英雄をやめた日から   作:自給自足

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1話

要塞都市《アルティア》北東防衛線はすでに地獄だった。

夜の闇を切り裂くように無数の甲殻が月光を反射して迫ってくる。

最初に見た者はそれを波だと錯覚する。

だが違う。

あれは——生きている。

擦れ合う外殻の音が重なり低く濁った振動となって地面を伝う。耳ではなく骨に響く音だった。

兵士たちの喉が無意識に乾く。

「第三防衛線、突破された!」

通信魔術が怒鳴り声を増幅する。

「魔導砲、射角調整! 面制圧射撃!」

命令が飛び、光が走る。爆発が連鎖する。

だが——止まらない。

巨大な蟹のような個体が防衛線を踏み潰すように進む。

鈍く光る甲殻は魔導強化された刃でさえ弾く硬度を持つ。

振り回される棘状の触手が盾ごと騎士団を薙ぎ払った。

悲鳴が上がり、すぐに別の音にかき消される。

戦場はすでに均衡を失っていた。

その最前線にユート・レーヴェンは立っていた。

騎装魔導兵用の軽鎧。関節部に走る魔力回路が身体能力を底上げしているがこの戦場では誤差に過ぎない。

銀灰色の瞳が冷静に敵の動きを追う。

呼吸は浅い。しかし乱れてはいない。

「来い」

短く吐き出す。

次の瞬間、地面を蹴った。

爆発的な加速。視界が流れ、巨体の懐へ潜り込む。

振り下ろした長剣に魔力を収束させる。

——斬る。

甲殻の継ぎ目。最も脆い一点。正確に捉えた刃が深く食い込む。

鈍い手応えのあと、内部へ到達する感触。

緑色の体液が噴き出した。

甲高い断末魔。巨体が傾ぐ。

——一体、仕留めた。

だが。

「……意味がない」

低く呟く。

砕けた甲殻の隙間から小型の個体が滲み出るように這い出してくる。

再生。分裂。増殖。

倒したはずの敵が形を変えて数を増やす。

それがこの戦場の常識だった。

ユートは剣を振るいながら、内心で吐き捨てる。

斬る。弾く。踏み込む。

動きに迷いはない。だがそれでも状況は変わらない。

人類は、この戦争で一度も勝ったことがない。

十七年。国土の八割を失い、残されたのは要塞都市のみ。ここ《アルティア》も、その一つに過ぎない。

肩で息をする。

戦闘は始まったばかりだというのに身体がわずかに重い。

——違和感。

だが、気にするほどではない。

(俺は……この戦場で役に立つ)

それは祈りではない。

確認だ。

前世の記憶が脳裏をかすめる。

報われなかった人生。

ただ働き、消耗し、最後は過労で死んだ。誰にも必要とされなかった。

——だから。

(ここでは、違う)

剣を振るう。

血と体液が飛び散る。

(役に立たないなら、ここにいる意味がない)

その考えに、迷いはなかった。

「ユート! 右翼が崩れる!」

同期のレオンの叫びが響く。

視線だけで状況を把握する。右翼が押されている。小型群体が流れ込み、陣形が歪んでいる。

放置すれば崩壊する。

判断は一瞬。

ユートは地面を蹴った。

横へ流れる。途中で一体を斬り捨てさらに加速する。

右翼へ到達。

剣を横薙ぎに振るう。

魔力を乗せた一撃が群体をまとめて弾き飛ばした。

わずかな隙間が生まれる。

「立て直せ!」

怒鳴る。

命令系統外だが関係ない。今は穴を埋めることが優先だ。

兵士たちが動く。陣形が再構築される。

ほんの数秒。

だがそれだけで戦線は繋がる。

ユートは息を吐いた。

肺が熱い。

視界の端がわずかに揺れる。

(……早いな)

消耗の進行が想定より速い。

まだ、来ていないはずなのに。

そのときだった。

後方の空気が、変わる。

戦場のざわめきの中でそれだけが異質だった。

魔力が、収束している。

ユートはほんの一瞬だけ視線を後方へ向けた。

高台。

まだ姿は見えない。

だが——分かる。

(……来る)

確信。

同時に身体の奥がわずかに軋む。

まだ発動していない。

それなのに。

まるで予告のように内側から何かが軋み始める。

指先がわずかに痙攣する。

呼吸が一瞬だけ遅れる。

(……やっぱりか)

小さく息を吐く。

剣を握り直す。

力が入らないわけではない。

ただどこかが噛み合っていない感覚。

それでも——

「問題ない」

誰にも聞こえない声で呟く。

前を見る。

黒殻種は止まらない。

戦いも終わらない。

このままでは、持たない。

だから——次で決まる。

戦場の流れも。

そして自分の消耗も。

夜はさらに深くなる。

空気が次の一撃を待っている。

ユートは剣を構えたまま静かに息を整えた。

——来る。

それだけがはっきりしていた。

空気が、引き絞られる。

それは音ではなかった。だが確かに戦場にいた全員が何かが変わったと理解した。

魔力が収束している。

後方——高台。

そこに、ひとつの影が立っていた。

リアナ・ヴァルディス。

銀白に近い長い髪が戦風に揺れている。夜の闇の中で、その輪郭だけが異様に鮮明だった。

彼女は動かない。

ただ、戦場を見ている。

紫水晶のような瞳が感情を排したまま前線を捉えていた。

その存在だけで空気が変わる。

ユートは静かに息を吐いた。

理解している。

この戦場の流れもこのタイミングも。

(来る)

確信。

指先が震える。

視界の端がわずかに歪む。

呼吸が浅くなる。

思考は冷静だった。

むしろ、それを確認するように。

剣を握り直す。

足を踏みしめる。

崩れないように。

受け止めるために。

リアナが一歩前に出た。

それだけで世界が変わる。

音が遠のく。

風が止まる。

時間がわずかに遅れる。

彼女が両手を前方へ伸ばす。

詠唱はない。

陣もない。

ただ、そこに“集まる”。

魔力が——いや、もっと直接的な“力”が。

空間の一点に光が凝縮される。

収束。

圧縮。

臨界。

ユートはその光景を見ながら呼吸を整えた。

逃げ場はない。

これは現象だ。

避けられないもの。

(ここだな)

覚悟は最初から決まっている。

剣を握る手に力を込める。

膝をわずかに曲げる。

衝撃に備える。

リアナの唇がわずかに動いた。

声は聞こえない。

だがそれで十分だった。

次の瞬間。

世界が貫かれた。

光。

一直線の閃光が夜空を裂く。

それは槍だった。

純粋な破壊を形にした巨大な一撃。

空間を歪ませながら黒殻種の群体の中心へ突き刺さる。

衝突。

そして——爆発。

音が遅れて追いつく。

地面が裂ける。

空気が押し潰される。

甲殻が粉々に砕け散り、緑色の体液が霧のように舞い上がる。

数十体どころではない。

その場に存在していた群れそのものが消し飛ぶ。

抉られた大地が露出し炎が上がる。

黒煙が空を覆う。

戦場の一角が完全な空白になる。

——止まった。

黒殻種の進軍が。

完全に。

「……は?」

誰かが間の抜けた声を漏らす。

次の瞬間。

「や、やった……!」

歓声が上がる。

騎士団の士気が一気に跳ね上がる。

「押し返せ!!」

怒号が響く。

前線が動く。

人類が前へ進む。

その光景をユートはぼんやりと見ていた。

——来た。

内側から。

遅れて。

だが確実に。

激痛。

内臓を直接掴まれて、引き裂かれるような痛み。

視界が白く弾ける。

呼吸が止まる。

肺が動かない。

心臓の鼓動が、一瞬遅れる。

(……これだ)

自身の力、リアナが受けるべき反動を引き受ける。

そうすることであの一撃は成立している。

その反動。

それが今この瞬間に来ている。

誰も知らない。

誰も気づかない。

この痛みは自分だけのものだ。

「ユート!」

レオンの声がすぐそばで響いた。

肩を掴まれる。

揺さぶられる。

反応が遅れる。

体が言うことを聞かない。

(……立て)

思考だけが先に動く。

体は遅い。

それでも——

ユートは歯を食いしばった。

口の中に血の味が広がる。

無理やり呼吸を通す。

肺が焼ける。

だが、空気が入る。

「……っ」

喉の奥に血が溜まる。

飲み込む。

吐かない。

まだ戦場だ。

倒れるには早い。

視界の端で、レオンが何か叫んでいる。

音が遠い。

代わりに自分の内側の音だけがやけに大きく響く。

軋む。

擦れる。

削れる。

ユートはゆっくりと息を吐いた。

呼吸が戻る。

痛みは消えない。

だが慣れている。

これが普通だ。

これが自分の役割だ。

顔を上げる。

前を見る。

黒殻種は後退している。

あの一撃で流れは完全に変わった。

持ち直した。

それで十分だ。

ユートは剣を支えにゆっくりと立ち上がる。

体は重い。

だが動く。

問題ない。

予定通りだ。

視線を上げる。

高台。

リアナがこちらを見ていた。

距離はある。

だが視線は合った。

ほんの一瞬。

その瞳に——

何かが揺れた。

(……見たか?)

ほんの僅か。

だが確かに。

ユートはすぐに表情を整えた。

笑う。

いつも通りに。

軽く手を上げる。

大丈夫だと伝えるように。

リアナの表情がわずかに強張る。

だがそれ以上は変わらない。

彼女はすぐに視線を外し次の戦況へと意識を戻した。

それでいい。

気づく必要はない。

気づかせる必要もない。

(これは、俺の役割だ)

ユートは視線を外した。

戦場に戻る。

まだ終わっていない。

だが流れは変わった。

夜は続いていく。

 

戦闘が終わった。

黒殻種の最後の個体が倒れた瞬間、戦場に重い静けさが落ちた。

地面は抉れ、緑色の体液と甲殻の破片が散らばり、焦げた臭いが夜風に乗って漂っている。

騎士団の兵士たちが荒い息を吐きながら剣を下ろす。

誰かの安堵の溜息が聞こえた。

「……終わったか」

レオンが剣を杖代わりにして立ちユートに声をかけた。

だがユートは返事をしなかった。

剣を地面に突き立て身体を支えるようにして立っていた。

視界が白く霞み肺が焼けるように熱い。

内側からゆっくりと、確実に削られている感覚。

(……深いな、今回は)

前世の記憶がよぎる。

過労で死んだ夜の感覚に似ている。

ただ、あの時は「終わった」と思った。

今は違う。

まだ、終わっていない。

「ユート!」

レオンが駆け寄ってくる。

ユートの肩を掴み顔を覗き込んだ。

「おい、顔色が……」

「大丈夫だ」

ユートはすぐに笑顔を作った。

作り慣れたいつも通りの表情。

「少し息が上がっただけだよ」

レオンは信じていない目をしたがそれ以上は追及しなかった。

周囲の兵士たちも次第に歓声に変わっていく。

「押し返したぞ!」「リアナ様のおかげだ!」

その名を聞いた瞬間ユートの胸がわずかに痛んだ。

高台の方を見る。

リアナ・ヴァルディスが静かに立っていた。

銀色の長い髪が夜風に揺れ、紫の瞳が戦場を静かに見下ろしている。

英雄の顔。

完璧で、孤独で、誰も寄り付けない顔。

ユートはゆっくりと息を吐いた。

痛みが波のように引いてはまた押し寄せてくる。

内臓の奥が軋む。

骨の髄が熱を持つ。

それでも立っている。

倒れるわけにはいかない。

(これでいい)

前世で価値を見出せなかった自分がこの世界で唯一役に立てる瞬間。

リアナを英雄にし、皆を守るための歯車になる。

それが自分の意味だった。

「ユート」

声が近い。

振り向くとリアナがすぐそばに立っていた。

戦闘の余韻で息が少し乱れているが表情は穏やかだ。

しかしその瞳の奥に——

ほんのわずかな影のようなものが混じっていた。

「顔色が悪いわ。……本当に大丈夫?」

心配そうな声。

幼馴染みとして彼女はユートの小さな変化を見逃さない。

ユートは笑って首を振った。

「少し疲れただけ、問題ないよ。」

いつもの言葉。

いつもの笑顔。

リアナはそれを見ながらわずかに眉を寄せた。

何か言いかけたが結局口を閉じた。

代わりにそっとユートの袖を掴む。

昔から変わらない軽い触れ方。

だが今日は少しだけ力が強かった。

「……無理しないで」

小さな声。

戦場では聞こえないくらいの声。

ユートは頷いた。

「ああ」

それで会話は終わった。

それで十分だ。

そのとき後方から足音が近づいてきた。

落ち着いた、しかし確かな歩調。

エレナ・クロスだった。

白衣を羽織った首席魔導医官。

彼女はユートの顔を見た瞬間、眉をひそめた。

「ユート・レーヴェン。またケガをしたのか?」

淡々とした声。

感情はない。

だが観察する目は鋭い。

ユートは軽く肩をすくめた。

「大したことないですよ」

「そうは見えないわね」

エレナは近づき、ユートの腕を取って脈を測る。

指先が冷たい。

彼女はすぐに顔を上げた。

「魔力回路の乱れがひどい。負荷が蓄積しているみたいだけど……何か心当たりは?」

一瞬の沈黙。

ユートは笑顔を崩さない。

「戦闘の後ですから」

エレナは視線を細めた。

何か言いたげだったが、リアナがいることに気づき、言葉を飲み込んだ。

「後でちゃんと診察に来なさい」

それだけ言って彼女は去っていった。

リアナがユートの顔をじっと見つめる。

心配とほんの少しの疑念が混じった瞳。

ユートはいつものように微笑んだ。

「心配しすぎだよ、リアナ」

「……そうかしら」

リアナは小さく息を吐いた。

だがその瞳の奥に残った影は消えなかった。

夜が深まる。

戦場は静かになった。

勝利の余韻と疲労と微かな違和感が混ざり合った空気の中でユートは剣を鞘に収めた。

(これでいい)

また一つ彼女を守れた。

また一つ英雄に近づけた。

前世で価値を見出せなかった自分が貢献できたと実感できる瞬間。

それだけで痛みは報われる。

リアナが隣に並ぶ。

二人は無言で基地へ戻り始めた。

肩が触れ合う距離。

幼馴染みとして当然の距離。

だが今夜はその距離が少しだけ重く感じられた。

遠くで黒殻種の咆哮が響いた。

戦争はまだ続く。

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