Nox Re:Code 〜TSメス堕ちなんてするわけない〜 作:きむちーず
アルク・シリウスは何をやっても二番だった。勉強でも、かけっこでも、腕相撲でも、そして――魔法でも。
別に才能がなかったわけじゃない。むしろ周囲からは天才と呼ばれていたし、努力だって人一倍してきた。けれど、それでも届かない相手がいた。
幼馴染の彼女――リア・ルクシア。
物心ついた頃からずっと一緒で、気づけばずっと俺の一歩前を歩いていた存在。魔法理論では常に首位、実技でも圧倒的。教師たちからは次代を担う天才とまで言われている。俺だって負けてはいなかった。唯一、魔力量だけは俺が上だった。……まあ男女差が大きい分野ではあるけど、それでも確かに、俺の“武器”だった。
それでも、勝てなかった。
――「よーい、どん!」
乾いた声と同時に、子どもの俺とリアは草原を駆け出していた。風が抜けるだけの何もない場所。それなのに、その日はやけに鮮明で、やけに悔しかったのを覚えている。
隣を走るリアが笑う。
「けっこー速いじゃん、アルク」
その余裕が、無性に腹立たしかった。
「今日は負けない」
そう言い返した俺に、リアは楽しそうに目を細めて、
「じゃーあ、もうちょっと速く走ろー」
と軽く言った次の瞬間、ほんのわずかに前に出た。それだけで距離が開く。必死に足を動かしても、追いつかない。背中が遠ざかる。
「はい、ゴール」
軽い声とともに、リアが先に手をつく。俺はその場に座り込んで、息を荒げながら拳を握りしめる。悔しくて、でもどこかで分かっていた。勝てない。最初から、ずっと。
「まだやるか?」
後ろから声がした。振り返ると、腕を組んだ親父――ダミア・シリウスが立っている。少し呆れた顔をしながら、それでもどこか楽しそうにこちらを見ていた。
「当たり前だろ」
即答だった。
「何回負けても関係ねぇ」
親父はわずかに目を細め、「そうか」とだけ言う。リアが横でくすっと笑って、
「いいね、それ。じゃあ次は何やる?」
と軽く言う。その日、俺たちは走って、跳んで、転んで、泥だらけになって、それでも何度も立ち上がって、全部やって全部負けた。それでも俺は、「もう一回!!」と叫び続けた。リアはずっと笑っていて、親父は「……面倒なやつらだな」と呟きながらも、最後までその様子を見ていた。
――何度負けても、やめなかった。追いつけないと分かっていても、あの背中から目を逸らすことだけはできなかった。悔しさは何度でも込み上げてきたし、そのたびに胸の奥が焼けるように痛んだ。それでも足を止める理由にはならなかった。
あの頃から、何一つ変わっていない。
――そう、思っていた。
だから。
目を覚ましたとき、世界がこんなにも簡単に変わるなんて、思ってもいなかった。
見慣れたはずの天井。見慣れたはずの部屋。けれど、体の感覚が決定的におかしい。軽い。いや、軽いというより、バランスが違う。胸元にありえない重みがあり、腰は細く、肩幅は狭い。喉を鳴らせば、出てきた声は自分のものとは思えないほど高い。
嫌な予感が背筋を這い上がる。
震える足で鏡の前に立つ。そして、そこに映っていたのは――長い睫毛に整った顔立ち、肩まで伸びた艶やかな髪。どう見ても、美少女だった。
「……誰だ、お前」
呟いた声が、そのまま鏡の中の“それ”の口から返ってくる。
……いや、違う。違わないけど、違う。
それは間違いなく――俺だった。
「なんでぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
家中に響き渡る絶叫。その直後、扉の向こうから低い声が飛んでくる。
「うるさいぞ、朝から何を騒いでいる」
親父だ。
どう説明する。息子が一晩で女になりましたなんて言えるか? 言ったところで信じるわけがない。……いや、この状況で言わない方が無理だろ。
覚悟を決めて扉を開ける。
「親父、落ち着いて聞いてくれ。俺、なんかおかしくなって――」
そこまで言って、言葉が止まった。
親父は、俺の顔を見て――一瞬だけ目を見開いた。ほんの一瞬。それだけで、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……そうか」
深くため息をつきながら言う。
「ついに来たか」
「……は?」
予想外すぎる反応だった。
「いや、待て。なんでそんな落ち着いてんだよ」
「落ち着いてはいない。ただ、想定していた」
「想定!? 何を!?」
「お前の体質の話だ」
意味が分からない。
「詳しい話は後だ。とりあえず――それが今のお前だ。受け入れろ」
あまりにもあっさりした言葉に、思わず声を荒げる。
「受け入れろって……何が何だかわかんねぇっての!! こっちはいきなり性別変わってんだぞ!?」
「分からなくても事実は変わらん」
淡々とした返答に、思わず頭を抱えたくなる。……この人、本当に俺の親か? いや、親なんだけどさ。
「……魔力は確認したか」
不意に投げられた言葉に、思考が止まる。
「身体が変わった以上、影響は出る。確認しろ」
その一言で、現実に引き戻された。
――そうだ。こんな異常事態だ。魔力に変化がないはずがない。
そして俺にとって、それは“全部”だった。
ふらつく足で机に向かい、簡易測定具に手をかざす。魔力を流し込むと、淡く光る表示板に数値が浮かび上がる。
そして――
「……は?」
思わず、同じ声が漏れた。
ありえない数値だった。いや、違う。“少なすぎる”。
もう一度測る。結果は同じ。以前の半分以下。いや、体感ではそれ以上に削られている。
喉が乾く。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
俺の強さの根幹。誰にも負けない、唯一の武器。それが、一晩で消えかけていた。
「……終わった」
言葉が、勝手にこぼれる。
「全部……」
あいつに追いつくために積み上げてきたもの。それが、一瞬で遠ざかった。
「ふざけんなよ……」
拳を握る。けれど、力が入らない。
「これじゃ……勝てねぇじゃねぇか……」
その言葉に、親父はしばらく何も言わなかった。やがて、静かに口を開く。
「問題ない」
「……は?」
「減ってもなお、お前の魔力量は常人の域を超えている」
「そういう問題じゃねぇよ!!」
思わず叫ぶ。
「俺は――これでしか勝てないんだ!!」
沈黙。
そして、親父は小さく呟いた。
「……勝つ、か」
ほんのわずかに目を細める。
「なら、なおさらだ。今のお前で勝てるようになれ」
無茶苦茶だ。そう思うのに、言い返せない。
「その程度で諦める奴だったか? どんな些細なことでも、あの子に勝負を挑んでいたお前が」
言葉が出なかった。
図星だったからだ。
――何も、変わっていないはずなのに。
一番大事なものだけが、奪われた。
それでも。
それでも――
まだ、終わっていない。
それから、俺は部屋にこもった。
最初は、ただ少し休むつもりだった。頭を整理して、状況を受け入れて、それからまた動けばいい――そんなふうに、どこかで軽く考えていた。
けれど、現実はそんなに都合よくできていなかった。
鏡を、見なくなった。
一度だけ、確認のつもりで覗いたことがある。そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分とは似ても似つかない顔だった。整っていて、綺麗で、知らない誰かみたいで――それなのに、表情の動き方だけが“自分”で、そのちぐはぐさがどうしようもなく気持ち悪かった。視線を合わせた瞬間、思わず目を逸らして、それ以来、鏡には布をかけた。
魔法も、使わなくなった。
使えば分かるからだ。減ったことが、はっきりと。以前なら当たり前にできていた制御が、微妙にズレる。出力を上げようとすると、どこかで引っかかる。まるで身体の中にあった回路を、誰かに勝手に組み替えられたみたいに。できないわけじゃない。でも、“できていたはずの自分”と比べてしまう。その差が、耐えられなかった。
だから、やめた。
ベッドに横になって、天井を眺める時間が増えた。何も考えないようにしても、勝手に思考は浮かんでくる。
――これで勝てるのか。
答えは、分かっていた。
勝てるわけがない。
あいつに。
リアに。
あの背中に。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。悔しさも、焦りも、怒りもあるはずなのに、それらがうまく燃え上がらない。火がつく前に、水をかけられているみたいに、鈍く、重く沈んでいく。
(……何やってんだ、俺)
頭では分かっている。
こんなことをしていても、何も変わらない。時間が過ぎるだけで、状況は一ミリも好転しない。それどころか、差は広がる一方だ。
それでも、体が動かなかった。
起き上がる理由が見つからない。動いた先にある未来が、どうしても想像できなかった。
――どうせ負ける。
その一言が、思考の底に沈んで、何度も何度も浮かび上がってくる。
「……ちっ」
舌打ちをして、寝返りを打つ。視界に入るのは、見慣れたはずの天井。けれど、その“見慣れた”はずのものすら、どこか遠く感じる。
体が、自分のものじゃない。
魔力も、自分のものじゃない。
じゃあ、何が残っている?
問いかけても、答えは出てこない。
ただ、空っぽの感覚だけが残る。
――コン、コン。
どれくらい時間が経ったのか分からない頃、不意に音がした。
ノック。
規則正しい、遠慮のない音。
一瞬で、誰か分かる。
「……いない」
小さく呟く。意味がないことは分かっている。それでも、口に出さずにはいられなかった。
「いるでしょ」
即答だった。
明るくて、まっすぐで、聞き慣れすぎている声。
一番、聞きたくない声だった。
「帰れ」
短く言う。声が少し掠れているのが分かる。ここ数日、まともに話していないせいだ。
「やだ」
間髪入れずに返ってくる。
変わらない。
何も変わらない。
それが、今は少しだけきつかった。
「開けてくれないなら、壊すよ?」
「やめろ!?」
思わず体を起こす。あいつならやる。本気でやる。昔からそうだ。無茶を無茶と思わないところがある。
数秒、沈黙。
逃げるか、開けるか。
答えは分かっていた。
逃げたところで、終わるだけだ。
「……くそ」
小さく吐き捨てて、立ち上がる。足元が少しふらつく。まともに動いていなかったツケがきている。
扉の前に立つ。
手をかける。
――開けたら、終わる。
そんな感覚があった。
今の自分を、否定してきた全部を、突きつけられる気がして。
それでも。
ゆっくりと、扉を開けた。
扉を開けた瞬間、光が差し込んだ。
思わず目を細める。外の明るさに慣れていなかったせいで、視界が一瞬だけ白く焼けた。
その向こうに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「……久しぶり」
リア・ルクシアは、いつもと変わらない調子でそう言った。
変わらない。何も変わっていない。まっすぐで、迷いがなくて、当たり前みたいにここにいる。その事実が、少しだけ苛立たしかった。
「帰れ」
短く言う。できるだけ感情を乗せないようにしたつもりだったが、声は思ったより硬かった。
リアは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの笑みに戻る。
「やだ」
即答だった。
「帰れって言ってんだろ」
「聞いてた。でもやだ」
会話になっていない。それでも、こいつはいつもこうだ。人の都合なんて関係なく、自分のやりたいことをやる。
「……今、そういう気分じゃねぇんだよ」
「知ってる」
軽い返答。
「だから来た」
言葉が詰まる。
こいつは、分かっていて来ている。俺が今どういう状態か、全部理解した上で、それでも引かない。
それが、余計に腹立たしい。
「……ほっとけよ」
吐き捨てるように言う。
「別に、お前に関係ねぇだろ」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
リアの表情から、ほんの少しだけ笑みが消える。
「関係あるよ」
静かな声だった。
「だって、あんたでしょ」
それだけだった。
それだけなのに、何も言い返せなくなる。
視線を逸らす。合わせていられなかった。
「……帰れって」
もう一度言う。さっきよりも弱い声で。
リアはしばらく何も言わなかった。俺を見て、それからふっと息を吐く。
「じゃあさ」
軽く首を傾けて言う。
「デートしよ」
「……は?」
間抜けな声が出た。
「デート」
繰り返される。冗談を言っている顔じゃない。
「いや意味分かんねぇって」
「分かるでしょ。外出る口実」
あっさりと言う。
「口実ってお前……」
「だって、このままじゃ出ないでしょ?」
図星だった。
言葉に詰まる俺を見て、リアは少しだけ得意げに笑う。
「安心して。別に変なことしないから」
「それが一番信用できねぇんだよ」
即答する。
「ひど」
まったく傷ついていない声で返してくる。
「でもいいじゃん。減るもんじゃないし」
「減ってるんだよ、色々と」
思わず返す。自分でも何を言ってるのか分からない返しだった。
リアは一瞬だけきょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ」
笑いながら言う。
その笑い方が、昔と変わらなくて。
少しだけ、力が抜けた。
「……行かねぇよ」
小さく言う。
「こんな状態で」
言い訳だと分かっている。でも、それでも言わずにはいられなかった。
リアはその言葉を聞いて、少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあさ」
一歩、近づいてくる。
距離が縮まる。
「その“こんな状態”のまま、ずっといるの?」
視線が、まっすぐ刺さる。
逃げ場がない。
「……関係ねぇだろ」
「あるって言ってるでしょ」
間髪入れずに返される。
「見てらんないんだよ」
その言葉は、少しだけ強かった。
初めてだったかもしれない。リアがこんなふうに言うのは。
「前のあんたなら、こんなとこで止まってない」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「負けたまま終わるの、嫌だったでしょ」
――ああ。
その通りだ。
昔から、そうだった。
何度負けても、やめなかった。
それだけは、絶対に。
「……」
何も言えない。
代わりに、視線が落ちる。
拳が、無意識に握られている。
リアはそれを見て、少しだけ優しく笑った。
「だからさ」
声が少しだけ柔らかくなる。
「リハビリだと思って付き合ってよ」
軽い口調。
でも、その中身はちゃんと分かっている。
外に出ること。
今の自分で動くこと。
それを、強制じゃなく“選ばせている”。
「……めんどくせぇ」
ぽつりと呟く。
「知ってる」
即答。
「でも来るでしょ?」
間を置く。
考える。
逃げる理由はいくらでもある。
でも――
行く理由も、一つだけある。
「……少しだけだぞ」
観念したように言う。
リアは一瞬だけ驚いた顔をして、それからすぐに満足そうに笑った。
「やった」
子どもみたいな反応。
「じゃ、決まりね」
当たり前みたいに言って、くるりと背を向ける。
「ほら、早く準備して」
「は?」
「デートなんだから、それなりにちゃんとしてよ」
「誰のせいでこうなってると思ってんだよ……」
思わず頭を抱える。
でも。
少しだけ。
ほんの少しだけ――
息がしやすくなっていることに、気づいていた。
「あ、そうだ」
リアが何か思いついたように手を叩いた。
「服ないでしょ」
「……」
図星だった。
「貸してあげる」
「いらねぇ」
「いるよ」
「いらねぇって言ってんだろ」
「じゃあそのまま来る?そんなボサボサで外出るの?」
「……」
リアは満足そうに笑う。
「決まり」
⸻
数十分後。
俺はリアの部屋にいた。
ベッドの上には服が並べられている。
……全部、女物だ。
当たり前だけど。
「ほら、これとかいいんじゃない?」
軽い調子で言われる。
「……着れるかよ」
「着れるって」
「無理だって」
「大丈夫大丈夫」
何が大丈夫なんだよ。
「ほら、脱いで」
「自分でやるわ!!」
思わず叫ぶ。
リアはケラケラ笑っている。
最悪だ。
⸻
着替え終わったあと、鏡の前に立たされた。
「……」
言葉が出ない。
似合っていた。
悔しいくらいに。
体のラインに合っているし、違和感もない。
むしろ――自然すぎる。
「かわいいじゃん」
「うるせぇ」
即答する。
でも、否定しきれないのがさらに腹立つ。
「ほら」
リアが後ろから近づいてきて、髪に触れる。
びくっと体が揺れた。
「……っ」
「ちょっと整えるね」
指が、髪をすくう。
距離が、近い。
呼吸が、かかる。
「じっとして」
「……」
妙に意識してしまう。
なんでだよ。
前はこんなの、何も思わなかったのに。
「はい、できた」
鏡の中。
そこにいたのは、完全に“知らない女”だった。
でも、それが自分だって分かってしまう。
「……最悪だ」
「最高でしょ」
リアは楽しそうだった。
⸻
外に出る。
久しぶりの空気。
少し冷たい風が頬に当たる。
「……」
悪くない、と思ってしまった。
「どこ行く?」
「どこでもいい」
適当に答える。
リアは少し考えて、
「じゃあ、街」
と言った。
⸻
並んで歩く。
視線が、刺さる。
当然だ。
隣にはリア。
そして――今の俺。
(……見られてる)
分かってはいたけど、実際に感じると落ち着かない。
「気にしてる?」
リアが小さく笑う。
「してねぇ」
「してるじゃん」
「してねぇって」
「顔赤いよ」
「うるせぇ」
無意識に顔を逸らす。
その仕草が、余計に“それっぽい”気がして、さらにイラつく。
⸻
店に入る。
服を見るリア。
それを後ろから眺める俺。
「これどう?」
服を当てられる。
「似合うでしょ」
「……知らねぇ」
「着てみなよ」
「やだ」
「いいから」
半ば強引に試着室に押し込まれる。
……で、結局着る。
鏡を見る。
「……」
さっきより、さらに“それっぽい”。
外に出ると、リアが満足そうに頷いた。
「やっぱ似合う」
「……やめろ」
「なんで?」
「なんか、調子狂う」
正直な言葉だった。
リアは一瞬だけ驚いて、
それから、少しだけ優しく笑った。
「いいじゃん、狂えば」
「……は?」
「今まで通りじゃなくなるの、そんなに怖い?」
「……」
言い返せない。
怖い、のかもしれない。
「でもさ」
リアは軽く言う。
「それでもアルクでしょ?」
またそれだ。
でも――
今回は、少しだけ納得してしまった。
街を歩いていると、人の流れが少しずつ増えてきた。
通りに出ると、視線が集まる。
(……視界が低い)
分かってはいたけど、落ち着かない。女になって変わった。容姿も、背丈も。
「ね」
リアが不意に言う。
「手、繋ぐ?」
「は?」
思わず変な声が出る。
「なんでだよ」
「迷子防止」
「なるか」
即答する。
リアは少しだけ笑って、
「じゃあいいや」
と、あっさり引いた。
……はずだった。
次の瞬間、人の流れがぶつかる。
軽く肩を押される。
バランスが崩れる。
「――っ」
倒れそうになる。
その瞬間、腕を引かれた。
「危ない」
気づけば、手を掴まれていた。
指が絡む。
思ったより、しっかりと。
「……」
離そうとする。
でも――
「ほら、言ったでしょ」
リアが、わざとらしく言う。
「必要になるって」
「……今のは別だろ」
「同じだよ」
手は離れない。
というか、離してくれない。
「……もういいだろ」
「やだ」
即答。
「このまま」
軽い口調。
でも、指の力は緩まない。
(……なんだよ)
鼓動が、妙に早い。
たかが手を繋いでるだけだろ。
なのに――
「……手、ちっちゃくなったね」
リアがぽつりと言う。
「うるせぇ」
「前はもっとゴツかったのに」
「言うな」
「今の方が好きかも」
「は?」
思わず振り向く。
リアは前を見たまま、何でもない顔で歩いている。
「持ちやすいし」
「……そういう問題じゃねぇだろ」
でも、手はそのまま。
離さない。
(……なんで離さねぇんだよ)
理由は分かる。
分かるけど――
離してほしくないと思ってる自分がいるのが、一番意味分からない。
⸻
しばらく歩く。
そのまま。
手を繋いだまま。
会話は少ない。
でも、妙に気まずくない。
むしろ――
(……落ち着く)
その感覚に、自分で驚く。
「アルク」
「なんだよ」
「今、嫌?」
「……」
すぐには答えられなかった。
嫌かどうか。
……さっきなら即答できた。
でも今は違う。
「……分かんねぇ」
正直に言う。
リアは少しだけ笑った。
「そっか」
それだけ。
それ以上は何も言わない。
でも――
指が、少しだけ強く握られた。
⸻
店に入る。
席に座る。
ようやく手が離れる。
その瞬間、少しだけ物足りなさを感じた自分に気づいて、
(……は?)
内心で固まる。
何考えてんだ。
「どうしたの?」
リアが覗き込んでくる。
距離が近い。
さっきほどじゃないけど、近い。
「……なんでもねぇ」
視線を逸らす。
「顔赤いよ」
「うるせぇ」
テンプレみたいなやり取り。
でも――
さっきより、明らかに違う。
「ね」
リアがテーブル越しに手を伸ばしてくる。
「まだ慣れない?」
指先が、軽く触れる。
一瞬だけ。
それだけなのに、びくっと体が反応する。
「……触んな」
反射的に言う。
でも、声は弱い。
「やだ」
また即答。
でも今度は、すぐに離れる。
「少しずつでいいよ」
そう言って、笑う。
「どうせ逃げられないし」
「……何からだよ」
「さあ?」
ごまかすように肩をすくめる。
でも――
その視線だけは、逸らさない。
まっすぐこっちを見ている。
(……なんなんだよ、こいつ)
前から分かってたはずなのに、
今のリアは、少しだけ違って見える。
いや、違う。
“見え方が変わった”のは、たぶん俺の方だ。
⸻
店を出たあと。
夕方の空気。
少し冷たい風。
「帰る?」
リアが聞く。
「……いや」
気づけば、また同じ答えを返していた。
リアが少しだけ笑う。
「だと思った」
そして――
自然に、また手を取られる。
今度は、抵抗しなかった。
(……まあ、いいか)
ほんの少しだけ。
そう思ってしまった。