Nox Re:Code 〜TSメス堕ちなんてするわけない〜 作:きむちーず
湯気が、視界を白く曇らせる。
静かだった。
外の喧騒も、リアの声も、全部遠くに追いやられて、ただ水音だけが残る空間。浴槽に沈めた体がじわりと熱を帯びていく感覚を、アルクはぼんやりと受け止めていた。
「……」
目を閉じる。息を吐く。けれど、落ち着かない。むしろ逆だ。意識を内側に向ければ向けるほど、“違和感”が輪郭を持って浮かび上がってくる。
腕を持ち上げる。細い。以前よりも明らかに。指も、関節も、全体的にしなやかに変わっている。力を込めると、筋肉はちゃんと反応する。けれど、その出力の“伝わり方”が違う。昔のような直線的な力じゃない。どこか一拍遅れて、柔らかく伝わる。
胸元に視線を落とす。水面に浮かぶそれは、見慣れない重みを持って存在している。呼吸に合わせてわずかに揺れるその感覚が、どうにも落ち着かない。
「……はぁ」
浅く息を吐く。熱い空気が肺に入る。心拍が、少しだけ早い。
体だけじゃない。
“感じ方”が違う。
さっき街で、リアに手を引かれたとき。あれくらいの接触、昔なら何も思わなかったはずなのに、妙に意識が引っ張られた。距離。体温。指の圧。そういう細かい情報が、無駄に鮮明に入ってくる。
(……めんどくせぇ体)
吐き捨てるように思う。
けれど。
完全に嫌かと言われると――
「……」
言葉が出ない。
理解したくない感覚が、じわりと残る。
それを振り払うように、アルクは湯の中で手を握った。ぐっと力を込める。筋肉が応える。問題はない。問題は――
魔力だ。
意識を沈める。体内に流れるそれを探る。昔よりも薄い。密度も、流量も、明らかに落ちている。だが、ゼロじゃない。むしろ、一般的な水準と比べればまだ“多い”。
ただ――
「足りねぇ」
ぽつりと漏れる。
あの頃なら、この程度の環境で揺らぐことはなかった。どんな状況でも押し切れるだけの“量”があった。今は違う。配分を考えなければならない。出力も、制御も、無駄を削らなければ維持できない。
(でも――)
ゆっくりと目を開く。
(それでも、やるしかねぇ)
負ける理由にはならない。
昔からそうだった。
どれだけ差があっても、どれだけ届かなくても、やることだけは変わらない。
湯から上がる。滴る水を拭きながら、鏡の前に立つ。
そこにいるのは、やっぱり見慣れない“自分”だ。整った顔。細い身体。女の形をした何か。
「……」
数秒、見つめる。
逃げない。
目を逸らさない。
「――俺だろ」
小さく言う。
そのまま布で水気を拭き取り、服を着る。動作はまだぎこちないが、止まらない。止まる理由がない。
扉を開ける。
その瞬間だった。
空気が、変わる。
「……っ」
一歩、踏み出しかけて止まる。皮膚の上を、ざらりとした違和感が撫でた。魔力。だが、自然な流れじゃない。外から“押し込まれている”感覚。
(……結界?)
いや、違う。もっと雑だ。隠す気がない。むしろ――
(誘ってる?)
玄関の方から、気配がする。複数じゃない。一つ。だが、濃い。
アルクはゆっくりと歩き出した。足音を殺す必要はない。相手はもう、気づいている。
扉を開ける。
外には、男が一人立っていた。
黒い外套。無駄のない立ち姿。年齢は二十代後半か。視線が、真っ直ぐこちらに向けられている。
「へぇ」
男が口元を歪める。
「聞いてたより、ずいぶん可愛いな」
アルクは無言で男を見た。
「誰だ」
短く問う。
男は肩をすくめる。
「名乗るほどでもない。ただの試験官みたいなもんだと思ってくれ。ともかくまあ、もうちょっと開けた場所に行こうか」
「いや、ちょい待て。いきなり知らん人にホイホイついていくと思うか?」
男は軽く顎を引いた。
「このままここでやってもいいけど、その場合――」
一瞬だけ視線が家の方へ流れる。
「建物ごと吹き飛ぶよ。ああ、別に脅しじゃない。事実としてね」
空気が、わずかに軋む。
見えない圧が、外から押し込まれてくる。壁、地面、空間そのものに薄く張り付く魔力の膜。粗い。だが広い。逃げ道を塞ぐというより、“ここ一帯を箱にしている”感覚。
(……領域化)
精密な結界じゃない。強引に範囲だけを押さえるタイプ。隠す気はない。逃がす気もない。
アルクは小さく息を吐いた。
「随分と雑だな」
「雑でいいんだよ。今回は“回収”が目的だから」
男は笑う。
「君を傷つけるつもりはない。抵抗しなければね」
「断る」
「だろうね」
男は肩をすくめた。
「だから、場所を変えようって言ってる。お互い、余計なものを壊したくはないだろ?」
数秒。
アルクは周囲の魔力の流れを探る。薄く、しかし確実に囲われている。外に抜けるには一点を強引に破る必要がある。今の魔力量でやれば、余波は確実に広がる。
(……面倒くせぇ)
選択肢は二つ。ここで無理やり破るか、相手の提示に乗って被害を外に逃がすか。
どっちにしても戦う。
なら――
「いいぜ」
アルクは一歩、外へ出た。
「場所、選べ」
男の目がわずかに細くなる。
「話が早い」
次の瞬間、男の足元に魔法陣が走る。円ではない。歪な多角形が連なり、空間を“折り曲げる”タイプの術式。視界が一瞬だけ捻じれ、足場の感触が消える。
――転位。
着地と同時に、空気が変わる。開けた荒地。人家はない。風が抜けるだけの、何もない場所。
(さっきと同系統の空間操作……)
アルクは足場を踏みしめ、すぐに重心を落とす。遅れてくる違和感はない。転位の質は高い。雑な領域とは対照的に、ここは丁寧だ。
「ここなら気兼ねない」
男は外套を揺らし、半歩下がる。
「改めて。君は“例外”だ。私たちの管理外で発生した、干渉結果。そのまま外に置いておくわけにはいかない」
「…だから回収?」
「そう。もしくは処分」
軽く言う。
アルクは眉一つ動かさない。
「どっちになるかは?」
「今決める」
男の周囲に、淡い光が集まり始める。色は薄青。粒子が集積し、空気の密度が変わる。
「簡単な話だ。ここで君の“価値”を測る。基準に満たなければ排除。満たせば――」
一拍。
アルクは小さく笑った。
「ごちゃごちゃと、喋り方がキモいんだよお前」
「……美少女に罵倒されるってのは悪くないね!!」
その瞬間、男の魔力が“形”を持つ。粒子が直線に収束し、空気を裂く音と共に細い光条が走る。
――速い。
アルクは踏み込みを半歩ずらす。直撃コースを外し、かすめる熱だけを受け流す。頬を掠め、後方の地面が抉れる。
(直線系の収束術……貫通特化か)
魔法は大きく三つに分かれる。純粋な出力で押す“放出系”、形を与えて機能を持たせる“構成系”、環境や座標に干渉する“干渉系”。今のは放出と構成の中間、収束させて一点に通すタイプ。速さと貫通力は高いが、軌道は素直。
なら――
アルクは息を吸う。体内の魔力を引き上げる。以前より薄い。だが、流れは読める。
(削る。無駄を)
掌の内側に、薄い電光が走る。白に近い青。音は小さい。だが密度がある。
アルクの得意魔法は“雷”。放出寄りだが、ただ撃つだけじゃない。速度と瞬間的な収束で“先を取る”系統。
「へぇ」
男が目を細める。
「その出力でその密度、か。面白い」
次の瞬間、アルクは踏み込んだ。距離を詰める。遠距離の撃ち合いに付き合う理由はない。今の魔力量でどれほど戦えるかは未知。なら短期決着。
足裏で地面を捉え、重心を低く滑らせる。踏み込みの“間”を消す。体が軽い。以前よりも慣性が小さい分、加速の立ち上がりが速い。
(……使える)
違和感は武器になる。
男の二射目が来る。今度は三条。散らして、回避を限定する軌道。だが、読める。アルクはわずかに肩を落とし、最短の隙間を抜ける。袖が焼ける。気にしない。
間合いに入る。
「近い方がいいんだろ?」
掌を振り抜く。電光が弾け、刃のように伸びる。斬撃ではない。接触した瞬間に内部へ“流す”ための形。
男が腕を上げる。薄い障壁が展開される。構成系の防御。厚みはないが、反応は速い。
ぶつかる。
――瞬間、音が消える。
次いで、爆ぜる。
雷は表面で止まらない。接触点から内部へ侵入し、遅れて広がる。障壁の内側で火花が散り、男の体勢がわずかに崩れる。
「……っ」
小さな驚き。
アルクは追撃に入る。間を空けない。今の自分に長い呼吸はない。
だが――
空気が、変わる。
背後から、別の魔力が差し込んだ。
(……もう一人?)
違う。質が違う。さっきの男よりも、さらに深い。重いというより、“底が見えない”。
その瞬間、アルクの肩を誰かが軽く押した。
視界が半歩ずれる。
同時に、さっきまでいた位置を“何か”が通過した。音もなく、跡だけが残る切断。空間ごと削り取るような一閃。
「下がれ」
低い声。
振り返るまでもない。
ダミア・シリウスが、そこに立っていた。
「……来たか」
試験官の男が、小さく息を吐く。
「こんなあっさり破られるなんて……あんたが来る前にさっさと終わらせたかったんだけどな」
「………」
ダミアは無言で前に出る。
「上にもいるな」
視線が上がる。
空の高み、見えない位置に、確かに“いる”。
アルクは舌打ちした。
(……気づかなかった、最初から二段構えかよ)
試験官は肩をすくめる。
「安全確保のためだよ。あんたは“元”最強だからね」
一瞬の間。
ダミアの空気が、わずかに沈む。
「アルク」
「あっちの方は俺が片付ける。お前はこいつをどうにかしろ」
短い指示。
「上等だ」
掌に、もう一度電光が走る。さっきよりも細く、鋭く。無駄を削った分だけ、質が上がる。
「“評価対象”なんだろ?」
小さく笑う。
「なら、見せてやるよ」
風が鳴る。
雷が、走る。
戦いは――ここからが本番だ。