阿良々木暦は止まらない 作:ぼんぼーる
004
「ほら、描けたよ」
「……え?」
気が付くと、岸辺露伴先生は、片手に持った『ピンクダークの少年』の単行本を、僕へ向けて差し出していた。
ん、あれ?
今僕は、何をしていたんだったか。
目の前に居るこの男性が、漫画家の岸辺露伴本人だという事が分かって、それから……うん?
というか、これ、僕がさっき買った本だよな?
手渡した覚えもないというのに、どうして彼の手にあるんだろう。
「どうしてって、君なあ……。僕が身分を明かした途端、サインが欲しいって、自分で
「あ、あれ? そう……でしたっけ?」
「おいおい、勘弁してくれよな。今更消せと言われたって、どうすることもできないぜ。僕はただの漫画家であって、魔法使いじゃあないんだからな」
「い、いやいや! 消す必要なんてないです! 滅茶苦茶嬉しいです、ありがとうございます!」
さっと本を開いてみると、表紙裏の余白部分に、漫画の主人公である少年のキャラクターが描かれていた(阿良々木暦くんへ、と宛名も添えられている)。
「……って、そういえば僕、名前言いましたっけ?」
「……君、本当に大丈夫か? さっき、自分で名乗ってただろうに」
う、うーん、そうだった……のか?
参ったな。サインをお願いした件といい、全く身に覚えがない。
もっとも、僕が持つビニール袋の中には、剥がされてくしゃくしゃになった、本の保護フィルムが入っているので、サインのために僕が自分で単行本を差し出したというのは、本当なのだと思うけれど。
「……もしかすると、暑さでやられたのかもしれないな。見た限りは、今にもぶっ倒れそうって雰囲気でもないが、念のため、早く家に帰って、涼しい部屋で休むといい。それと、水分補給も忘れずにな」
捲し立てるように言い切った露伴先生は、続けざまに、それじゃあ、僕はこれで、と言い残すと、さっと踵を返して、瞬く間に去っていった。
即断即決。
というよりは、話を早く切り上げたかったようにも見えたが。
……よく分からないけれど、とりあえず僕も帰るか。
改めて自転車に跨り、それから漕ぎ出す。
今度は寄り道することなく、自宅目掛けて一直線だ。
記憶に欠落がある(こう表現すると何だか大仰だ)という点は
常人より頑強な肉体を持つ僕ではあるが、今日はゆっくり休息を取ることにしようかな。勿論、受験勉強のノルマをきちんとこなした後でだが。
にしても、こんな田舎町で露伴先生のサインを貰えるだなんて、とんでもなく幸運な事なのではなかろうか。
是非誰かに自慢したいところではあるが、生憎僕には漫画の話で盛り上がれるような友人は居ない(自分で言っていて物悲しくなるけれど)。
……いや、待てよ。
そうだ。
居るではないか、こうしたサブカルチャーに興味がありそうな知り合いが。
千石だ!
あいつなら、『ピンクダークの少年』の話も通じる! …………かな?
よくよく考えてみれば、千石の趣味は、とても一般的な女子中学生とは思えない程に、なんだったら男子中学生のそれとも合致しようもない程に、ストレートな物言いをしてしまえば、古いのだった。
そこそこに長い年数連載を続けている漫画とは言え、千石の守備範囲に入っている可能性が高いかどうかという話をすれば、かなり分の悪い賭けだと言わざるを得ない。
さらに。
よくよくよく考えてみれば、そもそもが女子中学生に対して、漫画家のサインを貰った事を自慢する男子高校生(しかも三年生)というのも、中々情けないものである。
情けない上に、大人げない。
少なくとも、大学受験を控えた人間が取る行動としては、不適格もいいところだろう。
もっとも、それでも心優しい千石のことだ。
僕がそれを実行に移したのだとして、彼女はきっと、良かったね、暦お兄ちゃん、と柔らかに微笑んでくれるのだろうけれど。
……容易に想像できるだけに、罪悪感が半端ないな。
脳内で千石に対して土下座を向けつつ、ペダルを漕ぐ力を強める僕なのであった。
そんなこんなで。
露伴先生と別れてから、はや数分。
もう暫く進めば、僕の住む家が見えてくるだろうといった辺りで。
「——お前様」
「うおっ! びっくりした!」
突如背後から何者かが抱き着き、耳元で囁いた。
推定八歳児くらいの、子供っぽいやや高めの体温を背中全体に感じる。
いや、何者か、なんて言っても、その正体が僕には分かりきっているし(決して体温で特定した訳ではない)、濁す意味など全く無いのだけれど。
とにかくそれに驚いた僕は、反射的にブレーキハンドルを握り締めてしまったのだった。背中に軽い衝撃が走り、同時に、わぷっ、という可愛らしい声がする。
「……急に止まるでない、鼻をぶつけてしまったじゃろうが」
僕の影から這い出て、そのまま背に引っ付いてきたのだろう金髪幼女——忍野忍は、自転車が完全に停止してから地面へ降り立つと、鼻頭を両手で押さえて、恨みがましく僕を睨みつけた。
「おっと、悪い。でも、運転中にいきなり出てくるのはやめてくれ……。最悪、事故って血塗れになっちゃうところだったぞ」
「ほう、それは美味そうじゃな」
「……そうか、吸血鬼からすれば血塗れって、プラス要素か。人間の視点で例えるなら、ホイップクリームがトッピングされてるみたいなもんってことか?」
「どちらかと言えば、苺ジャムかの。
「あーっ! 想像しただけで痛くなってくるから、それ以上言うな!」
「仮にも吸血鬼とは思えん台詞じゃな」
「価値観まで吸血鬼になった覚えはない!」
「……必要とあらば、四肢の欠損程度
「あ、あれは……やりたくてやってる訳じゃないし……」
「自然と選択肢に入る時点で大概よ。能力を便利に使っとる証拠じゃ」
ぐうの音も出ない正論である。
いくら自分で否定しようとも、この身に宿る吸血鬼の治癒力を、確かに僕は無意識に当てにしてしまっている部分があるのだろう。
実際、ここ数か月をざっと思い返してみても、この力が無ければ死んでいたという場面は、一度や二度ではない——とはいえ、そのような目に遭っている事自体、吸血鬼の眷属になってしまったが故という側面も、大いにあるのだが。
何にせよ僕は、忍に対する反論の言葉を、一切持っていないのであった。
「ぐう」
「忍からぐうの音が出たっ!? 何故っ!?」
「いやなに、求められたような気がしたので、つい、な——っと、いつもの如く雑談に興じるのも個人的には歓迎なんじゃが、今回は別に用件がある」
と、僅かばかりに真面目な顔をする忍。
「……ああ、そうだよ忍。お前がこんな昼間に、それも外でいきなり出てくるなんて、一体どういう風の吹き回しなんだ?」
「そう急かすでない、それを今から説明するのじゃ」
忍は、びしりと僕に指を突き付け、言った。
「お前様よ。先の漫画家と会話した際の記憶に、ほんの少しばかり、欠けがある事は自覚しておるな?」
「ん、ああ、まあな。どうも、暑くてぼうっとしちまってたみたいだ」
これも、吸血鬼になった事と関係してるのかな、なんて尋ねてみれば、忍は深い溜息を漏らし、ジト目で僕を見遣った。
言葉にこそしていないものの、信じられない、と強く責められているような気分になる。
「本当に、呑気なものよ。あれだけ怪異と関わっておるというに、疑問の一つも持たんとは、ほとほと呆れ果てた察しの悪さじゃ」
「……おいおい、忍。僕が推察力に乏しいってのは、
「
もっとも、あれを怪異という括りに含めるか否かは、議論が分かれる所ではあろうが、大枠で言えば似たようなものよの。
忍はそう零すと、続けて、
「まあ、あれに自力で気付けというのも、酷な話であろうと言われれば、返す言葉もない。故に、今回は儂が手を貸してやろう——まあ、ぶっちゃけ放っておいてもその内思い出すだろうから、そのタイミングが早まるに過ぎないんじゃがな」
と言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 話を勝手に進めるな!」
慌てふためいた僕は、思わず忍の話を遮ってしまう。
なんだ、じゃあ僕は、知らない内に怪異に襲われて、記憶の一部(本当に僅かなのだろうが)を失ったという事なのか?
少しも覚えがないぞ。
いや、忍の言が確かなら(疑うべくもないのだけれど)、それすらも奪われているという事になるのだろうか。
一体何時の間に——なんて、そんなのは決まっている。
欠落があるのは、露伴先生と会話をしている最中の記憶なのだから、あの時だ。
あの時、あの場に、怪異に属する何かが居たのだ。
それは、気配を悟らせることなく僕に忍び寄り、記憶を奪った。
まるでスリのように、巧みに——奪い盗った。そういう事なのだろう。
……ならば、露伴先生の方は。
僕が記憶を盗られた時、露伴先生だってそこに居た。
彼の方は、被害を受けなかったのだろうか。
足早に立ち去っていったつい先程の様子に、特におかしな点は見受けられなかったと思うが……。
「こら、話は最後まで聞け」
「……ああ、悪い」
露伴先生の身を案じる僕に、忍は冷ややかに言い放った。
「まったく、ここまでの話の中で、おおまかな真相に辿り着いてもよさそうなものじゃがな」
「真相? それって、怪異の正体ってことか? ……無茶言うなよ、僕は忍野みたいに、怪異の知識がある訳じゃないんだぞ?」
「……まあ、思い出せば全て分かるか」
僕の問いに忍は、明確な答えを返さず、けれど話を続ける。
「さて、お前様よ。重要なのは、自覚する事じゃ。記憶が無いのは、自身に原因があるのではなく、外部からの干渉であると、そう自覚するのじゃ。そうすれば、後は吸血鬼の肉体が、自動的に元の状態へと戻してくれよう」
「うん? 本当に、それだけでいいのか? だって、僕の記憶は、怪異に奪われたんじゃ……」
「奪われた、とは一言も言っとらんわ。単に思い出せなくなっているというだけの事よ。そうじゃな、イメージとしては、蓋をされているといったところか」
……ああ、そうか。
確かに忍は、怪異が絡んでいると言っただけで、奪われたというのは、僕が勝手にそう解釈してしまっただけか。
戦場ヶ原が遭った蟹の件と、知らず重ねてしまっていたのかもしれない。つまり、今回も、怪異が僕から何かを取っていったのだと。
思い込みというのはよくないな。それを強く実感する。
ともあれ。
盗られたのではなく、蓋をされただけ。
故に、根本原因への対処をせずとも、取り戻す事ができるというのは、なるほど、理屈の通った論である。
ただ、それでもやはり、疑問は残る。
いかに吸血鬼の再生力とはいえど、今回のケースのように、実体を持たないものにまで、果たして干渉できるのだろうか。
そのように疑問をぶつけてみれば、
「できる」
と、忍は強い口調で言い切った。
「今回に限っては、と前置きはさせてもらうがの。要は、何をされたのか、というのが肝心なのじゃ」
「ふうん……?」
曖昧に相槌を打つ僕。
理解できたような、できないような……。
如何せん詳細を語ってくれないので、事の本質が掴みづらいことこの上ない。
「案ずるより産むが易し、じゃよ、お前様」
「微妙に使い方間違ってないか、それ……?」
「そうか? まあ、言葉なんぞ大体の意味が伝われば、何でもいいじゃろ」
「……一理あるけど、身も蓋もないな」
「それに儂は、外国人という体を取ることで、日本語に不慣れという主張をする事もできるからの。些細な間違い程度、気にされんよ」
「赤の他人が相手ならそうなんだろうけど、それを聞いてしまった僕に対しては、もう通用しないんじゃないか……?」
「……ふわぁ、何だか眠くなってきおったな。それじゃあ、儂はもうひと眠りさせてもらおう」
言うが早いか忍は、僕の影に沈むようにして姿を消した。
伝説と謳われた吸血鬼が、人間との会話で都合が悪くなって逃げた……。
それでいいのか、怪異の王。時を経るごとに、威厳が失われていっている気がするぞ。まあ、ドーナツに目を輝かせている時点で、今更ではあるが。
それはさておき。
「自覚すればいい……って、言われてもな」
自覚というのならば、忍から話を聞いた時点で、できているはずだ。
だったら、このまま待っていればその内、ぽんと記憶が戻るという事なのだろうか。うーん、あまり想像がつかない。記憶を失くしたことなんてないのだから、当然ではあるのだけれど。
なんて、ぼんやりと考えている内に、
「……ん、お、おお?」
それは、ぽんと、というよりは、じわぁ、といった風だったが。どうやら、一気に全てを思い出せる訳ではないらしい。例えるなら、習字で使う半紙に、墨汁が滲んでいくように、ゆっくりと——しかし、確実に。
この、普通に生活していれば、一生味わう機会などないであろう奇妙な感覚は、数十秒間にわたって続いた後、漸く治まってくれた。
……しかし、急に記憶が戻った影響か、船酔いにも似た嫌な酩酊感が残ってるな。
まあ、これも時間の経過と共に、気にならなくなることだろう。
それまでに一度、欠けていた記憶の振り返りでもしておこう。僕の記憶を封じた怪異について、何か分かるかもしれないしな。
確か、思い出せなくなっていたのは、露伴先生の名前を聞いて、彼が
それはもう驚いてしまった僕は、興奮したその勢いのままに、サインをお願いしたのだった。
露伴先生が言っていた通り、購入したばかりの単行本を自ら差し出し、フルネームについても、しっかり自分で名乗っている(いつもの如く、漢字の説明まで丁寧に)。
「いいよ。サインくらい、お安い御用さ」
露伴先生は、心なし表情を和らげて、そう言った。
僕から受け取った本に、素早くペンを走らせていく。
そして、あっという間に——本当にあっという間に、とてもキャラクターのイラスト付きとは思えないような速度で、露伴先生はサインを書き上げてしまったのだった。
すげー……絵って、こんなに早く描けるものなんだな……。
そんな若干ずれた感想を持った僕に対し、露伴先生は、ふと思い出したかのように、世間話でもするような気軽さで、会話を持ちかけてきた。
「そういえば、君、この辺に住んでるのかい?」
「は、はい!」
「そうか、だったら丁度いい。もし知っていれば教えてほしいんだが、この辺で——吸血鬼が出たって噂、聞いた事あるか?」
「……!」
サインを貰えたことに浮かれ気分だった僕は、予想外の角度から放たれたその質問に、思わず体を強張らせてしまう。
「……ああ、そういえば春頃に、そんな話を聞いたような気もしますね」
しかし、それもほんの一瞬の事。
すぐに平静を装った僕は、当時の羽川との会話を思い浮かべながら、そう返した。
嘘は吐いていない。
実際の所は、僕はその吸血鬼に襲われ、地獄のような日々を過ごす事になったのだけれど、そこまで詳細に説明する必要はないし、できるはずもない。
だから、もし露伴先生が更に質問を重ねてきたとしても、核心的な部分には触れないよう、当たり障りのない回答をするしかないだろう。
そう、考えていたのだが。
「——その動揺具合と、誤魔化し方。それじゃあ、何か知ってるって、白状しているようなものだよ。それも、単に噂について詳しいってだけじゃあなく、君は、その裏側にまで踏み込んでいるな?」
「え? ……い、いや、僕は」
「ああ、大丈夫だ。喋らなくていいよ。どちらにせよ——
……読めば?
読むって一体、何の話だろうか。
不可解な発言をする露伴先生に、どういう意味かと質問しようとして。
「『ヘブンズ・ドアー』」
その声を聞いた直後から、僕の意識は途切れている。
そして。
それから。
その後は——。
「——っ!」
事のあらましを理解した僕は、その瞬間に自転車の向きを百八十度回転させ、つまり、元来た道を戻るようにして、全力でペダルを漕ぎ出した。
漕ぎながら、考える。
僕が気を失っていた時間は、現在時刻から考えても、そう長くはないと思われる。精々が、数分といったところだろう。
その間に、人の声が聞こえていた。
気を失っているのに声が聞こえたというのは、ひどく矛盾しているようだけれど、そして、自分でもそう思うのだけれど、僕の耳には確かに、人の声が聞こえていたのだ。
微かに認識できる程度ではあったが、あれは間違いなく、露伴先生の声だった。
すべてを聞き取ることができた訳ではないものの、しかし断片的な内容を繋ぎ合わせれば、僕が気絶するに至った要因が——そればかりか、記憶を封じ込めた犯人が、露伴先生であるというのは、明らかであった。
どんな手段を用いたのかは皆目見当もつかないが、元凶は怪異などではなく、驚くべきことに、露伴先生その人であったのだ。
——そんな、衝撃的な事実は、一旦置いておこう。
それよりも、もっと。
僕にとってはもっと、重要な事がある。
僕が意識を取り戻す、その直前で聞こえた、呟き。
露伴先生——岸辺露伴は、気絶して倒れ伏す僕を(おそらく)見下ろしながら、何かを思案するような声音で、ある人物の名前を呟いていた。
それは、僕にとって、とても馴染み深い人物の名前であり。
どころか、僕の数少ない、友達と言える人物の名前であり。
何だったら、今日の午前中も、僕と顔を合わせていた人物の名前であった。
即ち、
「——羽川翼」
と。
そう、呟いていたのであった。