尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~ 作:Lavian
1575年(天正3年)春。
甲斐の武田家中で議論が続いていた。
三方ヶ原の戦いから三年が経っていた。武田信玄亡き後を継いだ勝頼は、その間も領土の維持に努めてきた。しかし、最近はその領土の維持すら危ぶまれていた。織田・徳川は連戦連勝であり、信長包囲網は機能しておらず、いつ甲斐に攻め込んできてもおかしくなかった。
勝頼は三方ヶ原の戦いを思い出していた。
あの戦いで武田軍は整然と引いた。敗走ではない。しかし勝利でもなかった。織田・徳川連合軍の銃兵の前に、武田自慢の騎馬隊が正面突破できなかった。それが事実だった。
勝頼は主要な武将たちを集めた。
「織田・徳川との今後の方針について、皆の意見を聞きたい」
広間に重臣たちが並んでいた。勝頼は上座に座り、全員の顔を見渡した。
最初に口を開いたのは主戦派の重臣だった。
「殿、我らが退くべき理由はありません。三方ヶ原の戦いは引き分けでございました。武田の騎馬隊は織田・徳川にも十分通じることを証明しました」
と主戦派の重臣は強気の主張を続けた。
「今ここで退けば、織田・徳川が天下を取る道が開けます。彼らが天下を手中に収めれば、武田は配下になるしかない。それは武田家の誇りが許しません。今こそ積極的に動くべき時でございます」
主戦派の重臣は力強く言い切った。
配下たちが頷く。主戦派の重臣の言葉には力があり、広間の空気が主戦派に傾いた。
勝頼は重臣の主張を最後まで聞き、発言が終わると口を開いた。
「お前たちの言いたいことは分かる。しかし、聞いてほしい」
勝頼の声は落ち着いていた。
「三方ヶ原の戦いは引き分けと言ったが、本当にそうか」
主戦派の重臣が少し眉を動かした。
「我々は銃兵の前に正面突破ができなかった。騎馬隊を小集団に分けて突撃する戦術に切り替えたが、それでも突破口を開けなかった。そして分散突撃に作戦を切り替えたと言うのに、敵の対応が迅速かつ正確すぎた」
「それは……確かに」
「報告では家康の元に水神が来ていたと言う。おそらくだが、水神が何らかの奇跡を使って我々の情報を集めたのだ。つまり、我々の作戦や采配は筒抜けだったと考えて良い。あのまま続けていれば作戦を読まれてどうなっていたことか」
なるほど、という声が上がった。水神の奇跡であれば武田の情報が筒抜けだった理由に納得が行くのだ。
「さらに言えば、三方ヶ原では水神様は直接戦闘に参加しなかったが、もし桶狭間のように空から奇襲を仕掛けてきていたならどうなっていたか」
家臣たちがざわめく。もしあの時に空から奇襲されていたらどうなったか、それは明白だった。
「水神は多くの敵兵に囲まれた状況で今川義元を討ち取ったと聞く。であれば、武田も指揮官が討ち取られていた可能性が高い。そうなれば、あの戦いは我らの敗北だった。つまり、水神が奇襲してこなかったから引き分けになっただけなのだ」
「で、ですが!武田の精鋭ならば水神が奇襲してきても返り討ちにできるかと!」
主戦派の重臣が反論する。
「では、武田の精鋭が水神を討ち取ったとしよう。その後、武田の未来はどうなると思う?」
勝頼が問いかける。
「どう、とは……?水神を討ち取り、戦に勝利するのでは?」
主戦派の重臣が戸惑いながら答え、勝頼がそれにため息をついた。
「考えが浅い。もっと丁寧に言い直すぞ。『朝廷が神と認め、多くの民が崇める水神を討ち取り、水神教を敵に回して武田の未来はどうなる?』」
「そ、それはっ!武田は決して、そのようなつもりで戦うわけでは……」
「甘い。武田がどのような意図だろうが、朝廷や他国、民がどう見るかが全てだ」
「ぐ……」
勝頼が反論を一刀両断する。主戦派の重臣は口を開きかけたが、言葉が出なかった。反論を探しているのは明らかだったが、勝頼の論理の前では何も出てこなかった。やがて深く息をついて目を伏せた。
「武田が戦で負ければそれで終わりだ。では戦で勝てばよいかと言えばそれも無理だ。戦で織田を追い詰めれば水神が戦場に現れ、その水神を殺せばそれもまた武田の敗北となる。つまり、八方ふさがりなのだ」
勝頼の言葉が広間に響く。誰からも反論は無かった。
「講和すべきとした理由を整理して述べよう」
勝頼は一つずつ指を折りながら言った。
「一つ目。織田家の国力は我らとは比較にならないほど大きい。水神の知識によって農業が発展し、民が豊かになっている。兵を失っても、すぐに立て直せる国力がある」
「二つ目。フリントロック銃の脅威だ。三方ヶ原で我らはその恐ろしさを身をもって知った。あの銃は連射が速い。騎馬隊で突撃しても、銃弾の嵐を抜けるのは難しい」
「三つ目。水神の存在だ。水神は民心を集めている。織田・徳川の民は豊かになり、一揆が起きにくい。安定した後方があれば長期戦でも織田・徳川は戦い続けられる。さらに、戦になれば一騎当千の力で空から奇襲して来る。水神を殺せば全てが敵に回り、武田の敗北となる」
配下達は勝頼が言った理由を理解し、織田家と武田家との戦力差に衝撃を受けていた。
「以上が儂の分析だ。しかし……実を言えば、儂が自力でこれらの理由に気が付いていたのではない」
勝頼が懐から封筒を取り出した。
「これは父上が儂宛に送った遺書である。父上は死の間際に、織田との講和について書き記してくださっていた」
「なんと!まさか信玄様の遺書があるとは。しかし信玄様の死から二年が経っております。何故、今頃になって……」
配下が驚きと疑問を顕わにした。
「父上の死後すぐにこの遺書を公開しても、主戦派を止められぬと思ったからだ。遺書を見せるだけでは皆が納得するとは限らない。儂自身が武田家を掌握し、主戦派と幾度も議論を重ね、講和派が増えるのを待った。その間に儂なりの分析も固めた。父上の死から二年もかかったがな」
「なるほど、そうでしたか……それで、遺書にはどのような事が書かれていたのですか」
「元々、父上は三方ヶ原の戦いに心の内では消極的だったらしい。だが、一戦も交えぬままでは武田家の主戦派を抑えきれない。よって、父上は三方ヶ原の戦いを通じて講和を狙った。勝てば有利な条件で講和に持ち込み、引き分けや敗北ならば武田家に織田・徳川の脅威を実感させ、そこから講和の機運を高めるつもりだったそうだ。しかし、志半ばで逝ってしまわれた」
「信玄様はそのようにお考えだったのですか……」
配下が信玄を想い、悲しそうにつぶやいた。
「儂が先程述べた分析は、父上の遺書と全て一致していた。父上はあの時点でここまで大局を読んでおられた。そして儂もまた、二年かけて同じ結論に至った。これが武田家の答えだ」
配下たちは信玄の読みの深さに戦慄した。主戦派は織田家に戦を仕掛けていた場合を想像し、冷や汗を流していた。
「儂の意見は述べた。反論はあるか」
主戦派の重臣は黙っていた。反論の言葉を探しているようだったが、出てこないようだった。
「儂は武田を守りたい。そのためには今、刀を収める判断が必要だと思う」
勝頼は全員を見渡した。
「講和を選ぶ。異論のある者は言え」
主戦派の重臣が深く息をついてから頭を下げた。
「……殿の御判断に従います」
武将たちが次々と頭を下げた。他の主戦派の配下たちも、勝頼の分析を聞いた後では反論する言葉を持てなかった。
こうして武田家中で講和の方針が決まった。
講和の交渉は春の終わりに行われることになった。場所は信長が指定した甲斐との国境近くの中立的な地だった。
武田側から一つの要望が届いた。使者が持参した書状にはこう記されていた。
『水神様にも同席していただきたい。水神教の布教について直接お話し申し上げたく、何卒よろしくお願い申し上げます』
セララはその要望を受けて、信長に確認した。
「セララが同席することで講和の重みが増す。共に来てくれ」
「うん、分かった」
当日、セララは信長と共に講和の場に向かった。
武田勝頼は思ったより若かった。
セララの前に現れた勝頼は、三十前後の精悍な顔立ちの男だった。父信玄とは異なる細面だが、目に鋭さがある。その目がセララを捉えた瞬間、勝頼は深く頭を下げた。
「水神様、お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ。遠いところまでありがとう」
セララが答えると、勝頼はわずかに表情を緩めた。
「三方ヶ原の戦いでは、水神様が直接戦闘に参加されなかった。それが今でも気になっています」
「うん。あの戦いはボクは後方支援だけだったよ」
「もし水神様が空から攻撃していれば、我らは負けていたかもしれません」
勝頼は率直に言った。
「そうかもしれないね。でも、ボクは戦が好きじゃないし、奇襲が必要になるほど家康さんが追い詰められなかった」
「敗色濃厚になれば、今川の時のように奇襲を行ったというわけですな」
「うん。多分そうしたと思う」
「であれば、あの時に武田が引いた判断は正解でしたな。水神様の奇襲を受けたらどうなっていたことか……」
武田信玄の軍を引くという判断が正解だったと知り、勝頼は納得したように頷いていた。
「勝頼さんはなぜ講和を選んだの?」
「それが武田の最善だからです」
勝頼は迷わず答えた。
「長期戦になれば我らが不利です。国力の差は覆せない。一度の大敗で立ち直れなくなる前に、道を変えた方が武田のためになる。父上の言葉を借りれば、動かざること山の如し。今は守る時です」
その言葉を聞いて、信長がわずかに目を細めた。
「賢い判断だ」
信長は率直に言った。
「武田の騎馬隊は強い。儂も認める。しかしお前の言う通り、長期戦では国力が物を言う。その現実を直視できる者が生き残る」
「ありがとうございます」
勝頼は頭を下げた。
講和の条件が話し合われた。
信長が最初に口を開いた。
「武田の領地に水神教の布教を認めてもらいたい。それに伴い、水神教団が農業の知識を広め、学校も建てる。民が豊かになれば、武田の国力も上がるだろう」
「承知しました。ただし、一つお願いがございます」
と勝頼は答えた。
「言うが良い」
「水神様に甲斐の民に直接お会いして頂きたいのです。布教だけでなく、水神様のお姿を民に見せていただければ、改宗がより速く進むかと思います」
セララは頷いた。
「もちろん甲斐にも行くよ。困っている人がいれば助けたいし」
勝頼は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「武田の側からは何を提供できる?」
信長が聞いた。
「甲州の金を定期的に提供します。それと、同盟国として軍事的な協力も約束します。織田・徳川が危機に陥った際には、武田が援軍を出します。その代わり、我らが危機の際にも同じ援助をいただきたい」
「良いだろう」
信長は即座に答えた。
「甲州の金は使い道がある。軍事協力の約束も互いに安心できる」
条件が一つずつ整っていった。
農業知識の提供と学校の建設。水神教の布教許可。甲州の金の提供。相互の軍事協力。どの条件も、互いにとって利益のある内容だった。
最後に勝頼がセララに向かって言った。
「水神様、一つ聞いてもよいですか」
「どうぞ」
「なぜ、敵だった我らに農業の知識を惜しみなく与えるのですか。武田が豊かになれば、将来的に再び敵になるかもしれない」
セララは笑顔で答えた。
「豊かになった人は戦を選びにくくなるよ。お腹がいっぱいであれば、敵から奪う理由が薄れる。だからボクは敵でも味方でも関係なく知識を広めたい。豊かな世の中になれば、戦そのものが減ると思っているから」
勝頼はしばらくセララを見ていた。
「水神様は戦のない世を目指しているのですか」
「そうだよ。信長さんも同じだと思う」
信長が腕を組んで言った。
「儂が天下を取れば争いは減る。同時に水神が知識を広めて民が豊かになれば、戦う理由がなくなる。それが儂とセララの目指すところだ」
勝頼は深く頷いた。
「……分かりました。武田はその道に乗ります」
その言葉で講和が成立した。
その場にいた全員が頭を下げた。
帰り道、セララは信長と並んで馬を進めた。
「勝頼さん、賢い人だったね」
「ああ。織田家と武田家の戦力差を理解し、長期戦で勝てぬことを理解していた」
「信長さんは勝頼さんのことをどう思う?」
「父親の名声に縛られることなく、現実を見ている。同盟国の主として合格だ」
「それは良かった。今日は戦わずに解決できたね」
「上出来だ。戦わずに武田を取り込み、甲州の金まで手に入る。セララが知識を広め、民が豊かになれば争いが減る……これが一番効率の良い天下取りの方法かもしれんな」
信長が珍しく素直な口調で言った。セララはその言葉を聞いて少し嬉しくなった。
武田と織田・徳川が同盟を結んだ。これで信長の背後を脅かす勢力が一つ消えた。天下統一への道が、また一歩近づいていた。
戦わず、誰も死なずに解決できた。それが何より良かったと思うのだった。
史実では1575年に長篠の戦いが発生し、織田・徳川軍と武田との決戦が行われました。
この歴史では
・三河一向一揆での徳川の戦力温存(史実では徳川の戦力に大ダメージ)
・三方ヶ原の戦いで徳川軍と武田軍が引き分けた(史実では徳川軍が敗北し、徳川の戦力が大きく減った)
・三方ヶ原の戦いでフリントロック銃の脅威を実感していた(史実では長篠の戦いで銃の恐怖を味わうことになる)
・水神教が広まり、布教された地は豊作となっている。
・水神様を殺した場合、多くの民衆が武田家に敵対すると思われる。
・信玄が遺書で織田家に対する方針を残していた。
という要素から、武田は織田との講和を選択しました。