オレは二人が幸せな未来が視たいんや! 作:ラスアス最高
ジョンの遺書は、私の部屋に置いた。
最初は、持って帰るつもりなんてなかった。あの部屋に置いていくべきだと思った。ジョンの机の上に、四年分の「もしもの時用」と一緒に揃えておくべきだと思った。
でも、できなかった。
最新版だけ、持って帰った。
ディーナは何も言わなかった。ジェシーも何も言わなかった。ただ、私が封筒を上着の内側に入れるのを見て、二人とも少しだけ目を伏せた。
たぶん、分かっていたんだと思う。
今の私には、それを置いて帰ることも、全部読むこともできなかった。
中途半端だった。
ジョンが嫌いそうな、中途半端。
でも、アイツが死んだあとまで、アイツの好みに合わせてやる義理なんてない。
そう思ったのに、部屋に戻ってから、私はしばらく封筒を開けられなかった。
ベッドの端に座って、机の上に置いた封筒を見る。
茶色い紙。
ジョンの字。
もしもの時用 最新版。
アイツは、たぶん笑って書いた。何もない日に、もしものために。毎年ちゃんと更新して、自分が死んだ時のために。
それが腹立たしかった。
準備が良すぎる。
そして、その準備の中に自分の生存だけが入っていない。
私は立ち上がって、封筒を机の引き出しに突っ込んだ。乱暴に閉めたら、中で何かがぶつかる音がした。
それで少しだけ気が済んだ。
次の日、町は普通に動いていた。
煙突から煙が上がって、馬小屋では誰かが餌を運んで、食堂では鍋が火にかけられていた。子どもが走って、大人に怒られて、誰かが柵の修理に向かう。
当たり前だ。
ジョンが死んでも、町は止まらない。でも、止まらないことが、嫌だった。
朝食の席で、ディーナは私の向かいに座った。いつもなら、隣に座ることも多い。でもその日は向かいだった。たぶん、私の顔を見ようとしていた。
「食べた?」
「見たらわかるでしょ」
皿の上のパンは、ほとんど減っていなかった。
ディーナは私の皿を見て、それから自分の皿を見た。何かを言おうとして、やめた。
頭の中のアイツが、勝手に喋る。
“エリー、飯は食え。空腹デバフ舐めんな。”
――—うるさい。
そう返したくなる。そしたらアイツは、たぶん私の皿に勝手にパンを半分置く。私が睨むと、悪びれもせずに笑う。
そういうのが、もうない。
「ジョンのこと、考えてる?」
ディーナが言った。
私はパンを指でちぎった。
「考えてないように見える?」
「見えない」
「じゃあ、聞かないで」
きつい言い方になった。分かっていた。でも止まらなかった。
ディーナは怒らなかった。
それが余計に嫌だった。
「ごめん」
「謝んないで」
「じゃあ謝らない」
「今謝ったじゃん」
「今のは無し」
私は少しだけ顔を上げた。
ディーナはわざと真面目な顔をしていた。その顔が、ジョンと悪だくみしている時の顔に少し似ていて、胸の奥がざらついた。
「何その顔」
「どの顔?」
「今の」
「いつもの美人の顔だけど」
「うざ」
ディーナは少し笑った。
私も笑いそうになった。でも、笑えなかった。ディーナも途中で笑うのをやめた。
食堂の奥で、誰かが「JJコンビなら昨日の内に片づけてただろ」みたいなことを言った。すぐに別の誰かが小さく咳をした。会話が途切れた。
ジェシーの名前は出なかった。
ジョンの名前も出なかった。
でも、出ていた。
出ていないのに、そこにいた。
私はパンを口に入れた。味はしなかった。
巡回表から、ジョンの名前が消えていた。
正確には、線が引かれていた。
新しく書き直せばいいのに、誰かが古い表にそのまま線を引いた。ジェシーとジョン。そう並んでいたところの、ジョンの名前だけに黒い線が引かれている。
その横に、別の名前が書き足されていた。
ジェシーはそれを見ていた。
表情は変わらない。いつもの真面目な顔だった。でも、私には分かった。たぶん、ディーナにも分かった。ジェシーはあの黒い線を、ただの訂正として見ていない。
「変えればいいのに」
私は言った。
ジェシーはこちらを見た。
「何を」
「表。新しく作ればいいでしょ。汚いし」
ジェシーは巡回表を見た。少しだけ黙って、それから言った。
「マリアが忙しい」
「じゃあ、あんたがやれば」
「やるよ」
「今やれば」
「今は巡回前」
「じゃあ帰ってから」
「分かった」
会話が止まった。
――—分かった。
それだけで終わる。
頭の中のアイツが、また勝手に割り込んできた。
“いや、ここで新しい表を作ったら負けな気がする。今の表には歴史がある。JJコンビの歴史が。いやジェシー、そんな顔すんなって。冗談じゃん。半分くらい。”
……うるさい。
そう思った。
でも、実際には何も起きない。
ジェシーは巡回表から目を離した。
「今日、外には出るな」
「何で」
「マリアから言われてる」
「私だけ?」
「お前とジョエルとトミー」
「最高。問題児扱いじゃん」
「問題児だろ」
頭の中で、アイツが得意げに言った。
“エリーは問題児じゃないです。高難易度クエストです。”
意味は分からない。でも、そういうことを言う。言って、私に睨まれて、笑って逃げる。
私はジェシーを見た。
「あんたは?」
「俺は出る」
「代わりの人と?」
「そう」
「ふうん」
ジェシーは少しだけ眉を動かした。
「言いたいことがあるなら言え」
「別に」
「エリー」
「ジョンじゃなくてもいいんだなって思っただけ」
言ってから、自分で最悪だと思った。
ジェシーの顔が固まった。
ディーナが息を呑む音がした。
取り消したかった。でも、言葉は戻らない。銃弾と同じだ。撃ったら戻らない。
頭の中のアイツが、今度は低く言う。
“撃つ時は考えろ。”
ジェシーは怒らなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「よくない」
低い声だった。
「よくないに決まってるだろ」
私は何も言えなかった。
ジェシーは巡回表を見た。
「でも、誰かが出る。誰かが見回る。誰かが壁の外を見る。ジョンがいなくても、それは変わらない」
「……分かってる」
「俺は分かってない」
ジェシーは言った。
「分かってないまま、行く」
その言い方が、ひどく静かだった。
怒鳴られる方が楽だった。怒ってくれた方が、こっちも怒れた。なのに、ジェシーはただ言った。分かってないまま行く、と。
私は巡回表を見た。
黒い線。
ジョンの名前。
その横に書き足された別の名前。
「……ごめん」
言うと、ジェシーは少しだけ肩をすくめた。
「翻訳担当だからな」
「何それ」
「最新版」
胸が詰まった。
ジェシーは苦く笑った。
「たぶん、あいつなら今のやつも訳せって言う。エリーは怒ってるだけです、とか。怒ってるから刺します、とか」
「刺さないし」
「蹴るくらいはするだろ」
「するかも」
ほんの少し、空気が緩んだ。
でも、ジョンはいなかった。
緩んだ空気の中に、いないことだけが残った。
ジョエルの家には行かなかった。
行く理由はいくらでもあった。怪我の具合を確認するとか、トミーの様子を聞くとか、マリアに頼まれたとか、適当に言えばいい。
でも、行かなかった。
あの日から、ジョエルとはまともに話していない。
葬式では見なかった。ジョンの部屋を片付けた日も、会わなかった。
町の中で遠くに見かけたことはある。杖をついて、ゆっくり歩いていた。右脚を引きずって、顔をしかめて、それでも誰かの手を借りようとはしなかった。
ジョエルらしい。
ジョエルらしくて、腹が立った。
あんたは生きている。
ジョンは死んだ。
その事実が、ジョエルを見るたびに形を持つ。
でも、ジョエルが死んでいたらよかったなんて思わない。
思えない。
それもまた、腹が立った。
ジョエルに対してなのか、ジョンに対してなのか、自分に対してなのか、分からない。分からないことばかりだった。
私は部屋に戻って、机の引き出しを開けた。中には、ジョンの遺書がある。最新版だけ。
何度も読んだわけじゃない。
でも、だいたい覚えていた。
『オレのために死ぬなよ〜』
『復讐ルートには行くな』
『あれはクソ長い負けイベントです』
『オレのために人生をバグらせるな』
どれもふざけた言い方なのに、意味は逃げられないくらい重かった。
ジョンは、あの先を知っていた。
……たぶん。
私たちが復讐に行ったらどうなるか。誰が壊れるのか。何を失うのか。そういうものを、アイツは知っていたのだと思う。
だから止めた。
止めるために、死んだ。
でも、だったら。
だったら、なんで自分が死ぬことで何が起きるかは分からなかったんだ。
私は引き出しを閉めた。閉めたあと、また開けた。
馬鹿みたいだった。
紙を取り出して、机の上に置く。最新版の封筒。ジョンの字。見るだけで喉が詰まる。
その横に、白い紙を置いた。何かを書こうと思った。
誰に。
ジョンに。
違う。ジョンには届かない。
ディーナに。
違う。ディーナには言葉で言える。たぶん。言えるかは分からないけど、生きているから、まだ言える。
ジェシーに。
違う。あいつはもう、分かりすぎるくらい分かっている。
ジョエルに。
手が止まった。
ペン先が紙の上で止まる。黒い点がじわっと広がった。
ジョエル。
書いたら、何かが変わる気がした。
書かなければ、何も変わらない気がした。
どちらも怖かった。
頭の中のアイツが、軽い声で言う。
“喧嘩してもいい。許せなくてもいい。でも、生きてるうちに怒った方がいい。死んだら、文句も届かない。これはマジ。”
うるさい。
死んだやつが言わないで。
でも、ジョンの言葉は消えない。
私は紙に、ジョエル、と書いた。
何度も失敗した。
最初の紙には、怒りしかなかった。
あんたが嘘をついたせいで。
あんたが病院で。
あんたが私のためって顔で。
そこまで書いて、ぐしゃぐしゃに丸めた。
次の紙には、謝罪しかなかった。
ごめん。
ジョンが死んだ時、私は。ジョエルを見られなかった。
それも丸めた。
次は何も書けなかった。
ペンを握ったまま、窓の外を見た。雪が少しだけ降っていた。窓枠に薄く積もっている。
頭の中のアイツが、雪を見て勝手に喋る。
“雪の日イベントは信用するな。滑ると体力が削れる。寒冷地マップは物資が渋い。”
意味は分からない。
意味は分からないのに、声だけは分かる。
私は笑えなかった。
新しい紙を出した。
今度は、短く書くことにした。
長く書くと、嘘が混じる気がした。正しいことを書こうとすると、言い訳になる気がした。
だから、短く。
逃げられないように。
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ジョエルへ。
まだ許せない。
たぶん、すぐには無理。
ソルトレイクのことも、嘘をついたことも、私の人生を勝手に決めたことも、全部。
でも、話さないまま死なれるのは、もう嫌だ。
ジョンが死んだ。
アイツは、勝ったつもりで死んだ。
ジョエルと私が生きているなら勝ちだって、本気で思ってた。
私は、それがムカつく。
すごくムカつく。
でも、アイツがそこまでして残した時間を、また黙って潰すのも嫌だ。
だから話したい。
今すぐ許すって意味じゃない。
仲直りしたいって言えるほど、まだ整理もできてない。
でも、逃げたくない。
あんたにも逃げてほしくない。
返事はいらない。
でも、読んで。
それから、いつか話して。
生きてるうちに。
エリー。
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書き終わって、しばらく紙を見ていた。
短い。
短いのに、手が震えていた。
これを渡したら、何かが始まる。たぶん。始まらないかもしれない。ジョエルは黙るかもしれない。読んで、しまって、何も言わないかもしれない。私も結局逃げるかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
少なくとも、紙は渡せる。
言葉を全部口にするよりは、まだできる。
ジョエルの家の前まで行くのに、ひどく時間がかかった。
町の中なのに、遠かった。
道の途中でディーナに会った。何かを運んでいる途中だった。私の手元を見て、それが手紙だと分かったらしい。
「行くの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「行く。……たぶん」
ディーナは少しだけ笑った。
「それ、行くって言うんだよ」
「うるさい」
「うん」
ディーナはうなずいた。それから、私の肩に軽く触れた。
「待ってる」
「どこで」
「どこでも。必要なら探して」
「何それ」
「便利でしょ」
私は小さく息を吐いた。
「……ありがと」
ディーナは何も言わず、荷物を抱え直して歩いていった。
ジョンの家で、ディーナに向けた手紙の部分を読んだことを思い出す。
『エリーの隣にいてくれてありがとう』
アイツに言われるまでもない。
でも、言われたせいで、余計に分かってしまった。
私は、ひとりではたぶん、ここまで来られなかった。
ジョエルの家の前に着いた。
扉の向こうから、微かな物音がした。椅子が床を擦る音。ゆっくりとした足音。たぶん、杖の音。
逃げたくなった。
今ならまだ帰れる。手紙を引き出しにしまって、なかったことにできる。ジョンのせいにして怒り続けることもできる。ジョエルを見ないまま、何日でも、何週間でも。
でも、死んだら届かない。
文句も、怒りも、許すかどうかも。
―――全部。
私は扉を叩いた。
一回。
少し間が空いて、足音が近づいてくる。
扉が開いた。
ジョエルがいた。
顔色は悪かった。右脚に体重をかけないように立っている。左手には杖。頬の痣は薄くなっていたけれど、消えてはいない。
私を見て、ジョエルは少しだけ目を見開いた。
「エリー」
久しぶりに、名前を呼ばれた。
それだけで、喉の奥が痛くなった。
「入るか」
ジョエルが言った。
私は首を横に振った。
「これ」
手紙を差し出した。
ジョエルは手紙を見て、それから私を見た。
「今、読むのか」
「あとでいい」
「分かった」
ジョエルは手紙を受け取った。指先が少しだけ震えていた。怪我のせいなのか、別の何かなのかは分からない。
沈黙が落ちた。
「ジョンの」
ジョエルが言った。
私は顔を上げた。
「遺書を読んだ」
胸が跳ねた。
「マリアから聞いた。全部じゃない。最新のやつだ」
「……そう」
「俺宛てもあったらしいな」
「ある」
「そうか」
ジョエルは手紙を見た。
「何を書かれてた」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
ジョンの言葉が浮かぶ。
『生きててくれ』
『エリーと話してくれ』
『それで、できればギターを続けてくれ』
『娘はやらんぞって顔、何回かしてた』
『あなたとエリーが生きているなら、オレは勝ちです』
どれを言えばいいのか分からなかった。
「生きろって」
結局、それだけ言った。
ジョエルは目を閉じた。
長い沈黙だった。
「そうか」
その声は、かすれていた。
「馬鹿だよね」
私は言った。
ジョエルは目を開けた。
「馬鹿だ」
静かな声だった。
「本当に、馬鹿な子だ」
その言葉に、胸が締め付けられた。
ジョエルはジョンのことを、子どもとして見ていた。私の友達で、少し怪しくて、危なっかしくて、妙に近い距離にいる男の子。たぶん、時々本気で警戒していた。
娘はやらんぞって顔。
ジョンの遺書に書いてあった言葉を思い出して、泣きそうになった。
「私、まだ怒ってる」
「俺にか」
「うん」
ジョエルは頷いた。
「分かってる」
「ジョンにも怒ってる」
「……ああ」
「自分にも」
ジョエルは何も言わなかった。
私は息を吸った。
「でも、話さないまま死なれるのは嫌だ」
その言葉を口にした瞬間、何かが崩れそうになった。
ジョエルの顔が歪んだ。
「エリー」
「今はいい」
私は言った。
ジョエルは口を閉じた。
「今はまだ、ちゃんと話せない。だから手紙にした。返事はいらない。でも、読んで」
「ああ」
「逃げないで」
ジョエルは手紙を握った。
「ああ」
短い返事だった。
でも、逃げるための返事には聞こえなかった。
私は頷いて、踵を返した。
「エリー」
呼ばれて、足を止める。振り返らなかった。
「ジョンは」
ジョエルの声が、一度止まった。
「ジョンは、笑ってたな」
喉が詰まった。
「うん」
「俺には、何で笑ってたのか分からなかった」
私にも分からない。
たぶん、ジェシーには少しだけ分かっていた。でも、それでも全部じゃない。
ジョン本人だけが、分かっているつもりで死んだ。
「勝ったつもりだったんだと思う」
私は言った。
「ジョエルと私が生きてたから」
ジョエルは何も言わなかった。
だから、続けた。
「でも、勝ちじゃない」
今度は、ちゃんと振り返った。
ジョエルは扉のところに立っていた。手紙を持ったまま、苦しそうな顔をしていた。
「勝ちじゃないよ、ジョエル」
ジョエルは私を見て、ゆっくり頷いた。
「分かってる」
その一言だけで、もう限界だった。
私は逃げるように歩き出した。ジョエルは追ってこなかった。追える脚でもなかったし、追わなかったのだと思う。
雪が降っていた。ジョンの墓の上にも、たぶん降っている。
『オレのために死ぬなよ〜』
あの軽い文字が、頭の中で揺れる。
死なない。
今はまだ、それくらいしか言えない。
復讐にも行かない。
たぶん。
いや、行かない。
行ったら、ジョンが作ったものを壊すことになる。
ジョエルが生きていることも、私がここにいることも、ディーナも、ジェシーも、トミーも、まだ同じ町で息をしていることも。
アイツが勝ちだと思って笑った全部を、私が負けに変えることになる。
そんなの、腹が立つ。
死んだあとまで勝った顔をされるのもムカつくけど、その勝ちを私が壊すのはもっとムカつく。
だから行かない。
でも、許したわけじゃない。
ジョンも。ジョエルも。自分も。
まだ、何も。。
それでも手紙は渡した。
言葉は、死んだら届かない。
だったら、生きているうちに投げつけるしかない。たとえそれが、紙一枚ぶんの弱いものでも。
私は雪の中を歩いた。
遠くで、誰かが笑う声がした。子どもが走って、大人に怒られている。煙突から煙が上がる。馬が鳴く。町は普通に続いている。
ジョンが守りたがった日常。
ジョンが、自分を入れ忘れた日常。
それが、ひどく腹立たしくて。
ひどく、失いたくなかった。