアスは、もはや指先すら動かせないほどの激痛に耐えながら、決死の覚悟で『ファラフレイム』の残り火を展開した。
セリスの本隊が帝都に突入するまで、何分かかるか。この絶望的な死神の猛攻を前に、満身創痍の天才軍師による、たった一人での命懸けの「時間稼ぎ」が始まった。
***
その少し後。帝都バーハラの西、フリージ城近郊の平原。
「……ドズルの防衛線を突破したセリス軍の本隊が、到着しました!」
伝令の叫びと共に、地平線の彼方から、聖剣ティルフィングを掲げたセリスと、光の剣を構えたリーフが率いる解放軍の巨大な軍勢が姿を現した。
彼らを迎え入れたのは、フリージ城の軍政権限を掌握し、完全な無血開城の手筈を整えていたイシュタルであった。
「……よくぞ、ここまで。イシュタル・フリージ、これよりセリス皇子に降伏し、王城までの道を明け渡します」
イシュタルは、セリスとリーフの前に進み出ると、静かに頭を下げた。
「我が母ヒルダはすでに捕縛し、地下牢へ幽閉しました。子供狩りの責任者としての罪は重いと承知しておりますが……どうか、母の命だけは」
「イシュタル王女。顔を上げてください」
セリスは、怨敵であったはずのアルヴィスの未来への遺志を背負う王として、静かに頷いた。
「あなたの反逆がなければ、我々はここに無傷ではたどり着けなかった。ヒルダ女王の処刑は免除し、一生の虜囚として扱うことを約束しましょう」
「……感謝、いたします……」
その言葉を聞いた瞬間、極限の恐怖と重圧の中で気を張っていたイシュタルの体から、ふっと糸が切れたように力が抜け、彼女の身体が泥の地面へと倒れ込みそうになった。
だが、彼女の身体が冷たい地面にぶつかる直前。
柔らかな光を纏った温かい手が、彼女の背中をしっかりと支え止めた。
「……無理をしないでください、イシュタルさん。あなたはもう、十分に戦ったのですから」
神父の杖『リザーブ』の淡い光を放ちながら彼女を支えたのは、幼き聖者・コープルであった。
「あ……あなたは……」
「僕はコープル。……ありがとう。あなたが、自分の母親を地下牢に繋いでまで道を開いてくれたから、ユリアは無事に済んだ」
コープルは、イシュタルの目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、子供らしからぬ、どこか退廃的で重たい光が宿っていた。彼は、自分の存在理由であるユリアを守るために、己の家族すら切り捨てたイシュタルの『業の深さ』に、ある種の強烈な共感と敬意を抱いていたのだ。
「……っ」
イシュタルは、少年の言葉に胸を深く抉られた。 実の母を幽閉した罪悪感。それは彼女が一生背負うべき十字架だ。だが、この自分より遥かに年下の少年は、そんな彼女の泥まみれの覚悟を、たった一言で「正しかった」と肯定してしまった。それは、狂気に囚われる前の『かつて優しかった頃のユリウス』が持っていた、無償の光そのものであった。
(ああ……この子は……)
イシュタルの中で、「母性」と、血みどろの戦場を共に歩む「共犯者への依存」が名状しがたい感情となってコープルへと向かっていくのを感じた。
「……ありがとう、コープル……殿……」
イシュタルは、己の内に芽生えたひどく不本意な安らぎに戸惑いながらも、その温かな手に縋るように、静かに目を伏せた。
「……行きなさい、あなたの護るべき光の元へ」
「はい。……死なないでくださいね、イシュタルさん」
その光景を、解放軍の陣列の中から、三つの視線が静かに射抜いていた。
(……あの女。コープルに、随分と馴れ馴れしいじゃないか……)
タニアが、愛用の弓を無意識に強く握り締めながら、困惑と苛立ちの入り交じった視線を向ける。
(……哀れな王女。でも、彼の隣という特等席は、誰にも譲りませんよ)
リノアンが、完璧な淑女の微笑みの裏に、泥のような執着を隠して静かに息を吐く。
(……私の光を奪う者なら、たとえ雷神であろうと……斬る)
マリータの瞳に、極限の独占欲を孕んだ、抜き身の刃のような冷たい殺気が一瞬だけ閃いた。
だが、彼女たちの静かなる「泥の玉座争い」を断ち切るように、血と焦げ跡に塗れた一騎の騎兵が、凄まじい速度で平原を駆けてきた。
だが、彼女たちの静かなる「泥の玉座争い」を断ち切るように、血と焦げ跡に塗れた一騎の騎兵が、凄まじい速度で平原を駆けてきた。
「……探していました、セリス皇子、リーフ王子! 私はラインハルト将軍の直属の部下です!」
馬を飛び降りた伝令の騎士は、息も絶え絶えに膝をついた。
「将軍は、ヴェルトマー城にて大司教マンフロイの身柄を確保いたしました! ……ですが、事態は一刻を争います。王城の防衛要所は破壊されましたが、サイアス殿下が現在、地下深くでユリウス様と単独で対峙しておられるはず、とのこと!」
「なんだって!?」
リーフが光の剣を強く握り直す。
「そして、もう一つ!」
伝令は、セリスの傍らに立つユリアと、その背後にいるレヴィンへ向けて、切迫した視線を向けた。
「将軍からのご伝言です。『ヴェルトマー城の地下に、いかなる魔法や物理的手段でも開かない隠し部屋を発見した。おそらくあそこに、ロプトウスを打ち破るための光……聖書が眠っている』と!」
「……『聖書ナーガ』か」
レヴィンが、風の魔道書を手に静かに呟いた。
「ユリア。行こう」
コープルが、イシュタルから静かに手を離し、ユリアの背中を力強く押した。
「君にしか、ユリウスを……君のお兄さんを救うことはできない。君に必要なものが、そこにあるはずだよ」
「……はい。コープル、ありがとう」
ユリアの瞳に、迷いはなかった。己の運命に添い遂げる光としての覚悟が、彼女の華奢な背中を凛とさせている。
「決まりだね」
セリスが、ティルフィングを天高く掲げた。
「部隊を二つに分ける! ユリアとレヴィン、そして護衛の少数はヴェルトマー城へ向かい、聖書ナーガを回収してくれ! 私とリーフの主力部隊は、このまま帝都バーハラへ突入する!」
「急ぎましょう、セリス様。サイアス殿下の命が保っているうちに……そして、玉座の間で待ち構える『十二魔将』どもを粉砕するために!」
アウグストの冷徹な進言と共に、解放軍は巨大な二つのうねりとなって、ついに帝国の心臓部へとその刃を突き立てた。
***
同時刻――帝都地下、秘密魔道拠点。
「……が、はぁっ……あぁぁぁっ……!」
冷たい石畳が、サイアスの流す血で赤黒く染まっていた。
ファラフレイムの炎はすでに限界まで縮小し、虚空から現れたユリウスが放つロプトウスの重力によって、彼の肉体は文字通り「内側から削り取られる」ような極限の苦痛に晒されている。
「フフフ……蟲の息だな。もう声も出せぬか」
ユリウスは、見下ろしたまま退屈そうに指を弾いた。
闇の波動が、サイアスの右足を容赦なくへし折る。
「さて。これ以上、蟲の這いずり回る様を見るのも飽きた。……塵になれ」
ユリウスの右手に、サイアスという存在を世界から完全に消去するための、絶対的な暗黒の球体が圧縮されていく。
サイアスは、薄れゆく意識の中で、自らの死を覚悟した。
(……セリス様……。どうか、あの方を……)
その瞬間である。
「――サイアス殿下に、触れるなッ!!」
玉座の間の巨大なステンドグラスが、外からの凄まじい物理的衝撃によって粉々に砕け散った。
「な……!?」
ユリウスが初めて僅かに目を丸くしたその直後、砕け散ったガラスの雨と共に、巨大な飛竜に跨った一人の騎士が、玉座の間へと飛び込んできた。 解放軍の飛行部隊として誰よりも早く空を駆け抜けてきたトラキアの王子、アリオーンである。
「トラキアの小竜か……。帝国の威光にすがりついていた分際で、セリスの犬に成り下がったか!」
「私は誰の犬でもない! トラキアの真の誇りのために、お前の暗黒をここで叩き潰す!」
アリオーンの手から、『グングニル』の凄まじい衝撃波が放たれ、サイアスを覆い尽くそうとしていたロプトウスの闇を、強引に弾き飛ばした。
「……アリオーン、殿……」
「死なせるものか、サイアス殿! 貴公の命は、これからのユグドラルに必要なものだ!」
暗黒の神が支配する絶対の空間に、空(地上)からの物理的な突破口が開かれた。
そして、彼らがこじ開けた帝都の正門からは、セリス本隊とイシュタルの軍勢が、王城の最深部へ向けて怒濤の勢いで雪崩れ込んできようとしていた。