英雄をやめた日から 作:自給自足
要塞都市《アルティア》の最終防衛線は、すでに限界を超えていた。
外壁は半壊し、崩れた石材の隙間から黒殻種の群体が雪崩れ込んでいる。街路は炎に包まれ、逃げ惑う市民の悲鳴と、甲殻が擦れ合う不快な音が混ざり合っていた。
騎士団の損耗は壊滅的だった。戦略魔導砲は沈黙し、騎士団は後退を強いられている。
ここアルティアは人類の最後の砦の一つだったが、今やその命脈は細く危うく途切れようとしていた。
ユート・レーヴェンは高台の祭壇のすぐ傍らに立っていた。
銀灰色の瞳は疲労で濁り、左腕はわずかに震えていた。軽鎧の胸元には乾いた血がこびりつき、呼吸は浅く、荒い。
身体は限界に近かった。
内側から削られる痛みは、もう慢性化している。
それでも、彼は剣を握りしめ、リアナのすぐ後ろに立っていた。護るために。
リアナ・ヴァルディスは祭壇の中心に立っていた。
銀白色に近い長い髪が夜風に乱れ、紫水晶のような瞳が戦場全体を静かに見下ろしている。
白と青を基調とした魔導戦装束が彼女の華奢な体を包んでいる。
その姿は英雄そのものだった。
彼女は両手を前方に掲げ膨大な魔力をゆっくりと収束させていた。
空間がわずかに歪み空気が重く張りつめる。
光が捻じれ空気が悲鳴を上げる。
巨大な槍の輪郭がゆっくりと形を成していく。
この一撃ですべてを焼き払う。
それが彼女の役目だった。
ユートは彼女の背中を見つめながら静かに息を整えた。
——星空の下で交わした幼い約束が脳裏に蘇る。
「いつかこの戦争を終わらせたい」
「なら俺が支えるよ。リアナが英雄になるその日まで、絶対にそばにいる」
あの夜の言葉が、今も彼の胸に刻まれている。
前世で価値を見出せなかった自分がこの世界で唯一意味を持てる瞬間。
リアナを英雄にし、皆を守るための歯車になる。
それがユートの選んだ生き方だった。
「リアナを……護れ……」
小さくかすれた声で呟き、剣を握り直した。
リアナ・ヴァルディスは祭壇の中心で両手を広げ、膨大な力を一点に収束させていた。
空間が歪み、空気が重く震える。
夜の闇を切り裂くように光の粒子が渦を巻き、巨大な破壊の形を成し始めていた。
リアナの紫水晶のような瞳は戦場全体を静かに見下ろしていた。
黒殻種の大群。倒れゆく騎士たち。炎に包まれた街路。
街路を埋め尽くし、逃げ遅れた市民へと迫る影。
その中に——
小さな影があった。
瓦礫に足を取られ動けなくなっている少女。
必死に這いながら逃げようとしている。
巨大な黒殻種が遠く迫っている。
(撃てば)
助かる。
全部。
この場も。
あの子も。
街も。
人も。
(撃てば)
終わる。
その確信がリアナの中にある。
だが同時に——
隣に立つ存在の気配が消えかけていた。
「……ユート」
かすかに名を呼ぶ。
返事はない。
だが分かる。
彼はそこにいる。
そして限界に近い。
まだ何も起きていないのに。
まだ発動していないのに。
それでも彼の体はもう耐えきれないところまで来ている。
(どうして)
胸の奥で声が響く。
(どうして、そこまで……)
答えは知っている。
最初から。
ずっと。
「……ねえ」
リアナの声は震えていた。
「これ、撃ったら」
言葉が途切れる。
続けられない。
続けてしまえば戻れない気がした。
ユートは何も言わない。
ただそこにいる。
それだけ。
それが彼の答えだった。
(……そうだよね)
リアナは小さく息を吐いた。
分かっている。
選択なんて最初から一つしかない。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か分からない。
それでも口から零れた。
指先の魔力がさらに膨れ上がる。
空間が軋む。
あと一歩。
ほんのわずか前に踏み出せば——
すべてが終わる。
そのとき。
ユートの体が、わずかに揺れた。
膝が崩れかける。
それでも、踏みとどまる。
ユートは、すぐに立ち上がろうとしていた。
剣を地面に突き立て、体を支えようとしている。
血の滴る口元で、かすかに微笑もうとしている。
何も言わない。
何も求めない。
ただ、そこに立っている。
それだけで——
リアナの中で何かが切れた。
「……もう、いい」
小さく呟く。
指先の力が抜けた。
膨れ上がっていた魔力が一瞬で不安定になる。
暴発寸前のそれを無理やり押さえ込む。
空間の歪みが軋みながら崩れていく。
そして——
ユートが崩れた。
音もなく。
静かに。
糸が切れたように。
リアナの視界が止まる。
思考が完全に消える。
「……あ」
声にもならない声が漏れる。
そして次の瞬間彼女は動いていた。
魔力を完全に解放することなく強引に圧縮する。
巨大だった槍が、収縮する。
凝縮され、形を変える。
長大な光ではなく——
手の中に収まる、鋭い刃へ。
光が消える。
静かに。
だが、その密度はむしろ増していた。
リアナはユートの体を抱き止める。
軽い。
あまりにも。
「……ごめん」
もう一度、呟く。
そして、そっと地面に横たえる。
呼吸はある。
だが、浅い。
今にも消えそうなほどに。
リアナは立ち上がった。
ゆっくりと。
その動きに迷いはなかった。
背後では黒殻種が迫っている。
もうすぐここにも到達する。
リアナは振り返らない。
ただユーリを見る。
そして小さく呟いた。
「……もう、世界なんか知らない」
その声は驚くほど静かだった。
「でも——」
彼女は一歩、踏み出す。
手にした刃がわずかに光を放つ。
「目の前は、全部守る」
その瞬間。
リアナ・ヴァルディスは英雄をやめた。
そして——
一人の戦士として祭壇から降りた。
リアナが降り立った戦場で奇妙な静けさを感じた。
轟音も、爆発もない。
ただ静かだった。
リアナの銀色の髪が夜風に乱れ、紫の瞳に静かな決意が宿っている。
手の中に圧縮された魔力が凝縮され短い刃の形を取っていた。
その静けさの中で——黒殻種が、彼女に襲いかかった。
巨大な蟹型の個体。
外殻は厚く、通常の剣撃では傷一つつかない。
触手が唸りを上げ、地面を抉りながら振り下ろされる。
リアナはほとんど動かなかった。
ほんのわずか、半歩だけ前に出る。
触手が彼女の背後で地面を砕く。
ほぼ同時にリアナの刃が振り抜かれていた。
音はほとんどない。
ただ空気が裂ける気配だけ。
遅れて甲殻がずれる。
一拍。
そして、巨大な個体が真っ二つに崩れた。
切断面は焼けていた。
緑色の体液が噴き出す前に蒸発している。
「……」
リアナは止まらない。
視線を次へ移す。
二体、三体と、周囲の個体が反応する。
群体が一斉に動く。
波のように。
だがリアナは前へ出た。
自分から。
逃げるのではなく迎えに行く。
最初の個体の懐に潜り込む。
刃が閃く。
横一線。
甲殻の隙間を正確に断ち、内部を焼き切る。
振り抜きざまに体を回転。
背後から迫った小型種を返す刃で切断する。
一歩。
さらに踏み込む。
距離は常にゼロに近い。
徹底した近接制圧。
無駄もなく、迷いもない。
ただ最短で、確実に殺す。
リアナは体を回転させ刃を連続で振り抜いた。
三体の甲殻が同時に断ち切られ、体液が霧のように舞う。
リアナは止まらなかった。
群体の中心へ踏み込む。
刃が閃くたび黒殻種が次々と倒れていく。
一歩、また一歩。
彼女の周囲に死の円が広がっていく。
だが——
遠くで、かすかな声がした。
「……っ」
リアナの動きがほんの一瞬だけ鈍る。
振り向かない。
だが分かる。
ユートだ。
彼の呼吸がわずかに乱れた。
それだけで分かる。
(……まだ、繋がってる)
自分の魔力の反動。
完全には消えていない。
圧縮しても、抑えても、ゼロにはならない。
刃を振るたびに。
わずかに。
確実に。
彼に流れている。
「……っ」
歯を食いしばる。
止めるか?
ここで。
戦うのを。
だが——
次の瞬間、目の前に小型種が飛び込んできた。
迷いは消える。
刃が走る。
一閃。
二体同時に切断。
止まれない。
止まれば終わる。
自分も。
ユーリも。
この場も。
だから——
リアナはさらに踏み込んだ。
群体の中心へ。
黒殻種が密集する場所。
最も危険な位置。
そこに自ら飛び込む。
「リアナ様!? 何を——」
後方から誰かの声が飛ぶ。
だが届かない。
リアナの意識はすでに戦闘に没入していた。
全感覚が研ぎ澄まされる。
視界が狭くなる。
音が遠のく。
ただ敵の動きだけが異様に鮮明になる。
右から触手。
左から突進。
足元から小型種。
すべてが同時に迫る。
——遅い。
リアナは一歩で間合いを詰めた。
触手の根元へ潜り込む。
斬る。
継ぎ目を正確に捉え、断つ。
その勢いのまま体を捻る。
左から来た個体の腹部へ刃を突き込む。
引き抜かない。
そのまま押し込み、内部から焼き切る。
崩れる。
さらに踏み込む。
足元の小型種を踏み潰す。
骨が砕ける感触。
気にしない。
次。
次。
次。
思考が単純化していく。
「殺す」
それだけ。
そのとき——
胸の奥に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
しかし、それは自分のものではないとすぐに分かった。
(ユート……!)
心臓が跳ねる。
また流れた。
反動が。
わずかに。
だが確実に。
リアナは足を止めかける。
そこに巨大な影が覆いかぶさった。
上位個体。
先ほどとは比べ物にならないほど巨大な蟹型。
外殻は分厚く、刃を弾くレベルではない。
触手が複数同時に振り下ろされる。
リアナは避けなかった。
踏み込んだ。
真正面から。
触手が迫る。
その軌道を紙一重でずらす。
肩が裂ける。
血が飛ぶ。
それでも止まらない。
懐へ。
一気に距離を詰める。
刃を構える。
(ここ)
一点。
甲殻の継ぎ目。
わずかな隙間。
そこにすべてを込める。
魔力をさらに圧縮する。
限界まで。
これ以上は危険だと分かっていても。
押し込む。
「……はああああッ!!」
叫びと共に突き出す。
刃が突き刺さる。
硬い。
だが——
貫いた。
内部に到達する。
次の瞬間内側から爆ぜるように焼き切る。
巨体が痙攣する。
動きが止まる。
一拍。
そして、崩れた。
地面が揺れる。
リアナはその場に立っていた。
肩から血を流しながら。
呼吸を荒げながら。
それでも立っている。
だが——
遠くで再び、かすかな音がした。
「……っ」
ユートの呼吸。
さらに弱くなっている。
(もう……)
限界が近い。
分かっている。
自分が続ける限り削り続ける。
それでも——
リアナは刃を構えた。
視線を上げる。
まだ終わっていない。
敵は尽きない。
「……全部、守るって言ったでしょ」
誰に向けた言葉か分からない。
それでも口にした。
そして——
再び前へ出た。
黒殻種の群体はなおも押し寄せていた。
いくら斬っても減らない。
倒した残骸の隙間から新たな個体が這い出してくる。
終わりがない。
だがリアナは止まらなかった。
呼吸は乱れ肩から流れる血が腕を伝って滴り落ちる。
それでも刃を握る手は緩まない。
一歩。
また一歩。
確実に前へ。
その背後——祭壇の足元でユートは横たわっている。
意識はほとんどない。
呼吸は浅く、断続的で、今にも途切れそうだった。
だが完全には消えていない。
まだ生きている。
(……まだ、繋がってる)
リアナはそれを感じていた。
自分の力がまだ彼に流れていることを。
完全には断ち切れていないことを。
刃を振るたびにわずかに。
彼の命を削っていることを。
「……っ」
歯を食いしばる。
なら、やめるか。
ここで。
剣を置いて。
ただ、彼のそばに戻るか。
——できない。
目の前で、兵士が一人、喰い裂かれた。
悲鳴が上がる。
次の瞬間、その声は途切れた。
リアナの視界が狭まる。
「……くそ」
小さく呟く。
これは選択した結果だ。
でも、何も守らないわけじゃない。
「……守るって、決めたでしょ」
自分に言い聞かせるように。
そして——踏み込む。
最後の密集地帯へ。
黒殻種が最も多く集まる場所。
そこに迷いなく飛び込んだ。
複数の触手が同時に振り下ろされる。
回避は間に合わない。
リアナは受けた。
左肩に直撃。
骨が軋む。
肉が裂ける。
それでも止まらない。
踏み込む。
刃を突き立てる。
一体、二体、三体。
近すぎる距離。
血と体液が混ざり、視界を濁す。
だが関係ない。
「……はぁ……っ」
呼吸が荒い。
視界が揺れる。
それでも手は止まらない。
そのとき——
足元に、小さな影が映った。
少女だ。
さっき見た、瓦礫の中の子供。
まだ生きている。
しかし動けないでいる。
目の前には小型種が三体。
すぐにでも喰いつく距離。
リアナは迷わなかった。
一歩で間合いを詰める。
横一閃。
三体を同時に断ち切る。
そのまま少女の前に立つ。
背中で守る。
「……もう大丈夫」
声は、静かだった。
少女は震えながら、頷く。
その小さな反応を確認して——
リアナは、再び前を向いた。
(……これでいい)
世界は救えない。
でもこの子は守れた。
それでいい。
それで十分だ。
だが次の瞬間。
地面が、大きく揺れた。
重い、鈍い音。
巨大な影が前方から迫る。
最上位個体。
これまでとは比べ物にならない質量。
装甲は分厚く、弱点は見えない。
その巨体がゆっくりとこちらへ向かってくる。
リアナは息を吐いた。
残った魔力はもう多くない。
体も限界に近い。
それでも——
刃を構える。
(これで……最後)
そう思った瞬間だった。
胸の奥に強烈な痛みが走る。
「……っ!!」
膝が揺れる。
呼吸が止まる。
これは——
自分のものじゃない。
(ユート……!)
振り向きそうになる。
踏みとどまる。
ここで止まればすべてが終わる。
前も、後ろも。
全部。
だから——
前を見る。
巨大な敵。
振り下ろされる触手。
それに対してリアナは一歩、踏み出した。
「……来なさい」
小さく呟く。
触手が振り下ろされる。
真正面から受ける。
両腕で刃を支え衝撃を受け止める。
骨が悲鳴を上げる。
膝が沈む。
だが折れない。
そのまま押し込む。
力と力がぶつかる。
一瞬の拮抗。
そして——
ほんのわずか押し返した。
その隙を逃さない。
踏み込む。
さらに一歩。
距離を詰める。
完全に懐へ。
刃を突き上げる。
甲殻の隙間を探す。
ない。
なら——
作る。
魔力を最後の一滴まで圧縮する。
限界を超える。
「……はあああああッ!!」
叫びと共に刃を押し込む。
硬い。
だが止まらない。
焼く。
削る。
貫く。
そして——
通った。
内部へ。
次の瞬間、内側から爆ぜる。
巨体が震える。
崩れる。
地面が揺れる。
土煙が上がる。
静寂。
一瞬の完全な静けさ。
黒殻種の動きが、止まった。
そして——
初めはみじろきするように、徐々に、はっきりと群体が後退する。
群体が撤退していく。
リアナはその場に立っていた。
刃を握ったまま。
呼吸もままならない。
体は限界。
それでも倒れない。
後ろを振り向く。
遠くにユートがいる。
まだ呼吸している。
かすかに。
ほんのわずかだが、確かに。
リアナはゆっくりと歩いた。
ふらつきながら。
それでも、一歩ずつ。
彼の元へ。
そして——
ユートの傍で、膝をつく。
そっと、その手を取る。
温もりがまだある。
「……生きてる」
小さく笑う。
涙が頬を伝う。
「……ねえ、ユート」
返事はない。
それでも続ける。
「世界は……まだ終わってない」
遠くで黒殻種が蠢いている。
戦争は続く。
何も解決していない。
でも——
「でも、ちゃんと守れたよ」
少女がいる。
兵士たちがいる。
この要塞が、残っている。
そして何より——
彼が、生きている。
リアナは、ユートの手を強く握った。
「……だから、いいでしょ」
静かな声。
戦場の中でただそこだけが穏やかだった。
夜はまだ終わらない。
戦争も終わらない。
それでも——
二人は生きている。
その事実だけが確かだった。