異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第76話

帝都バーハラ、中央玉座の間。

そこはもはや、人間の生存を許さない絶対的な死の空間と化していた。

 

「……セリス様! 左へ跳んでください!!」

 

「くっ……!」

 

リーフの鋭い叫びと同時、セリスが立っていた大理石の床が、巨大な見えない顎(あぎと)に喰い破られたかのように球状に消滅した。

ロプトウスの力。それは高熱や雷撃といった物理的な破壊ではない。「そこに在る空間そのものを、暗黒の法則で圧殺・消去する」という、神による世界の改変である。

 

「……無駄だ。貴様らの振るう光など、私の前では灯火にも劣る」

 

玉座の前に立つユリウスは、息一つ乱していなかった。

彼の周囲には、セリスの『ティルフィング』、リーフの『光の剣』、アリオーンの『グングニル』、満身創痍のサイアスが絞り出す『ファラフレイム』、セティが振るう『トルネード』、そしてイシュタルの『トールハンマー』という、世界最高峰の武と魔力が絶え間なく叩き込まれている。

 

だが、それらすべての絶技は、ユリウスの身体に届く数寸前で、泥沼に沈むように威力を殺され、霧散していく。

 

「……ユリウス様……!」

 

イシュタルが悲痛な叫びと共に放った極大の雷撃も、ユリウスは片手で無造作に払いのけた。

 

「……目障りだ、イシュタル。反逆者の小鳥には、それに相応しい鳥籠(暗黒)を与えてやろう」

 

ユリウスの瞳には、愛の感情など欠片もない。絶対的な虚無の瞳で放たれた闇の波動が、解放軍の前衛を力任せに吹き飛ばす。

 

「が、はぁっ……!」

「セリス様! リーフ王子!」

 

前衛の要であるセリスとリーフが膝をつき、アリオーンとサイアスも限界を迎えていた。どれほど泥臭く足掻こうと、どれほど強い信念を燃やそうと、「個人の情念」では「神の法則」は覆せない。

それが、ユグドラルを覆う暗黒の真実であった。

 

ユリウスが、静かに右手を天に掲げる。

玉座の間全体を丸ごと消し去るほどの、超質量の闇が圧縮されていく。

 

「……これで、終わりだ。這いずり回る蟲ども」

 

暗黒の審判が下されようとした、まさにその時。

粉砕された正門の向こうから、ありとあらゆる闇の重圧を「無効化」しながら進み出てくる、一つの絶対的な光があった。

 

「……いいえ。終わらせません。……兄様」

 

澄み切った声。

純白のローブを纏ったユリアが、開かれた『聖書ナーガ』を胸に抱き、静かに、そして真っ直ぐにユリウスへと歩みを進めていた。

 

「……ユリア……? 貴様、その書は……!」

 

ユリウスの無表情な顔に、初めて「驚愕」と「焦燥」が浮かび上がった。ロプトウスという神の思念そのものが、自らの対極にある存在(ナーガ)の出現に激しく泡立ち、悲鳴を上げている。

 

「私が、あなたの闇を……すべて引き受けます」

 

ユリアの持つナーガの書から、凄まじい光の奔流が玉座の間を満たした。

それは、相手を傷つけるための武力ではない。ロプトウスが書き換えていた「暗黒の法則」を、本来の「人間の世界」へと強制的に引き戻す、絶対的な真実の光であった。

 

「……ぐ、あ、あァァァアアアッ!!」

 

ユリウスが、頭を掻きむしりながら絶叫する。彼を守っていた絶対不可侵の闇の結界が、ナーガの光に焼かれてボロボロと剥がれ落ちていく。

 

「……いまだ! ユリアの光が、ロプトの呪縛を解いている!」

 

セリスが再び剣を握り、リーフたちが立ち上がろうとする。

だが、ユリアはそれを手で制した。

 

「……手出しは、無用です。これは……私と兄様の、家族の戦いですから」

 

ユリアは、武器を持たず、ただ無防備な姿のまま、狂乱するユリウスへと歩み寄っていく。

 

「くるな……! 私に、近づくなあぁぁっ!!」

 

ユリウスは狂乱の中で、迫り来るユリアに向けて無数の暗黒魔法を乱れ撃った。

闇の刃が光の結界を貫き、ユリアの白いローブを切り裂き、その細い手足に鮮血を咲かせる。

 

「ユリア……!!」

 

後方でその痛ましい光景を見ていたコープルが、血を吐くような叫びを上げた。

彼は、己の命の火を燃やすように杖(リザーブ)を天に掲げた。

 

「死なせない……! 君の血も、君が受ける痛みも、僕が全部繋ぎ止める! だから……歩いて、ユリア!!」

 

コープルの瞳は、もはや正気を失ったような完全なる狂信に染まっていた。

己の魔力回路が焼き切れ、鼻や目から血を流しながらも、ただひたすらに前を歩くユリアの傷を塞ぎ、彼女の命をこの世界に強引に縛り付け続ける。

 

その凄絶な少年の自己犠牲を――いや、光の少女と泥の中で添い遂げるという息苦しいほどの『執着』を、後方に控える三人の少女たち(タニア、リノアン、マリータ)は、入り込む余地のない絶望と共に、ただ息を呑んで見つめることしかできなかった。

 

「……あ、が……なぜだ……!」

 

ユリウスは、暗黒魔法を放ち続けながら、震える後ずさりを始めた。

 

「なぜ、死なない……! なぜ、私を攻撃しないッ!!」

 

ユリアは、血まみれになりながらも、ただ静かに微笑んでいた。

彼女は気づいたのだ。ユリウスが放つ暗黒魔法は、どれも絶大な威力を誇りながらも、そのすべてがユリアの「致命傷」を無意識に避けていることに。

 

(……兄様。あなたは……ロプトの呪いに心を喰われてなお、私のことだけは、殺せなかったのですね……)

 

狂気に支配され、世界を地獄に突き落とした冷酷な暴君。

だが、その奥底に封じ込められていたのは、かつて妹を花畑で遊ばせ、優しく頭を撫でてくれた『臆病で心優しい少年の魂』であった。

ロプトウスという強大な神の悪意をもってしても、人間の「家族への愛」を、完全には消し去ることはできなかったのだ。

 

「……もう、終わりにしましょう。ユリウス兄様」

 

ユリアは、ついにユリウスの胸元へと辿り着き、その震える体を、血に濡れた細い両腕でしっかりと抱きしめた。

 

「やめ……ろ……! 私は、ロプトの……神……!」

「ごめんなさい。……兄様一人に、闇を全て背負わせてしまって」

 

ユリアのその一言、その体温に触れた瞬間。

ユリウスの中で張り詰めていた「暗黒神としての自我」が、音を立てて崩れ去った。

 

「……あ……ああ……ユリ、ア……?」

 

ユリウスの両腕から、ふっと力が抜ける。

彼の瞳から虚無の暗黒が完全に消え去り、代わりに大粒の涙がボロボロと溢れ落ちた。それは紛れもなく、長きにわたる呪縛から解放された、ただの一人の人間の少年の涙であった。

 

カラン、と。

後方で、重い金属音が鳴った。

イシュタルの手から『トールハンマー』が滑り落ち、床に転がった音だった。

 

「…………え?」

 

イシュタルは、ただ泣きじゃくるユリウスの姿を前に、完全に言葉を失っていた。

彼女が死ぬほど恐怖し、自らの実母を地下牢に幽閉し、ラインハルトに命を懸けさせ、自らも大逆罪の罪科を被ってまで殺そうと覚悟を決めた絶対的な怪物。

その正体は、呪いが解ければ、妹の腕の中で泣き崩れるだけの、哀れで無力な子供に過ぎなかった。

 

(……私は、こんな怯えた子供に絶望し……人生のすべてを破壊されていたというの……?)

 

憎しみも、恐怖も、そして復讐の怒りすらも、すべてが的を失って虚空へと消え去っていく。イシュタルの胸の内に残ったのは、血の滲むような覚悟のすべてを無に帰すほどの、圧倒的で冷酷な『虚脱感』だけであった。

 

(……やめろ! ワガ器ヨ! 力ヲ、戦意ヲ捨テルナッ!!)

 

突如、ユリウスの肉体に巣食っていた暗黒神ロプトウスの思念が、器の「戦意喪失」によって居場所を失い、空中に黒い靄(もや)となって実体化しようと這い出てきた。

 

「……させません。あなただけは、私が完全に消し去る」

 

ユリアは、兄を抱きしめたまま、『聖書ナーガ』の最後のページを開いた。

神聖なる光の柱が、玉座の間を貫いて天へと立ち昇る。

 

光は、ユリウスや解放軍の者たちを一切傷つけることなく、空中に実体化したロプトウスの忌まわしき思念だけを的確に包み込み、そして――。

 

「……オオォォォォォォォォォォッッ!!」

 

断末魔の絶叫と共に、ユグドラルを長きにわたって支配し続けた暗黒神ロプトウスは、一片の塵も残さず完全に浄化され、世界から消滅した。

 

「……」

 

玉座の間から、すべての圧力が完全に消え去った。

残されたのは、ステンドグラスの破片が散らばる冷たい床に折り重なるようにして倒れ込む、幼き兄と妹の姿と、傍らでただ虚ろに天を仰ぐオルエンの姿だけ。

 

「……終わったのか……」

 

セリスは、その信じがたい光景を前に、ゆっくりとティルフィングを下ろした。

自分から両親を奪い、世界を地獄に突き落とした巨悪すらも、狂った運命と血脈に弄ばれた『ただの哀れな被害者』に過ぎなかった。復讐の刃を向けるべき相手など、最初からこの世界のどこにもいなかったのだ。

 

その絶望的なまでの真実を前に、セリスは、ただの復讐者としての己を完全に殺した。

これからは、彼がこの途方もない地獄と泥を背負い、誰もが絶望する焼け野原の頂点に立って、世界を統治しなければならない。

 

「……行きましょう、リーフ王子。私たちの本当の戦いは、ここからだ」

 

悲痛なまでに静かなセリスの声に、リーフが深く頷き、光の剣を鞘に収める。

血塗られたグランベル帝国の歴史は、ここに完全に幕を閉じた。そして、生き残った者たちが泥まみれのまま生きていくための、新しい時代が始まろうとしていた。

 

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