帝都バーハラの一角。セリスとユリアの意向により、厳重な監視下に置かれながらも、降伏した皇族に相応しい最低限の礼節をもって整えられた一室。
だが、暖炉の火が静かに爆ぜるその温かな部屋の片隅には、かつて世界を恐怖の底に叩き落とした暗黒の皇帝ではなく、ただひどく怯えた、痩せこけた青年の姿があった。
「……あ、ああ……私は、なんということを……。父上、母上……イシュタル……」
正気を取り戻したユリウスは、自らの両手を見つめ、血を吐くような嗚咽を漏らしていた。
ロプトウスの呪縛が消え去った今、彼を襲っているのは、これまで自分が「虫を潰すように」行ってきたおびただしい虐殺と子供狩りの鮮明な記憶である。権力も、神の力も、何もかもを失った彼は、正気を保つことすら困難なほどの途方もない罪悪感と絶望に押し潰され、ただ暗い石室の隅で震えることしかできなかった。
「……ユリウス様」
その震える背中を、背後から強く抱きしめる腕があった。
ミレトスからの敗走、そして実の兄であるラインハルトを裏切ってまで彼を追いかけてきた、オルエンである。
「……離れろ、オルエン。私に触れるな……!」
ユリウスは、錯乱したように彼女を突き飛ばそうとした。
「私は化け物だ! お前をただの玩具として扱い、殺し合いを強要し……イシュタルに対する当てつけの道具としか見ていなかった! なぜ、こんな私を……すべてを失った人殺しの横にいるんだ!」
それは、ユリウスが生まれて初めて見せた「弱く、惨めな一人の人間」としての本音であった。
だが、オルエンは突き飛ばされて冷たい石の床に転がってもなお、這うようにして再び彼にすがりつき、その震える手を両手で包み込んだ。
「……構いません。あなたが化け物でも、私を玩具としてしか見ていなかったとしても……」
オルエンの瞳には、もはやフリージの騎士としての気高さはない。あるのは、すべてを捨て去って「この男の隣」という泥の底にしか自分の生存理由を見出せなくなった、底知れぬ愛情だけであった。
「私は、あなたを守るために兄上を裏切りました。もう、帰る場所などどこにもない。……あなたがすべてを失ったのなら、私だけが、あなたの『すべて』になれる」
その言葉は、献身という名の重々しい呪いであった。
ユリウスは、自分にすがりつくオルエンの瞳に、自分と同じ「帰る場所を失った人間の、底知れぬ孤独」を見た。世界中の誰もが自分を憎み、殺そうとする中で、この愚かな女だけが、己のすべてを差し出して自分という存在を肯定しようとしている。
「……お前は、本当に……救いようのない馬鹿な女だ……」
ユリウスは、もはや彼女を突き飛ばす気力すら失い、その細い肩に力なく額を預けた。
「……すまない、オルエン。私のような男に……最後まで付いてきてくれて」
暗い地下室で、世界から見捨てられた二人の敗者は、互いの傷を舐め合い、互いの孤独を埋めるためだけに強く抱きしめ合った。
それは決して美しい純愛などではない。罪悪感と狂信、そして行き場のない依存から生まれた、地獄の底でしか成立し得ない「泥まみれの愛情」の結実であった。
***
同時刻、帝都の喧騒から少し離れた王城のテラス。
かつて帝国最強の『雷神』と謳われたイシュタルは、すべての地位と権力を剥奪されただの罪人として、冷たい風に吹かれていた。
(……ユリウス様は、オルエンと共に生きることを選ばれた)
イシュタルの胸の中は、不思議なほど静かだった。
狂気に沈んだ彼を救えなかった悔恨はある。だが同時に、自分という重い鎖から彼が解放され、オルエンという新しいパートナーを見つけたことに、どこか安堵している自分がいた。
しかし、それは同時にイシュタル自身の存在理由の喪失でもあった。
母であるヒルダを自らの手で地下牢に繋ぎ、国を滅ぼした彼女には、もう生きる目的も、すがりつくべき大義もない。セリスから「生きて復興に尽くせ」と命じられても、空っぽになった魂を動かす熱は、どこにも残っていなかった。
その時、テラスの入り口に、包帯だらけの痛々しい姿をした少年が現れた。
コープルである。彼は、ユリアの傍らで休むようにという周囲の制止を振り切り、一人で歩く訓練をしているようだった。その小さな体には、エッダや玉座の間で魔力を限界まで絞り出した代償が深く刻み込まれている。
「……コープル殿」
イシュタルが声をかけると、少年は足を止め、真っ直ぐに彼女を見上げた。
「イシュタルさん。……生きてて、よかった」
その言葉に、嘘や同情は一切混じっていなかった。
彼は、ユリアを守るために「実の母を捕縛して道を開いたイシュタルの業」を、誰よりも肯定し、感謝した唯一の存在であった。世界中がイシュタルを親不孝の裏切り者と罵ろうとも、この少年だけは、彼女の泥まみれの決断を「光を護るための正しい行為」として真っ向から受け止めているのだ。
「……私は、すべてを失いました」
イシュタルは、ふらふらと歩み寄り、コープルの前に崩れ落ちるように膝をついた。
かつての絶対的な強者の面影はない。今の彼女は、ただ何かにすがりつかなければ呼吸もできないほどに、心が空洞になっていた。
「国も、誇りも、愛した人も……そして、家族すら、自分の手で切り捨てた」
「……」
「ねえ、コープル。……あなたの背負っているその途方もない『光』の隣に、私を置いてはくれないかしら」
イシュタルは、震える手で、少年の包帯に巻かれた小さな手を両手で握りしめた。
それは、騎士としての忠誠でも、単なる保護欲でもない。己の罪を肯定してくれた圧倒的な光に対する、退廃的で、息苦しいほどの『盲信と依存』の始まりであった。
「あなたがユリア様を守るために地獄へ落ちるというのなら……私が、あなたの矛となり、盾となる。もう二度と、あなたにこんな痛ましい傷は負わせない。……私を、あなたの鎖にして」
年齢も、身分も、過去も関係ない。
ただ、自分の存在を肯定してくれた少年に文字通り「命ごと囲ってほしい」という、美しき女将軍の狂おしいまでの雌堕ち(精神的屈服)であった。
「……イシュタルさんが、そうしたいなら。僕は構わないよ」
コープルは、自分に向けられたその感情の異様さ(狂気じみた庇護欲と依存)を理解しながらも、一切拒絶しなかった。ユリアを守るための手駒が増えるのなら、それが帝国最強の雷神であろうと、彼は平然と受け入れる。
だが、彼らがその歪な盟約を結ぼうとした、まさにその時である。
「……その手から離れなさい、敗残兵」
テラスの入り口から、氷のように冷たい、絶対的な殺気を伴った声が響いた。
音もなく歩み出てきたのは、剣の柄に手をかけたマリータであった。その後ろには、冷ややかな微笑を浮かべるリノアンと、苛立ちを隠せないタニアが立っている。
「彼を護るのは私の剣だ。……すべてを失って逃げ場所を探しているだけの帝国の女が、気安く彼に触れることは許さない」
マリータの瞳には、かつての雷神への畏敬など微塵もない。あるのは、己の所有物(コープル)に群がる害虫を排除せんとする、純粋で排他的な独占欲(刃)だけであった。
「その通りですわ」
リノアンが、優雅な足取りでマリータの横に並び立ち、慇懃無礼な毒を吐く
。
「イシュタル王女。あなたはセリス王から『泥まみれになって復興に尽くせ』と命じられたはずでは? それなのに、自分を肯定してくれる少年にすがりついて『鎖にして』などと……命令違反にしては、少々見苦しいのではなくて?」
リノアンの静かなる執着は、イシュタルの「立場の弱さ」を的確に抉り、コープルとの間に明確な線を引こうとしていた。
「おいコープル! お前もこんな年上の女に甘えられて、鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ!」
タニアが、いたたまれないように、しかし絶対に譲らないという強い意志で二人の間に割って入ろうとする。
「あーくそっ、お前がボロボロになる度に見るこっちの身にもなれってんだ! お前の面倒を見るのは、アタシらだけで手一杯なんだよ!」
タニアの困惑に満ちた叫びは、不器用ながらも「私たちの居場所を奪うな」という悲痛な牽制であった。
三人の少女たちから向けられる、剥き出しの敵意と嫉妬。
だが、イシュタルはコープルの手を握ったまま、ゆっくりと彼女たちを見上げた。その瞳には、もはや将軍としての誇りすら捨て去った「開き直り」が宿っていた。
「……ええ。私は見苦しい敗残兵よ。……でも、この方が私を許してくださるなら、私は泥犬にでもなるわ。あなたたちの許可など、求めていない」
火花が散るような、息苦しい女たちの死闘。
今にもマリータの剣が抜かれようとした、その一触即発の空気を――。
「……コープル? ここにいたのですね」
背後から掛けられた、澄み切った一つの声が、すべてを完全に凍結させた。
「ユリア……」
純白のローブを纏った光の聖女・ユリアが、静かな足取りでテラスへと歩み出てきた。
彼女は、バチバチと火花を散らす少女たちとイシュタルを一瞥すらせず、ただ真っ直ぐにコープルの元へと歩み寄り、イシュタルが握っているのとは反対の彼の手を、そっと、しかし絶対に逃がさないという強い力で引き寄せた。
「傷が、まだ痛むのでしょう。……私のそばを、離れないでと言ったはずです」
「ごめん、ユリア。ちょっと風に当たりたくて」
「だめです。あなたは、私と一緒に生きると約束したのですから」
ユリアが放つ、神聖にして絶対的な「添い遂げる」というオーラ。
それは、嫉妬や敵意といった次元を超越した、運命の共有者としての重すぎる圧力であった。タニアも、リノアンも、マリータも、そしてイシュタルですら、その「光」の前では、己の居場所の矮小さを突きつけられ、言葉を失うことしかできなかった。
しかし、彼女たちが諦めたわけでは決してない。
圧倒的な正妻の光を見せつけられてなお、彼女たちの胸の奥底で燃える『泥まみれの執着』は、戦後という長い日常に向けて、さらに暗く、熱く煮詰まっていくのであった。