尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~ 作:Lavian
1576年(天正4年)。
石山本願寺の内部では動揺が続いていた。
門跡の顕如はその夜も書院で一人座っていた。燭台の炎が揺れ、壁に影を作っている。手元には各地からの報告書が積まれていた。
水神教が広まり、一向宗が追いやられている。
尾張、三河、近江、摂津。かつて一向宗の信者が多かった土地でも水神教に改宗する者が増えていた。理由は分かっている。水神様の知識で農業が発展し、民が豊かになった。来世の極楽浄土より、今の生活を救ってくれた方を信仰する。人間とはそういうものだ。
このままではいけない。一向宗が消滅する前に動かなければならない。
しかし、顕如の胸の奥には迷いがあり、積極的な行動を起こせないでいた。
水神様は本物の神なのではないか。
その考えがここ数年で確信に近いものになっていた。雨を降らせ、怪我を治し、空を飛ぶ。五穀豊穣をもたらし、様々な料理や産業をもたらす。朝廷が神聖な存在と認め、民衆は水神様に救われた体験を口々に語る。
もし水神様が本物であれば、自分がここで戦い続けることは何を意味するのか。信仰を守るために戦っているはずが、本物の神に刃を向けていることになるのではないか。
顕如は悩み、やがて首を振った。
今さら何を言うのか。石山本願寺には大勢の信者がいる。ここに集まった僧侶たち、土豪たち、農民たち。彼らを率いてここまで戦ってきた。今さら降伏などできない。もし自分が信仰を捨てれば、彼らの戦いは何だったのかということになる。
戦うしかない。
たとえ水神様が本物であったとしても、このまま戦うしかないのだ。
顕如は報告書を手に取った。
その頃、岐阜では信長がセララを呼んでいた。
「石山本願寺との決着をつける時が来た」
信長は地図を広げて言った。
「水神教の広まりで本願寺の兵力は大幅に減っている。甲賀からの情報でも、石山に集まる信者は以前の半分以下だ。今が動く好機だ」
「どうやって攻略するつもり?」
「海と陸の両方から包囲し、本願寺への補給路を断ち切る。海から毛利が補給を試みれば海戦で迎え撃つ」
「鉄甲船は五隻完成してるから海戦で使えるよ。それに、開発当初よりも鉄板を張る範囲を広げて火矢にかなり強くなったんだ」
鉄甲船は設計と試作を重ねる中で、当初の想定よりも広い範囲に鉄板を張ることが可能だと分かった。そのため砲台や火薬庫周辺だけでなく、舷側の主要な部分まで鉄板の範囲を広げ、防御範囲を拡大してより強力になっていた。
「うむ。鉄甲船は海戦の大きな戦力となるだろう。よくやってくれた」
信長は鉄甲船の完成に満足しておりセララを褒めた。
「えへへ、ありがとう。包囲して兵糧攻めする他は長島一向一揆と同じ対応にするの?」
「うむ。『水神教に改宗すれば命を助ける』という降伏勧告を最初に出す。兵糧攻めの最中も継続して降伏勧告を行う。物資が減り、飢えと不安が人々に降伏を決意させるであろう」
「今回もその作戦を採用してくれてありがとう。これで死ぬ人が少なくなるよ」
「何度も言ったが気にするな。儂もこれが合理的だと思っているのだ。さて、まずは使者を出す事にしよう」
石山本願寺に織田家からの使者が届いた。
顕如はその書状を読んだ。水神教に改宗すれば命を助ける。そうでなければ包囲する、という内容だった。
「顕如様、いかがなさいますか」
側近の僧侶が聞いた。
「どう思う」
と顕如は聞き返した。
「戦うしかありませぬ。ここで降伏すれば長年の戦いが無駄になります。毛利が援軍を送ってくれればまだ戦えます」
「毛利が来てくれるか」
「はい。本願寺を支援するという約束があります」
顕如は頭の中で考えをめぐらせた。
毛利が来たとして、勝てるのか。
水神教が広まり、一向宗の信者が減っている現実は変わらない。織田の国力は年々増している。水神様の知識で農業が発展し、武器も改良され続けている。
しかも、水神様が織田の友人だ。もし水神様が本気で動けば……。
顕如の頭の中は不安ばかりだ。負ける未来ばかりが見える。
では、ここで織田家に降伏する方針に変更したらどうなるのか?
顕如は裏切り者としてすぐさま石山本願寺から排除され、新たな者が指導者となるだろう。その指導者が上手くやれれば良いが、一向宗を信じて全滅するまで特攻する未来が容易に想像できた。
やはり、現時点で降伏はできない。一戦交えた後で織田家と交渉し、一向宗が存続可能となる良い条件を引き出すしか無いだろう。
「織田への返答はしない」
顕如は言った。
「毛利の援軍を待つ。それまで籠城する」
「ははっ」
側近が頭を下げた。
顕如は一人残された広間で手を組んで目を閉じた。念仏を心の中で唱えた。しかしいつもと違い、言葉が空虚に響いた。
返答がないことを確認すると信長はすぐに動いた。
陸から摂津の各方向に部隊を展開し、石山本願寺を包囲した。海からは織田水軍が大阪湾に展開し、補給路を断ち始めた。その中には完成した鉄甲船五隻の姿もあった。
海の包囲を崩すため、毛利水軍も動いた。補給物資を積んだ船団が瀬戸内から大阪湾に向かってきたのだ。
毛利軍は大型の安宅船(あたけぶね)を旗艦とし、それよりも機動力の優れた関船(せきぶね)と小早(こばや)を大量に展開していた。
木津川口で両軍の水軍が対峙した。史実では毛利の軍船が数と火力で圧倒したが、この海戦は違った。
夜明け前、大阪湾には薄い霧がかかっていた。毛利水軍の船団が湾の奥へ進もうとしていた。安宅船を中心に、関船と小早が周囲を固める陣形だ。数では毛利が優っていた。安宅船一隻だけでも巨大な体軀を持ち、両舷に多数の弓矢と鉄砲を備えている。
その毛利水軍の前方に、織田水軍の鉄甲船五隻が一列に並んでいた。鉄甲船を先頭に並べ、その他の船はやや後ろに展開している。
「あれが噂の鉄の船か」
毛利の水軍を率いる将が、遠目に鉄甲船を見て呟いた。船体の輪郭がいつもの和船とは違う。高い舷側、深い船底、異様な存在感があった。
「構わぬ。数で押せば良い。全船、前進せよ」
毛利の号令で船団が動き出した。小早が先行し、関船がそれに続く。安宅船は中央で構えを取っていた。
織田水軍の指揮官が鉄甲船の甲板で命令を出した。
「撃て」
大砲の轟音が大阪湾に響いた。
最初の一斉射撃で、先頭の小早が二隻、立て続けに沈んだ。木製の船体は大砲の直撃に耐えられなかった。爆音と共に船体が裂け、兵たちが海に投げ出された。
「ひるむな!距離を詰めろ!接舷戦に持ち込め!」
毛利の将が叫んだ。毛利水軍の得意とする戦法は接舷攻撃だ。船を並べて乗り込み、白兵戦に持ち込む。これまでの海戦では、この戦法で多くの勝利を収めてきた。
しかし鉄甲船の舷側は高く、簡単には乗り込めなかった。関船が懸命に船体を寄せようとしたが、鉄甲船の高い船縁に届かない。乗り込もうとした兵が次々と弾き返された。
毛利水軍は大砲を持っていない。船に乗り込めないのであれば、残る有効な手は火矢のみだった。
「焙烙火矢を打ち込め!燃やしてしまえば終わりだ!」
毛利側が焙烙火矢を放った。火のついた矢が次々と鉄甲船に飛んだ。船体の一部に命中した矢は、そのまま木材に火を点けた。
「燃えています!」
鉄甲船の甲板で兵の声が上がった。しかし、すぐに別の声が応じた。
「主要な部分は鉄板で守られている!延焼はしない!消火に回れ!」
甲板に控えていた水を入れた桶が次々と運ばれ、燃え始めた部分に浴びせられた。さらに、あらかじめ用意されていた濡らした革が燃えている箇所に被せられた。水を含んだ革は炎を覆って空気を断ち、すぐに火が収まっていく。鉄板のない外殻部分は火矢で焦げ、一部は燃えたが、重要区画には火が及ばなかった。その間も鉄甲船は止まらず砲撃を続けていた。
「何だあの船は!普通の船なら今ので火が回っているはずだ!」
「燃えても止まらないぞ!」
毛利側が困惑の声を上げた。鉄甲船は完全に無傷ではなかったが、戦闘能力そのものは失われていなかった。重要区画を守る設計が、被弾しても戦い続けられる強みを生んでいた。
鉄甲船はそのまま落ち着いて次弾を装填した。
「撃て」
二度目の砲撃が放たれた。今度は関船の一隻に直撃し、船体の中央が大きく抉れた。浸水が始まり、関船は傾きながら戦線を離脱していった。
毛利水軍は鉄甲船を最優先の標的とし、複数の船で包囲しようと試みた。しかし鉄甲船は風向きに関わらず自由に動ける帆装と、安定した船体構造を持つ。和船特有の取り回しの良さで包囲を試みた毛利の船は、逆に鉄甲船の砲撃を一隻ずつ受ける形になった。
鉄甲船を中々沈められないまま、毛利の船が一隻、また一隻と戦線から脱落していった。鉄甲船が囮になっている間に織田水軍の他の和船が側面から毛利の船団を突き、各個撃破していったのだ。
半刻ほどの戦闘で毛利水軍の被害が大きくなっていた。沈没した船、大破して戦闘力を失った船が次々と出ていた。
「……退くぞ」
毛利の将は苦渋の表情で命令を下した。これ以上続ければ、補給船団そのものを失う。
毛利水軍は撤退した。
完全な敗走ではなく、安宅船の旗艦は沈むことなく退いた。しかし補給物資を積んだ船の多くが沈没か拿捕され、本願寺に届けることはできなかった。
岐阜でその報告を受けたセララは少し安堵した。
「鉄甲船が大活躍したね」
「ああ。毛利の水軍を退けた。これで本願寺への補給は断たれた」
と信長は満足そうに言った。
「陸と海の包囲網が両方とも機能している。後は時間の問題だね」
「そうだ。兵糧が尽きれば、本願寺は動かざるを得ない」
石山本願寺の内部で食料が減っていった。
毛利の援軍が敗退したという報せが届いた時、顕如はどうしたら良いか分からなかった。
予想していたが、こうして現実になると言葉が出なかった。
「顕如様、いかがなさいますか」
側近が震える声で聞いた。
「兵糧はあと何日分ある」
「一ヶ月ほどかと……」
顕如は目を閉じた。
一ヶ月。その後は戦えない。籠城している僧侶たちも、農民も、土豪も、全員が飢える。援軍の見込みは無く、どうにかする手段は無い。
水神様の言葉が頭に浮かんだ。
使者が持ってきた書状に書いてあった言葉だ。水神教に改宗すれば命を助ける。
水神様は本物かもしれない。
その考えがまた浮かんできた。本物の神が命を助けると言っている。それに背いて戦い続けることは、果たして正しいことなのか。
一方で、自分は長年この信仰で人々を率いてきた。今さら信仰を捨てれば、これまで戦ってきた者たちは何のために死んだのかということになる。
顕如は深く息をついた。
その夜、顕如は一人で悩み続けた。夜明け近くになって、ようやく顕如は決断をした。
石山本願寺から使者が出た。
水神様に直接会って話がしたいという要望だった。
セララはその要望を聞いて信長に確認した。
「顕如さんが直接ボクに会いたいって」
「行くのか」
「行くよ。話を聞かなければ何も始まらない」
「儂は行くなと命じたい。万が一もある。だが、それでも行くのだな」
「うん。ボクの行動で大勢の人の命が救われるかもしれないからね。大丈夫、絶対戻ってくるよ」
セララは翼を広げた。
信長は何も言わなかった。ただその目が、セララの背中をじっと追っていた。心配と信頼が混ざったような表情だった。セララが飛び立つのを見届けてから、信長は部屋に戻った。
石山本願寺の本堂に通されると、顕如が一人で座っていた。
初めて見る顕如は、思ったより穏やかな顔をしていた。四十歳前後で、目に深い隈と疲労があった。
顕如はセララを見て深く頭を下げた。
「水神様、お越しいただきありがとうございます」
「顕如さん、初めまして」
セララは向かいに座った。
「お話があると聞いたよ」
「はい」
顕如は少し間を置いてから言った。
「一つだけ聞かせてください。水神様は一向宗をどう思いますか」
セララはその問いを受け止めた。
「宗教は信じる人を幸せにするための物だよ。でも、現状の一向宗はそうじゃない。一部の僧たちは堕落し、人々から銭と食べ物を搾取している。それに権力を持つ事を当然と思っている。来世に救いがあると言うけれど、現世を救おうとはしない」
「では……水神様は一向宗はどうあるべきだと思いますか」
「一向宗そのものは悪くないと思うよ。でも、一向宗を扱う人間の一部が悪用しているし、仏を信じるのに権力は不要だよ。だから一度、僧達を一掃して綺麗にする必要があるとは思う」
「耳の痛いお話です。一向宗は悪くなく、我々、僧が悪かった……」
顕如はため息を吐いた。
「顕如さんが長年、一向宗で人々を救おうとしてきたことは分かるよ。でも、今ここで戦い続けても、多くの人が飢えて死ぬだけだよ」
「……分かっています」
顕如は苦悩しながら言った。
「私はあなたが本物の存在かもしれないと、ずっと思っていました。それでも、多くの教徒がここにいる。彼らを見捨てることができませんでした」
「見捨てることにはならないよ」
セララは言った。
「水神教に改宗した者は命を助ける。ここにいる全員が助かる。ボクはそれを約束するよ」
「水神教の教えは……人に優しくすること、だけでしたね」
「それだけだよ。人目のある所で口にさえ出さなければ仏様への信仰を完全に消す必要もない。人に優しくしながら、仏様も大切にしていいよ」
顕如は沈黙して悩んでいた。
やがて、顕如は深く頭を垂れた。
「……分かりました。水神様のお言葉に従います」
顕如の肩から何かが落ちたように見えた。長年背負ってきた重さが、少し軽くなったのかもしれない。
「ありがとう。顕如さんが決断してくれて良かった」
「私こそ……長い時間がかかりました」
顕如は顔を上げた。その目に、涙があった。
「ここにいる者たちの命をどうか守ってください」
「約束するよ」
石山本願寺が降伏した。
顕如の宣言を受けて城内の者たちが次々と武器を置いた。しかし混乱が全くなかったわけではない。甲賀からの報告によれば、顕如の息子である教如が「父上、なぜ降るのですか。我らはまだ戦えます」と激しく抵抗の意志を示したという。
しかし顕如は教如を含めた城内の者たち一人ひとりに向き合い、水神様が命を守ると約束してくださったと説いて回った。長い時間をかけて顕如が説得して回ると、教如もやがて武器を置いた。水神教に改宗すれば助かる。その言葉が城内に広まると、抵抗する者はほとんどいなくなった。
信長は報告を受けて短く言った。
「終わったか」
「終わったよ。顕如さんも改宗した」
「水神教が広まっていなければ、本願寺はもっと大きな勢力だった。海戦でも鉄甲船がなければ苦戦した。もしもセララがいなかったらどれだけの被害が出たかわからん」
「そうだね。もしかしたら、すっごい激戦になってたのかも。でも大丈夫。ボクはここにいるよ」
「うむ。儂にはお前が必要だ。これからも頼りにしているぞ」
その台詞が何だか告白のように聞こえて、セララは少し顔を赤くしてしまった。
(ボクにとっても、信長さんは必要な人だよ)
心の中でそう思いながら、セララは少し照れた顔のまま空を見上げた。
史実では木津川口の海戦は第一次(1576年)と第二次(1578年)の二度行われており、第一次では毛利水軍が勝利しています。
この物語では第一次の海戦で織田水軍が勝利したため、石山本願寺への兵糧攻めが成功しました。
史実では石山本願寺の終焉は1580年(天正8年)ですが、兵糧攻めが成功した結果、この物語では1576年に決着しました。