英雄をやめた日から 作:自給自足
要塞都市《アルティア》の空は相変わらず低く、重かった。
煤。
瘴気。
焼けた石材。
遠くで鳴る警報。
それらが混ざり合って、空は常に濁っている。
けれど今日は、その灰色の向こうに、少しだけ薄い青が見えていた。
リアナは外壁上の通路をゆっくり歩く。
左肩の古傷が痛む。
魔力回路の焼損は完全には戻っていない。
戦闘後から数週間が経った今も、無理に出力を上げれば神経が軋む感覚が残る。
だが、それでよかった。
傷が消えないことを、今は受け入れている。
通路の下では、新しい防衛部隊が訓練を行っていた。
「第三列、半歩下がれ!」
「残響予測、左偏差二度!」
「撤退誘導路、先に開け!」
以前とは違う声だった。
ただ気合で押し返すだけではない。
観測。
予測。
撤退。
生存。
それを前提に組まれた動き。
完璧には程遠い。
ぎこちない。
判断も遅い。
それでも、変わっていた。
リアナは訓練場の端を見る。
セラがいた。
山のような記録紙に埋もれながら、若い索敵兵たちへ説明している。
「違います、そこは音じゃなくて遅れを見るんです」
「統制核の残響は完全な円じゃありません」
「崩れる前に、必ず偏ります」
眠そうな顔。
隈だらけの目。
だが声だけは妙に強かった。
以前のセラなら、人前でこんなふうに話せなかっただろう。
見えるだけだった少女は今、見えた先で何を選ぶかを教える側になっていた。
その変化を見ながら、リアナは小さく息を吐く。
「……成長したわね」
「誰のせいだと思ってる」
隣から声。
振り向く。
ユートが壁にもたれていた。
包帯だらけだった。
右腕には固定具。
首元にはまだ内出血が残っている。
それでも以前より、少しだけ穏やかな顔をしていた。
「もう動いてていいの?」
「三日前も同じこと言われた」
「今日はもっと酷い顔してる」
「鏡見てから言え」
リアナは少しだけ眉を寄せる。
だが反論はできない。
自分も大差ないと分かっていた。
ユートが視線を訓練場へ向ける。
「避難成功率、前期より上がったらしい」
「聞いたわ」
「群体行動の予測精度も改善」
「……ええ」
「まだ誤差だらけだけどな」
「それでも、前よりはマシ」
自然に出た言葉だった。
言ったあとで、リアナは少しだけ驚く。
以前の自分なら、“マシ”なんて言葉で納得できなかった。
全部を守れないなら意味がないと思っていた。
救えなかった命ばかり見ていた。
でも今は違う。
失ったものは消えない。
選ばれなかった命も戻らない。
それでも。
同じ死に方を少し減らせるなら。
次の誰かが、ほんの少しでも良い選択をできるなら。
その積み重ねには意味があると、思えるようになっていた。
遠くで警鐘が鳴る。
観測塔。
新たな黒殻種群の接近報告。
訓練場の空気がすぐ変わる。
兵士たちが動き出す。
セラが即座に指示を飛ばしていた。
「西側はまだ早い!本命は南です!」
以前なら、混乱していた。
怒号が飛び交っていた。
だが今は違う。
未熟でも。
傷だらけでも。
この都市は、少しずつ学習している。
リアナは壁の向こうを見る。
黒い群れが、地平線の先で蠢いていた。
戦争は終わっていない。
これからも誰かが傷つく。
誰かを選び、誰かを選べない。
その痛みは消えない。
たぶん、一生。
「行くか」
ユートが身体を起こす。
リアナは頷く。
そして歩き出す。
並んで。
以前のように、英雄としてではなく。
全部を救えると信じた理想でもなく。
傷つきながら。
迷いながら。
それでも選び続ける者として。
風が吹く。
灰色の空の向こうに、細い光が差していた。
小さい。
本当に小さい光だった。
けれど、それは確かに前を照らしていた。