異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第8話

グランベル暦771年、5月末。

 

トラキア半島。

冷たい海風が吹き荒れる痩せた大地は、帝国軍の苛烈な支配と山賊・海賊の略奪が交差する、ユグドラル大陸で最も血生臭い修羅場と化していた。

 

レヴィン一行を乗せた密航船が、トラキア東岸の寂れた港町に辿り着いたのは、深い海霧に包まれた夜明け前のことだった。

 

「……ひでえ有様だな」

 

港のぬかるみに降り立ったレヴィンが、鼻を覆う。

潮の匂いに混じり、色濃い血の鉄臭さと焦げた木の臭いが路地に充満していた。海風に煽られて軋む民家の扉は、ことごとく乱暴に蹴り破られている。

 

「レヴィン殿。あちらの路地から、足音と……微かな血の匂いがします」

 

黒い外套に身を包んだセティが、静かに『エルウィンド』の魔道書に手を掛けた。

クロードの面影を残すその端正な横顔には、この大地の不条理に対する感情的な怒りではなく、ただ「排除すべき障害」を演算する冷徹な殺意だけが宿っていた。

 

「行くぞ。だが、無闇に殺すなよ」

 

レヴィンの短い合図で、三人は足音を消して霧の濃い路地裏へと滑り込んだ。

 

廃屋の壁際。下品な笑い声を上げる数人の海賊たちが、一人の少女を追い詰めていた。

少女――リノアンの姿は、ひどく泥に塗れていた。かつて上等だったはずの青いドレスは引き裂かれ、乾いて黒ずんだ血がべっとりとこびりついている。それは彼女を逃がすために盾となり、切り刻まれていったターラの忠臣たちの血だった。

 

「へへっ、いい加減大人しくしな。護衛の騎士共が皆殺しにされて、行き倒れてたところを拾ってやったんだろうが」

 

首領の男、リフィスが下卑た笑みを浮かべ、リノアンの細い腕を乱暴に掴み上げる。

「お前みたいなどこぞの貴族のお嬢ちゃんはなぁ、帝国に『極上の奴隷』として突き出せば、俺たちリフィス団も一生遊んで暮らせるってもんだ」

 

「嫌ッ……離して……! 私には、行かなければならない場所が……!」

 

抵抗するリノアンの腕力は、極度の疲労と飢えでひどく弱々しかった。だが、その瞳だけは、己を生かすために死んでいった者たちの怨念を背負い、獣を前にしても決して逸らされなかった。

 

その直後だった。

 

「――そこまでです。彼女から、汚い手を離しなさい」

 

氷のように冷徹な、少年の声。

同時に、路地の空気が急激に圧縮され、不可視の『風の刃』が石畳を薙ぎ払った。

 

「ぎゃあっ!?」

 

リフィスの足元の石畳が爆発するようにえぐれ、取り巻きの海賊たちの握っていた斧や剣の柄が、見えない巨人の手で叩き折られたように粉々に吹き飛ぶ。

 

「な、なんだ!? 魔法か!?」

 

腰を抜かして泥水の中に尻餅をついたリフィスの首筋に、背後に回っていたレヴィンが、風の魔力を薄く纏わせた短剣をぴたりと突きつけていた。

 

「選択肢は二つだ、海賊。ここで俺に喉笛を掻き切られて死ぬか。……今日から俺たちの案内役の犬として働くか」

 

「ひぃっ……! は、働きます! 靴でも泥でも舐めますから、命だけはぁっ!」

 

一切の慈悲を含まないレヴィンの絶対的な殺気に当てられ、リフィスは股間を濡らしながら、躊躇うことなく泥水の中に額を擦り付けた。恐怖と引き換えに一切のプライドを捨て去る、生き汚くも純粋な生存本能だった。

 

「セティ。こいつらを縛り上げておけ。妙な真似をしたら、構わん」

「承知いたしました。……少しでも動けば、次は足の腱を断ちますよ」

 

セティの丁寧で酷薄な声に海賊たちが震え上がり、次々と制圧されていく。

その傍らで、壁際にへたり込み、限界を迎えて過呼吸気味になっているリノアンの前に、コープルが静かに歩み寄った。

 

「もう大丈夫だよ。……怖い思いをしたね」

 

コープルは自分の外套を脱ぐと、寒さと絶望で震えるリノアンの華奢な肩にふわりと掛けた。そして、泥と血にまみれた彼女の両手を、自分の両手でそっと包み込む。

 

「え……?」

 

リノアンの瞳が揺れた。

十歳という、自分とさして変わらない年齢の少年。だが、彼の手は異常なほどに温かかった。そして、至近距離からふわりと香る、シルヴィア譲りの甘い香油の匂い。

その淡い緑色の瞳は、張り詰めた彼女の孤独と生存者の罪悪感の底までを見透かし、その泥ごと丸ごと許容するような、不気味なほどの底知れぬ熱を帯びていた。

 

コープルが小さく呪文を唱えると、包み込まれた手元から淡い光が溢れる。リノアンの擦りむいた膝や、海賊に強く掴まれた腕の紫色の痣が、内側から温められるように引いていく。

 

「あ、あなたは……?」

 

「僕はコープル。泣いていいんだよ。……君はもう、一人じゃない」

 

コープルの白く細い指先が、リノアンの目尻から溢れそうになっていた涙を、壊れ物に触れるように優しく拭った。

 

その指先の熱が、リノアンの中でギリギリの均衡を保っていた『張り詰めた糸』を、物理的に焼き切った。

忠臣たちを見殺しにした罪悪感。トラキアの裏社会で死の恐怖に怯え続けた極限の孤独。その凍りついた絶望が、この少年の体温によって強制的に泥のように溶かされていく。

 

「あ……あああ……っ」

 

リノアンは、コープルの小さな胸にすがりつき、服の胸元を指の関節が白くなるほど強く握りしめ、顔を埋めて声を上げて泣き崩れた。

もはや海賊への恐怖も、ターラの領主としての虚勢もなかった。ただ、地獄の底で自分を抱きしめてくれたこの少年の心臓の音だけを、唯一の命綱として認識する。

それは救済ではない。極限の死地で与えられた温もりに己の全存在を明け渡すという、抗いようのない『依存の鎖』が、彼女の魂に深々と食い込んだ瞬間であった。

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