尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~   作:Lavian

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第六十四話 難民たち

 吾作は生まれてからずっと貧しい村で生きてきた。

 

 関東のはずれにある小さな村だ。代々米と麦を作って暮らしてきたが、この三年は天候がおかしかった。雨が少なく、夏の日照りが続いた。収穫は年々減っていき、今年はとうとう種籾を食べてしまうほどの状況になった。

 

 村には水神教というものがまだ届いていなかった。遠くの村まで水神教団が来たという噂は聞いていたが、吾作の村には誰も来なかった。だから新しい農業の知識を何も知らないままだった。

 

「父さん、お腹空いた」

 

 娘のおとよが痩せた頬で言った。今年で七つになる。隣には五つの息子の太郎がいる。二人ともここ最近はろくなものを食べていない。

 

 妻のすずが薄い粥を椀に分けながら吾作の顔をちらりと見た。何も言わなかったが、その目には不安があった。

 

 ある日、村の外から旅人が立ち寄り、噂を伝えていった。

 

「関東に新しい幕府ができるらしい。江戸ってところに、水神様が町を作っているそうだ。困っている者は誰でも受け入れて、食べ物をくれるって話だ」

 

 水神様。

 

 吾作もその名前だけは知っていた。空を飛び、怪我を治し、五穀豊穣をもたらす神様だという。今川や武田と戦った織田の信長様の隣にいるという話も聞いたことがある。だが、自分の村には関係のない、遠い場所の話だと思っていた。

 

 しかし今はその話に縋るしかなかった。

 

「すず。江戸に行こう」

 

 吾作はある夜、妻に言った。

 

「ここに居ても皆で死ぬのを待つだけだ。水神様が本当に町を作って人を受け入れているなら、行ってみる価値がある」

 

 すずは少し考えてから頷いた。

 

「分かりました。子供たちのためにも行きましょう」

 

 

 

 

 翌朝、吾作は家にあるわずかな荷物をまとめ、家族四人で村を出た。

 

 道中は楽ではなかった。食べるものはほとんどなく、途中で摘んだ草や、人から分けてもらった僅かな米で何とか命をつないだ。おとよも太郎も文句を言わずに歩き続けた。それがまた、吾作の胸を締め付けた。

 

 何日も歩き、ようやく江戸の地に着いた頃には家族全員が疲労で足元がふらついていた。

 

 しかし、目の前に広がる光景に吾作は思わず足を止めた。

 

 広大な土地に、木材の骨組みが立ち並んでいた。あちこちで人々が働き、土を運び、木を組んでいる。掘られた水路に水が流れ、新しい橋がいくつも架けられている。これまで見たことのない、活気のある場所だった。

 

「ここが、江戸……」

 

 吾作がつぶやいた時、役人らしき身なりの男が近づいてきた。

 

「お前たち、新しく来た者か」

 

「は、はい。村が立ち行かなくなって、水神様の噂を聞いて参りました」

 

 役人は頷いた。

 

「ならばまずあそこに行け。難民が集まる場所がある。そこで受け入れの手続きをする」

 

 指された方向に向かうと大きな小屋がいくつも並んでいる場所があった。すでに大勢の人がいた。子供を抱えた女、年老いた老人、傷を負った男。皆、似たような疲れた顔をしていた。

 

 吾作たちが小屋の前に並ぶと別の役人が声をかけてきた。

 

「お前たち、腹が減っているだろう。まず飯を食え」

 

 大きな鍋から湯気の立つ汁物がよそわれた。具がたくさん入った温かい汁だった。椀を受け取った吾作はその重さに驚いた。村ではもう何ヶ月もこんなに具の入った食事は見ていなかった。

 

「父さん。これ、本当に食べていいの?」

 

 おとよが椀を見つめながら聞いた。

 

「いいんだ。食べなさい」

 

 吾作がそう言うとおとよと太郎は遠慮なく汁をすすり始めた。すずも震える手で椀を持ち、一口飲んで目に涙を浮かべた。

 

 吾作自身も汁を飲んだ。塩気と野菜の甘みが口の中に広がり、腹の底から温かくなる感覚があった。久しく忘れていた感覚だった。

 

 家族全員が食事を終える頃、先ほどの役人が再び現れた。

 

「皆、腹は満たされたか。これから一人ずつ話を聞く。お前は何ができる」

 

 役人は吾作に向かって聞いた。

 

「は、はい。村では米と麦を作っておりました。農業の事しか分かりません」

 

「農業か。ちょうど良い」

 

 役人は手元の紙に何かを書き込んだ。

 

「お前達は江戸の近くにできる開拓村で農業をやってもらう。江戸の町は湿地が多くて畑には向かないが、少し離れた場所に水はけの良い台地がある。そこに開拓村を作っているところだ。土地と家、それに農具も支給する。今年の収穫が安定するまでは年貢も無いし、毎日の食事も支給される。心配せずに励め」

 

 吾作は耳を疑った。

 

「土地と農具と家を無償でいただけるのですか」

 

「そうだ。ただし条件がある」

 

「条件、と言いますと」

 

「お前たちには水神様の知識に従った新しい農業のやり方を学んでもらう。輪作という方法だ。同じ畑で毎年同じ作物を作り続けると、土が弱って収穫が減っていく。だから畑をいくつかに分けて、決められた順番で違う作物を作っていくんだ。豆を植えて土を肥やす年もある。そうやって土地を休ませながら、長く使える畑にする」

 

 吾作はその説明を聞いて何度か頷いた。意味は全部分かったわけではなかったが、新しい知恵だということは理解できた。

 

「分かりました。やらせていただきます」

 

「良い返事だ。詳しいことは開拓村に着いてから、教える者が説明する。心配しなくていい」

 

 吾作はしばらく黙っていた。胸の中で、感謝の気持ちと、もう一つの感情がせめぎ合っていた。

 

「役人様」

 

「何だ」

 

「ありがたいお話ですが……正直に申し上げます。あまりに良すぎる話で、にわかには信じられません。土地も家も農具も食事も、何もかも無償でいただけるなど、聞いた事がございません。これは、何か裏があるのではないでしょうか。詐欺ではないかとつい疑ってしまうのです」

 

 役人は吾作の言葉を聞き、声を上げて笑い出した。

 

「ははは!正直な奴だ。だが、お前がそう思うのも無理はない」

 

 役人は笑いを収めると少し遠い目をした。

 

「俺もここに来るまでに何十人もの者から同じ事を聞かれてきた。詐欺ではないかと、皆そう聞く。それも当然だ。長い戦の時代、誰も無償で何かを与えてくれることなど無かったのだから」

 

「役人様もそう思われたのですか」

 

「俺自身、もとは尾張の単なる足軽だった」

 

 役人は静かに語り始めた。

 

「足軽の一人として、ただ命じられるままに戦場に出ていた男だ。だが水神様が農業の知識を広め、字を教える学校を作られた。俺はそこで初めて字を覚えた。算術も習った。それまで自分の名前すら書けなかった俺がだ」

 

 吾作は黙って聞いていた。

 

「水神様の知識のおかげで尾張の村々は豊かになり、俺のような者にも学ぶ機会が与えられた。こうして俺は字が書け、算術ができるようになり、試験に合格して役人として働けるようになった。元はただの足軽だったというのに、今はこうして人を導く立場にいる」

 

 役人は吾作の目をまっすぐ見た。

 

「水神様の慈悲は本物だ。俺自身がその証だ。詐欺ではない。お前が今受けている恩恵も、いずれお前自身がそれを誰かに返す時が来るかもしれん。俺がそうだったように」

 

 これまで、誰かに無償で何かを与えられるなど想像もしていなかった。農民は常に奪われる側だと思っていた。だが、目の前のこの役人は本当であると思った。

 

「……分かりました。役人様のお言葉、信じます」

 

 吾作は深く頭を下げた。

 

「これから精一杯、田畑を作ります。水神様のご恩に応えられるよう」

 

「うむ。それでいい」

 

 役人は満足そうに頷いた。

 

「明日には開拓村まで案内する者がつく。今夜はゆっくり休め」

 

 吾作は家族のもとへ戻った。すずが心配そうな顔で待っていた。

 

「どうでしたか」

 

「心配いらない。俺たちは、これから畑を作ることになる。土地と家と農具をいただけるそうだ」

 

「本当ですか……!」

 

 すずの顔に安堵の色が広がった。おとよと太郎も何が起きているのか分からないまま、両親の様子を見て嬉しそうにしていた。

 

 

 

 

 夜、吾作は小屋の外に出て江戸の空を見上げた。

 

 星が出ていた。村にいた頃と同じ星だ。だが、見えている景色は全く違った。

 

 遠くで建設中の建物の輪郭が薄く見えた。あの場所がこれからどんな町になっていくのか、吾作にはまだ分からない。だが、ここに来たことは正しかったと思えた。

 

「水神様、ありがとうございます」

 

 吾作は感謝の言葉を呟いた。

 

 明日からは新しい畑が待っている。輪作という聞いたこともない方法で土地を育てていく。それがどんな結果をもたらすのか、まだ吾作には想像もつかない。

 

 しかし、飢えて死ぬかもしれないと思っていた自分たちがやり直せることが嬉しかった。

 

 江戸の夜空の下、吾作は明日への期待を抱いていた。

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