英雄をやめた日から 作:自給自足
要塞都市《アルティア》の北東防衛線は、静かに軋んでいた。
崩壊は、突然起きるものではない。最初は小さな亀裂から始まる。誰も気づかないほどのわずかな歪み。そしてそれがやがて取り返しのつかない崩れへと変わる。
今、この戦場はその直前にあった。外壁の一部が崩れ落ち瓦礫の隙間から黒殻種が溢れ出してくる。
小型の個体が地面を這い兵士たちの足元へと食らいつく。
「陣形を維持しろ! 押し返せ!」
ガルド団長の怒号が飛ぶ。
だがその声に応じる余裕はもうほとんど残っていなかった。
騎士団の隊列はすでに歪みところどころに穴が空いている。
一歩下がれば、そこが崩れる。
そんな綱渡りのような防衛線だった。
ユート・レーヴェンはその最前線に立っていた。
魔力を流した長剣が鈍い光を帯びる。
彼は無駄のない動きで迫る黒殻種を斬り裂いた。
甲殻が砕け緑色の体液が飛び散る。
一体、二体、三体。
斬撃は正確で、迷いがない。
いつも通りの完成された動き。――だが。
(……重い)
ほんのわずかに踏み込みが浅い。
ほんのわずかに振り抜きが遅れる。
自分にしか分からない程度の極小のズレ。
だがそれは確かに存在していた。
「ユート! 右から来てる!」
レオンの声が飛ぶ。
ユートは即座に反応し体を捻る。
横から迫った個体の顎を斜めに断ち切った。
動きに問題はない。
判断も速い。
それでも——
(……やっぱり、鈍いな)
内側にだけ残る違和感。
体が自分の意思に対してほんの少しだけ遅れてついてくる。
それは疲労とも違う。
痛みとも違う。
言葉にしづらい引っかかりのような感覚だった。
「くそ、増えすぎだ……!」
レオンが舌打ちする。
倒したはずの黒殻種の残骸から小さな個体が這い出してくる。
砕けた甲殻の隙間から次の敵が生まれてくる。
終わらない。
削れば削るほど増えていく気さえする。
ユートは剣を横薙ぎに振るった。
三体まとめて吹き飛ばす。
そのまま一歩踏み込み、さらに一体を貫いた。
呼吸が少しだけ荒くなる。
肺の奥がじわりと熱い。
(……まだ、大丈夫だ)
自分に言い聞かせるように思考を整える。
昨日の戦闘の影響が残っているだけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そう判断する。
そう判断したかった。その瞬間——
胸の奥で何かが小さく弾けた。
熱い。
内臓が溶けるようなじりじりとした熱。
同時に骨の髄が凍りつくような冷たさ。
視界の端が内側から削られるようにぼやける。
「……っ」
ユートは歯を食いしばった。
膝がほんの一瞬だけ沈む。
だがすぐに踏みとどまる。
倒れるわけにはいかない。
ここで崩れたらすべてが終わる。
「ユート、少し下がれ! 一度立て直す!」
レオンが叫ぶ。
だがユートは首を振った。
「まだ押せる。ここで下がると崩れる」
短く言い返す。
そのまま前へ出た。 小型種の群れに斬り込む。
刃が連続して閃き次々と甲殻を砕いていく。
動きはまだ精密だ。
まだ戦える。
まだ問題はない。
そう思った、その時。
ほんの一瞬だけ視界の端が歪んだ。
光の屈折のような理解不能な違和感。
すぐに元に戻る。
ユートの呼吸がわずかに乱れた。
(……集中しろ)
足元に迫った個体を蹴り上げ、空中で叩き斬る。
続けざまに背後の敵を振り向きざまに処理する。
動きはやはり完璧だった。
少なくとも周囲から見れば。
「さすがだな……ほんとに」
レオンが苦笑混じりに呟く。
「お前がいると前線が安定する」
ユートはそれに軽く肩をすくめて応じた。
「運がいいだけだ」
いつも通りの軽い返し。
だがその直後。
胸の奥にほんのわずかな違和感が走った。
痛みではない。
だが、無視できるほど軽くもない。
(……なんだ、今の)
一瞬だけ思考が引っかかる。
だが戦場はそれを許さない。
すぐに次の敵が迫る。
ユートはその違和感を切り捨てるように剣を振った。
斬る。
弾く。
踏み込む。 その一連の動作にわずかな遅れもない。
――はずだった。
(……やっぱり少しズレてるな)
誰にも気づかれない程度のズレ。
誰にも指摘されない違和感。
それでも確かに自分の中にだけ存在している。
戦場は何も変わらない。
敵は増え続け味方は削られていく。
終わりの見えない消耗戦。
その中でユートはいつも通り戦い続けていた。
ただ一つだけ。
ほんのわずかに。
何かが噛み合っていなかった。
森の奥は不気味なほど静かだった。つい先ほどまで続いていた小規模な戦闘は、ひとまず収束している。
倒れた黒殻種の残骸が地面に黒く広がり、粘ついた体液の匂いが空気に混じっていた。
騎士団はその場で簡易的な陣形を組み直し小休止に入っていた。
「……妙だな」
レオンが低く呟いた。
「さっきの群れ、規模の割に引き際が早すぎる」
「陽動かもしれないな」
別の兵士が答える。
緊張は解けていない。
むしろ、次への警戒が場を静かに張り詰めさせていた。
その中でユートは後方の木陰に立っていた。
「……っ」
息が、乱れる。
肺がうまく動かない。
空気を吸っているはずなのに奥まで届かない感覚。
胸の内側がじわじわと焼けるように痛む。
(……早いな)
想定よりも、明らかに。
まだ本格的な戦闘はしていない。
それなのに昨夜の“反動”がすでに身体を蝕み始めている。 指先がわずかに震えていた。
剣を握る右手に力を込める。
それでも、細かい揺れは止まらない。 視界が一瞬歪んだ。
木々の輪郭が溶けるようにぼやけ世界がほんの一瞬だけ遠のく。
「……っ」
ユートは咄嗟に目を閉じた。
深く息を吸い、吐く。
もう一度、吸う。
ゆっくりと瞼を開くと視界は元に戻っていた。
(……まだ、いける)
自分に言い聞かせるように小さく息を吐く。
「ユート?」
背後から声がした。
振り返るとリアナが立っていた。
銀色の髪が森の薄暗い光の中で淡く揺れている。
紫の瞳がまっすぐにユートを見ていた。
「さっきから、ここにいたの?」
「ああ、ちょっとな」
ユートは自然に笑顔を作る。
「敵の動きが気になってたんだ」
リアナは少しだけ首を傾げた。
視線がユートの顔をなぞる。
呼吸がほんの少しだけ荒い。
額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「……息、乱れてるわ」
「気のせいだよ」
即答だった。
あまりにも自然に。
「さっき少し走ったからな。それだけだ」
リアナの胸の奥が小さく波打つ。
(……本当に?)
すぐにその思考を打ち消す。
(疲れているだけよね)
そうだ。
連日の戦闘。
誰だって消耗している。
ユートだけが特別なわけじゃない。
そう思えば納得できる。
納得してしまう。
「無理しないで」
リアナは静かに言った。
「今日はまだ先があるわ」
ユートは軽く肩をすくめる。
「分かってる」
そしていつもの調子で笑った。
「リアナこそ、力を温存しとけよ。切り札なんだから」
その言葉に、リアナは小さく頷いた。
けれど——
胸の奥のざわつきは、完全には消えなかった。
そのときだった。
「来るぞ!」
前方の偵察兵が叫んだ。
木々の奥からざわざわと不気味な音が広がる。
黒殻種の小型群体が再び森の中から雪崩れ込んできた。
「散開! 迎撃準備!」
ガルドの号令が響く。
騎士団が一斉に動いた。
ユートも剣を抜く。
その瞬間——
指先の震えがわずかに強くなる。
内側から嫌な感覚が広がる。
だが——
「ユート、右翼頼む!」
レオンの声が飛んだ。
ユートは迷わなかった。
「ああ!」
地面を蹴る。
魔力で強化された脚力が一気に前へと身体を押し出す。
群体の中へ真正面から突っ込んだ。
剣が閃く。
一体、二体、三体。
甲殻を断ち体液を散らす。
動きは正確だった。
鋭く、無駄がない。 だが——
踏み込みがほんのわずかに浅い。
振り抜きがわずかに遅れる。
そのほんの少しのズレが確実に蓄積していく。
「くっ……!」
横から飛びかかってきた個体を、ギリギリで斬り落とす。
間に合った。
だが紙一重だった。
(……鈍ってる)
自覚はある。
それでも止まらない。
止まれない。 そのとき。
別の兵士が、背後から襲いかかられていた。
「うわっ……!」
小型種が肩に食いつき、押し倒す。
甲殻の顎が、喉元へと迫る。
間に合わない——
誰もがそう思った、その瞬間。
「離れろ!」
ユートが割り込んだ。
無理やり身体をねじ込み、剣を振り下ろす。
甲殻ごと敵を叩き斬る。
血と体液が飛び散る。
倒れた兵士が、息を荒くしながらユートを見上げた。
「た、助かった……!」
ユートは軽く頷くだけだった。
だが視界が弾けた。
白く、飛ぶ。
膝が、一瞬だけ沈む。
内臓を内側から引き裂かれるような痛み。
呼吸が止まる。
(……ここで、来るかよ)
歯を食いしばる。
倒れるわけにはいかない。
こんなところで。
「ユート!」
リアナの声が、遠くで響いた。
ユートは無理やり身体を起こす。
「問題ない!」
叫ぶ。
自分に言い聞かせるように。
再び剣を構え、前に出る。
その背中をリアナははっきりと見ていた。
(今の……)
ほんの一瞬だけ。
ユートの動きが止まった。
明らかにおかしな止まり方だった。
(でも……)
戦場だ。
誰だって限界に近い。
ユートだって人間だ。
そう、思おうとする。
「……大丈夫よね」
小さく、呟く。
自分に聞かせるように。
その間にも、戦闘は続いていた。
ユートは、前に出続ける。
無理をしているのが、はっきり分かる動きで。
それでも誰よりも前に立ち。
誰かが危険にさらされれば迷わず割り込む。
守るために。
削れながら。
リアナは、その背中から目を離せなかった。
胸の奥で——
小さな疑念がゆっくりと形を取り始めていた。
戦闘は一時的に収束していた。
黒殻種の群体は押し返され、北東防衛線には短い静寂が訪れている。
だがそれは終わりではなく、次までの間だった。
煙が立ち上る瓦礫の隙間を、負傷兵を運ぶ担架が行き交う。
血と焦げた匂いが、風に混じって漂っていた。
ユート・レーヴェンは、その中を歩いていた。
剣を肩に担ぎ、いつも通りの顔で。
(……まだ、動ける)
胸の奥に残る鈍い痛み。
呼吸のたびにわずかに引きつる感覚。
それでも、足取りは崩さない。
「ユート!」
後ろから声が飛んだ。
振り返るとレオンが駆け寄ってくる。
額に汗を滲ませながらどこか安堵したような顔をしていた。
「無事だったか……さっきの、かなり無茶してただろ」
ユートは肩をすくめて笑った。
「お互い様だろ。あれくらいで崩れるほどヤワじゃない」
軽い口調。
レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、やがて苦笑した。
「まあな。……でも、顔色は正直だぞ」
「そう見えるか?」
「見える」
短く、はっきりと。
ユートは小さく息を吐き視線を逸らした。
「なら、後で少し休むよ」 それ以上、話を広げない。
レオンも深追いはしなかった。
「無理すんなよ」
「ああ」
短い会話だった。
それだけで十分だった。 ユートはそのまま歩き出す。
向かう先は、後方支援の医務エリアだった。
簡易テントの中は戦場とは違う種類の緊張に満ちていた。
うめき声。
治療魔術の淡い光。
忙しなく動く医療兵たち。 その中心に一人の女性がいた。
エレナ・クロス。
白衣の袖をまくり手際よく負傷兵の処置を続けている。
「次、こっちに」
短く指示を飛ばしながら次の患者へ視線を移したそのとき、
「……ユート?」
彼女の動きが止まった。
担架に乗せられていたのは見慣れた顔だった。
ユートは苦笑した。
「大げさだって。歩けるのに」
「黙って」
素早く遮る。
エレナはそのままユートの胸元に手をかざし、診断魔術を発動させた。
淡い光が、ゆっくりと彼の体を包む。 数秒。
その沈黙が、やけに長く感じられた。 やがて——
エレナの眉が、わずかに寄る。
「……おかしいわね」
小さく、呟く。 ユートは目を細めた。
「戦闘疲労にしては、損傷の出方が不自然」
言葉は静かだった。
だが、芯がある。
「内臓への負荷、魔力回路の乱れ方……どれも説明がつかない」
ユートは一瞬だけ沈黙し、すぐにいつもの笑顔を作った。
「考えすぎだよ。前線に出てるんだから、それくらい普通だろ」
軽い調子。
冗談めかした声。 エレナはそれをじっと見つめた。
数秒。
そして、ため息をひとつ。
「……まあいいわ。今は休みなさい」
それ以上は追及しない。
だが、納得したわけでもない。
ユートは担架からゆっくりと起き上がった。
一瞬、視界が揺れる。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに踏みとどまる。
「ほら、問題ない」
そう言って、軽く手を振る。
エレナは何も言わなかった。
ただその背中を見送る。
どこか引っかかるものを、残したまま。
医務テントの外。
少し離れた場所で、リアナが立っていた。
戦闘の余韻を残したまま、静かに呼吸を整えている。
その視線の先にはユートの背中があった。
担架に乗せられていたのを、遠くから見ていた。
エレナと話している様子も。
だが、内容までは聞こえない。
ただ、何かが引っかかる。
(……また)
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からない。
ユートがこちらに気づき、軽く手を上げた。
いつもの笑顔。
何事もなかったかのように。 リアナも、微笑み返す。
だが、その笑顔はほんの少しだけ遅れた。
(……何か、おかしい)
確信もないが、違和感だけがある。
ユートはそれ以上何も言わず歩き去った。
その姿を、リアナはただ見送ることしかできなかった。
その夜。
基地の奥。
人の気配がほとんどない通路。
ユートは一人で歩いていた。 足音がやけに響く。
呼吸が浅い。
胸の奥がじわじわと痛む。
だが、歩みは止めない。
止めた瞬間に、崩れる気がした。
数歩。
壁に手をつく。
コツン、と小さな音が鳴った。
喉の奥でかすかな音が漏れる。
視界が揺れる。
床が遠く感じる。
手に力を込める。
離せばそのまま崩れそうだ。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
呼吸が少しずつ整ってくる。
痛みは消えない。
だが、ユートはゆっくりと体を起こした。
壁から手を離す。
その手はわずかに、震えていた。
彼はそれを見下ろし小さく息を吐いた。
「……まだ、大丈夫」
誰もいない場所で。
誰にも聞かれない声で。
そう言い聞かせる。
そして、再び歩き出した。
背中はもういつも通りだった。
その頃。
少し離れた別の通路でリアナが立ち止まっていた。
ふと、胸騒ぎがした。
理由は分からない。
ただ、なんとなく振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
「……何だろ」
小さく呟く。
答えはまだ見えない。
違和感だけが静かに積み重なっていく。