英雄をやめた日から   作:自給自足

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2話

朝の鐘が、六回、静かに鳴り響いた。

要塞都市《アルティア》の下層区画はいつものように薄暗い朝を迎えていた。

石畳の道には昨夜の戦闘の残骸がまだ残り、乾いた血痕と黒殻種の甲殻の破片が朝露に濡れている。

空気は重く、焦げた臭いが微かに混じっていた。

ユート・レーヴェンは簡素な部屋の寝台からゆっくりと上体を起こした。

左胸の奥に鈍い疼きが残っている。

昨夜の反動だ。

内側からじわじわと削られるような感覚はまだ完全に引いていなかった。

ユートは小さく息を吐き、指を曲げて確認する。

力は入る。動けないほどではない。

問題ない——そう判断して、軽鎧を身に着け始めた。

鏡に映る自分の顔はわずかに青白かった。

目の下に薄い影が落ち、瞳が少し疲れている。

前世の記憶がふとよぎる。

報われない人生。誰からも必要とされず、ただ消耗して死んだ日々。

この世界でリアナを守るために壊れること——それが、自分の価値だ。

ユートは剣を腰に差し、部屋を出た。

基地の通路はすでに人の気配で満ちていた。

忙しなく行き交う兵士たち、報告書を抱えた伝令、担架を運ぶ補助兵。

誰もが止まらない。止まれば遅れる。遅れれば崩れる。

それを全員が理解している。

外へ出ると朝の空気がわずかに冷たかった。

訓練場ではすでに騎士団の兵士たちが動き始めている。

剣の打ち合う音、魔力を流す低い唸り、号令。

その中心にガルド団長の姿があった。

ユートが訓練場に入るとすぐに声がかかった。

「おはよう、ユート」

柔らかい、聞き慣れた声。

振り向くとリアナ・ヴァルディスが立っていた。

銀白色に近い長い髪を朝風に揺らし、紫水晶のような瞳でこちらを見ている。

白と青を基調とした軽い外套を羽織った姿は戦装束とは違う、穏やかな印象だった。

幼馴染みとして育った二人は誰の目も気にせず自然に距離を縮められる。

「おはよう、リアナ」

ユートは自然に微笑んだ。

いつも通りの柔らかい笑顔。

リアナは少しだけ近づき、ユートの顔をじっと見つめた。

「……顔色が悪いわ。」

声は心配そうだったがどこか探るような響きも混じっていた。

ユートは肩を軽くすくめる。

「ただの疲れだよ。ちょっと消耗しただけさ」

軽い口調で返す。

作り慣れたいつも通りの返し方。

リアナは視線を逸らさなかった。

紫の瞳がわずかに細まる。

「本当に?」

一瞬の間。

その沈黙がユートの胸を軽く刺した。

「ああ」

ユートはもう一度笑顔を重ねる。

自然に。いつものように。

リアナはしばらく黙っていた。

やがてそっとユートの袖を掴む。

昔から変わらない軽い仕草。

だが今日は少しだけ力が強かった。

「……無理しないで」

小さな声。

その奥に、幼少期からの信頼と微かな不安が混じっていた。

ユートは彼女の手を優しく握り返した。

「もちろんだ」

その言葉は優しく言えたと思う。

リアナは何も言わなかった。

訓練の号令が響き二人は並んで動き始めた。

背中を並べ、同じ方向へ。

だがその距離の内側には言葉にできない何かが確かに横たわっていた。

 

訓練を終えた後、二人は南側の森の巡回任務に就いた。

ユートとリアナは馬を並べて進んでいた。

後方にはレオンと数名の騎士が続き全体で小隊規模の編成だ。

朝の森は静かだったがその静けさは常に緊張を孕んでいる。

「最近、黒殻種の動きが活発化しているらしいわ」

リアナが前を向いたまま言った。

声は落ち着いているが、わずかに緊張が混じっている。

ユートは短く頷いた。

「ああ。昨夜の群体も、普段より連携が良かった」

馬の足音が落ち葉を踏む乾いた音を立てる。

森が深くなるにつれ空気が変わった。

湿った土の匂いの奥に微かな異臭が混じる。

黒殻種の気配だ。

「警戒を強めろ」

ユートが後方の部隊に声をかける。

レオンが頷き隊列を詰めた。

そして——茂みが突然弾けた。

小型の黒殻種が十数体、一斉に飛び出してきた。

個体としては脅威ではないが、数で押されれば陣形は崩れる。

「迎撃!」

ユートは即座に馬から飛び降り、剣を抜いた。

魔力を流し、刃を光らせる。

最初の一体に斬りかかる。

甲殻の継ぎ目を正確に捉え深く食い込ませる。

緑色の体液が噴き出した。

「右から来るぞ!」

レオンの声。

ユートは体を捻り横から迫る個体を蹴り飛ばす。

動きは滑らかだったはずだ。

だが——

(……遅い)

踏み込みがわずかに浅い。

昨夜の反動がまだ体に残っている。

呼吸がほんの少しだけ乱れる。

それでも止まらない。

剣を振り連続で二体を斬り伏せる。

体液が飛び散り地面を汚す。

リアナも動いていた。

馬上から魔力を放ち小型種の群れを正確に削る。

彼女の攻撃は派手ではない。

だが的確で無駄がない。

「ユート、左!」

リアナの声。

ユートは即座に反応しようとした。

しかし——左から来た個体の動きに反応が遅れた。

一瞬、身体が重く感じる。

剣を振り上げるのがほんのわずかに遅れる。

触手が迫る。

(まずい——)

その瞬間。

「ユート!」

リアナの叫び。

彼女は馬から飛び降り、ユートの左側に滑り込むように入った。

短い魔力刃を展開し触手を弾き飛ばす。

衝撃で彼女の体がわずかによろける。

ユートはすぐに体勢を立て直し、残りの個体を斬り捨てた。

戦闘は短時間で終わった。

小型種の残骸が地面に散らばり静けさが戻る。

「……終わったか」

レオンが息を吐く。

ユートは剣を納め軽く息を整えた。

胸の奥がじわりと疼く。

痛みは浅いが確実に蓄積している。

リアナがすぐ近くに立っていた。

彼女の視線がユートの顔を捉える。

「ユート……さっき、反応が遅れていたわ」

声は静かだったがはっきりとした心配が混じっていた。

今までの気のせいでは済まされない強い響きがあった。

ユートは笑って誤魔化す。

「少し滑っただけだよ。問題ない」

しかし、リアナは視線を逸らさなかった。

紫の瞳がユートをじっと見つめている。

探るような、確かめるような視線。

周囲の兵士たちもわずかにざわついていた。

レオンが眉を寄せてこちらを見ている。

「……本当に大丈夫か?」

レオンが声をかける。

その声にははっきりとした違和感が含まれていた。

ユートは軽く手を振った。

「みんな大げさだな。少し疲れてるだけだ」

笑顔を崩さない。

だが、その笑顔はほんの少しだけ引きつっていた。

リアナは一瞬何か言いかけた。

しかし結局言葉を飲み込んだ。

代わりに小さく息を吐く。

「……分かったわ」

彼女はそれ以上追及しなかった。

だがその横顔に浮かぶ影は先ほどより明らかに濃くなっていた。

 

巡回を終え基地へ戻る道中の休憩時間。

二人は倒木に並んで座り短い時間を過ごした。

言葉は少ない。

何かを逡巡する気配をリアナから感じた。

リアナがふと口を開く。

「ユート……昔を思い出すわ」

「孤児院の頃か?」

「ええ」

彼女は少しだけ目を細めた。

「あの頃、あなたは何も言わずに隣に座ってくれた。

私が誰とも話したくなかったのに」

ユートは小さく笑った。

「話す必要がなかったからな」

リアナは視線を落とす。

「……あなたがいてくれたから私は立ち直れた。

今も——あなたがいるから私は戦えるの」

その言葉は温かかった。

だがユートにとっては重かった。

ユートは視線を逸らさず静かに答えた。

「俺もリアナがいるからここにいられる」

それは本当だった。

リアナは何も言わなかった。

ただほんの少しだけ、ユートの肩に自分の肩を寄せた。

朝の森の風が二人の間を通り抜ける。

 

基地の門をくぐるといつもの喧騒が二人を迎えた。

負傷兵を運ぶ声、報告のやり取り、魔導具の調整音。

すべてが変わらない日常の音だった。馬を降り、手綱を預ける。

ユートは軽く肩を回した。

身体の奥の痛みはまだ残っている。

リアナが隣に並んだ。

心配が、先ほどの逡巡がはっきりとした形を取っていた。

「ユート……さっきの戦闘で、あなたが一瞬遅れたことだけど」

声は静かだったが、抑えきれない感情が滲んでいた。

これまで何度も聞いた「大丈夫?」とは違う。

温度が明らかに上がっていた。

ユートは杯を置いた。

指先がほんのわずかに震えていたがすぐに止めた。

「滑っただけだ。気にするほどじゃない」

返事は短かった。

だがいつもより少しだけ言葉が硬い。

一瞬、視線が泳いだ。

リアナはそれを見逃さなかった。

「滑っただけ?左側から来る個体に反応が遅れていた。私じゃなければ……」

言葉を飲み込む。

その先を言う必要はなかった。

ユートは視線を落とした。

一瞬だけ、喉が動く。

何か言いかけたが結局飲み込んだ。

「……リアナが庇ってくれたから、無事だった」

それだけを答える。

声は穏やかだった。

リアナは自分の手を軽く握りしめた。

「あなたはいつも、そうやって誤魔化す」

その言葉には苛立ちと悲しみが混じっていた。

ユートは何も言わなかった。

広場には午後の光が差し込んでいる。

いつもの喧騒が遠くに聞こえる。

負傷兵を運ぶ声、報告のやり取り、魔導具の調整音。

次の任務の準備をする兵士たちの声が聞こえる。

リアナが踵を返した。

「午後の任務、準備しないと」

声は事務的だった。

だがユートに向けた視線はいつもの柔らかさとは違っていた。

「俺も一緒に行く」

当然のように言う。

リアナは一瞬だけ彼を見た。

何か言いかけたが結局何も言わなかった。

二人は連れ立って歩き出した。

背中を並べ同じ方向へ。

リアナが一歩先を行った。

ユートはほんの一瞬だけ手を伸ばしかけた。

指先が、彼女の外套の裾に触れそうになる。

だが——

その手は途中で止まった。

何も掴めなかった。

リアナは振り返らなかった。

銀色の髪が午後の光に揺れている。

ユートはその背中をただ見つめていた。

胸の奥で静かな痛みが広がった。

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