阿良々木暦は止まらない   作:ぼんぼーる

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 八月初旬。

 それは、とても暑い日の事だった。

 照りつける日差しの下、僕は自転車を軽快に漕いでいた。

 全身で感じる風が爽やかで心地いい——なんてことは全くなくて。

 肌に纏わりつくようなじめついた空気は、ただただ不快感を齎すばかり。もっとも、徒歩で移動するよりは幾分とマシなのだろうけど。

 この炎天下を歩くだなんて、想像しただけで憂鬱な気持ちになってしまう。

 暑い。

 というより、熱い。

 勿論、こんな気温なので、人間にとって生活しやすい気候でないというのは、当然なのだけれど。

 微量ながらも、体に吸血鬼の力を宿している僕にとっては殊更(ことさら)に——効く。

 最後に忍に血を吸わせてから暫く経っているので、現在の僕の吸血鬼度合いはそれなりに低いといえども、やはり人間100%であった時とは違うのだと、こんなところでも実感する次第である。

 まあ、我慢できない程ではないのだが。

 精々、肌の表面がぴりぴりする程度だ。

 感覚としては、日焼けした時に近いのかもしれない。

 ……ふと思ったが、そもそもとして、僕は日焼けができる体なのだろうか?

 今の僕が有する吸血鬼性というのは、ざっくり言ってしまうと『再生能力』なのだが、もしかすると日焼けによる肌へのダメージなんかも、その対象に入っているのかもしれない。

 仮にそうだとすれば、僕は今後一生、こんがり焼けた小麦色の肌になることはできないのか。

 そう思うと、若干寂しいような、そうでもないような。

 うーむ、実際のところ、どうなのだろう。

 正直日焼け自体に(こだわ)りがある訳ではないものの、一度疑問に思うと、何だか気になってしまう。

 後で忍に聞いてみるか——とも思ったが、あいつも知らないかもな。

 僕と違って、本物の怪異——本物の吸血鬼である彼女は。

 太陽の下になんてその身を晒せば、たちどころに炎上してしまう(物理的にだ)ような体の持ち主だったのだから。

 今でこそ吸血鬼としての力の大半を失っているものの、だからといって、人間の日焼け事情に詳しいとも思えなかった。まして、僕のような特殊なケースについてなど、把握していなくとも何ら不思議でない。

 そんな益体(やくたい)の無い事を考えている内に、僕は目的地へ——幾度となくお世話になっている、馴染みの大型書店へと到着したのだった。

 勉強に使う参考書や漫画、その他にも……あー、健全な男子高校生なら興味を持っていて当然の、アレな本まで(明言はしないが察して欲しい)。

 兎角、様々な書籍を購入させていただいている店舗なのである。

 そして、では今回僕がお目当てにしている物が何かと言えば、それは漫画の単行本であった。

 『ピンクダークの少年』。

 某有名少年漫画誌に現在進行形で掲載されているその漫画は、本日が新刊の発売日なのである。

 全巻欠かさずに集めている僕としては、是非とも当日に購入しておきたかったという訳だ。

 店内に陳列されたそれを手に取り、さくっと会計を済ませ、冷房の効いた店内に後ろ髪を引かれながらもそそくさと退店し、再び自転車に跨って帰路に就く。

 時間があればもう少し滞在しても良いのだが、生憎受験生である僕にそんな余裕はない。

 それに、僕に勉強を教えてくれている同級生の羽川から、本日中に終わらせるべき課題が出されているのだ。

 実を言えば、今日は丸一日羽川に勉強を見てもらう予定であり、実際昼前までは彼女と二人で図書館に居たのだが、羽川の方に急遽用事が出来てしまったらしく、途中で解散となった形なのである。

 課題とされているのはつまり、元々午後に進める予定だった部分という事だ。

 完遂できないと後が怖いので、娯楽に現を抜かしている暇はない。

 いや、こちらから頼み込んで教えを乞うている以上、元よりサボるつもりなど毛頭無いのだが。

 まあそういう事情もあり、僕は家路を急いでいるのだった。

 急いで——いたのだった。

 道中。

 住宅街の道路脇に、奇妙な男性が立っていた。

 ああ、いや。誤解無きように言っておくと、奇妙というのは何も見た目の話ではない。

 Gペンの先端を模した形状のピアスに、暗めの緑のヘアバンドというその出で立ちも、確かに珍しいのだが。

 僕が言っているのは、彼の様子についてなのだ。

 彼は片手で抱えたスケッチブックに、一心不乱に筆を走らせていた——それも、鬼気迫る表情でだ。

 ここで一つ補足させてもらうならば、ここら一帯は何の変哲もない、一般的な家屋が立ち並んださして珍しくもない住宅街である。

 故に、そこまで真剣にスケッチをするような風景ではないと思うのだが、その男性にとってはそうではないのか、黙々と手を動かし続けるばかり。

 あの様子だと、僕が自転車ですぐそばを通過したとしても、気付かないかもしれない。

 それほどまでに高い集中力を発揮できるという事自体は素直に尊敬できるものの、それでやっている事がごく普通の家屋のスケッチというのは、やはり若干奇妙に感じてしまう部分がある。

 とはいえ、何となくだった。

 僕が自転車のスピードを緩め、遂には一時停止してまで、その男性の様子を窺ってしまった理由は、何となくという言葉以外では言い表せない。

 強いて言うならば、思い出してしまったからだろうか。

 僕が春休みからの数か月間、事あるごとにお世話になった恩人、怪異の専門家である——忍野メメというおっさんの事を。

 こんな風に言えばまるで、スケッチをしている男性が小汚い恰好をしている様に思われてしまうかもしれないが、そんな事はなく、むしろ真逆で、小綺麗だと言ってもいい。

 着用している衣服には皺や汚れもないし、髭も生えていない。髪だって忍野のような金髪ではなく、染められた形跡のない自然な黒色だ。

 外見の話をするなら、忍野と似ている部分は一つだってない。

 では、僕はどうして、彼を見て忍野メメを連想したのか。

 正直な所、やはり正確な理由は判然としないのだが——多分雰囲気なのだろうと思う。

 どこか浮世離れした感じ、というべきか。

 常人とは異なる景色を見ている感じ、というべきか。

 ううん、いまいちしっくりくる表現が見当たらない。こういう時、何でも知っている羽川であれば、適切な言葉をぱっと見つけられるのだろうけれど。

 ……ああ、連想すると言えば、もう一人。

 つい先日にひと悶着あった、不吉な詐欺師こと、貝木泥舟もそうだ。

 こちらも見た目がどうという訳ではないが、近いものを感じるかもしれない。

 忍野と貝木。

 この二人に共通するものはと考えれば、すぐに一つの答えに辿り着く。

 即ち——怪異。

 であるならば、僕の感覚が確かであるならば、あの奇妙な男性も、少なからず怪異に絡んだ人物という事になる。

 …………。

 いや、流石に考え過ぎだな。

 怪異に関わった人間は、怪異に惹かれやすくなる。

 これは忍野の言葉であり、事実僕はあの春休み以降、ちょっと驚くくらいのペースで怪異絡みの事件に遭遇している訳だが、それでも街中で見かける少し変わった人間全員を怪異の関係者だと判断するのは、些か過敏になっていると言わざるを得ない。

 よし、帰ろう。

 早いところ帰って勉強をしなくてはならないし、こんな暑い場所にいつまでも居たら干からびてしまう。

 吸血鬼が日光で干からびるなんて、なんだか道理に背いているような気もするが——お天道様の下で普通に活動しているのだから、今更だな。

 なんて事を考えて、自転車のサドルに腰を据え直した瞬間の事だった。

「——なあ、そこの君」

 絵を描いていた男性は、いつの間にか顔を上げ、こちらを見ていた。

「さっきからじろじろと見ていたみたいだが、僕に何か用か?」

 声を掛けられるだなんて思ってもみなかった僕は、

「あ、僕……ですか……?」

 なんて、典型的過ぎる返しを披露してしまう。

 この場には僕と彼しか居ないのだから、話しかけられたのは僕に決まっているのに。

 そう思ったのは相手方も同じらしく、長い——とても長い溜息を吐いた男性は、それからぱたりとスケッチブックを閉じた。

「ふぅん、これは驚きだ。君には今ここに、僕ら以外の第三者が居るように見えるんだな。もしかして、霊感でも持ってる口かい? だったらここは一つ、後学のために教えてくれよ——どんな奴が見えるのかを、な」

「…………」

 訂正しよう、全然同じ考えなんかじゃなかった!

 方向性だけは合っていたものの、トッピングとしてたっぷりの嫌味が盛られている。

 初対面の人間に向ける言葉としては、大分刺激的だろう。もう少し柔らかい表現にしてもらわないと、反応に困ってしまう。パンケーキくらい弾力があると嬉しい。

 とはいえ、この程度でへこたれる僕ではない。

 なにせ僕には、会話の度に僕を罵倒しなければ気が済まないという、とんでもない嗜好を持った知人が居るのだから——戦場ヶ原ひたぎという女が。

 豊富な語彙から繰り出されるテクニカルな罵詈雑言を日常的に浴びている僕にしてみれば、この程度は怯むにも値しない、いわばジャブ程度にしか感じられないという訳だ。

 ……勘違いされると困るので断っておくと、僕はマゾヒストではない。断じて。本当に。本当だよ?

 そんな、誰に向けるでもない弁明を脳内で繰り広げる僕に、男性は更に詰問する。

「どうしたんだい、黙り込んでたんじゃあ何も分からないぞ? ほら、何が見えるのか、きちんと説明してくれよ」

「…………」

「実を言うと、僕は漫画家でね。そーゆーネタになりそうな話題には、常に飢えているんだ。面白いネタってのは、いくらあっても困らないからな。いやあ、実に興味深いナア。どんな話が聞けるのか、楽しみで仕方ないよ」

「…………いや、あの……すいません」

「おや、どうして謝るんだ? 僕は君に、話を聞かせて欲しいって言ってるだけなんだぜ? それともあれか。僕が頭を下げて頼み込めば、満足して教えてくれるのかい?」

「——僕たち以外誰も居ないです! (とぼ)けた返事してすいませんでした!」

 その有無を言わせぬ圧に、僕は反射的に謝罪するしかなかった。

 怖いっつーか、ねちっこいなこの人!

 戦場ヶ原の言葉がナイフによる滅多刺しだとすれば、この人は真綿でゆっくり首を絞めてくる感じだ。

 どちらも恐ろしい事には違いないけれど、こっちの方がより嫌な所を責めてくるというか、精神的に痛めつけられている気分になる。

 いつか聞いた、創作者は気難しい人間が多いという説は、存外信憑性があるのかもしれないな(にしたって、限度はあるだろうとも思うが)。

 ともあれ、男性は僕の発言に(一応は)満足したのか、フンと鼻を鳴らしながらも引き下がってくれた。意外にあっさりと引いてくれた事に若干安堵する僕である。

「やれやれ、無駄なやり取りをさせないで欲しいな。僕も暇じゃあないんだ」

 うんざりだと言わんばかりの表情を浮かべる男性に一抹の気まずさを覚えながらも、なんとはなしに興味本位で僕は、質問を投げかけてみる。

「あの……どうして住宅街の様子なんかスケッチしてるんですか? 別に、珍しい構造の家がある訳でも無い、普通の景色だと思うんですけど……」

「……分かってないな」

 僕の問いかけに男性は、一瞬睨むような視線をこちらに寄越したが、けれど意外にも、会話には応じてくれるようだった。

「君の言う、普通ってのは何だ?」

「え? それは、えっと……ありふれている、というか……」

「まあ、確かに、この住宅街と似た風景ってのは、全国至る所にあるだろうな。だが、それはあくまで似ているだけで——決して、同じという事ではない。家屋の並び、築年数、そこに住む人間。その他にも、様々な要因が複雑に絡み合って、その地域特有の雰囲気というものが生み出されるんだよ」

「……」

「そして、この道沿いの光景が——直江津町という町における、()()()()が孕む空気感が、僕の琴線(きんせん)に触れた。だから、描き残しておくことにした。それだけの事なんだ」

 男性はそう締め括ると、軽く息を吐いた。

 正直に言えば、僕は彼の話を聞いても、その感性の半分も理解できていなかったのだと思う。

 だけれども、本当に何となくでしかないが、納得できる部分はあったし、それに、彼が紡ぐ言葉の端々からは、作家としての尋常ならざる拘りとも言うべき想いが伝わってきた。

 向上心や探求心という言葉では到底収まらない、創作という行為への底知れぬ——執着心。

 芸術家。

 そんな単語が頭を過る。

 彼は漫画家を名乗っていたが、そしてそれは実際正しいのだろうけれど、僕個人としては、こちらの方が彼の人間性を表すのに適しているように思えてならない。

 自らの感覚に従い、ひたすらに理想を追い求める、正しく芸術家といった気質。

「あの」

 僕がそう声を発したのは、全くの無意識からであった。

「今描いてたスケッチ、見せていただけないですか?」

「……何だって?」

 男性が、露骨に顔を顰めてみせる。

 当然だ。

 僕と彼は、道端で偶々(たまたま)遭遇したというだけで、本来知り合いでも何でもない。こうして言葉を交わしている事すらも、偶然に偶然が重なった結果に過ぎない。

 その程度の、浅いにも程がある間柄でしかないのだから、僕のお願いが、不審に思われるのも致し方ないだろう。

 自分でも、どうして突然そんな事を口走ったのか分からない。

 だが、この時僕の中には、何か予感めいたものが渦巻いていた。

 芸術に特別興味を持っている訳でもない僕だが、しかしながら彼の描く絵を、是非ともこの目で見ておきたいという、正体不明の欲求に後押しされていたのだった。

 それが一体何だったのか、後から振り返ってみてもやはり判然としないのだが——しかし。

 僕の不躾(ぶしつけ)な要求に対し男性は、非常に怪訝な顔をしながらも、手にしていたスケッチブックを開くと、今しがた書き上げたばかりであろう風景画を僕に向けて見せてくれたのだった。

 鉛筆のみで表現されたモノクロの光景が、僕の目に飛び込んでくる。

 瞬間。

 僕は、雷に打たれたような錯覚に見舞われた。

 いや本当に、このようなありきたりでいて、かつ過剰ではなかろうかとすら思える比喩表現を、まさか自分が使うことになろうとは露程も思っていなかったのだが、実際の所、そうとしか言い表せない程の衝撃であった。

 僕のような素人でも、一目見ただけで分かる。

 この絵は——生きているのだと。

 写実的な画風ではない——というよりは、過度に写実的過ぎない、と表現した方が適切だろうか。

 美術館に展示されるような絵画とは異なる、漫画寄りのテイスト。

 前提として、当然の如く上手だ。

 なのだが、その上で特筆すべきは、そのリアルさだろう。

 こう言うと、写実的云々(うんぬん)の話と矛盾しているように思われるかもしれないが、僕の言うリアルさとはつまり、現実世界における情緒とでも言うべきものが、非常に巧みに落とし込まれているという意味なのだ。

 見るだけで実際にその場に居るかのような気分になる——とは、正にこういう事なのだと思う。

 風景が内包する雰囲気。

 そこで生活する人々の息遣い。

 それらが、ダイレクトに伝わってくる。

 生き生きとしていて、生々しい。

 そういった印象を受ける絵なのであった。

 これが、僕が衝撃を受けた理由——その内、半分である。全てではなく、半分。

 では、残りの半分は一体何なのか。

 それは、僕がこの絵に対し、あまりに強い既視感を覚えた事に由来する。

 勿論、この風景画はつい先程描き上げられたばかりなのだから、それ自体に対して見覚えがあるという話ではなく。

 ……いや、曖昧な言葉で誤魔化すのは止そう。

 僕はきっと、というか多分、この男性を知っているはずだ。

 直接に顔を合わせた事などある訳がない——どころか、向こうは僕の事など知る由も無いのだが。

 それでも、僕は知っている。

 この絵柄に、見覚えがある。

 彼が見せてくれたスケッチは、僕が先程書店で購入したばかりの、ビニール袋に入った単行本の表紙と、よく似た雰囲気を醸し出していた。

 『ピンクダークの少年』。

 独特の絵柄と、リアルかつグロテスクな描写が特徴的な、少年漫画。

 よく、似ている。

 いやまさか、こんな田舎町で、しかもこんな道端になんて、そんなわけが。

 努めて冷静さを保とうとしながらも、僕は胸の内で急速に期待感が膨れ上がっていくのを感じていた。

 知らず、ごくりと唾を呑み、それから僕は、おそるおそるといった風に口を開いた。

「……あの、もしかしてなんですけど、貴方のお名前って」

 袋から単行本を取り出し、顔の高さに掲げる。

 彼はそれを見て、ほんの僅かに眉を動かしたが、それでも相変わらずの仏頂面のまま、「フゥン」と呟いて続けた。

「僕の名前は、岸辺露伴だ。君が持っているその漫画の——作者だよ」

 

 

 

 

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