ミナの乗車から十数分経ったか、バスはそれから誰一人新しい客を拾うこともなく、暗闇の中をひた走っている。
聞こえる音と言えば、信号で発進するたびに重く吹かされるエンジン音、淡々と運転手により繰り返されるアナウンスぐらいのものだ。
人気のない路線なのもあってバスの車内はガランとしており、自分以外に乗客はいないのかとミナは社内をぐるりと見渡すが、乗っているのはミナ一人だけであった。
『停車します』
再びのアナウンスとともに体が前の方へ引っ張られる。
プシュンと開く自動ドア。続いてグジュリと音を立てながらステップを登る音。
入ってきたのはこれまたミナのように雨に濡れた3人組だった。
3人とも170ほどの背丈で、顔の大半を覆うほどに深々と頭巾をかぶっている。
加えて、彼らの服装は京劇部の演劇で見るようなとても古めかしいもので、特に最後に乗った乗客の長衣は、他二人の地味な
3人組は彼らの背丈近くある荷物を置いて、バスの最後尾にある3席に腰を落ち着けた。
現代ではまず見ない異様な格好。
あまりじろじろ見るのも失礼だと、すぐに目線を正面に戻すが、バスに揺られているだけのミナの興味を引くにはそれだけで十分であった。
(あのような格好をするのは京劇部くらいのものだ。京劇の練習で門限ギリギリになってしまい、慌てて衣装姿で飛び出してきたのだろうか……?にしても彼らの匂い……あれは濡れた土の匂いだな。おそらく雨の中を否応なしに走ってきたのだろうが、近寄るのはやめておこう…………もしかして私も?)
濡れているのは自分も同じだということに気づいたミナは急いで胸近くに顔をうずめる体勢をとり、自分の放つ体臭を確認。
玄龍門指定のロングジャケットとシャツの間からは乾ききってない衣服臭と、全力疾走して発汗したことによる蒸れた刺激臭が、ミナの鼻を通り抜けた。
ただ幸いにも土の匂いはしないことが確認できると、ミナは何事もなかったように体勢を戻して足を組みなおした。
再び会話のない空間が訪れる。
3人組は一言も発さずに、ただ静かに座り続けており、バス内で話をする者が増えることはなかった。
ミナは今になって、騒がしかった老婆たちが少し恋しくなるような気もした。
『停車します』
午後10時20分。今度は2駅もたたずにバスが停まる。
ガタンという音とともに、2度目の停車で乗り込んできた乗客はまたもや紺青色の装いであったが、先ほどと異なり、ミナと面識のある人物であった。
「おや珍しいですね。こんばんは、ミナ執行部長。」
「カグヤ部長か……」
カグヤは入ってすぐにミナの姿を見つけると軽く会釈し、ミナとは対岸の席に着席した。
それ自体は知人に対しての一般的な礼儀ではあるのだが、まさか自分に対して払われると思っていなかったミナは虚を突かれた気分になった。
「――お前には嫌われていると思っていたのだがな……。その様子だと、どうやら私の勘違いだったらしい」
「……はい?何のことですか?」
「お前を牢に放り込んだことがあっただろう。あの時のお前のふてぶてしい態度を見れば、嫌われているとも思うさ」
「……あの時は私も意固地になっていたと思います。誰であれ礼儀を
ため息を交えながらそう答えるカグヤの目は虚空を見つめていた。
あのレッドウィンターとの交流会での一件を思い浮かべているのだろう。
「――しかしそれは事実であれ、過去に過ぎません。門主様に申し上げた通り、
「……偉大な者は生まれつき偉大なのではない。偉大になっていっていったのだ、ということか」
「道理ですね。門主様のお言葉でしょうか?」
「偉大なる名作、ゴッド・マザーだ……。見たことないのか?」
「……映画を観る空き時間があれば、全て京劇の
「ムッ……京劇の映画だって探せばあるだろうに、映画だからとすべて捨て去るべきではないだろう?それに今日のように稽古に打ち込みすぎて、衣装そのままに帰りだす部員が出てくるのは芳しくないな!」
映画を軽く見るカグヤの態度に少しの苛立ちを覚えたミナ。
そこから何とかひねり出した批判はカグヤに刺さることこそなかったが、代わりにその言葉が引き出したのは……ミナと同様に京劇を軽く見られたことに対する少しの苛立ちであった。
「一切見ないなどと、私がいつ断言しましたか⁉それに京劇部はきちんと刻限を守らせています!あなたこそ、玄龍門の執行部長として、そのような浅い見識に拠る言動は芳しくないとは思わないのですか⁉」
「なんだと⁉証拠は現にある!あそこにいる者たちは京劇部部員ではないのか?」
ミナはそう言ってバスの後部座席を指さす。
その方向には古めかしい装いの3人組が依然として、静かに、少し揺れる以外は何の反応も示さずに座っていた。
「全くの見当違いだと言えましょう!今つけている稽古の演目に、あのような衣装は用いられていません。やはり、古い衣装を着ているから京劇部の生徒だろうと決めつけていたようですね!」
カグヤが言い当てたことは実際にどうしようもなく事実で、前言の指摘も含めて、ミナには反論のしようがなかった。
言い合っているうちにいつの間にか立ち上がっていた両者は、
互いに相手の顔を伺おうという気概はとうに失われてしまった。
二人の間に漂う刺々しい空気。
止める人は当然おらず、バス内の温度も一気に冷え切ったように感じられた。
◇
――その始まりはミナの申し付けであっただろうか。
「―っくちッ!……ちょっと寒すぎないか?すまないが運転手、暖房をつけてほしいのだが……」
衣服の濡れた状態で座っていたミナがあまりの寒さに我慢ならず、運転手に暖房を使用するよう頼んだのだ。
……運転手の反応はない。
「……? おい、運転手!暖房をつけてくれ!このままの寒さでは風邪をひいてしまうぞ!」
運転手に聞こえてないのかと思い、ミナは再び、今度は大きな声で運転席に投げかけた。
……しかし反応はない。
「――っおい運転手!聞いていないのか⁉」
何度訴えても暖房をつけないどころか、こちらへ反応すらしない運転手についに我慢の限界がきたのだろう。
ミナはおもむろに席を立ちあがると、自分の感覚が正しいことを今一度確かめ、それから運転席の方へと歩いて行った。
……
一連のミナの行動を傍から見て、カグヤはそんな感想を持った。
(外で雨が降っているから寒いのは当然ですし、自分以外の乗客に断わりの一つも入れようとしないとは……)
そのように思って窓の外に目を向けるとカグヤの想像通り、やはり雨が降っている様子と窓に結露した水滴が見えた。
……そしてそれ以上に明らかな
窓の外の風景に見覚えがなかったのだ。
カグヤは以前からこの102路を利用している。
何度も見慣れた風景が続くだろうと、今の今までは気に留めようともしなかった。
――だが現在窓の外に流れる風景は建物が一切見えない、知らない田園。
しかも流れるスピードが
一度目をつむるだけで次の瞬間には景色全体ががらりと変化するなど、カグヤは高速鉄道でしか味わったことがなかった。
――このバスは暴走している。
そう結論付けると同時に、ミナに少し遅れる形でカグヤも運転席の方へ向かった。