帝都バーハラでの凄惨な死闘から数週間後。
復興の槌音が響き始めたグランベルの王都から遠く離れた、大陸南部の港町・ミレトス。
潮風が吹き抜ける薄暗い波止場に、一人の男が立っていた。かつて「帝国最強の雷神」と謳われ、その一挙手一投足が大陸の運命を左右した男、ラインハルトである。
今の彼が纏っているのは、フリージの誇り高き純白の軍服ではない。身分を隠すための粗末な外套と、すべての権力と未練を切り捨てた「空洞」のような虚無感だけであった。
彼はセリス王より「生きて泥まみれになり、復興に尽くせ」と命じられた。だが、己がこのユグドラルの大地を歩くことは、新たなる王国の復興において、そして何より愛する主君・イシュタルが新たな地獄(贖罪)を歩む上で、無用な「旧帝国の火種」になりかねない。
だからこそ、彼は自らの存在をこの大陸から完全に消し去るため、東の海を渡る決意を固めていた。
「……本当に、何もかも捨てて行っちゃうのね」
波止場の木箱の陰からひっそりと姿を現したのは、サフィの妹であるティナであった。彼女の瞳には、かつてダンディライオンの盗賊団で怯えていた頃の弱さはない。あるのは、すべてを捨てて泥まみれの敗者となったラインハルトに対する、異様なほどの【心酔と執着】であった。
「……ティナ殿か。私に関わらない方が良い。私の手は、あなたたちから多くの未来を奪った血で汚れている」
「そうはいかないわ。わたし、あなたが気に入っちゃったんだもん!」
ティナは、ラインハルトの拒絶を意に介さず、彼の外套の裾をきつく握りしめた。
「地位も、名誉も、妹も、愛した女すらも全部捨てて……からっぽになったあなたの潔さが、たまらなく綺麗。……わたし、決めたわ。一生あなたのお守りをしてあげる!」
少女の底抜けの無邪気さという名の、決して解くことのできない『重い鎖』をあっけらかんと突きつけられ、ラインハルトは己の外套を握る小さな手を振り払う気力すら湧かず、ただ重く目を伏せた。
「……おいおい、勝手に二人で話を進めないでくれよ。俺たちも相乗りさせてもらうぜ、元・将軍殿」
波止場に響いたのは、ひどく俗っぽく、しかし野心にギラついた男の声だった。ダキアの元・小悪党、リフィスである。そして彼の背後には、静かな祈りを湛えた瞳でこちらを見据える聖職者、サフィの姿があった。
「リフィス殿……それに、サフィ殿まで。何用ですか」
「なあに、簡単な話さ」
リフィスは、大げさに肩をすくめて見せた。
「このユグドラルは、もう俺みたいな泥棒が息をするには窮屈すぎるんだよ。聖王様だの、復興だの、清く正しい綺麗事が多すぎて俺みたいな日陰者には役者不足だ。……だからよ、俺は海の向こうへ行く。誰も俺の過去を知らねえ、未開の新大陸で、もう一度でっかい山を当ててやるのさ」
「……その狂った博打に、私を巻き込むと?」
「ああ、そうだ。あんたは剣と魔法の腕は超一流だが、生き汚さは素人以下だ。放っておけば、海の上で野垂れ死ぬのがオチだろう? 俺には『最強の用心棒』が必要で、お前には『生きるための道標』が必要なんだ。……どうだ、悪くない取引じゃねえか?」
自らの保身のために強者の後ろに隠れるという、リフィスの本質的な小者ぶりは変わっていない。だが、その保身を「未知の大陸への航海」という途方もない規模にまで拡大させた彼の生存本能の異常さに、ラインハルトは微かな感嘆すら覚えていた。
「……ラインハルト様。私たちと共に、参りましょう」
サフィが、静かに一歩前に出た。
「あなたは罪を背負い、私はかつてこの男(リフィス)の泥から目を背けた罪を背負っています。……これは、私たち全員にとっての、終わりのない贖罪の旅なのです」
「……」
ラインハルトは、己を取り囲む三人の顔を交互に見つめた。
自己破滅に付きまとう少女、己の保身のために雷神を利用しようとする泥棒、そして、泥まみれの連中を束ねて地獄の底まで付き合う覚悟を決めた聖職者。
なんという、救いがたく業の深い連中か。
「……フッ」
ラインハルトの口から、彼自身でも驚くほど自然な、自嘲の笑みがこぼれた。
「承知しました。私のこの命、貴方方の泥まみれの博打の『チップ』として預けましょう」
「……へっ。交渉成立だな」
リフィスが安堵の汗を拭った、その時である。
「相変わらず、クソみてえな悪党ヅラしやがって。……だが、少しはマシな面構えになったじゃねえか、リフィス」
波止場の入り口で、腕を組んで彼らを見送っていたのは、ダンディライオンの首領パーンだった。
「パーン……さん」
「勘違いすんな。てめえのコソ泥根性には反吐が出るが……海の向こうの化け物相手に、その小賢しい口先一つで立ち向かおうってんだ。……少しは見直してやるよ」
パーンは、皮肉げな笑みを浮かべながら、リフィスに向けて銀貨の詰まった袋を放り投げた。
「餞別だ。……せいぜい、元・帝国軍の親玉の陰に隠れて、無様に生き延びてみせろや」
「……言われなくとも、骨の髄まで利用させてもらうさ」
リフィスは袋を空中で掴み取ると、ニヤリと悪びれた笑みを返した。
かくして、ユグドラル大陸の歴史から完全に名前を消した四人の男女は、戦争が終わって暇を持て余した荒くれ共や、一山当てたい傭兵達を従えて小帆船に乗り込み、荒れ狂う東の海へと出航したのである。
***
――そして、歴史は泥の中から新たに紡がれる。
数多の嵐を越え、リフィスたちが辿り着いた東の果ての大陸。
そこは、竜の末裔や部族同士が血で血を洗う、完全なる未開の修羅場であった。
だが、この過酷な大地において、リフィスの「小賢しい生存本能」は悪魔的なまでの才能を発揮する。
彼は、己の前に立ちはだかる蛮族たちに対し、ラインハルトの『ダイムサンダ』による圧倒的な連続雷撃を「天より下りし神の怒り」として見せつけ、力で平伏させた。
さらに、ティナが古の遺跡から神技的な手癖の悪さで根こそぎ盗み出してきた三つの神武具――【弓パルティア、槍グラディウス、剣メリクル】――を掲げ、「我こそは神に選ばれし者」と騙ったのである。
そして、傷ついた者や病に苦しむ者にはサフィの癒しの杖を施すことで、アメとムチによる完璧な「神の代理人」という強烈な虚像を創り上げた。
ティナが国宝を盗み出し、ラインハルトが物理的な障害をすべて焼き尽くし、サフィが狂信的な信徒を生み出し、リフィスがそれらすべてを「自らの偉大な奇跡」として巧みにすり替えていく。
それは、崇高な理想と、詐欺的で、それでいて圧倒的な効率性が共存する奇妙な「建国」であった。
後に、この未開の大地は一つに統一され、強大な神聖王国が誕生することになる。
建国神話には、「神より三種の神器を授かりし初代国王アドラ1世が、天の雷と聖女の奇跡をもって大陸を平定した」と美しく語り継がれることとなるが――その王の正体が、ユグドラルから逃げ出した一人の小賢しいコソ泥であるという泥まみれの真実を、歴史の表舞台が知ることは永遠にない。
ユグドラルの戦火から逃れ、保身のために海を渡った盗賊は、その並外れた悪運と嘘を武器に、ついには新大陸を統べる【アカネイア王国】の始祖として、世界の歴史に全く別の形であぐらをかくこととなるのである。
***
一方、歴史の影で新大陸の神話が捏造されようとしていた頃。
グランベル帝都バーハラの城門前では、全く別の「帰還」の準備が進められていた。
「……本当に、お別れなのですね。レヴィン様」
セリスが、復興の激務の合間を縫って、旅装を整えた吟遊詩人の前に立っていた。
「ああ。俺の役目は、お前たちをここまで導くことだった。……ロプトウスの呪いが消え、ユグドラルは人間の手に戻った。これからは、お前たち若者が、自分の足でこの泥まみれの世界を歩いていく番だ」
レヴィンは、風の魔道書を懐に収め、憑き物が落ちたような穏やかな、しかし父親としての責任を背負った瞳で微笑んだ。
かつて、マンフロイとの死闘で命を落としかけ、クロードのリザーブによって一命を取り留めた彼には、神(フォルセティ)の意志は宿っていない。彼はただの人間として、愛する妻シルヴィアと、彼を叱り飛ばしてくれた母ラーナの待つ故郷・シレジアへと帰るのだ。
「……で。お前は本当に、その大所帯でシレジアに帰る気なのか? コープル」
レヴィンが呆れたように振り返った先には、彼の実の息子であるコープルが、数台の馬車を前にして立っていた。
「はい、父さん。シレジアの復興には、人手と……そして、これからの未来を共に生きる『家族』が必要ですし」
コープルは、一切の悪びれる様子もなく、無自覚なまでの優しさと責任感に満ちた笑顔で答えた。
だが、その背後に控える面々の圧は、常人であれば直視しただけで胃がねじ切れるほどの代物であった。
コープルのすぐ隣には、純白のローブを纏った光の聖女・ユリアが、彼の手を決して離さないという絶対的な添い遂げの意志(圧)を放って立っている。
その後ろには、愛用の弓を手入れしながら「アタシが護衛してやらなきゃ、いつ野垂れ死ぬか分かんないからな!」と意地を張るタニア。
さらにその後方には、ターラの復興支援を名目に「シレジアとのパイプ役」という完璧な政治的口実を用意して同行を取り付けた、淑女の微笑みを浮かべるリノアン。
そして馬車の御者台では、刃のように研ぎ澄まされた冷たい視線で周囲を警戒し、コープルに近づく一切の害悪を排除しようとするマリータが腕を組んでいる。
「……」
さらにレヴィンを頭痛に誘ったのは、馬車の荷台で荷物の整理を行っている、目深にフードを被った一人の女性の存在だった。
旧帝国の『雷神』イシュタルである。すべての地位を剥奪された彼女は、セリスの「生きて復興に尽くせ」という命令を文字通り解釈し、己の罪を肯定してくれた唯一の存在(コープル)の影に侍る「ただの従者」として、シレジアへの同行を強引に志願したのだ。
「(……おいおい、俺の息子はどういう業を背負ってんだ……。これじゃシレジアに着く前に、馬車の中で血の雨が降るんじゃないのか……?)」
レヴィンは盛大に天を仰ぎたくなったが、同時に、極限の死闘を生き抜いた彼女たちが、互いに牽制し合いながらも「コープル」という一つの生存理由(帰る場所)を共有することで、奇妙な膠着状態(バランス)を保っている事実も理解していた。
これもまた、泥まみれの戦争が産み落とした、一つの愛の形なのだ。
「……まあいい。道中、お互いの背中を刺し合うのだけは勘弁してくれよ」
レヴィンは肩をすくめると、セリスに向けて軽く右手を挙げた。
「じゃあな、セリス。立派な王になれよ」
「はい。……ありがとうございました、レヴィン様!」
風の吟遊詩人と、その背中を追う重すぎる業を背負った少年の一行。
彼らを乗せた馬車は、復興の槌音が響く帝都バーハラを後にし、長く過酷だった歴史に別れを告げるように、雪降る白き大地・シレジアへと向かってゆっくりと走り出した。