帝都バーハラの陥落から数週間。
大陸の北端、雪と風に閉ざされた天馬騎士の国・シレジア王国へ向かう、ひと連なりの馬車の列があった。
「……寒いな」
先頭の馬車で手綱を握る緑髪の男――風の吟遊詩人にして、シレジアの正統な王位継承者レヴィンは、マントの襟を立てながら白く濁る息を吐いた。
(……俺は、生きている。血の通った、ただの人間のままで、この冷たい風を感じている……)
手袋を持たない彼の手は、シレジアへと近づくにつれて強くなる凍てつく風に晒され、赤くひび割れてひどく悴んでいる。だが、レヴィンはその痛みに、どこか安堵にも似た感情を抱いていた。
「……フュリー、エッダに着いた頃かしらね。やっぱり、少し寂しくなるわ」
彼の隣の御者台で、毛皮のコートにすっぽりと包まれた妻・シルヴィアが、南の空を見つめながらポツリとこぼした。
亡き夫クロードの遺児であるセティは、正式にエッダ公爵家を継ぐことになった。フュリーは、若き当主となった息子を支え、かつての夫が命を懸けて守ろうとした土地を復興させるため、レヴィンたちとは道を分かち、エッダへと向かったのだ。
「あいつには、ブラギの血脈の母としての重い責任がある。……それに、セティにはティニーもついているしな。心配はいらないさ」
「そうね。……それにしても」
シルヴィアは、背後に続くもう一台の大型馬車を振り返り、ひどく重い疲労の溜息を漏らした。馬車の中には、彼らの娘であるリーンも同乗しているはずだが、すっかり息を潜めてしまっている。
「……レヴィンも大概だったけど。うちの息子は、レヴィンの何十倍も業が深いみたいね」
「……全くだ」
後続の馬車。そこは、常人ならば一秒たりとも息ができないほどの、途方もなく重く、凄惨な情念の密室と化していた。
馬車の中心には、聖戦の疲労と『フォルセティ』を限界まで酷使した代償により、包帯だらけで微睡む幼い魔道士、コープルの姿がある。
その彼の右手を、両手で自らの胸に抱き込むようにして離さないのは、純白のローブを纏った光の聖女・ユリアであった。彼女の瞳は、コープルの寝顔にのみ固定され、周囲の景色など一切映していない。神の呪縛を打ち破った今の彼女にとって、世界とは「この少年の体温が存在する半径数メートル」のみであり、それ以外のすべては背景でしかなかった。
「……少し、退いてください。彼の火傷の処置が終わっていません」
そのユリアの対面に座り、冷ややかな声で告げたのは、ターラの領主リノアンである。
彼女の持つ治癒の杖は、コープルの身体の傷を癒やしていくためのものであると同時に、「彼の肉体に直接触れ、世話をする権利」を独占するための免罪符であった。静かで献身的な所作の裏には、ユリアの絶対的な「光」に対抗し、泥まみれの肉体を共有しようとする、黒く煮詰まった執着が渦巻いている。
言葉による直接的な罵倒はない。だが、馬車の中では「誰が彼に最も近い空間を占有するか」という、極限の陣取り合戦(死闘)が、無言のまま繰り広げられていた。
「チッ……どいつもこいつも、どうして魔道士って奴らは、こう陰気くせえんだ……!」
その後続馬車の御者台に陣取っているダグダの娘・タニアは、寒さに身を震わせながらも、決してその場を離れようとはしなかった。
神の力を振るうユリアやリノアンの「神聖な密室」に入り込む勇気も、ふさわしい理由も、ただの山賊の娘である自分にはない。だが、ここで背を向ければ、二度と彼の心臓には触れられない。その強烈な劣等感と意地が、彼女を極寒の御者台に縛り付けている。
さらに、その馬車の周囲を、氷のような殺気を放ちながら並走する二騎の影があった。
マリータは、愛馬を駆りながら、いつでも剣を抜ける体勢で『もう一人の護衛』を鋭く睨みつけている。彼女の眼差しは、コープルに近づく可能性のあるすべての存在を排除しようとする、極限の排他思考に染まっていた。
その視線を向けられた先――イシュタルは、フリージの軍服を捨てた粗末な旅装を纏いながらも、全く動じることなく馬を走らせていた。
今の彼女は、己の罪と泥を赦してくれた少年に完全に精神を屈服させ、彼の周囲を旋回することにのみ生存理由を見出した「重すぎる鎖」へと成り果てていた。マリータからどれほど殺意を向けられようが、彼女は泥犬のようにコープルに付き従うことをやめない。
光の聖女、献身の治癒士、意地の射手、殺刃の剣士、そして没落の雷神。
属性も身分も全く異なる五人の女たちが、たった一人の幼い少年の「隣」という玉座を懸けて、一切の妥協なく互いの精神を削り合っている。
それは嫉妬などという生易しいものではない。誰が一番彼のために命を捨てられるか、誰が一番彼の泥を被れるかという、救いのない献身のチキンレースであった。
「ねえレヴィン……父親として、何か言ってやるべきじゃない? あんなの、あんたの時の比じゃないわよ」
シルヴィアにせっつかれたレヴィンは、その地獄のような牽制の気配に首を振り、再び前を向いた。
かつて彼女たちの何倍も泥臭く自分にしがみついてきたシルヴィアの過去を知っている彼でさえ、これほどまでに純度が高く、息苦しい女たちの執着を前にしては、かける言葉すら見つからなかった。
「……父さん、母さん」
不意に、後続の馬車の窓から、包帯だらけのコープルが顔を出した。
「もうすぐ、シレジアの王城だね。……シレジアの人たち、元気にしてるかな」
「……ああ。俺たちの帰りを、首を長くして待ってるだろうさ」
レヴィンは、息子の顔を見て、少しだけ表情を和らげた。
「だが、お前……本当にその女たちを全員連れて、故郷の門を潜るつもりか?シレジアの連中が見たら、卒倒するぞ」
コープルは、自分の右腕にしっかりと抱きついているユリアと、自分を守るように周囲を取り囲む四つの気配を感じながら、静かに、しかし決して折れない瞳で父を見返した。
「……重くなんかないよ。彼女たちは、僕が生きるって決めた理由そのものだから」
それは、少年らしからぬ、途方もない業を背負いきった男の顔であった。
「彼女たちが抱える泥も、過去も、僕が全部背負う。……父さんが、母さんを最後まで手放さなかったのと同じだよ」
「……」
レヴィンは、その言葉に、自分の中にあった「幼い子供」という認識を完全に改めた。
コープルはもう、守られるべき子供ではない。ユリウスという暗黒を討ち果たし、五人の女たちの魂の退路を完全に塞いでしまった、一人の「男」なのだ。
「……そうか。なら、俺が口を挟むことは何もない。せいぜい、刺されないように上手く立ち回るんだな」
「うん。……ありがとう、父さん」
シレジアの雪山を越え、白亜の王城が見えてきた。
そこには、愚かな息子と孫たちの帰還を待つラーナ王妃の姿があるはずだ。
神になる運命を拒絶し、泥臭く生き延びた一人の父親と。
世界を救い、息苦しいほどの重い情念に囲い込まれた幼き息子。
彼らの帰郷は、華々しい凱旋パレードなどではない。それぞれが背負い込んだ「愛という名の呪い」を、一生かけて故郷の雪の中で溶かしていくための、静かで果てのない日常の始まりであった。