尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~ 作:Lavian
1573年(天正元年)。
足利義昭は信長に対する敵対姿勢を強めていた。
義昭が信長に抱く不満は、表向きは明確だった。信長が将軍の命令に従わない。政を勝手に進める。諸大名への取り次ぎも義昭を通さない。将軍の権威を軽んじている。そういった理屈を、義昭は自分の中で何度も反芻していた。
しかし、それらの不満の奥底に義昭が気づいていないものがあった。
水神様だ。
義昭が初めて水神様を目にしたのは、岐阜城で信長と会った時だった。翼を持ち、光の輪を頭上に浮かべた幼い少女が、信長の隣に当たり前のように立っていた。その姿を見た瞬間、義昭の胸の中で何かが動いた。
あの神は自分のそばにいるべきではないか。
将軍こそが日の本の頂点だ。神が仕えるとすれば、一武将ではなく将軍のはずだ。水神様が信長ではなく義昭のそばにいれば、将軍の権威はさらに高まる。民も諸大名も、水神様のおられる将軍家に従うだろう。
義昭はそう考えて、何度も信長に申し入れた。水神様を京に置いてほしい。将軍家のそばで民を守護してほしい。
しかし信長は首を縦に振らなかった。
断られるたびに、義昭の胸の中の何かが大きくなった。それが何なのかは、義昭自身には分からなかった。信長への不満だと思っていた。将軍の権威を蔑ろにする信長への怒りだと思っていた。
水神様が信長の隣で笑っているという報告が届くたびに、その何かがさらに大きくなった。
義昭にはそれが嫉妬だとは思いもよらなかった。
ただ、信長が許せなかった。水神様を手放さない信長が、将軍の頼みを断り続ける信長が、どうしても許せなかった。
その不満はやがて確信へと変わった。信長を倒さなければならない。水神様を信長の手から解放しなければならない。それが将軍としての義務だと、義昭は自分に言い聞かせた。
信長打倒を呼びかける檄が各地の大名に飛んだ。武田、朝倉、浅井、石山本願寺。義昭は信長包囲網の諸勢力に呼びかけ、信長を挟み撃ちにしようとした。
しかし、武田信玄が1573年の4月に病死しており、信長包囲網の中心的存在は既に消えていた。比叡山延暦寺は1571年に焼き討ちによって滅びていた。朝倉、浅井も戦で織田家に敗れてから勢いを失っている。石山本願寺は勢力を保っているが、それでも水神教によって大きく弱体化している。
これらの理由から、信長包囲網は既に機能しなくなっていた。
「義昭さんが動いたけど、実際に集まった兵は少ないよ。槇島城に籠るしかない状況みたい」
甲賀の忍びから得た情報をセララが信長に報告すると、信長は地図を一瞥してから言った。
「想定の範囲だ。すぐに片をつける」
信長の表情に焦りはなかった。義昭が動くことはある程度予測していたのだろう。織田軍はすぐに槇島城へ向けて動き始めた。
セララは岐阜で報告を待ちながら内政の仕事を続けた。
セララにとって義昭は会話した事がある知人程度であり、今は信長に敵対する人物でしか無かった。
槇島城の包囲はあっという間に完了した。
義昭に味方する兵力は少なく、城を守りきれる状況ではなかった。包囲から数日も経たないうちに義昭は降伏した。
信長が岐阜に戻ってきた日、セララは出迎えた。
「終わったの?」
「終わった。義昭は追放する」
「殺さないんだね。それが良いと思う」
セララが義昭の処分に同意した。知人が生き残って良かったと安堵したが、追放されるのは仕方ないと思っていた。
「うむ。殺せば朝廷や諸大名への印象が悪くなる。将軍を弑逆したという汚名は不要だ。生かして追放する方が儂には得になる」
「なるほど。政治的な判断だね。義昭さんが持ってる征夷大将軍の称号はどうするの?」
「朝廷に働きかけて罷免させる。儂が義昭を追放する以上、将軍の地位をそのままにしておくわけにはいかぬ」
「そっか。じゃあ次の征夷大将軍は誰になるの?」
「しばらくは空白のままにする」
セララは少し驚いた。
「空白?誰も就任しないの?」
「今は世が乱れており、天下統一はまだ成されていない。この状況で名ばかりの将軍を立てても従わぬ者が多い。天下が統一されてから、名実ともに相応しい形で就任すれば良い」
「天下統一が成された後に征夷大将軍になった方が世を治めやすいという事だね」
「その通りだ。故に征夷大将軍と言う札を今は温存する」
こうして足利義昭は征夷大将軍を朝廷によって罷免され、京を追われた。その結果、将軍が不在になるというかつてない状況が生まれた。
およそ二百四十年続いた室町幕府が静かに幕を閉じた。歴史の一頁が変わった瞬間だった。
数日後、水神教団の者から各地の民の様子が報告された。
将軍がいなくなった。それは確かに大きな変化だ。しかし民衆の多くにとって、将軍の存在はすでに遠いものになっていた。
「民の反応はどうだった?」
セララは報告を持ってきた水神教団の者に聞いた。
「驚いている方はおりますが、混乱はございません。将軍様がいなくなっても今日の飯が食えなくなるわけではないと、そう言っている方が多うございます」
「そっか」
「水神様のおかげで収穫が増えました。治安も信長様が守ってくださっています。民の暮らしを支えているのは信長様と水神様だと、皆分かっているようでございます」
その言葉を聞いて、セララはしばらく黙っていた。
農業の知識を広め、衛生の知識を伝え、学校を作り、水神教を広めてきた。そのことが今、民衆の安定につながっている。将軍がいなくなっても動揺しない土台が、気づかないうちにできていた。
(これまでやってきたことが、ここに繋がっているんだ)
セララはそう思った。誰かに言われたわけでも、褒められたわけでもない。ただ、積み重ねてきたことの意味が形になった気がした。
夕方、セララは信長のいる執務室を訪ねた。
「信長さん。将軍様という権威が無くなったけど、信長さんの大義名分は大丈夫?」
「もちろん変わる。だが問題ない」
信長は読んでいた書状を置いて、セララの方を向いた。
「義昭を奉じて上洛したのは、その時は将軍と言う大義名分が必要だったからだ。しかし今の儂にはすでに十分な実力がある。朝廷との関係も築いた。水神が儂の傍にいる。大義名分は力で作れる」
「そういうもの?」
「そういうものだ。歴史を見れば分かる。最終的に天下を治めた者が、正しかったとされる。儂が天下を取れば、儂のやってきたことが正しかったことになる」
セララは少し考えてから言った。
「それは少し怖い考え方だね」
「怖いか」
「勝った者が正しいというなら、間違った者が勝つこともあるってことだから」
「だから儂が勝つ。間違った者に負けないために、儂が天下を取る」
その言葉に迷いはなかった。
「分かった。ボクも協力するよ。ただ一つだけ言わせて。信長さんが勝った後の世界を、ボクは信長さんと一緒に良いものにしたい。勝つことが目的じゃなくて、勝った後が大事だから」
「分かっている。だからこそ儂はお前を必要としている」
信長は口の端をわずかに動かした。
その年の秋、元号が天正に改められた。
元亀から天正へ。新しい時代の始まりを告げる改元だった。
天下布武。信長が掲げた言葉が、着実に形になりつつあった。
義昭の追放から間もなく、信長は北近江へ軍を向けた。
朝倉義景と浅井長政。金ヶ崎の戦いから三年、信長に敵対し続けた二つの勢力に、ついに決着をつける時が来た。
岐阜に残ったセララは甲賀からの報告を受け取りながら、戦況を追い続けた。
まず動いたのは朝倉だった。
信長が越前へ侵攻すると、朝倉軍は刀根坂で迎撃しようとした。しかしフリントロック銃を装備した織田軍の前に、朝倉の軍勢はあっという間に崩れた。義景は逃げ延びようとしたが、一族に裏切られ、自害した。
次は浅井だった。
朝倉が滅んだことで孤立した浅井長政は、小谷城に籠って抵抗を続けた。しかし援軍のない籠城に限界が来た。小谷城が落ちる前日、甲賀から一つの報告が届いた。
「お市と三人の姫君が城外に脱出できる状況にある。信長様への使者を通じて交渉が進んでいます」
セララはその報告を読んで、少し安堵した。
お市とは直接会ったことがなかった。しかし信長の妹が夫の城と共に消えるというのは、セララには受け入れがたいものがあった。
交渉は成立した。お市と三人の娘たちは城外へ出た。
その翌日、小谷城が落ちた。浅井長政は自害し、浅井家は滅んだ。
信長が岐阜に戻った日、セララは出迎えた。
「お市は無事だったね」
「ああ」
信長は短く答えた。お市について詳しく語らなかったが、信長の顔にわずかな安堵があるのをセララは見た。
「これで北近江と越前が手に入る。次の手を打つ」
室町幕府が滅び、朝倉も浅井も攻略した。信長の天下統一は着実に進んでいた。
史実の足利義昭は征夷大将軍のまま京を追放されました。
このため再起をあきらめず、毛利と組んで活動します。
この物語の歴史ではセララの存在により信長と朝廷の仲が良好でした。
そのため、信長が朝廷に働きかけ、足利義昭の罷免を実現しやすい状況にありました。
足利義昭は征夷大将軍を罷免されたために権威が下がり、毛利と組むのが難しくなりました。