異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第9話

リフィスを文字通りの案内役兼・荷物持ちとして先頭に歩かせ、レヴィン一行はトラキアの寂れた港町から、さらに険しい内陸部へと足を踏み入れていた。

 

目指すは、トラキア半島の南東に位置する辺境の村、フィアナ。

しかし、その道程は海風を遮るようにそびえ立つ紫竜山の山道だ。赤茶けた岩肌がむき出しになり、乾いた砂埃が容赦なく一行の体力を削っていく。

 

「歩くのが遅くないですか、リフィス殿」

 

「でもよぉ、この岩山を登り続けるなんて、俺の華奢な足腰じゃあ……」

 

先頭を歩くリフィスが泣き言を漏らすが、後ろを歩くセティは手元の『エルウィンド』の頁をめくる手を止めず、氷のような視線を向けるだけだ。

そのさらに後ろでは、過酷な逃避行で体力をすり減らしていたリノアンが、コープルの手に引かれるようにして、必死に岩山を登っていた。彼女の白い指先は、コープルの温かい手を唯一の命綱のように固く、血が滲むほどに握りしめている。

 

荒涼とした風の音が谷間に響き渡った、その時だった。

 

――ヒュッ!

 

空気を裂く鋭い音と共に、先頭を歩いていたリフィスの鼻先わずか数寸の地面に、深々と一本の矢が突き刺さった。

 

「うわあああっ!?」

 

リフィスが情けない悲鳴を上げて尻餅をつく。

 

「そこまでだ、余所者! 命が惜しけりゃ、身ぐるみ全部置いてきな!」

 

岩山の斜面から、地鳴りのような野太い怒声が響き渡った。

砂埃の中から姿を現したのは、巨大な斧を肩に担いだ筋骨隆々の大男――紫竜山の山賊の頭目、ダグダだった。そして彼の手下たちが、岩の陰から次々と姿を現し、レヴィンたちを完全に包囲する。

 

「オヤジ、こいつら身なりがいいよ! きっと金目のものを隠し持ってるに決まってる!」

 

ダグダの傍らから軽快な足取りで岩の上に飛び乗ったのは、オレンジ色のバンダナで茶髪を束ねた少女――ダグダの娘、タニアだった。彼女は日焼けした肌に粗末な革鎧を纏い、引き絞った弓の狙いをレヴィンたちにピタリと定めている。男勝りで勝気な瞳が、獲物を狩る獣のように鋭く光っていた。

 

「チッ、次から次へと……トラキアってのは野盗しかいねえのか」

 

レヴィンが、面倒くさそうにフードの奥でため息をつく。

 

「レヴィン殿、ここは私が」

 

セティが一歩前に出た。彼の掌にはすでに強力な風の魔力が収束し、緑色の光の渦が明滅している。

 

だが、レヴィンはセティの肩を掴み、その行動を静かに制した。

 

「いや、いい。あいつらの目を見ろ」

 

レヴィンの冷徹な観察眼は、彼らが持つ刃こぼれだらけの武器と、粗末な防具の下から覗く痩せ細った肉体を捉えていた。享楽の略奪ではない。トラキアという痩せた大地で、今日一日、身内を食わせるためだけの血の混じった生存競争だ。

 

「な、なんだこのガキの魔法は……!? くそっ、俺が相手だ! うおおおおっ!!」

 

ダグダが斜面を蹴り下り、巨大な斧をレヴィンに向かって振り下ろした。

だが、レヴィンは魔道書を開くことすらしない。ただ静かに右手をかざした。

 

――ゴォォォォォォォッ!!

 

その瞬間、紫竜山の地形すら変えかねないほどの、凄まじい『風の防壁』がレヴィンを中心にドーム状に展開された。

刃を持たない、純粋な風の圧力。ダグダの強烈な一撃は、見えない分厚いゴムの壁に叩きつけられたように威力を殺され、手首に強烈な反発を受けて斧を弾き飛ばされた。

 

「ぐわっ……!?」

「きゃあっ!」

 

突風の余波は周囲の山賊たちをも襲い、岩の上に立っていたタニアもバランスを崩して斜面を転げ落ち、激しく砂埃を巻き上げてうずくまった。

 

「そこまでにしておけ、山賊の頭。お前らも、この国で家族を食わせるために必死なんだろうが……相手が悪かったな」

 

風が止み、レヴィンが静かに見下ろす。その絶対的な魔力の次元を直感したダグダは、弾き飛ばされた斧を拾うことを諦め、ドスンと膝をついた。

 

「……負けだ。煮るなり焼くなり、好きにしな。だが……娘や手下たちには手を出さねえでくれ。悪いのは全部俺だ!」

 

地面に額を擦りつけんばかりにして懇願するダグダ。その背中に、レヴィンは短く答えた。

 

「安心しろ。命まで取るつもりはないよ」

 

***

 

大人たちが血生臭い交渉を交わしている最中。

レヴィンの背後から、一人の小さな影が音を殺して歩み出ていた。

 

コープルだった。

彼は、斜面を転げ落ちて岩場にうずくまっているタニアの元へと、一直線に近づいていく。

 

「痛む? じっとしてて」

「な、なんだよお前! 近寄るな、あっち行け……っ、痛ッ!」

 

強がって立ち上がろうとしたタニアだったが、捻った足首に激痛が走り、再び岩肌に無様に座り込んでしまう。

コープルは嫌がるタニアの威嚇など全く意に介さず、彼女の足元に静かに膝をついた。そして、泥と擦り傷にまみれたタニアの素肌(足首)を、自身の細く白い両手でそっと包み込んだ。

 

「なっ……!?」

 

タニアの全身が、電流を流されたようにビクンと大きく跳ねた。

紫竜山の荒くれ者たちに囲まれて育ってきた彼女が知る「他人の手」とは、武器の柄で擦り切れた硬いタコのある手か、汗と血の匂いが染み付いた無骨な拳だけだった。

 

だが、今自分の泥だらけの足首を包み込んでいる手のひらは違った。

自分より背丈も半分ほどしかない小さな少年の手。それは白磁のように滑らかで、信じられないほど柔らかく、そして――酷く、熱かった。

 

「女の子が、こんなに傷だらけになっちゃ駄目だよ。……少し、温かくなるからね」

 

コープルが懐から『ライブの杖』を取り出し、静かに祈りを込める。

淡く温かな光がタニアの足首を包み込み、ズキズキとした痛みが引いていく。だが、タニアの意識は痛みの消失よりも、至近距離にいるコープルの存在そのものに完全に絡め取られていた。

 

顔が、近い。

魔力の発動と共に、コープルの首筋から、紫竜山の血生臭い風には絶対に混じらない、甘く高貴な香油の匂いが漂ってくる。彼の規則正しい静かな呼吸がタニアの泥だらけの膝元に触れ、背筋にゾクゾクとするような悪寒にも似た甘い痺れを走らせた。

 

(な、なんだよコイツ……。変な、匂いがするし……。それに、なんであたしなんかを……!)

 

『女の子が、こんなに傷だらけになっちゃ駄目だよ』

 

山賊の娘として、男よりも荒っぽく生きるのが当然だと思っていた。父親にも弟分にも、ただの一度だって「女の子」として扱われたことなどなかった。

それなのに、目の前のあどけない少年は、自分を壊れ物でも扱うかのように、ひたすらに優しく、甘く、慈しむように触れている。

 

(ふざけんな……! なんであたしが、こんな年下のチビっこ相手に……っ!)

 

強烈なギャップに、タニアの心臓は耳の裏で破裂しそうなほど早鐘を打っていた。全身の血が沸騰したように熱くなり、日焼けした頬が真っ赤に染まっていく。

杖から流し込まれる治癒の熱が、彼女の心の奥底にあった「山賊の娘としての意地」という分厚い鎧を、内側から不可逆的に溶かしていく。

 

「……治った。もう立てる?」

 

コープルが治療を終え、タニアの顔を見上げてふわりと微笑み、スッと小さな手を差し伸べた。

その一点の曇りもない透き通った笑顔を見た瞬間、タニアはたまらなくなって、差し出されたコープルの手をバシッと乱暴に払い除けてしまった。

 

「あ……えっと……!」

 

払い除けた自分の手を見て、タニアは激しい後悔に襲われる。だが、彼女は足の痛みが消えた勢いでガバッと立ち上がり、真っ赤な顔でそっぽを向いた。

 

「ば、馬鹿野郎! 助けてもらったくらいで、へえへえすると思うなよ! あたしはダグダの娘だぞ! あんたみたいなヒョロガキの世話になんか……っ!」

 

乱暴な口調でまくし立てながらも、タニアの視線は、地面に膝をついたまま不思議そうに瞬きをしているコープルを、チラチラと追い続けてしまっていた。

これまで知らなかった、名状しがたい甘い『熱』が、彼女の胸の奥で確実に燻り始めていた。

 

一方。

その光景を少し離れた岩陰から見ていたリノアンは、コープルが「見知らぬ別の少女」に、自分に向けたのと同じあの圧倒的な体温を与えていることに、胸の奥を鋭い針で抉られるような強烈な焦燥感を覚えていた。

 

(あの温もりは、私のものなのに……)

 

彼女は無意識のうちに、コープルから借りて羽織っていた外套の裾を、指の関節が白くなるほどギリッと強く握りしめていた。

 

***

 

「……トラキアは、土地が痩せ果てて作物が育たねえんだ。俺たちが山を下りて旅人から奪わなきゃ、村のジジイやガキどもは、みんな餓死するしかねえんだよ」

 

ダグダの重く、血を吐くような告白に、レヴィンは黙って耳を傾けていた。

 

「だが、近頃はもっと胸糞悪い連中がこの山をうろついてやがる。……帝国の手の者か、奴隷商人どもだ。ガキを攫って、どこかへ売り飛ばしてやがる」

 

「奴隷商人だと……?」

セティの顔色が変わる。

 

「ああ。ついさっきも、山裾の道を怪しげな馬車の一団が通っていきやがった。荷台の中から、ガキの泣き声が聞こえたぜ」

 

ダグダの情報を聞いたレヴィンとセティの視線が交差する。

トラキアの飢えと不条理。その末端で蠢く、人間の命を商品として扱う最も醜い悪意。

 

「ダグダ。お前たちの命は預けておく。その代わり、このまま山で大人しくしていろ」

「レヴィン殿。……急ぎましょう」

 

セティの瞳に、トラキアに来て初めての明確な殺意が宿っていた。

一行はダグダたちを背に、奴隷商人の馬車が向かったという山裾の道筋へと、足早に駆け出していくのだった。

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