英雄をやめた日から   作:自給自足

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10話

瘴気は、音を殺す。

崩落した監視塔の上で、セラは息を潜めながら目を閉じていた。

風がない。

それでも空気だけがゆっくり流れている。

腐った鉄と、湿った石と、黒殻種の体液の臭い。

その奥に――いた。

「……見つけた」

声が掠れる。

耳当ての内側で、微細な振動が脳を叩いていた。

最上位個体。

一体ではない。

二体。

さらにその周囲を、数百単位の群体が循環している。

黒い波だ。

瓦礫の街路を埋め尽くし、建物の壁を這い、半壊した礼拝堂の天井を軋ませながら移動している。

その中心。

瘴気の最も濃い場所で、巨大な甲殻がゆっくり呼吸していた。

まるで街そのものが脈打っているみたいだった。

セラの喉が震える。

また見えてしまった。

どこが崩れるか。

誰が死ぬか。

どの防衛線が間に合わないか。

全部。

先に。

「北区画、あと十八分で崩れます」

通信機越しにそう告げると、向こう側で沈黙が落ちた。

すぐに別の声。

『避難は』

「……間に合いません」

短い罵声。

誰かが机を叩く音。

だが、それで現実は変わらない。

セラは視線を下へ落とした。

崩壊した建物の陰。

そこにリアナ隊が潜伏している。

八人。

少数。

だが今、アルティアで最も成功率の高い部隊。

その代わり、生還率も最悪だった。

『中枢急襲任務を承認』

『リアナ隊に全権を委譲する』

『帰還は期待しない』

指令部の声を思い出す。

使い潰すための声だった。

でも。

それでもリアナは頷いた。

セラはその時の横顔を思い出す。

迷いはあった。

疲労もあった。

それでも、選んだ。

今も。

瓦礫の隙間で、リアナは静かに座っている。

白い戦装束はもうほとんど灰色に汚れていた。

腕には血が滲んでいる。

神経負荷だ。

長期潜伏だけで、もう身体が削れている。

その少し後ろ。

ユートが壁にもたれていた。

内部拘束帯の隙間から、黒ずんだ血が滲んでいる。

呼吸が浅い。

だが目だけは死んでいなかった。

「セラ」

小声。

ユートがこちらを見る。

「動き、読めるか」

セラは再び目を閉じる。

残響。

振動。

群体同士が擦れる音。

統制核を中心にした魔力循環。

以前は全部バラバラに見えていた。

でも今は違う。

完全な無秩序じゃない。

波がある。

偏りがある。

戻る軌道がある。

「……九十秒後」

「北側群体が入れ替わります」

「空白できます」

ユートの視線が鋭くなる。

「幅は」

「八秒」

短い沈黙。

六秒。

普通なら不可能。

だが。

リアナが立ち上がった。

「十分ね」

静かな声だった。

誰かを鼓舞する声じゃない。

覚悟を確認する声。

隊員たちが無言で装備を確認する。

重火器の装填音。

崩落誘導用の杭を担ぐ工兵。

通信兵が有線端末を確認する。

全員、理解していた。

ここで止めなければ、複数区画が消える。

避難民ごと。

都市ごと。

セラは唇を噛んだ。

見えてしまう。

西区画の崩壊。

逃げ遅れた子供。

押し潰される避難路。

全部。

でも同時に。

ここで最上位個体を落とせば、生き残る区域も見えていた。

助かる人間もいる。

以前より、少しだけ多く。

リアナがこちらを見る。

「セラ」

「……はい」

「道を」

セラは震える息を吐いた。

怖い。

今でも。

未来を見るたびに、吐きそうになる。

でも。

見えるだけでは終われない。

「北側六秒」

「次に東側九秒」

「その後、中央循環が乱れます」

「そこが最短です」

ユートが立ち上がる。

剣を抜く。

黒殻種の体液で変色した刃。

何度も酷使され、刃こぼれだらけなのに、それでも折れていない。

「行くぞ」

その瞬間だった。

遠方で爆音。

囮部隊が砲撃を開始した。

群体が一斉に咆哮する。

黒い濁流がそちらへ流れた。

空白。

六秒。

「今です!」

ユートが飛び出した。

速い。

瓦礫を蹴り砕きながら、真正面から群体へ突っ込む。

小型個体が跳ねる。

触手。

牙。

腐食液。

全部まとめて、剣が叩き潰した。

甲殻が砕ける音。

肉が裂ける音。

黒い体液が壁へ飛び散る。

ユートは止まらない。

一体を斬り裂いた勢いのまま肩で次を吹き飛ばし、崩れた柱へ叩きつける。

骨の砕ける鈍い音。

直後、横壁から中型個体が出現。

巨大な触手が振り下ろされる。

「右!」

セラが叫ぶ。

ユートは振り向きもしない。

半歩だけ軸をズラす。

触手が肩を掠め、背後の壁を粉砕した。

その隙。

白い影が滑り込む。

リアナ。

極薄の魔力刃が閃いた。

音がない。

ただ、触れた。

次の瞬間。

中型個体の甲殻内部から紫色の光が爆ぜた。

内側から焼き砕かれる。

殻が崩れ、肉片が静かに崩落した。

リアナは止まらない。

次。

さらに次。

必要最小限の動きだけで、急所だけを切り裂いていく。

まるで戦場を削っているみたいだった。

セラは走りながら索敵を続ける。

見える。

敵の流れ。

崩落予測。

群体循環。

以前より。

ほんの少しだけ。

読める。

「中央群、戻ります!」

「三秒!」

「左上から来る!」

工兵が爆薬を起動。

崩落。

建物ごと通路が潰れる。

群体が押し留められる。

その隙に隊が突き抜ける。

呼吸が乱れる。

頭痛が酷い。

視界が揺れる。

それでもセラは観測をやめなかった。

未来は見える。

死も見える。

でも今は。

その先で、何を選ぶかを決めるために見ている。

そして。

瘴気の最深部。

崩れた大聖堂跡。

そこに中枢がいた。

巨大だった。

街路を埋めるほどの黒い甲殻。

無数の触手。

脈動する紫の光。

周囲の群体全部が、その存在を中心に呼吸している。

「見つけた……」

最上位個体。

アルティア全域を崩壊寸前まで押し込んだ元凶。

その巨大な頭部が、ゆっくりこちらを向いた。

 

最上位個体が姿を現した瞬間、瘴気の流れそのものが変わった。

空気が沈む。

地面が脈動する。

大聖堂跡の奥、黒紫の巨大な甲殻がゆっくりと持ち上がっていく。幾重にも重なった殻の隙間から、緑色の腐食液が糸を引いて滴り落ちていた。

周囲にいた黒殻種が、一斉にこちらを向く。

命令が切り替わったのだ。

守護。

中枢防衛。

群れ全体の意識が、明確に一点へ収束する。

「来る!」

セラの声。

直後、通路全体を埋め尽くす勢いで、小型群が雪崩れ込んできた。

ユートは剣を振り抜いた。

横薙ぎ。

先頭の二体をまとめて叩き潰す。

殻が割れ、腐食液が飛び散る。

だが止まらない。

次が来る。

その次が来る。

奥からさらに中型個体が突進してくる。

巨大な前脚が石床を砕いた。

「前、開ける!」

叫びながら踏み込む。

重い。

身体がもう、正常に動いていない。

内部拘束帯の下で筋肉が裂ける感覚が続いている。呼吸のたびに胸が軋み、視界の端が赤黒く滲んだ。

それでも足を止めない。

止まれば終わる。

いや。

それだけじゃない。

止まれば、ここまで積み上げたものが途切れる。

セラが見つけた規則性。

潜伏時間の更新。

移動予測。

護衛分断。

生存率。

全部。

全部が、ただの消耗で終わる。

「右、三秒後!」

セラ。

ユートは反射的に身体を捻った。

直後、横壁を突き破って触手が飛び出す。

棘が頬を掠め、血が散る。

そのまま剣を突き込み、関節を断ち切った。

さらに踏み込む。

後ろを振り返らない。

リアナがいる。

だから前だけ開けばいい。

それが自分の役割だった。

黒殻種の群れが密集する。

最上位個体へ近づくほど、防衛密度が跳ね上がっていた。

大型個体。

中型。

小型。

全部が通路を埋める。

まるで巨大な生物の内臓の中を進んでいるみたいだった。

「ユート!」

通信兵の叫び。

上。

見上げた瞬間、天井から中型個体が落下してくる。

ユートは真正面から踏み込んだ。

剣を逆手気味に構える。

衝突。

轟音。

両腕が軋む。

骨が悲鳴を上げる。

だが押し返す。

さらに肩から体当たりを叩き込んだ。

中型個体が僅かによろめく。

その隙間を、銀色の閃光が抜けた。

リアナ。

最小動作。

最短軌道。

無駄のない斬撃。

中型個体の継ぎ目だけが切断される。

巨体が崩れ落ちた。

だがその瞬間。

身体の奥が焼けた。

リアナの負荷がこちらへ流れ込んでくる。

神経が灼ける。

視界が白く弾ける。

膝が沈みかけた。

――重い。

だが。

ユートは息を吐く。

感じる。

向こうも、こちらを感じている。

負荷。

損傷。

限界。

全部。

繋がっている。

だから隠せない。

以前なら、これを壊れるだけの仕組みだと思っていた。

自分が削れればいいと。

その間に、誰かが生き残ればいいと。

でも違う。

今は違う。

壊れることそのものに意味はない。

意味になるのは、その先だ。

削れた結果、何が残るか。

何を次へ渡せるか。

それだけだ。

「前、二十!」

セラ。

ユートは歯を食いしばった。

中枢が見える。

巨大な殻。

脈動する統制核。

その周囲を、上位個体が壁のように囲っている。

護衛群が一斉に動いた。

突進。

咆哮。

触手の豪雨。

空間が埋まる。

「――っ!」

ユートは真正面から突っ込んだ。

剣を振る。

一体。

二体。

三体。

切断では足りない。

殴り飛ばす。

押し潰す。

肩で弾き、身体ごと押し込む。

触手が腹を貫きかける。

半歩ずらす。

脇腹が裂ける。

血が飛ぶ。

それでも止まらない。

内部拘束帯が千切れた。

固定していた金具が弾け飛ぶ。

全身へ激痛が走る。

限界超過。

分かっていた。

もう保たない。

それでもユートは前へ出る。

後ろで、リアナの魔力が膨れ上がるのを感じた。

負荷が流れ込む。

神経が焼き切れるみたいだった。

だが、構わない。

リアナが届けばいい。

その一撃が。

次の選択を残せるなら。

「行け!!」

叫ぶ。

同時に、最後の踏み込み。

剣を叩きつける。

上位個体の防御姿勢を、力任せに崩した。

空いた。

一瞬。

ほんの一瞬。

そこへ、リアナが滑り込む。

銀色の軌跡。

空気が裂ける。

統制核へ到達。

その瞬間。

こちらへ流れ込む負荷が、限界を超えた。

血が噴き出す。

視界が崩れる。

だが、最後に見えた。

リアナが踏み込む姿だけは。

止まらない。

もう迷わない。

選ぶ。

そのために。

刃が振り下ろされた。

静かな一閃。

次の瞬間。

統制核が、崩壊した。

 

最初に崩れたのは、音だった。

統制核が砕けた瞬間。

瘴気域全体を満たしていた低い唸りが、不意に途切れた。

それまで絶え間なく響いていた黒殻種の咆哮も、触手の擦れる音も、地面を叩く甲殻の振動も、ほんの一瞬だけ止まる。

静寂。

次の瞬間。

群れが壊れた。

上位個体が互いに衝突する。

小型群が命令を失い、無秩序に暴れ始める。

中型個体が仲間同士で触手を噛み砕き、腐食液を撒き散らしながら後退していく。

繋がりそのものが切断されたように。

「……成功、したのか」

ユートは膝をついた。

剣を地面に突き立て、辛うじて身体を支える。

肺が熱い。

呼吸するたび血の味が広がった。

全身の感覚が曖昧だった。

どこが裂けているのか、もう分からない。

それでも。

流れ込んでくる感覚だけは消えない。

リアナの負荷。

神経の焼ける痛み。

魔力回路の軋み。

それが、まだこちらへ流れている。

生きている。

その事実だけが分かった。

瓦礫の向こうで、銀色の刃がゆっくり下がる。

リアナが立っていた。

肩で息をしている。

片腕は震え、足元には血と腐食液が混ざって広がっていた。

それでも倒れない。

リアナはまず、統制核の崩壊を確認した。

周囲の群れの動き。

護衛個体の混乱。

撤退方向。

そこまで確認してから、ようやくこちらを見る。

視線が合う。

その瞬間。

こちらの損傷が、向こうへ伝わる。

ユートは少しだけ苦笑した。

「……顔、酷いぞ」

リアナは答えなかった。

ただ、こちらへ歩いてくる。

足取りは重い。

だが止まらない。

途中、混乱した小型個体が一体、瓦礫の隙間から飛び出した。

反応したのは、ほぼ同時だった。

ユートが剣を上げる。

リアナが踏み込む。

銀色の閃光。

小型個体の胴体が斜めに裂ける。

崩れ落ちる。

短い沈黙。

そしてリアナが言った。

「……遅い」

「重傷なんだから仕方ないだろ」

リアナはユートの前に立つ。

静かな目だった。

昔のような、全部を背負おうとする英雄の目ではない。

壊れかけながら、それでも前を見ている目だ。

「前なら、あなたはもっと無茶をした」

「してたかもな」

「でも今日は、生きようとしてた」

ユートは少しだけ目を伏せた。

その通りだった。

以前なら。

自分一人が壊れればいいと思っていた。

その方が効率的だと。

その方が犠牲が少ないと。

でも今は違う。

今まで積み重ねたもの全部が次へ繋がる。

自分がここで消えるだけでは足りない。

残さなければ意味にならない。

「……良くしたいんだよ」

掠れた声で言う。

「少しでも」

「次の選び方を」

リアナはしばらく黙っていた。

それから、ゆっくり隣へ座り込む。

肩が触れる。

互いの負荷が流れ込む。

痛み。

疲労。

損傷。

全部、隠せない。

でも今は、それが嫌ではなかった。

遠くで爆発音が響く。

崩落誘導が始まっている。

通信兵の声も聞こえる。

撤退路の確保。

生存者確認。

まだ戦場は終わっていない。

だが。

以前とは違った。

統制崩壊後の挙動。

逃走方向。

暴走範囲。

全部が記録されていく。

セラの理論を元に、黒殻種の行動が予想できる可能性。

それが生まれていた。

完全な勝利ではない。

世界は終わっていない。

黒殻種も消えていない。

それでも。

確かに変わった。

「ユート」

「ん?」

「帰ったら、また報告書を書くのよね」

「たぶんな」

「セラがまた徹夜するわね」

「間違いない」

少しだけ。

本当に少しだけ。

リアナが笑った。

その瞬間、ユートは気づく。

ああ。

彼女はもう、英雄をやめた英雄じゃない。

傷つきながら。

選びながら。

それでも次を繋ごうとする人間なんだ、と。

瓦礫の向こうから朝日が差し込む。

瘴気の薄れた空に、淡い光が広がっていく。

遠く。

アルティアの外壁付近で、新しい防衛部隊が動き始めていた。

以前より小規模な迎撃線。

無駄の少ない配置。

誘導路を利用した撤退経路。

観測結果を反映した索敵陣形。

全部。

ほんの少しずつだ。

劇的じゃない。

世界は救われていない。

でも、前よりマシになっていた。

リアナが立ち上がる。

ユートへ手を差し出した。

「動ける」

「……もちろんだ」

「なら、早くする」

ユートはその手を掴む。

引き上げられる。

全身が悲鳴を上げた。

それでも立つ。

隣には、リアナがいる。

少し前を歩きながら。

時々こちらの痛みを感じ取りながら。

それでも進む。

ユートは朝焼けの向こうを見る。

崩れた都市。

終わらない戦争。

消えない傷。

それでも。

人は、選び方を更新できる。

その小さな積み重ねだけは。

誰にも、奪えなかった。

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