正直、この事務所にもう一度訪れたくは無かった。
それでも、今必要なのはあの男の力であり、この状況をどうにかする為には何でもするつもりだったから、本当に本当に仕方なく、これ以上ないくらい断腸の思いで、ざっと3日ぐらい考え込んで、漸く決心がついた。
深く、深ーく酸素を吸って二酸化炭素を吐いてを繰り返す。つまりは俗にいう深呼吸なわけだが、これは断じてただの呼吸の延長線上にあるだけのものでは無くて、大気からこう、エネルギー的な何かを取り込んで、それをこう、全身に行き渡らせるように流していく……そしてそのエネルギーで持って、あの最低最悪、邪智暴虐にしてこの世全ての悪に等しい男に、頭を下げるのだ。
あの男に頭を下げる。脳裏に浮かんだその言葉に吐き気を催しながら、それでも必死にそれを飲み下す。石川啄木の例の詩が脳をよぎる。
『一人でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと』
多分字面から何と無く意味がわかると思うけど、要は『俺に一度でも頭を下げさせた人間みんな死ね』である。この詩を知った時は、いくら何でも器狭すぎでは?と思ったけど、今となっては心の底から同意できる。出来てしまう。
気付いたら憂鬱な気持ちが二酸化炭素として細く吐き出されてしまった。いけない。せっかく取り込んだ酸素、じゃない大気のエネルギー的な何かが。
スイッチを入れるように頬を叩く。思ったより痛い。まるでこの先に進んではいけないとアラートを鳴らすような痛み。人としての尊厳を守りたいなら、ここから先に進んではいけないと叫ぶ理性の声を、気合と根性とさっき取り込んで残っていた大気中のエネルギーで張り倒す。あーあーもう聞こえない。よし、行こう。
底なし沼にハマったのか、と錯覚するぐらい重い足を何とか持ち上げて、一歩足を踏み出したその時。背中からあの最低最悪な声がかけられた。
「何お前、深呼吸したりため息吐いたり自分ビンタしたり。落ち着きのないやつだな。なんかストレスでも溜まってんのか?……あれか、例の日ってやつか?」
振り向きざまに全力の回し蹴り。いきなり品性の欠片も無い言葉をかけてきた無礼者にかける情けは砂つぶほども無い。頭の中から理性がコイツを殺せと、腹の底から本能がコイツを殺せと叫んでいた。
その首へし折ってやるつもりだったのに、片手で受け止められた。頭の中の理性がコイツから離れろと、腹の底の本能が片手が使えない今のうちににぶん殴れと言ってくる。
判定、本能のKO勝ち。蹴り足を後ろ側に振り戻しながら、その慣性を利用。円運動する物体に発生する極めて物理化学的な力を応用し、その顔面狙って全力の左ストレート。躱された。ニヤケ面のまま傾けていた。私の拳は何も無い空間を叩く。
「おいおい。古典的な言い方するならカルシウム足りて無いぜ。牛乳ちゃんと飲んだかよ。そのちっこい背が伸びるかも知れないし、落ち着きも身につくかもな。胸に関してはもう十分だから意味はないが」
「ねぇ、その煽りが古典的だと思うぐらい今の時代に合わせてるなら、いまの時代そういうセクハラがどれだけ最低なのかも分かってるはずでしょ。時代に合わせないよ時代に」
「今の時代を踏まえると、いきなり暴力から入るそっちの方が良くないだろ。そういうキャラは流行んないぞ」
「正当防衛よ正当防衛。いきなり背後からあんな最低な台詞を吐いたんだから、背筋がゾッとして反射で身を守ろうとするでしょ」
拳を引きながら睨み上げる。さて、事務所に入る前からこの自称探偵兼作家に会えた。早速本題に入るべきだ。不必要な会話をコイツとこれ以上交わしたくはない。
「仕事の依頼よ。
後頭部を引っ張る木星の重力ぐらい強い力を、腹筋に力を入れて振り切る。つまりはこの男につむじを見せている。もっと分かりやすくいうなら、この男に頭を下げている。
非常に屈辱だ。私の尊厳はどこに行ったのだろう。
「んーーー、やだ!俺はいきなり蹴られかけて殴られかけてとってもとっても傷付いた!受け止めた掌もとっても痛い!」
「……いきなり暴力を振るってごめんなさい」
「ふん。ごめんで済むなら警察はいらないよーだ」
「……今度、菓子折りを持ってくるわ」
「まったく、君は何も分かってないな。俺は菓子折りなんて求めてないの。もっと実用的なものが欲しいなぁ」
「……何が望みかしら」
声が震える。今すぐにでもその口を縫い付けてやりたい。でも我慢。我慢だ
頭の中で二百回はコイツを殺しながら、今すぐにでも蹴り上げてしまいそうな足を必死に押さえ付ける。この間合いなら良い感じに金的を狙いそうだが、堪える。どうせ躱されるし。
「フッ。君の脳味噌は相変わらず忘れっぽいな。俺にとって呼吸よりも大切な事が何か、何度も教えたはずだが?」
まさか、まさかコイツ。まだ学生である私の大切なアレを狙っているのか。ずっと大切にしていたアレを。大切な誰かにしか渡しては行けないアレを。いざという時まで守っておくつもりだったアレを。
思わず顔を上げた私に、男はある場所を指差しながらニヤケ面を隠さない。その場所とは、割とどこにでもあり、特に繁華街に多く、多くの学生にとっては頼もしい味方となる、例の場所。
この男は本当に、欲望の為だけに、こんなにも残酷なことを。
「とっとと
即ち、廉価版スーパーマーケット、つまりはコンビニエンスストアであり、私はせっかくバイトして貯めた大切なお金を、この男の浪費としか思えない趣味に使えと、そう言っているのだ。
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