英雄をやめた日から 作:自給自足
要塞都市《アルティア》は、まるで息を潜めているかのように静かだった。夜空は低く垂れ込め月すら霞んでいる。外壁の損傷部は応急の鉄板と魔導障壁で塞がれているが、それでも所々から冷たい風が吹き込み街路に埃を舞わせていた。
下層区画では配給の列が途切れることなく続き、兵士たちの足音が石畳を叩く音が絶え間なく響いている。誰も口には出さない。
だが、誰もが感じていた。
——明日が、最後になるかもしれない。
基地最上層の通路。
ユート・レーヴェンは一人、壁にもたれかかるようにして立っていた。
軽鎧の胸当てに手を当てゆっくりと息を整える。
左胸の奥に鈍く根深い疼きが残っていた。昨夜の戦闘の反動はまだ完全に引いていない。
指先を軽く握り力を確かめる。
動く。
戦える。
それで十分だった。
遠くで低い警報が一度だけ鳴った。
訓練でも偵察でもない。
本番に近い予行演習のような響き。
兵士たちが慌ただしく走り、魔導具の調整音が夜気に混じる。
明日、黒殻種は総攻撃を仕掛けてくる——上層部はそう判断していた。
要塞の存続がかかった最後の防衛線。
ユートは壁から体を離しゆっくりと歩き始めた。
通路の端。
展望台のような小さなバルコニーに出る。
夜風が冷たく要塞の灯りが星のように広がっていた。
下層では人々が身を寄せ合い、上層では戦略会議の灯りがまだ消えていない。
すべてが明日を前に息を潜めている。
そのとき、足音が近づいてきた。
軽く、しかし迷いのない歩調。
リアナだった。
白い外套を羽織り、銀色の髪を夜風に揺らしている。
彼女はユートの隣に立ち、黙って外を見た。
会話はない。
必要がない。
二人は幼少期からそういう関係だった。
リアナの視線は遠くの外壁に向けられている。
そこに黒殻種の影が蠢く気配があった。
明日あの影はさらに大きくなる。
彼女は無意識に自分の右手を見つめた。
指先がほんのわずかに震えていた。
ユートは横目で彼女を見た。
何も言わない。
ただ、そばにいる。
それが彼の役割だった。
痛みは胸の奥で燻り続けているが表情には出さない。
リアナが戦える限り自分はここにいればいい。
それだけで十分だ。
風が強くなった。
遠くで、再び低い警報が鳴る。
今度は二度。
明日の予行演習は終わりに近づいている。
リアナの指がわずかに握りしめられる。
ユートはそれを見ていた。
彼女の横顔が夜の闇の中で静かに浮かび上がる。
英雄の顔。
そしてただの少女の顔。
二つが微妙に重なり合っていた。
二人は言葉を交わさなかった。
必要がなかった。
明日が来ることは分かっている。
何が起きるかも分かっている。
だからこそ——
この夜はただ静かに過ぎていく。
リアナがほんの少しだけ肩を寄せてきた。
ユートはそれを受け止めた。
触れるだけの軽い温もり。
それで十分だった。
明日の襲撃はおそらく大規模なものだ。
世界が変わるかもしれない日。
あるいは何も変わらない日。
二人はただ黙って夜空を見上げていた。
要塞都市《アルティア》の北東防衛線は夜明け前に崩壊の危機を迎えていた。
警報の鐘が断続的に鳴り響き要塞全体が慌ただしい足音と叫び声に包まれる。黒殻種の大群体が、予想を上回る勢いで外壁に殺到していた。
巨大な蟹型の個体が壁を抉り、小型種の波がその隙間を埋めるように雪崩れ込む。
防衛線はすでに綻び、騎士団の隊列は後退を余儀なくされていた。
ユート・レーヴェンは最前線に立っていた。
軽鎧の肩に血が滲み剣を握る手に力がこもる。
銀灰色の瞳が冷静に敵の動きを捉えながらも胸の奥では鈍い痛みが燻り続けていた。
「陣形を保て! 絶対に後退するな!」
ガルド団長の怒号が響くが、声はすでに疲弊を帯びていた。
兵士たちの動きは重く、疲労と恐怖が混じり合っている。そのとき、後方から魔力の奔流が膨れ上がった。
リアナ・ヴァルディスが高台に立ち両手を前方へ伸ばしていた。
銀色の長い髪が夜風に乱れ紫の瞳が戦場を静かに見据える。
彼女の周囲の空気が歪み、巨大な魔力の槍が形成され始めた。
物理的な破壊に特化した彼女の最強の一撃。
「リアナ様が撃つ!」
兵士たちの間に緊張と期待が走る。
ユートは剣を握り直し、歯を食いしばった。
(……来る)
次の瞬間、光が夜を裂いた。
一直線の閃光が黒殻種の密集地帯を貫く。
爆発的な衝撃が大地を抉り、甲殻が粉々に砕け散る。
緑色の体液が霧のように舞い上がり数十体の群体が一瞬で消し飛んだ。
歓声が上がる。
「押し返せ!」「今だ!」
騎士団が前へる。
しかし、黒殻種の動きはほとんど止まらなかった。
抉られた空白を新たな群体が埋め尽くす。
一撃で数十体を消し飛ばしても全体の波はほとんど削れていない。
リアナの顔がわずかに強張った。
指先が小さく震える。
彼女はもう一度魔力を練ろうとした。
だが胸の奥に強い拒絶感が走る。
魔力が思うように集まらない。
「後退しろ! 第二防衛線まで下がれ!」
ガルド団長の命令が飛ぶ。
騎士団は後退を開始した。
防衛線がじりじりと崩れていく。
黒殻種の波がそれを追うように迫ってくる。
ユートは後退しながらも前線を離れなかった。
剣を振るい迫る小型種を切り捨てる。
だが動きは明らかに鈍っていた。
左腕が重く視界の端がぼやける。
リアナの一撃の反動が容赦なく彼の体を蝕んでいた。
「ユート! 下がれ!」
レオンの叫びが聞こえる。
ユートは歯を食いしばり一歩後ろに下がった。
だがその一歩が重い。
足が地面に張り付いているように感じる。
リアナは高台からその光景を見下ろしていた。
一撃だけでは、敵を倒しきれない。
ユートが苦しみながらも前線に留まろうとしている。
指先の震えが止まらない。
魔力をもう一度練ろうとしたが胸の奥から強い拒絶感が湧き上がる。
これ以上撃てばユートが持たない。
その確信が彼女を縛っていた。
防衛線はさらに後退を続けていた。
第二防衛線の手前でようやく態勢を立て直す。
黒殻種の波は一旦止まったがそれは次の波を待っているだけだった。
リアナは高台から降りユートの元へ歩み寄った。
彼は壁にもたれかかり、荒い息を整えていた。
顔色は青白く、唇の端に血の跡が残っている。
「……ユート」
リアナの声は小さかった。
ユートは顔を上げいつもの笑顔を作ろうとした。
だが今回は少しだけ笑みがかすれた。
「大丈夫だ……まだ、戦える」
その言葉にリアナは唇を噛んだ。
彼女はもう何も言わなかった。
ただユートの隣に立ち遠くの闇を見つめた。
戦いはまだ続いている。
レオン・ファルベックは血と埃にまみれた剣を握りしめながら後退を続けていた。
「第三防衛線まで下がれ! 絶対に崩すな!」
ガルド団長の怒号が背後から飛ぶが、その声はすでに疲弊と焦りを隠せていなかった。
第二防衛線は、完全に崩壊していた。
外壁の残骸を越えて黒殻種の群体が雪崩れ込み騎士団の陣形を食い破っていく。
小型種が地を這い大型個体が石壁ごと踏み潰す。
倒したはずの敵の残骸から新たな個体が這い出してくる光景はもはや見慣れたものになっていた。
「くそ…」
レオンは歯を食いしばり横から飛びかかってきた小型種を横薙ぎに斬り捨てた。
緑色の体液が飛び散り甲殻の破片が地面に散らばる。
だが次の瞬間には別の個体がその隙間を埋めていた。
増える。
削り切れない。
「レオン! 右翼が持たない!」
部下の叫びが響く。
レオンは即座に視線を右へ移した。
第三防衛線の右翼が黒殻種の波に飲み込まれようとしていた。
騎士たちが次々と倒れ陣形が崩壊しつつある。
「立て直せ! 俺が行く!」
レオンは地面を蹴った。
魔力で強化された脚力が爆発し右翼へ一直線に滑り込む。
剣を振り下ろし二体をまとめて切り裂く。
昨夜からの連続戦闘で身体が悲鳴を上げ始めていた。
「まだだ……!」
彼はさらに前へ出た。
仲間を守るために。
陣形を繋ぐために。
ユートがいつもやっているように自分もやらなければならない。
そのとき——後方から魔力の奔流が膨れ上がった。
レオンは一瞬だけ振り返った。
高台の上に銀色の髪が夜風に揺れている。
リアナ・ヴァルディス。
彼女が両手を前方へ伸ばし巨大な魔力の槍を形成していた。
「リアナ様が撃つ!」
誰かが叫ぶ。
その声に、騎士団全体の士気が持ち直す。
レオンも歯を食いしばり前線を死守しようと剣を構えた。
次の瞬間、光が夜を裂いた。
一直線の閃光が、黒殻種の密集地帯を貫通する。
爆発的な衝撃が大地を抉り、甲殻が粉々に砕け散る。
数十体の群体が、一瞬で蒸発するように消し飛んだ。
緑色の体液が霧のように舞い上がり、黒煙が夜空を覆う。
「やった……!」
歓声が上がる。
押し返している。
確かに、一時的にだが、黒殻種の波が後退した。
レオンは剣を握り直し、叫んだ。
「今だ! 距離を取れ! 体勢を立て直す!」
騎士団が一斉に動き態勢を立て直そうとする。
だが砲撃の効果は、予想以上に短かった。抉られた空白を次の瞬間には新たな群体が埋め尽くす。
一撃で数十体を消し飛ばしても群体の波はより大きかった。
「……削り切れていない」
レオンは低く吐き捨てた。
リアナの一撃は確かに強力だった。
ただ少しだけ流れを遅らせただけだ。
「後退! 最終防衛線まで下がれ!」
ガルド団長の命令が飛ぶ。
今度は迷いなく後退が始まった。
第三防衛線もすでに限界だった。
レオンは剣を振りながらゆっくりと後退を続ける。
仲間を庇い、敵を斬りながら一歩ずつ後ろへ。
視界の端でユートの姿が見えた。
彼も後退を続けながら前線を死守しようとしている。
だがその動きは明らかに重かった。
肩で息をし足取りが乱れている。
レオンは胸の奥がざわついた。
(……お前も、もう限界か)
最終防衛線——要塞の最後の壁。
そこに到達したとき、騎士団の残存部隊は半数以下になっていた。
外壁はすでに大きく崩れ、黒殻種の群体が市街地にまで侵入し始めていた。
民間人の悲鳴が夜風に乗って響いてくる。
レオンは壁に背を預け荒い息を吐いた。
剣の刃は欠け、体は血と体液にまみれている。
(……ここまでか)
彼は高台の方を見上げた。
リアナがまだ立っている。
だがその姿は先ほどより小さく見えた。
彼女の力でさえ、この波を押し返すには足りなかった。
それでも——
彼女はまだ、戦おうとしている。
レオンは剣を握り直した。
指が震える。
疲労と恐怖が身体を重くする。
だが止まるわけにはいかない。
ここで最終防衛線が落ちれば、要塞は終わる。
街は終わる。
人々は終わる。
「立て! 最終防衛線を死守する!」
彼は叫び、再び前へ出た。
どれだけ持ちこたえられるか。
それだけが今の現実だった。
黒殻種の咆哮が夜をさらに深く染め上げていく。
最終防衛線は静かに軋み続けていた。