英雄をやめた日から   作:自給自足

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英雄をやめた日から

数ヶ月後。

要塞都市《アルティア》の空は相変わらず低く、重かった。

崩落した外壁は応急処置の鉄板と魔導障壁で辛うじて繋ぎ止められている。

その継ぎ接ぎだらけの壁は、この街の現実そのものだった。

下層区画では今日も配給の列が伸びていた。乾いたパンと薄いスープ。それでも、人々は並ぶ。生きるために。

遠くで、黒殻種の咆哮が響いた。

誰も驚かない。

それが日常になっているからだ。

基地の屋上。

ユート・レーヴェンは手すりにもたれかかるようにして立っていた。

夕暮れの光が瓦礫の街を鈍く照らしている。

胸に走る鈍い痛みはまだ消えない。時折、息が詰まるような感覚もある。それでも、彼は立っていた。

(……生きてるな)

それが最初に浮かんだ実感だった。

勝ったわけじゃない。

世界は救われていない。

それでも自分はここにいる。

それだけが確かな事実だった。

「……ユート」

背後から静かな声がした。

振り返るまでもない。

「遅かったな」

「少しだけ、抜け出すのに手間取ったの」

リアナ・ヴァルディスがゆっくりと歩いてくる。

白い外套を羽織った姿はかつての戦装束とは違い軽さを感じさせた。

彼女はユートの隣に並び同じように手すりに手を置いた。

沈黙が流れる。

それは気まずいものではなかった。

「……今日も来てたのね」

「まあな。じっとしてるのも性に合わない」

リアナは小さく笑った。

「エレナ先生に怒られるわよ」

「もう何回も怒られてる」

「反省してない顔ね」

「してる顔ってどんなだ」

軽いやり取り。

それだけで少しだけ空気が和らぐ。

だがその奥にあるものは消えない。

リアナはふと視線を下に落とした。

下層区画の一角。

そこにはぽっかりと空いた何もない場所があった。

建物の残骸すら撤去されただの空白になっている。

「……あそこ」

彼女が呟く。

「孤児院があった場所よ」

ユートは視線だけで追った。

「ああ……」

短く答える。

それ以上言葉は出なかった。

必要がなかった。

リアナはしばらくその場所を見つめていた。

風が吹く。

外套の裾が揺れる。

「この前、あそこに行ったの」

「一人でか?」

「ええ」

彼女は頷いた。

「子供たちが何人かいて……仮設のテントで暮らしてた」

声は穏やかだった。

だがその奥にあるものは、穏やかではない。

「女の子に、声をかけられたの」

ユートは黙って聞いていた。

「助けてくれてありがとうって」

リアナは一度、言葉を区切った。

わずかに息が揺れる。

「……でもね」

その続きを言うまでに、ほんの少しの間があった。

「そのあと、少しだけ距離を取られたの」

静かな声だった。

責めるでもなく、嘆くでもなく。

ただ事実を置くように。

ユートの胸の奥がわずかに軋んだ。

リアナは続ける。

「笑ってくれたのよ。でも……ほんの少しだけ、怖がってた」

視線は、まだ下を向いている。

「あの子、分かってるのよ。全部じゃなくても……なんとなく」

何が起きたのか。

何を失ったのか。

誰がそれに関わったのか。

言葉にできなくても、感じ取っている。

「……そうだな」

ユートは低く言った。

リアナはゆっくりと頷いた。

「ええ。そうね」

否定しない。

受け入れる。

それが彼女の選択だった。

沈黙が落ちる。

夕焼けがさらに色を深める。

リアナは手すりに置いた手に少し力を入れた。

そのとき——

わずかに、指が震えた。

止めようとする。

完全には止まらない。

小さな、細かな震え。

ユートは気づいた。

「……まだ、痛むのか」

リアナは苦笑した。

「ええ。たまにね」

彼女は右手を軽く握りしめた。

その動きはぎこちない。

「強い魔術を使おうとすると……こうなるの」

神経が焼けるような痛み。

力が抜ける感覚。

以前のような制御は、もうできない。

「……後遺症、か」

「そういうことね」

リアナはあっさりと言った。

その軽さは慣れではない。

受け入れた結果だった。

「前みたいには、もう無理よ」

夕焼けを見ながら、ぽつりと呟く。

「全部を一撃で消し飛ばすなんて、もうできない」

その言葉には、誇りも、悔しさも混ざっていた。

ユートは何も言わなかった。

言葉が軽くなる気がしたからだ。

リアナは続ける。

「……でもね」

少しだけ顔を上げる。

「その代わり、ちゃんと見えるようになった気がするの」

「何が?」

「目の前のもの」

短い言葉だった。

「前は、遠くばかり見てた。戦場全体とか、戦争の終わりとか……」

「……ああ」

「でも今は、違う」

彼女は下を見た。

人がいる。

傷ついている。

生きている。

「手が届く範囲だけでも、守りたいって思える」

その言葉は小さかった。

だが、確かだった。

ユートはゆっくりと頷いた。

「それでいい」

リアナはふっと息を抜いた。

そしてほんの少しだけ、ユートに体を寄せた。

自然な動きだった。

無意識に近い。

「……ねえ、ユート」

「ん?」

少しだけ、間があった。

「もしも、あの時」

彼女の声がわずかに揺れる。

「私が、あれを撃っていたら」

夕焼けがゆっくりと沈んでいく。

「……全部、終わってたのかしら」

その問いは軽くなかった。

重く、静かに、そこに置かれた。

ユートはすぐには答えなかった。

答えられなかった。

風が吹く。

どこかで遠くの爆発音が響く。

それでも彼は口を開いた。

「……終わってたかもしれない」

正直な言葉だった。

「でも——」

ほんの一瞬だけ言葉が止まる。

(……本当は)

喉の奥で何かが引っかかった。

(終わらせてほしかった)

その本音は外に出さなかった。

代わりに続ける。

「もっと酷いことになってたかもしれない」

リアナは静かに頷いた。

「……そうね」

彼女は目を閉じた。

そしてゆっくりと開く。

「分からないのよね、結局」

その言葉には諦めではなく受容があった。

分からないまま抱える。

それを選んだという意思。

夕陽が沈みきる。

夜が、街を包み始める。

遠くで黒殻種の咆哮が響いた。

戦争はまだ終わらない。

それでも二人はそこに立っていた。

同じ場所に。

同じ方向を見て。

違うものを背負いながら。

それでも、並んで。

それが今の彼らだった。

夜はゆっくりと要塞都市《アルティア》を覆っていった。

昼のざわめきが嘘のように下層区画の通りは静まり返っている。

だがそれは安らぎではない。疲れ果てた者たちが、ただ眠りに落ちているだけだ。

遠くでは黒殻種の甲殻が擦れ合う音が低く響いていた。完全な静寂などこの街には存在しない。

屋上にいた二人はやがて無言のまま階段を降りた。

石造りの通路は冷たく、ところどころに亀裂が走っている。壁に取り付けられた魔導灯が青白い光で足元を照らしていた。

「少し、外を歩かない?」

リアナがぽつりと言った。

ユートは肩をすくめる。

「止められてるんじゃなかったのか?」

「だから少しだけよ」

悪びれない声だった。

その軽さにユートは苦笑する。

「怒られるぞ」

「一緒に怒られてくれるなら、問題ないわ」

「巻き込む気満々だな」

「当然でしょ」

そんなやり取りを交わしながら二人は基地の外へと出た。

夜の空気はひんやりとしていた。

瓦礫の匂いと焦げた臭いが混じる。どこかでまだ燻っている火の気配があった。

街路には、人影はまばらだった。

巡回の兵士と、帰る場所を失った者たちが静かに歩いているだけだ。

「……変わったわね」

リアナが呟く。

「前からこんなもんだろ」

「そうじゃなくて」

彼女は首を振った。

「見え方よ」

ユートは横目で彼女を見る。

リアナは壊れた建物の一つに視線を向けていた。

壁の半分が崩れ落ち、内部がむき出しになっている。かつては誰かの生活があった場所だ。

「前は、全部守る対象として見てた」

リアナはゆっくりと言葉を選ぶ。

「街も、人も、まとめて」

「……今は?」

「ひとつひとつ、別に見えるの」

その言葉は静かだった。

しかし、重みがあった。

「この家にいた人、この道を歩いてた人……そういうのが、ちゃんと想像できる」

ユートは少しだけ考えてから、口を開く。

「それは……いいことなのか?」

リアナはすぐには答えなかった。

しばらく歩き続け、やがて小さく息を吐く。

「分からない」

正直な答えだった。

「前より苦しい気もするし……でも、前より間違えない気もする」

足元の瓦礫を軽く蹴る。

小さな音が響いた。

ユートは何も言わなかった。

その言葉の意味がよく分かっていたからだ。

しばらくして二人は仮設の市場の近くに出た。

布と木材で組まれた簡易の屋台が並び、細々とした取引が行われている。灯りは少ないが、それでも人の気配があった。

「……まだやってるんだな」

「ええ。こういう場所がないと、生きていけないもの」

リアナはゆっくりと歩きながら周囲を見渡す。

ふと、一人の少年と目が合った。

十歳前後だろうか。痩せた体に少し大きすぎる外套を羽織っている。

少年は一瞬だけ固まった。

そして——

ぺこりと、小さく頭を下げた。

「……」

リアナも同じように軽く頭を下げ返す。

それ以上のやり取りはない。

少年はすぐに視線を逸らし別の方向へ歩いていった。

ほんの数秒の出来事。

その中にすべてが詰まっていた。

「……ああいうの、増えたな」

ユートがぽつりと言う。

「ええ」

リアナは頷く。

「感謝はされる。でも——」

その先は言わなくても分かる。

距離。

見えない線。

それが確かに存在している。

「怖がられてる、ってほどじゃない」

ユートが言葉を補う。

「でも、同じ側にはいない、って感じか」

「そうね」

リアナは苦く笑った。

「守る側と守られる側じゃなくて……何かを壊した側と壊された側」

その言葉はやや強かった。

だが否定はしない。

できない。

二人は市場を抜け、少し開けた場所に出た。

そこには、小さな焚き火がいくつか灯っていた。

人々が寄り添うように座り、静かに食事を取っている。

その中の一つに目が止まる。

先ほどの少年が他の子供たちと一緒に座っていた。

誰かが分けたであろうパンを小さくちぎって口に運んでいる。

笑ってはいない。

だが泣いてもいない。

ただ生きている。

リアナはその光景をじっと見つめた。

指先がまたわずかに震える。

今度は魔術の反動ではない。

もっと別のものだった。

「……ユート」

「ん?」

「私、間違ってないって思っていいのかしら」

その問いは弱かった。

今までの彼女なら口にしなかった種類のものだ。

ユートはすぐには答えなかった。

焚き火の光が二人の影を揺らす。

頭の中で、いくつもの答えが浮かぶ。

どれも決定的ではない。

「……分からないな」

結局、そう答えた。

リアナは少しだけ目を見開いた。

そして、小さく笑う。

「正直ね」

「そういう話だろ」

ユートは肩をすくめる。

「正しいかどうかで決めたわけじゃない」

「……ええ」

「選んだだけだ」

その言葉はシンプルだった。

だが逃げではなかった。

リアナはゆっくりと息を吐いた。

「そうね……」

もう一度焚き火の方を見る。

子供たちが静かに寄り添っている。

守られた命。

失われたもの。

両方がそこにある。

「……それでも」

リアナは小さく呟いた。

「私は、あの子たちの前で、胸を張れるようになりたい」

ユートは少しだけ驚いたように彼女を見る。

「今からでも、遅くないかしら」

「遅くはないだろ」

即答だった。

「どうやってやるかは知らんけどな」

「そこは考えるところでしょ」

「だろうな」

軽く笑い合う。

ほんの少しだけ空気が柔らかくなる。

そのとき——

低い警報音が街に響いた。

一度、二度、三度。

断続的に鳴り続ける。

「……来たか」

ユートが呟く。

リアナの表情がわずかに引き締まる。

「北側ね」

「距離は……近いな」

焚き火の周りにいた人々がざわめき始める。

兵士たちが走り、指示の声が飛ぶ。

いつもの光景。

決して慣れることのない光景。

リアナは一瞬だけ目を閉じた。

そして、開く。

その瞳に迷いは残っていた。

だが、それでも前を向いている。

「……行きましょう」

「ああ」

二人は同時に歩き出した。

同じ方向へ。

同じ戦場へ。

しかし——

以前とは違う。

背負っているものも。

選んだ理由も。

それでも、足は止まらない。

戦争はまだ続いている。

そして、彼らもまた——

その中で生き続けることを選んだのだから。

警報は断続的に鳴り続けていた。

夜の空気を切り裂くように低く重い音が要塞都市《アルティア》全体に広がっていく。人々のざわめきが一気に膨らみ通りには緊張が走った。

北側防衛線。

距離は近い。

規模も小さくはない。

それだけで、状況は十分すぎるほど理解できた。

「急ごう」

ユートが短く言う。

リアナは頷き、歩調を速めた。

二人は瓦礫の間を縫うように進み、やがて防衛線の一角へと辿り着く。

そこではすでに騎士団の部隊が展開していた。

簡易のバリケードの向こう側、闇の中で——無数の甲殻が蠢いている。

黒殻種。

数は、ざっと数十。

小規模ではあるが油断できる相手ではない。

「左翼、押されてるぞ!」

「魔導砲、再装填急げ!」

怒号が飛び交う。

火花と閃光が夜を断続的に照らしていた。

リアナは一歩前に出た。

かつてなら——迷いなく高台に立ち、すべてを一撃で焼き払っていた。

だが今は違う。

彼女は立ち止まり戦場全体を見渡す。

敵の配置。

味方の動き。

民間人の避難経路。

すべてをひとつひとつ確認する。

その間にも、黒殻種は迫ってくる。

「リアナ様!」

一人の兵士が叫ぶ。

周囲の兵士がリアナを振り返った。

彼らの目には何かを期待する光があった。

それでも、彼女は視線を逸らさなかった。

「ここは、分断して叩く」

落ち着いた声で続ける。

「中央の大型個体を優先。左右は足止めでいい」

兵士たちは一瞬だけ迷い、そして頷いた。

命令は明確だった。

そして——彼女が誰であるかを彼らは知っている。

「……行くぞ」

ユートが低く言う。

「分かってる」

リアナは一歩踏み出した。

その瞬間、指先にかすかな痺れが走る。

反射的に息を整える。

大丈夫。

まだ動ける。

魔力を集中する。

だがそれはかつてのような全てを飲み込む奔流ではない。

細く、鋭く、制御された流れ。

彼女は手を振り下ろした。

空間がわずかに歪み、圧縮された魔力が弾ける。

狙いは——中央の大型個体。

衝撃が走り、甲殻がひび割れる。

完全な破壊には至らない。

だが、動きは確実に鈍った。

「今!」

ユートが飛び出す。

地面を蹴り一直線に距離を詰める。

剣に魔力を流し込み、振り下ろす。

甲殻の裂け目に刃が深く食い込む。

緑色の体液が噴き出した。

咆哮。

巨体が大きく揺れる。

「右から来るぞ!」

誰かの叫び。

小型種の群れが横から雪崩れ込んでくる。

ユートは剣を引き抜き体勢を変える。

だが——

「任せて」

リアナの声。

振り返る間もなく横から衝撃が走る。

小型種の群れがまとめて吹き飛ばされた。

それは消し飛ばしたわけではない。

あくまで押し返しただけ。

「無理はするな」

ユートが短く言う。

「分かってる」

リアナは息を整えながら答える。

額に薄く汗が滲んでいた。

戦いは続く。

一体ずつ。

一群ずつ。

確実に削っていく。

派手さはない。

だが崩れない。

時間はかかった。

それでも——

最後の一体が倒れたとき、戦場には静寂が戻っていた。

荒い呼吸。

焦げた匂い。

そして、かすかな安堵。

「……終わり、か」

ユートが呟く。

リアナはその場に立ったままゆっくりと息を吐いた。

手がわずかに震えている。

倒れはしない。

意識も保っている。

彼女は戦場を見渡した。

負傷者はいる。

瓦礫も増えた。

しかし、壊滅ではない。

守り切った。

この範囲だけは。

「……これでいい」

小さく呟く。

それは誰に向けた言葉でもなかった。

ユートが隣に立つ。

「どうだ」

短い問い。

リアナは少し考えてから答えた。

「疲れる」

正直な感想だった。

ユートは小さく笑う。

「だろうな」

「でも——」

リアナは続ける。

「ちゃんと、見える」

目の前のものが。

守れた範囲が。

失ったものが。

全部。

その言葉にユートは何も言わなかった。

ただ、軽く頷く。

遠くでまた別の警報が鳴る。

戦いはまだ終わらない。

終わる気配すらない。

それでも——

リアナは一歩、前に出た。

ユートも並ぶ。

同じ方向へ。

同じ速さで。

以前のようにすべてを終わらせる力はない。

代わりに——

ひとつずつ選ぶ力がある。

何を守るか。

どこまで手を伸ばすか。

そのすべてを自分で決める。

それが今の彼女だった。

「……ねえ、ユート」

歩きながらリアナが言う。

「ん?」

「これで良かったのかは——」

言葉が途切れる。

少しだけ考えるように。

そして首を振る。

「やっぱり、分からないわ」

ユートは息を吐いた。

「だろうな」

即答だった。

「多分、一生分からない」

リアナは苦笑する。

「ひどいわね」

「現実だ」

軽いやり取り。

その奥にあるものは決して軽くはない。

リアナは前を向いた。

夜の街。

傷だらけの要塞。

それでも、まだ立っている。

「……それでも」

彼女は小さく呟く。

「私は、こっちを選んだ」

その声に迷いは残っていた。

だが——後悔は、なかった。

ユートはその横顔を見る。

そして、視線を前に戻す。

「俺もだ」

短く言う。

それ以上は何もいらなかった。

風が吹く。

遠くで黒殻種の影が蠢く。

戦争は続く。

終わりは見えない。

それでも——

二人は歩く。

止まらずに。

迷いを抱えたまま。

それでも、同じ場所に立ち続けるために。

正しかったかは分からない。

それでも二人は歩いていく。

この世界の中を。

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