阿良々木暦は止まらない 作:ぼんぼーる
006
さて。
ここまでの流れで、まるでキーパーソンであるかのように名前が挙がっている羽川翼であるが、結論から述べさせてもらうと、今回の話の中で、羽川が直截的にその姿を見せることはない。
というのも、前々話の終わりで僕が、必死こいてペダルを漕ぎ出した理由としては、露伴先生と羽川の接触を防ぐためであり——ひいては、先んじて露伴先生と再び顔を合わせ、羽川の事を諦めてもらうためなのだから、必然的に、彼女が登場した時点で、その目的は半分以上失敗しているということになってしまう。
そう、このように述べているということはつまり、僕は目的を果たしたのだ。
具体的に言えば、露伴先生が羽川の下へ辿り着く前に、彼と再会することができたのであった。
——他ならぬ、羽川翼の助力によって。
……うん。羽川は登場しないんじゃなかったのかと言う苦情が、どこからか聞こえてきそうなものだが、一旦待って欲しい。
順を追って説明しよう。
あの後。
焦燥感に任せて飛び出した僕だったが、闇雲に露伴先生を探すよりも先に、まず羽川本人へ連絡しておくべきだろうということに気付いたのは、行動開始から数分経ってのことだった。
羽川は急用ができたと言っていたから、電話に出てくれるかは心配だったが、発信ボタンを押して、僅か1コール後には、
「——もしもし。羽川です」
という、いつも通りの凛とした声を、聞くことができた。
この時僕が、羽川に伝えた内容については、非常に慌てていたという事もあり、聞くに堪えないしどろもどろなものであったために、その詳細を省略させていただく。
ただ、おおまかに言えば、岸辺露伴という漫画家が羽川を狙っているかもしれないから、見かけても近づかないようにということと、これから僕が彼を探して、手を引いてもらうよう話をつけるつもりだというようなことを、説明したと思う。
僕が一人で露伴先生と対面することを危惧した羽川は、いかにも自分も同席すると言い出しそうな雰囲気ではあったが、そこは僕の方から頼み込んで、待機していてもらうということで、納得してもらった(多分納得していないだろうということは声音から伝わってきたが)。
なお、この際、露伴先生が、怪異に類する力を有していること——他人の記憶を読めるであろうということは、意図的に伏せている。この情報は意図せず、羽川に自らの家庭環境を含む、
もっとも、そんな思惑がありつつ、そして、隠している情報があるということも——どころか、その仔細までも、聡いという言葉では足りない程聡明な彼女からすれば、丸わかりだったのかもしれないけれど。
ともかく、用件を伝え終え、露伴先生の捜索再開のために、電話を切ろうとした僕に——羽川が待ったをかけた。
少しだけ時間を頂戴、と言い残した羽川は、二、三分電話口を離れ、そして戻ってくると同時、メールを送ったから確認しておいて、と言った。
何のメールかと問えば、
「その岸辺露伴って人が、この後通る可能性の高い道」
と、何でもないように返される。
僕のリアクションは——絶句であった。
本当に、何も言えなかった。
露伴先生と僕の間で交わされた会話や出来事は、その全てが羽川に伝わっている訳でもないのに——というか、例えそうだったとしても、そう簡単に経路を割り出すことなどできるはずがないのに。
そう思ってしまうのは、僕が凡人だからだろうかという考えも過ったが、やっぱり羽川が凄過ぎるという結論に着地せざるを得なかった。
結局、僕が辛うじて絞り出せたのは、最早定型文のようになりつつある、お前は何でも知ってるな、という言葉だけであった。
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
対する羽川はやはり、いつも通りに、お決まりの台詞を返してくれたけれど。
電話を終えた後も、衝撃が抜けきらなかった僕は、しばしその場で呆けてしまったが、すぐに我に返り、メールを開く。
羽川からのメールには、写真が添付されていて、おそらく手書きであろう簡素な地図に(とはいえ、あの短い時間で作図したであろうことを加味すれば、驚異的な精度である)、赤ペンでいくつかの丸が描かれていた。
これらが、羽川の予測した地点であり、僕が見張るべきポイントということだろう。
だが、僕の体が一つしかない以上、全箇所を同時に監視することは、物理的に不可能だ。故に僕は、それらの場所を周回し、なおかつその周辺まで含めて順に見回るのが、最適ではなかろうかという考えに至った。
そうして僕は、羽川への感謝を胸に、露伴先生の捜索を再開したのである。
が。
僕は羽川の言葉を疑うことなく、彼女に全幅の信頼を寄せていたつもりだったのだけれど、しかしそれでもまだ、認識が甘かったのだということを悟ったのは、僕が一つ目の赤丸の地点へと到着した時の事だった。
貰った地図と地形を照らし合わせ、場所に間違いがないことを確認した上で、そこに誰の姿もないということを目視した僕が、次のポイントへ移動しようと、ペダルを踏む足に力を込めた、その時。
丁度現れたのだ。
誰がって?
決まっている——岸辺露伴が、である。
ふらっと、道の角を曲がって、ばっちりのタイミングで、姿を見せた。
この時の僕の心境といったらもう、驚愕という二文字以外では言い表せない。
露伴先生の方も、流石にさっきの今での再会は予想外だったのか、驚きに目を瞠っていたけれど、いやいや、きっと、僕の方が動揺していたに違いない。
恐るべし、羽川翼。
僕なんかとはまるで比較にならない彼女の推察力は、最早未来予知と大差がないのではなかろうか、なんて思ってしまう程だ。
怪異の専門家である忍野メメをして、厄介だと言わしめたその頭脳の恐ろしさを、改めて思い知る。
とても自分と同じ人間とは思えない。まだしも、脳がスーパーコンピューターと繋がっていると言われた方が、納得できるくらいだ。
まあ、羽川の頭が良すぎるという話は、一旦脇にどけておこう。
かくして、僕と露伴先生は、およそ再会と呼ぶには短すぎるスパンで、再び顔を合わせることとなったのである。
そんな訳で、僕らがお互いに固まってしまった場面から、状況は再開する。
いち早く落ち着きを取り戻したのは(言う程冷静でなかったのは、僕だけだったかもしれないけれど)、露伴先生の方だった。
どこかわざとらしい調子で、声をかけてきた。
「……おや、これはこれは、暦くんじゃあないか。随分と早い再会になってしまったな。いや、なに、別に悪いってことはないんだがね。僕はてっきり、君はあの後すぐに、家に帰ったものだとばかり思っていたからな。まだこんな場所に居たのかと、驚いてしまったよ。さっき君が向かってた方角から考えても、君の自宅は、逆方向と言ってもいいくらいなんじゃあないか?」
「……確かに、僕の家はこっち方面じゃありませんけど——どうして僕が、家に帰る途中だったと思ったんですか? さっき話した時、僕は、どこへ向かっているかなんて、言ってなかったはずですけど」
僕もどうにか冷静な振りをして、そう返す。
露伴先生が別れ際、僕にかけた言葉。
早く家に帰って、休んだ方がいい。
確か、そんな風なことを言われた。
あの時は特に疑問に思わなかったけれど、今考えると、少しだけ引っかかる言い回しだ。
勿論、僕の体調を気遣っての発言だと言われれば、それまでなのだけど。
どことなく、完全に僕の主観でしかないが、僕の目的地が自宅だということを、分かっているような口振りに思えたのだ。
——とはいったものの、これだけじゃあ、根拠としてあまりに弱いが。
「……どうやら、何か警戒されてしまっているようだな。だが、残念だけど、僕が君を見て帰宅途中だと思ったのに、大層な理由なんてないよ。なんとなく、だ。……まあ、それでも、強いて理由を上げるんなら、君が単行本を持っていたから、とかかな」
出かけた帰りに本を買うんならともかく、本を買ってからどこかへ出かけるってのは、考え辛いだろう?
そう言って、困ったように肩を竦めるジェスチャーをしてみせる露伴先生も、同様に考えているのだと思う。実際、付け加えるように述べられた理由だけでも、僕の疑問への回答としては、十分なものなのだから。
これでもなお、露伴先生を糾弾しようものなら、僕側が不利過ぎて、お話にならないのは明白だ。そのくらい、疑いを向ける動機としては、弱い。
そんなことは分かっている。
だから、今のはただの前置きだ。
ちょっとした、挨拶代わり。
雑談と換言したっていい。
ともかく。
ここから本題に入る訳なのだが。
それこそ、この場に居るのが羽川翼であったなら話は別なのだけれど、残念ながら僕は、駆け引きやらを得意分野と言える程、口が達者な訳ではないので、結局の所、直球勝負をするしかないのである。
権謀術数を張り巡らせるなんてことには、向いていないのだ。
故に、単刀直入に切り込む。
「『ヘブンズ・ドアー』——と、言ってましたね」
「……」
「露伴先生が僕にしたことを、正確に把握できている訳じゃありませんけど、多分、貴方は何らかの方法を使って、僕の記憶を読もうとした。だけど、何かイレギュラーな事が起きた結果、特定の一部分しか読めなかった。だから、露伴先生は次の標的を——羽川翼を探している。そうですね?」
「…………フゥン、思ったよりも、はっきりと覚えているみたいじゃあないか」
畳み掛けるように言った僕に返されたのは、想像していたよりも幾分と、淡泊な反応であった。
……あ、あれ?
僕は一応、封じられた記憶を取り戻し、尚且つ露伴先生の次の目的を暴くという、おそらく彼の想定からは大分外れた行動を取っている——はずだと、思っていたのだが。
しかし、どれだけ内心を推し量ろうとしてもやはり、露伴先生の表情から読み取れるのは、揺れ動く大きな感情ではなくて、ともすれば感心しているような、至って平常な様子だけであった。
そんな調子のまま、何でもないような口振りで、露伴先生は続ける。
「君の質問についてだが——答えはイエスだ。僕はその、羽川という少女の事を、
「!」
あまりにも堂々と言ってのけるものだから、思わず僕の方がたじろいでしまいそうなくらいだった。
それでも、僕は負けじと平静を装って、声を絞り出す。
「……やっぱり、そうなんですね。だったら——」
「——しかし、だ」
露伴先生が、僕の言葉を遮った。
「だとして、それがなんだって言うんだい?」
「……え?」
「お察しの通りだが、僕には不思議な力がある。人間を本のようにして、その人物の記憶を読む力さ。でも、それだけだ。文字に起こして、読む。たったそれだけの力なんだよ」
「それだけ、って……」
「僕に読まれたからといって、怪我なんかを負うことはないし、どころか、読まれたという事実にすら、気付くことはないだろうな——君のような、例外を除けばね」
「……だから、問題はないって?」
「そうだ。それに、僕はこの力によって知った内容を、決してむやみやたらに吹聴したりはしない。あくまで、作品を作るための、知識と刺激を得ることを目的としてのことだからね。他人の秘密を暴くという行為そのものに、悦楽を覚えている訳じゃあないんだ」
読まれた人間はそれに気づくことはないし、そこで得た情報を悪用もしない。
それゆえに、実害と呼べるものは発生しない。
だから——別にいいじゃないか。
そう、露伴先生は言っているのだ。
……確かに、被害はないのかもしれない。
知らなければ、無いのと同じだから。
僕が今年の春休みまで、怪異という存在のことを、認識すらしていなかったのと同じように。
僕が気付かなかっただけで、ずっと昔から怪異は、そこに在ったというのに。僕という個人の世界においては、居ないも同然だった。
だけど、それも仕方のないことだ。見えなかったのだから——目に入らなかったのだから。それが常識だと信じて疑わず、生きてきたのだから。
羽川はきっと、露伴先生の干渉を受けても、気付くことはないだろう。
違和感くらいは覚えるかもしれないが、答えに辿り着くことは、おそらくない。
他者を本にして読む力——などという冗談染みた真実には、知らなければ到達できるはずがない。
だから、僕と露伴先生がそれを告白することさえなければ。
羽川は、自身の身に起きたことを、何一つ知ることなく、今まで通りに生きていくだけなのだろう。
何も変わりなく。
生きていくのだろう。
そんな未来を考えて——ぞっとした。
羽川が抱える問題は、途方もなさすぎて、大きいだなんて陳腐な形容をするのも
そんな彼女の事情に——彼女が、触れられることをひどく嫌がるだろう事情に、他人が土足で踏み入る。そして何よりも、そのことに羽川自身が気付けない。
それは——なんて
ともすれば、下手な暴力なんかよりもよほど、羽川という少女の心を踏み躙る行為だ。
……そんな事をこれからしでかそうとしている人物に対して、こう評するのもおかしい話なのだが、露伴先生はきっと、悪人ではないのだと思う。本人が先程語った通りに、その力で得た情報を、周囲に言いふらしたりもしないのだろう。
だからといって、善人とも言えない。それは、僕の記憶を無許可で読むという、前科がある事からも明らかである。
純粋だ。
露伴先生は純粋に、漫画を描くという事以外に興味がなくて、エネルギーのすべてをそこに注いでいる。
だからこそ、単純な善悪という価値観では——岸辺露伴は動かない。
彼は、彼自身が定めた指針にしか、従わないのだ。
どこまでも我欲に忠実で、マイペースを崩さない露伴先生の姿は、ある種、芯の通った強さすら感じられる。
——だが。
それとこれとは、別問題である。
このままでは、羽川が傷つく。
たとえ羽川自身がそれに気付くことはないのだとしても、僕はもう知ってしまった。
大切な友人であり、命の恩人である羽川翼が、本人の知らぬ間に傷付けられようとしていることを、知ってしまった。
だったら、今まさに刻まれようとしているその傷はもう、無かったことになどならない。
であれば、阻止する以外の選択肢など、初めから僕には存在しないのだ。
「だとしても、させません」
僕がきっぱりと言い切れば、露伴先生は、
「何故だい?」
「友達が傷つけられようとしているのを、黙って見過ごせませんから」
「……正義感が強いのは構わないがな、そこまで必死になることか? 今の君、何が何でも僕を止めてやるって目してるぜ。その羽川ってやつが、君にとってそんなに大事か?」
「大事ですよ」
躊躇わずに、そう言える。
彼女のためなら、どんなことでもしてやりたい。そんな、重い想いを、僕は羽川に対して抱いているのだった。
彼女は僕にとって、間違いなく大事な人なのだから。
「それと——正義感なんかじゃないです」
「……なに?」
「僕が露伴先生を止めようとしているのは、あいつに降りかかる火の粉を、少しでも払ってやりたいっていう、単なる僕のエゴであって、つまりは自己満足でしかありません。正義感だなんて、綺麗な動機じゃないです」
「……ただの友達相手に向けるものとしちゃあ、随分とデカい感情だな。一般的な価値観に照らし合わせれば、きっと、重量過多だぜ、それ」
露伴先生は、呆れているとも、戸惑っているともとれる様子を見せると、続けて、
「まあ、君の気持ちは分かったよ。とりあえずはな。……だが、実際問題、どうするつもりなんだ? 言っておくが僕は、諦めるつもりなんて更々ないんで、どうしたって君と衝突せざるを得ない訳だが——僕はケンカが苦手だからな。やり合うとなれば、もう一度、君を本にさせてもらうことになる」
そう言って、挑発的な笑みを浮かべる。
「多分だけど、君が僕を倒すより、僕が君を本にする方が速いぜ。そうなったら今度こそ、暦くんのことを、じっくり読ませてもらうとしようかな」
「……読めませんよ」
「……さっき僕が最後まで読めなかったから、次やっても同じだってか? だとしたら、それは思い違いだ。今度は、確実に読ませてもらう。一度は諦めた黒塗りの部分だって、意地でも解読するぞ。脅しだと思うなよ。僕はやると決めたら、絶対に実行するからな」
「そうじゃありません。露伴先生はもう、僕のことを読めない」
「……なんだって?」
「——対策を、させてもらいました」
露伴先生も今自分で言っていたが、先程僕を本にした際、どうやら一部の記述を読むことができなかったらしい。
朧気ではあるものの、そのようなことを言っていたなと、僕自身も記憶している。
それが気になった僕は、ここへ来る前、忍に訊いてみたのだ。
憶測にすぎぬが、と前置きした上で、忍から教えられた答えは、ひどく単純なものだった。そんなことで、と拍子抜けするほどには。
露伴先生の能力は、防ぐ方法がある。本にされること自体を防げはしないけれど、
もっともこれは、僕の肉体が吸血鬼であるが故の——『怪異の王』の眷属であるが故の、いわば裏技のようなものなのかもしれないが。
とにかくもう、僕の記憶を露伴先生が読むことはできない。
加えて僕は、念には念を入れて、先程忍に血を吸ってもらっておいた。だから、今の僕の吸血鬼度合いは、それなりだ。
僕が露伴先生の力にさらされてなお、ほんの少しだとしても意識を保てていた理由が、露伴先生の考察通りに、吸血鬼の再生能力にあるのだとすれば、今の状態であれば、気を失ったとしても、割とすぐに復帰できる可能性が高い。希望的観測ではあるけれど、少なくとも、逃走するような隙を与えることには、ならないんじゃないかと思う。
「……フン。準備は万端だった、って訳か」
「そういうことです。だから、露伴先生。どうか、羽川への取材は、諦めてください」
聞き入れちゃくれないだろうと半ば思いつつも、最後通牒のつもりで、僕は要求を突き付ける。
対して露伴先生は、表情一つ変えずに、迷う事すらなく平然と、
「いいだろう」
と、即答した。
即答、したのだった。
…………。
………………。
……………………あれ!?