英雄をやめた日から 作:自給自足
要塞都市《アルティア》はまるで呼吸を止めているかのように静まり返っていた。
外壁の修復作業は夜通し続き魔導灯の淡い光が瓦礫の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
下層区画では配給の列が途切れることなく続き、担架の軋む音が一定のリズムで街路に響いていた。
基地最上層。
戦略会議室の隣にある小さな控室で、リアナ・ヴァルディスは一人静かに座っていた。
白と青を基調とした簡素な私服。
銀白色の長い髪は後ろで緩くまとめられ、その横顔は戦場で見せる鋭さとは違う、どこか脆さを帯びていた。
彼女は両手を胸の前で重ね、ゆっくりと魔力を巡らせる。
呼吸に合わせて流れを整える。
乱れを抑え研ぎ澄ます。
——そのはずだった。
「……っ」
指先がわずかに震えた。
ほんの微細な揺れ。
だがそれは明確に制御の外にあった。
リアナは一度目を開けた。
そしてもう一度ゆっくりと閉じる。
(……集中)
意識を深く沈める。
魔力の流れを追いひとつに束ねる。
だが——
胸の奥に言葉にできないざわつきが生まれる。
違和感とも不安とも違う。
もっと曖昧でもっと根の深い感覚。
まるで——
「これ以上は、やめろ」
どこかからそう囁かれているようだった。
リアナはゆっくりと息を吐いた。
(……また)
ここ数日、同じことが続いている。
魔力を高めようとすると指が震える。
集中しようとすると胸がざわつく。
原因は分からない。
体調が悪いわけでもない。
魔力の総量も出力も落ちてはいない。
それでも——
「……おかしい」
小さく呟く。
その声は自分でも驚くほど弱かった。
視線が自然と横へ流れる。
部屋の隅。
そこにユート・レーヴェンがいた。
簡素な椅子に腰掛け、剣の手入れをしている。
無駄のない手つき。落ち着いた呼吸。
いつも通りの光景。
銀灰色の瞳は静かで、余計な感情を表に出さない。
戦場でも、日常でも、変わらない距離感。
——だからこそ。
その存在はリアナにとって日常そのものだった。
なのに。
(……どうして)
視線を外せない。
胸の奥のざわつきが強くなるたび、
無意識に彼を探している。
理由は分からない。
ただ確認するように。
確かめるように。
彼がそこにいるかを何度も見てしまう。
「……ユート」
小さく名前を呼ぶ。
ユートは手を止め、顔を上げた。
「どうした?」
穏やかな声。
いつもと同じ柔らかい響き。
リアナは一瞬言葉に詰まった。
何を聞きたいのか自分でも分からない。
ただ——
胸のざわつきを言葉にできない。
「…………なんでもない」
結局それしか出てこなかった。
ユートは軽く頷いた。
「そうか」
それ以上は踏み込まない。
いつも通りの距離。
いつも通りの応答。
再び剣に視線を落とす。
リアナは自分の指先を見つめた。
まだ、震えている。
(……疲れているだけ)
そう思い込む。
連日の戦闘。
休息の不足。
精神的な負荷。
どれも理由としては十分だった。
自分だけが特別なわけじゃない。
皆、限界に近づいている。
ユートだって——
そこまで考えて思考が一瞬止まる。
視線が再び彼へ向いた。
彼は変わらず剣を整えている。
呼吸も、動きも、乱れていない。
(……本当に?)
ほんのわずか。
ほんのわずかだけ違和感が混じる。
言葉にできないほど小さなズレ。
だが、それは確かに存在していた。
ユートが剣を置いた。
「リアナ」
名前を呼ばれる。
リアナは顔を上げた。
「もう休んだ方がいい。明日が本番だ」
静かな声。
押し付けるでもなく、命令でもない。
ただ事実を置くような言い方。
リアナは小さく頷いた。
「……ええ」
立ち上がる。
足元がわずかに不安定に感じた。
ユートも立ち上がり扉の方へ向かう。
二人はすれ違う。
その瞬間。
リアナの手が無意識に動いた。
ユートの袖を軽く掴む。
昔から変わらない癖。
だが今夜は——
少しだけ、力が強かった。
「……ユート」
「ん?」
振り向く。
その距離の近さに一瞬だけ呼吸が詰まる。
何かを言おうとする。
だが——
言葉が出ない。
聞きたいことが分からない。
確かめたいことの正体が掴めない。
リアナはゆっくりと手を離した。
「……なんでもない。おやすみ」
ユートは微笑んだ。
「おやすみ、リアナ」
それだけ。
それ以上は何もない。
二人は部屋を出た。
廊下を歩きながらリアナは自分の胸に手を当てた。
鼓動が少し速い。
(……何が、おかしいの?)
答えは出ない。
ただ違和感だけが残る。
静かに。確実に。
積み重なるように。
その夜。
リアナはなかなか眠ることができなかった。
目を閉じるたびに思い出す。
指先の震え。
魔力の拒絶感。
そして、ユートの横顔。
何度も、何度も、繰り返される。
(……大丈夫)
そう言い聞かせる。
明日は最終決戦。
すべてを終わらせるための戦い。
自分は撃つ。
英雄として。
そのはずなのに——
胸のざわつきは消えなかった。
夜は静かに深まっていく。
そしてその静けさの底でまだ形を持たない何かが確実に芽を出し始めていた。
夜は静寂を保ってはいなかった。
突如として鳴り響いた警報の鐘が要塞都市《アルティア》の空気を引き裂いた。
——夜襲。
その一言が全てを説明していた。
「北東外壁、突破されました! 黒殻種、大群体侵入!」
伝令の声が重なり怒号と足音が基地中に広がる。眠っていた兵士たちが武具を掴み、半ば反射のように持ち場へ走り出していく。
外ではすでに戦闘が始まっていた。
石壁を打ち砕く鈍い衝撃音。甲殻同士が擦れる不快な音。そして——人の悲鳴。
下層区画に黒い波が雪崩れ込んでいた。
小型種が地を這い、壁をよじ登り、建物の隙間から侵入していく。その後ろから、大型個体がゆっくりと進み建造物ごと押し潰していく。
「全隊、迎撃! 市街地への侵入を許すな!」
ガルド団長の怒号が夜空に響いた。
だが防衛線はすでに綻びていた。
応急修復された外壁は脆く、連日の戦闘で消耗した騎士団は初動の遅れを完全には取り戻せない。
押されている。
明確に。
——その現実を誰もが理解していた。
高台の上。
リアナ・ヴァルディスは戦場全体を見下ろしていた。
銀色の長い髪が夜風に乱れ、紫の瞳が静かに揺れる。
その視線の先では黒殻種の群体が街路に広がり、騎士団の陣形を侵食していた。
(……数が、多い)
冷静な判断。
だがその奥で微かな違和感が疼く。
胸の奥にざわつきがある。
指先に震えがある。
それでも——
「……やるしかない」
彼女は小さく呟き両手を前へと伸ばした。
空気が変わる。
魔力が収束し始め周囲の空間が歪む。
騎士たちが気配に気づき一瞬だけ視線を上げた。
「リアナ様が撃つぞ!」
その声に呼応するように、前線の兵たちが一歩引く。
道を開ける。
彼女のために。
彼女は——英雄なのだから。
リアナは深く息を吸い込んだ。
胸のざわつきが強くなる。
指先の震えが止まらない。
(……違う。今は、関係ない)
思考を押し込める。
役割を優先する。
自分は何のためにここにいるのか。
何を成すべきなのか。
答えは、ずっと前から決まっている。
——撃つ。
それだけだ。
「——いくわ」
静かな声。
次の瞬間、巨大な魔力が一気に解き放たれた。
収束した光が槍の形を取り一直線に戦場へと走る。
夜を裂く閃光。
空気が焼け地面が震えた。
黒殻種の密集地帯に直撃したそれは、爆発的な衝撃を巻き起こす。
大地が抉れ、甲殻が砕け散る。
緑色の体液が霧のように舞い上がり群体の中心が一瞬で消し飛んだ。
衝撃波が周囲を薙ぎ払い、小型種がまとめて吹き飛ばされる。
「押し返せ! 今だ!」
騎士団の士気が跳ね上がる。
崩れかけていた前線がわずかに持ち直す。
歓声が上がる。
英雄の一撃。
戦況を変える決定的な力。
——そのはずだった。
リアナは高台の上で、荒く息を吐いた。
胸が重い。
呼吸が浅い。
指先が止まらないほど震えている。
(……また)
魔力を解放した直後。
必ず訪れるこの違和感。
胸の奥がざわつく。
何かが削られるような感覚。
だがそれだけじゃない。
今夜は——違う。
もっと、はっきりとした不快感があった。
まるで自分の力がどこかに引っ張られているような——
リアナの視線が無意識に動く。
前線。
戦場の中心。
そこに——
ユート・レーヴェンがいた。
彼はいつも通り剣を振るっていた。
無駄のない動き。
正確な斬撃。
一体、また一体と黒殻種を切り伏せていく。
変わらない。
いつも通りのユート。
そのはずだった。
——次の瞬間までは。
彼の身体がぐらりと揺れた。
剣を支えに踏みとどまろうとするが膝が崩れる。
地面に片膝をつき体勢を崩す。
そして——
口元から血が溢れた。
赤い雫が石畳に落ちる。
戦場の喧騒に紛れて誰も気づかない。
だが——
リアナだけは見ていた。
はっきりと。
そして、その次も。
彼女の放った魔力の残滓がまだ空間に残っていた。
本来なら拡散して消えるはずのそれが——
細い糸のように。
絡みつくように。
ユートの身体へと収束していくのが見えた。
「……え?」
声が、漏れた。
理解が追いつかない。
何を見たのか、分からない。
だが、確かに——見えた。
自分の力が彼に絡みついている。
ユートは歯を食いしばりゆっくりと立ち上がった。
血を拭い呼吸を整える。
そして——
何事もなかったかのように再び剣を構えた。
「……問題ない」
口の動きでそれが分かった。
誰に向けた言葉かも分かる。
いつも通りのユート。
いつも通りの強がり。
リアナの指先の震えがさらに強くなった。
胸のざわつきが一気に膨れ上がる。
(……今の、何?)
思考が追いつかない。
だが感覚だけが先に理解している。
見てはいけないものを見たような感覚。
繋がってはいけないものが繋がっているような違和感。
リアナは再び魔力を練ろうとした。
しかし、指が言うことを聞かない。
震えがひどく制御が乱れる。
魔力がうまく集まらない。
ほんの一瞬の遅れ。
その隙に黒殻種が再び前線を押し上げる。
悲鳴が上がる。
一人の兵士が倒れる。
「くっ……!」
リアナの呼吸が乱れる。
(……私の、せい?)
その思考が鋭く胸に突き刺さった。
視線が再びユートへ向く。
彼はまだ立っている。
だが、その背中がわずかに揺れていた。
リアナは動けなかった。
戦場を見下ろしたまま。
ただ理解できない何かを見つめながら。
胸の奥で——
何かが静かに形を変え始めていた。
戦闘が終わった後もリアナは高台から動けなかった。
黒殻種の残党は退き、騎士団の兵士たちが疲労と安堵の混じった声を上げている。
だがその音は彼女には遠く感じられた。
視界にあるのはただ一つだけ。
ユートの背中だった。
剣を地面に突き立てそれに体重を預けるようにして立っている。
肩で息をしわずかに前屈みになっているその姿は今まで何度も見てきたはずなのに。
今はまるで違う意味を持っていた。
(……さっきのは)
リアナの指先が小さく震えた。
自分の放った魔力の残滓。
それが糸のようにユートの体に絡みついていた光景。
そして——膝を崩し血を吐いた姿。
「……違う」
小さく呟く。その言葉には力がなかった。
「そんな……はず……」
否定はもはや形を保てない。
理解が遅れて追いついてくる。
魔力を高めるたびに感じていた違和感。
指先の震え。
胸の奥のざわつき。
——あれは、恐怖だった。
自分の力が誰かを壊しているという無意識の拒絶。
リアナの喉がひどく乾いた。
「私が……ユートを」
言葉が、喉で詰まった。
否定したかった。
そんなはずがないと思った。
英雄として戦い多くの命を救ってきたはずだった。
それが——
「私の力で、壊していた……?」
眼だけはユートを見つめ続けていた。
ユートがゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
ほんの一瞬だけ、間があった。
そして彼は、いつも通りの仕草で軽く手を上げた。
「問題ない」
口元に笑みを浮かべて。
その言葉がリアナの胸を深く抉った。
問題ない。
いつもそうだ。
倒れかけても、血を吐いても、顔色が青白くても——
彼は必ず、そう言う。
(……どうして)
胸の奥で何かが軋む。
リアナの視界がわずかに歪んだ。
涙ではない。
ただ世界の輪郭が少しだけ崩れたような感覚だった。
ユートがこちらへ歩いてくる。
一歩、また一歩。
少しだけ足取りが重い。
それでも彼はまっすぐに来る。
「リアナ、大丈夫か?」
穏やかな声。
いつもと同じ。何一つ変わらないように振る舞う声。
だからこそ——耐えられなかった。
リアナは、無意識に一歩下がっていた。
「……触らないで」
声が、震えた。
自分でも驚くほど冷たい響きだった。
ユートの足が止まる。
その瞳にはっきりとした動揺が浮かんだ。
沈黙が落ちる。
周囲の喧騒が逆に遠ざかる。
リアナは自分の胸に手を当てた。
心臓の音が、うるさい。
「ユート……あなたは」
言葉が、うまく出ない。
何をどう言えばいいのか分からない。
ただ確認しなければならない。
逃げてはいけない。
「私の力で……苦しんでいたの?」
その問いはほとんど囁きだった。
ユートはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ目を細める。
そして——
静かに首を振った。
「関係ない」
短く、切り捨てるように。
リアナの呼吸が止まる。
「……関係ない?」
かすれた声で繰り返す。
ユートは視線を逸らさず言った。
「俺の問題だ」
その言葉は優しさではなかった。
距離だった。
リアナの胸が強く締め付けられる。
「嘘」
思わず言葉が零れた。
「さっき、見た……」
声が震える。
「あなたに……私の魔力が絡んでた」
拳を強く握る。
爪が掌に食い込む。
「どうして……どうして言わなかったの……!」
ユートの表情がほんのわずかに固まる。
それだけで十分だった。
否定が来ない。
沈黙が答えだった。
リアナの指先が激しく震え始めた。
「……私が、ユートを壊していた」
膝が、わずかに崩れる。
「英雄でいるために……
世界を守るために……
あなたを、犠牲にし続けていた……」
涙が、溢れ出した。
止まらない。
拭う気力もない。
自分がどれだけ残酷だったのか。
ユートが苦しむ姿を何度も見ておきながら「疲れ」と言われれば信じ、「問題ない」と言われれば安堵していた自分。
ユートが目線を逸らす
「……関係ない」
淡々とした声。
短く。冷い。
リアナの視界が白く染まりかける。
「……これしか、俺にできることがないんだ」
その一言は小さかった。
だがリアナの心を深く抉った。
リアナの瞳が見開かれる。
「……え?」
ユートはすぐに視線を逸らした。
「……見るな」
リアナの足が一歩後ろに下がる。
胸の奥で何かが完全に形を成した。
「私は……」
言葉が続かない。
選ばなければならない。
英雄でいるか。
それとも——
ユートは何も言わずただ彼女を見ていた。
その瞳には覚悟があった。
揺るがない静かな覚悟。
リアナは唇を噛んだ。
血の味が広がる。
夜風が吹き抜ける。
遠くで、再び黒殻種の咆哮が響いた。
戦いは終わっていない。