英雄をやめた日から   作:自給自足

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3話

要塞都市《アルティア》の北東防衛線は、静かに軋んでいた。

崩壊は、突然起きるものではない。最初は小さな亀裂から始まる。誰も気づかないほどのわずかな歪み。そしてそれがやがて取り返しのつかない崩れへと変わる。

今、この戦場はその直前にあった。外壁の一部が崩れ落ち瓦礫の隙間から黒殻種が溢れ出してくる。

小型の個体が地面を這い兵士たちの足元へと食らいつく。

「陣形を維持しろ! 押し返せ!」

ガルド団長の怒号が飛ぶ。

だがその声に応じる余裕はもうほとんど残っていなかった。

騎士団の隊列はすでに歪みところどころに穴が空いている。

一歩下がれば、そこが崩れる。

そんな綱渡りのような防衛線だった。

ユート・レーヴェンはその最前線に立っていた。

魔力を流した長剣が鈍い光を帯びる。

彼は無駄のない動きで迫る黒殻種を斬り裂いた。

甲殻が砕け緑色の体液が飛び散る。

一体、二体、三体。

斬撃は正確で、迷いがない。

いつも通りの完成された動き。――だが。

(……重い)

ほんのわずかに踏み込みが浅い。

ほんのわずかに振り抜きが遅れる。

自分にしか分からない程度の極小のズレ。

だがそれは確かに存在していた。

「ユート! 右から来てる!」

レオンの声が飛ぶ。

ユートは即座に反応し体を捻る。

横から迫った個体の顎を斜めに断ち切った。

動きに問題はない。

判断も速い。

それでも——

(……やっぱり、鈍いな)

内側にだけ残る違和感。

体が自分の意思に対してほんの少しだけ遅れてついてくる。

それは疲労とも違う。

痛みとも違う。

言葉にしづらい引っかかりのような感覚だった。

「くそ、増えすぎだ……!」

レオンが舌打ちする。

倒したはずの黒殻種の残骸から小さな個体が這い出してくる。

砕けた甲殻の隙間から次の敵が生まれてくる。

終わらない。

削れば削るほど増えていく気さえする。

ユートは剣を横薙ぎに振るった。

三体まとめて吹き飛ばす。

そのまま一歩踏み込み、さらに一体を貫いた。

呼吸が少しだけ荒くなる。

肺の奥がじわりと熱い。

(……まだ、大丈夫だ)

自分に言い聞かせるように思考を整える。

昨日の戦闘の影響が残っているだけだ。

それ以上でもそれ以下でもない。

そう判断する。

そう判断したかった。その瞬間——

胸の奥で何かが小さく弾けた。

熱い。

内臓が溶けるようなじりじりとした熱。

同時に骨の髄が凍りつくような冷たさ。

視界の端が内側から削られるようにぼやける。

「……っ」

ユートは歯を食いしばった。

膝がほんの一瞬だけ沈む。

だがすぐに踏みとどまる。

倒れるわけにはいかない。

ここで崩れたらすべてが終わる。

「ユート、少し下がれ! 一度立て直す!」

レオンが叫ぶ。

だがユートは首を振った。

「まだ押せる。ここで下がると崩れる」

短く言い返す。

そのまま前へ出た。 小型種の群れに斬り込む。

刃が連続して閃き次々と甲殻を砕いていく。

動きはまだ精密だ。

まだ戦える。

まだ問題はない。

そう思った、その時。

ほんの一瞬だけ視界の端が歪んだ。

光の屈折のような理解不能な違和感。

すぐに元に戻る。

ユートの呼吸がわずかに乱れた。

(……集中しろ)

足元に迫った個体を蹴り上げ、空中で叩き斬る。

続けざまに背後の敵を振り向きざまに処理する。

動きはやはり完璧だった。

少なくとも周囲から見れば。

「さすがだな……ほんとに」

レオンが苦笑混じりに呟く。

「お前がいると前線が安定する」

ユートはそれに軽く肩をすくめて応じた。

「運がいいだけだ」

いつも通りの軽い返し。

だがその直後。

胸の奥にほんのわずかな違和感が走った。

痛みではない。

だが、無視できるほど軽くもない。

(……なんだ、今の)

一瞬だけ思考が引っかかる。

だが戦場はそれを許さない。

すぐに次の敵が迫る。

ユートはその違和感を切り捨てるように剣を振った。

斬る。

弾く。

踏み込む。 その一連の動作にわずかな遅れもない。

――はずだった。

(……やっぱり少しズレてるな)

誰にも気づかれない程度のズレ。

誰にも指摘されない違和感。

それでも確かに自分の中にだけ存在している。

戦場は何も変わらない。

敵は増え続け味方は削られていく。

終わりの見えない消耗戦。

その中でユートはいつも通り戦い続けていた。

ただ一つだけ。

ほんのわずかに。

何かが噛み合っていなかった。

 

森の奥は不気味なほど静かだった。つい先ほどまで続いていた小規模な戦闘は、ひとまず収束している。

倒れた黒殻種の残骸が地面に黒く広がり、粘ついた体液の匂いが空気に混じっていた。

騎士団はその場で簡易的な陣形を組み直し小休止に入っていた。

「……妙だな」

レオンが低く呟いた。

「さっきの群れ、規模の割に引き際が早すぎる」

「陽動かもしれないな」

別の兵士が答える。

緊張は解けていない。

むしろ、次への警戒が場を静かに張り詰めさせていた。

その中でユートは後方の木陰に立っていた。

「……っ」

息が、乱れる。

肺がうまく動かない。

空気を吸っているはずなのに奥まで届かない感覚。

胸の内側がじわじわと焼けるように痛む。

(……早いな)

想定よりも、明らかに。

まだ本格的な戦闘はしていない。

それなのに昨夜の“反動”がすでに身体を蝕み始めている。 指先がわずかに震えていた。

剣を握る右手に力を込める。

それでも、細かい揺れは止まらない。 視界が一瞬歪んだ。

木々の輪郭が溶けるようにぼやけ世界がほんの一瞬だけ遠のく。

「……っ」

ユートは咄嗟に目を閉じた。

深く息を吸い、吐く。

もう一度、吸う。

ゆっくりと瞼を開くと視界は元に戻っていた。

(……まだ、いける)

自分に言い聞かせるように小さく息を吐く。

「ユート?」

背後から声がした。

振り返るとリアナが立っていた。

銀色の髪が森の薄暗い光の中で淡く揺れている。

紫の瞳がまっすぐにユートを見ていた。

「さっきから、ここにいたの?」

「ああ、ちょっとな」

ユートは自然に笑顔を作る。

「敵の動きが気になってたんだ」

リアナは少しだけ首を傾げた。

視線がユートの顔をなぞる。

呼吸がほんの少しだけ荒い。

額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

「……息、乱れてるわ」

「気のせいだよ」

即答だった。

あまりにも自然に。

「さっき少し走ったからな。それだけだ」

リアナの胸の奥が小さく波打つ。

(……本当に?)

すぐにその思考を打ち消す。

(疲れているだけよね)

そうだ。

連日の戦闘。

誰だって消耗している。

ユートだけが特別なわけじゃない。

そう思えば納得できる。

納得してしまう。

「無理しないで」

リアナは静かに言った。

「今日はまだ先があるわ」

ユートは軽く肩をすくめる。

「分かってる」

そしていつもの調子で笑った。

「リアナこそ、力を温存しとけよ。切り札なんだから」

その言葉に、リアナは小さく頷いた。

けれど——

胸の奥のざわつきは、完全には消えなかった。

そのときだった。

「来るぞ!」

前方の偵察兵が叫んだ。

木々の奥からざわざわと不気味な音が広がる。

黒殻種の小型群体が再び森の中から雪崩れ込んできた。

「散開! 迎撃準備!」

ガルドの号令が響く。

騎士団が一斉に動いた。

ユートも剣を抜く。

その瞬間——

指先の震えがわずかに強くなる。

内側から嫌な感覚が広がる。

だが——

「ユート、右翼頼む!」

レオンの声が飛んだ。

ユートは迷わなかった。

「ああ!」

地面を蹴る。

魔力で強化された脚力が一気に前へと身体を押し出す。

群体の中へ真正面から突っ込んだ。

剣が閃く。

一体、二体、三体。

甲殻を断ち体液を散らす。

動きは正確だった。

鋭く、無駄がない。 だが——

踏み込みがほんのわずかに浅い。

振り抜きがわずかに遅れる。

そのほんの少しのズレが確実に蓄積していく。

「くっ……!」

横から飛びかかってきた個体を、ギリギリで斬り落とす。

間に合った。

だが紙一重だった。

(……鈍ってる)

自覚はある。

それでも止まらない。

止まれない。 そのとき。

別の兵士が、背後から襲いかかられていた。

「うわっ……!」

小型種が肩に食いつき、押し倒す。

甲殻の顎が、喉元へと迫る。

間に合わない——

誰もがそう思った、その瞬間。

「離れろ!」

ユートが割り込んだ。

無理やり身体をねじ込み、剣を振り下ろす。

甲殻ごと敵を叩き斬る。

血と体液が飛び散る。

倒れた兵士が、息を荒くしながらユートを見上げた。

「た、助かった……!」

ユートは軽く頷くだけだった。

だが視界が弾けた。

白く、飛ぶ。

膝が、一瞬だけ沈む。

内臓を内側から引き裂かれるような痛み。

呼吸が止まる。

(……ここで、来るかよ)

歯を食いしばる。

倒れるわけにはいかない。

こんなところで。

「ユート!」

リアナの声が、遠くで響いた。

ユートは無理やり身体を起こす。

「問題ない!」

叫ぶ。

自分に言い聞かせるように。

再び剣を構え、前に出る。

その背中をリアナははっきりと見ていた。

(今の……)

ほんの一瞬だけ。

ユートの動きが止まった。

明らかにおかしな止まり方だった。

(でも……)

戦場だ。

誰だって限界に近い。

ユートだって人間だ。

そう、思おうとする。

「……大丈夫よね」

小さく、呟く。

自分に聞かせるように。

その間にも、戦闘は続いていた。

ユートは、前に出続ける。

無理をしているのが、はっきり分かる動きで。

それでも誰よりも前に立ち。

誰かが危険にさらされれば迷わず割り込む。

守るために。

削れながら。

リアナは、その背中から目を離せなかった。

胸の奥で——

小さな疑念がゆっくりと形を取り始めていた。

 

戦闘は一時的に収束していた。

黒殻種の群体は押し返され、北東防衛線には短い静寂が訪れている。

だがそれは終わりではなく、次までの間だった。

煙が立ち上る瓦礫の隙間を、負傷兵を運ぶ担架が行き交う。

血と焦げた匂いが、風に混じって漂っていた。

ユート・レーヴェンは、その中を歩いていた。

剣を肩に担ぎ、いつも通りの顔で。

(……まだ、動ける)

胸の奥に残る鈍い痛み。

呼吸のたびにわずかに引きつる感覚。

それでも、足取りは崩さない。

「ユート!」

後ろから声が飛んだ。

振り返るとレオンが駆け寄ってくる。

額に汗を滲ませながらどこか安堵したような顔をしていた。

「無事だったか……さっきの、かなり無茶してただろ」

ユートは肩をすくめて笑った。

「お互い様だろ。あれくらいで崩れるほどヤワじゃない」

軽い口調。

レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、やがて苦笑した。

「まあな。……でも、顔色は正直だぞ」

「そう見えるか?」

「見える」

短く、はっきりと。

ユートは小さく息を吐き視線を逸らした。

「なら、後で少し休むよ」 それ以上、話を広げない。

レオンも深追いはしなかった。

「無理すんなよ」

「ああ」

短い会話だった。

それだけで十分だった。 ユートはそのまま歩き出す。

向かう先は、後方支援の医務エリアだった。

 

簡易テントの中は戦場とは違う種類の緊張に満ちていた。

うめき声。

治療魔術の淡い光。

忙しなく動く医療兵たち。 その中心に一人の女性がいた。

エレナ・クロス。

白衣の袖をまくり手際よく負傷兵の処置を続けている。

「次、こっちに」

短く指示を飛ばしながら次の患者へ視線を移したそのとき、

「……ユート?」

彼女の動きが止まった。

担架に乗せられていたのは見慣れた顔だった。

ユートは苦笑した。

「大げさだって。歩けるのに」

「黙って」

素早く遮る。

エレナはそのままユートの胸元に手をかざし、診断魔術を発動させた。

淡い光が、ゆっくりと彼の体を包む。 数秒。

その沈黙が、やけに長く感じられた。 やがて——

エレナの眉が、わずかに寄る。

「……おかしいわね」

小さく、呟く。 ユートは目を細めた。

「戦闘疲労にしては、損傷の出方が不自然」

言葉は静かだった。

だが、芯がある。

「内臓への負荷、魔力回路の乱れ方……どれも説明がつかない」

ユートは一瞬だけ沈黙し、すぐにいつもの笑顔を作った。

「考えすぎだよ。前線に出てるんだから、それくらい普通だろ」

軽い調子。

冗談めかした声。 エレナはそれをじっと見つめた。

数秒。

そして、ため息をひとつ。

「……まあいいわ。今は休みなさい」

それ以上は追及しない。

だが、納得したわけでもない。

ユートは担架からゆっくりと起き上がった。

一瞬、視界が揺れる。

ほんの一瞬だけ。

だがすぐに踏みとどまる。

「ほら、問題ない」

そう言って、軽く手を振る。

エレナは何も言わなかった。

ただその背中を見送る。

どこか引っかかるものを、残したまま。

医務テントの外。

少し離れた場所で、リアナが立っていた。

戦闘の余韻を残したまま、静かに呼吸を整えている。

その視線の先にはユートの背中があった。

担架に乗せられていたのを、遠くから見ていた。

エレナと話している様子も。

だが、内容までは聞こえない。

ただ、何かが引っかかる。

(……また)

胸の奥が、ざわつく。

理由は分からない。

ユートがこちらに気づき、軽く手を上げた。

いつもの笑顔。

何事もなかったかのように。 リアナも、微笑み返す。

だが、その笑顔はほんの少しだけ遅れた。

(……何か、おかしい)

確信もないが、違和感だけがある。

ユートはそれ以上何も言わず歩き去った。

その姿を、リアナはただ見送ることしかできなかった。

その夜。

基地の奥。

人の気配がほとんどない通路。

ユートは一人で歩いていた。 足音がやけに響く。

呼吸が浅い。

胸の奥がじわじわと痛む。

だが、歩みは止めない。

止めた瞬間に、崩れる気がした。

数歩。

壁に手をつく。

コツン、と小さな音が鳴った。

喉の奥でかすかな音が漏れる。

視界が揺れる。

床が遠く感じる。

手に力を込める。

離せばそのまま崩れそうだ。

数秒。

いや、もっと長かったかもしれない。

呼吸が少しずつ整ってくる。

痛みは消えない。

だが、ユートはゆっくりと体を起こした。

壁から手を離す。

その手はわずかに、震えていた。

彼はそれを見下ろし小さく息を吐いた。

「……まだ、大丈夫」

誰もいない場所で。

誰にも聞かれない声で。

そう言い聞かせる。

そして、再び歩き出した。

背中はもういつも通りだった。

その頃。

少し離れた別の通路でリアナが立ち止まっていた。

ふと、胸騒ぎがした。

理由は分からない。

ただ、なんとなく振り返る。

だが、そこには誰もいなかった。

「……何だろ」

小さく呟く。

答えはまだ見えない。

違和感だけが静かに積み重なっていく。

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