英雄をやめた日から   作:自給自足

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7話

外壁の向こうで、夜が割れていた。

黒い波が崩れた城壁の裂け目から雪崩れ込んでくる。

砲撃の閃光が煙を白く染め、そのたびに無数の甲殻が濡れたように光った。耳を潰すような金属音。腐臭。焼けた魔力の匂い。誰かの悲鳴。

アルティア第七码頭防衛線。

長年続いた戦争の中でも、最悪に近い崩れ方だった。

「東側崩壊!東側崩壊!」

「中型個体、壁内侵入!」

「避難路が塞がった!」

「後退しろ、後退——」

通信が途中で途切れる。

次の瞬間、外壁の一角が内側から弾け飛んだ。

巨大な黒殻種が砕けた石材を撒き散らしながら前脚を振り下ろす。

地面が沈んだ。

兵士がまとめて吹き飛び、瓦礫に叩きつけられる。

さらに後方から小型群が雪崩れ込んだ。

黒い。

とにかく数が多い。

犬ほどの大きさの黒殻種が、人間の足に噛みつき、倒れた兵へ群がる。鎧の隙間へ触手を差し込み、緑色の腐食液を流し込む。

悲鳴。

肉の焼ける音。

銃槍の炸裂音。

その混沌の中を、一人の青年が駆け抜けた。

「左、開けろ!」

低い声。

ユート・レーヴェン。

黒灰色の軽装鎧。胸と腹部を締め上げる拘束帯。呼吸をするたびに、内部から軋むような音が鳴る。

彼は瓦礫を蹴り上げながら、前方の黒殻種へ踏み込んだ。

振るわれた剣は、華麗さとは無縁だった。

短く、重い。

斬るというより、叩き込む。

甲殻の継ぎ目へ刃が潜り込んだ瞬間、刀身が低く震える。

甲高い異音。

次の瞬間、黒殻の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。

内部から緑色の光が漏れる。

黒殻種が痙攣し、そのまま崩れ落ちた。

「走れ!」

ユートが怒鳴る。

避難民と負傷兵が、その横を転がるように駆け抜けていく。

だが数が多すぎた。

次の瞬間、右側建物の壁面を突き破って大型個体が現れる。

四本脚。

潰れた蟹のような巨体。

前脚が振り下ろされる。

ユートは咄嗟に横へ飛んだ。

衝撃。

石畳が爆ぜる。

破片が肩を裂いた。

だが着地と同時に再加速する。

止まれば囲まれる。

後ろには避難民がいる。

大型個体が再び脚を持ち上げた、その瞬間。

白紫の光が、横から走った。

音は小さい。

だが異様だった。

細い光刃が大型個体の脚部へ触れた瞬間、甲殻内部から紫光が膨張する。

——爆ぜた。

内側から。

脚部が崩落し、黒い巨体が傾く。

リアナ・ヴァルディスは、その横を静かに駆け抜ける。

長い銀白髪が煤で汚れていた。

かつて空を焼いた英雄。

だが今の彼女は違う。

広域殲滅魔術は使わない。

いや、使えない。

彼女の手にあるのは、短い、淡紫色の刃だけだった。

近づかなければ殺せない。

一体ずつしか壊せない。

それでも彼女は進む。

「ユート、後ろ!」

声と同時に、二匹の中型個体が瓦礫を飛び越えた。

ユートは振り返りざまに踏み込み、片方の顎を剣で弾き上げる。

もう一匹が横から突進。

避けきれない。

だがその瞬間、リアナが割り込んだ。

白い戦装束が翻る。

細い刃が、甲殻の隙間へ沈む。

静かな一閃。

次の瞬間、黒殻種の内部が焼け崩れた。

近すぎる距離。

返り血ではなく、腐食液が白布を汚す。

リアナの呼吸がわずかに乱れる。

ユートはそれを一瞬だけ見た。

だが何も言わない。

言う暇がない。

前方で再び悲鳴が上がる。

撤退路が崩れ始めていた。

「西通路が持ちません!」

「まだ民間人が残ってる!」

「援護を——」

爆発。

建物上階が崩落し、通路を埋める。

兵士たちの顔から色が消える。

逃げ道が消えた。

その時だった。

後方から、若い女の声が飛ぶ。

「……待って」

誰もが振り向く。

瓦礫の上に、一人の少女が立っていた。

暗灰色の軽装。

耳当て型の探知装置。

索敵兵だ。

まだ若い。

十八か、それくらい。

少女——セラ・リーヴェルトは、青ざめた顔で遠くを見ていた。

「違う……」

「これ、ただの群れじゃない」

彼女の声が震えている。

頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら、それでも視線を外さない。

「全部、動きが繋がってる……」

「誘導されてる……」

ユートが眉を寄せる。

「何が見えてる」

セラは答える前に、一度息を呑んだ。

恐怖を飲み込むように。

そして、崩壊した市街地の中心を指さす。

「……いる」

遠く。

煙と炎の奥。

巨大な影が、ゆっくり動いた。

周囲の黒殻種の動きが、一瞬で変わる。

散漫だった波が、一つの意志みたいに収束する。

兵士たちが飲み込まれていく。

「最上位個体……!」

誰かが絶望混じりに呟いた。

空気が変わる。

あれがいる限り、この区域は崩れる。

撤退も、防衛も、間に合わない。

セラの唇が小さく震えていた。

遠くで、最上位個体が低く咆哮する。

それに呼応するように、群体全体が動いた。

まるで巨大な生物の神経みたいに。

ユートは静かに周囲を見た。

崩れた外壁。

塞がれた退路。

増え続ける黒殻種。

疲弊した兵士。

生き残り。

普通に逃げれば全滅する。

彼は短く息を吐いた。

「……全部を相手にしたら終わる」

リアナが彼を見る。

ユートは、煙の向こうの巨大影を見据えたまま言った。

「なら、中心だけ壊す」

沈黙。

誰も意味を理解できない。

だがリアナだけは分かった。

それが何を意味するか。

遠くで、炎が上がる。

まだ逃げ遅れた人々がいる。

リアナはそれを見つめる。

長く。

苦しそうに。

そして静かに目を閉じた。

かつてなら、全部を焼き払って守れたかもしれない。

だが今の自分にはできない。

できないまま、選ばなければならない。

ゆっくりと、彼女は目を開ける。

その瞳には、迷いが残っていた。

消えてはいない。

それでも。

「……行くわ」

静かな声だった。

だが確かに、自分で決めた声だった。

「私が、最上位個体を狩る」

その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。

ユートはすぐに動いた。

「生き残りを集めろ。動けるやつだけでいい」

「重傷者は?」

「連れて行けば全滅する」

冷たい言葉だった。

だが誰も反論できない。

もう全部を助ける段階は終わっていた。

通信兵の男が歯を食いしばる。

「……了解」

セラはまだ煙の奥を見ていた。

頭痛が酷い。

残響が多すぎる。

崩壊音。

悲鳴。

黒殻種の振動。

甲殻同士が擦れる音。

その全ての中心に、巨大な脈動がある。

最上位個体。

あれが群れを動かしている。

「北西……崩落区画の中心」

「大型が集まってる」

「でも動きが偏ってる……護衛してるんだ」

ユートが頷く。

「道は?」

セラは目を閉じる。

耳当て型の探知装置が淡く震える。

膨大な情報。

だが、その中に僅かな隙間がある。

「地下排水路……」

「完全には塞がってない」

「でも途中で崩れてる。狭い」

「十分だ」

ユートは即答した。

 

再編した部隊とともに地下水路を目指す。

その間にも、黒殻種は迫ってくる。

小型群が瓦礫を越え、壁を這い、天井から降ってくる。

近くにいた兵士が喉を裂かれた。

血飛沫。

次の瞬間、ユートが踏み込む。

剣が低く唸った。

黒殻種の顎へ叩き込む。

振動。

甲殻内部が軋む音。

小型個体の頭部が内側から砕け散った。

ユートは止まらない。

振り抜きざまに二匹目の脚関節を断ち、蹴り飛ばす。

その死体を踏み台にして前へ出る。

「通路開ける!走れ!」

部隊が動き始める。

後方ではリアナが迎撃していた。

白紫の刃が閃く。

小さい。

静かだ。

だが異様だった。

黒殻種へ触れた瞬間、甲殻内部が紫色に発光する。

次の瞬間には、内側から崩壊している。

切断ではない。

内部破壊。

まるで生物の中心だけ焼き潰しているようだった。

中型個体が触手を振り下ろす。

リアナは半歩だけ身体をずらす。

触手が肩を掠め、白い布が裂ける。

それでも止まらない。

最短距離。

最小動作。

刃が関節奥へ沈む。

紫光。

中型個体の脚が一瞬で崩れ落ちる。

その背後から大型個体が突進してきた。

「リアナ!」

ユートが叫ぶ。

だがリアナは下がらない。

大型個体の前脚が振り下ろされる直前、彼女は懐へ飛び込んだ。

重圧。

暴風みたいな衝撃。

砕けた石材が頬を裂く。

だがその瞬間、細い刃が巨大甲殻の継ぎ目へ触れた。

沈黙。

一拍遅れて、内部から紫光が爆ぜる。

大型個体の半身が崩壊した。

腐食液が雨みたいに降り注ぐ。

リアナがよろめく。

呼吸が浅い。

ユートは即座に彼女の腕を引く。

「行くぞ!」

その直後。

大型個体の死骸を踏み越え、小型群が雪崩れ込んできた。

数が異常だった。

床。

壁。

天井。

全部から来る。

「っ……!」

双剣使いの女が一匹を斬る。

だが二匹目に噛みつかれる。

ユートが横から突っ込んだ。

剣を振り下ろす。

甲殻が砕ける。

さらに蹴り飛ばす。

「止まるな!」

全員が地下排水路へ飛び込む。

直後、上階が崩落した。

轟音。

粉塵。

暗闇。

そして静寂。

地下は冷えていた。

湿った空気。

腐った水の臭い。

遠くで、黒殻種の甲殻が擦れる音だけが響いている。

誰も喋らない。

ただ荒い呼吸だけが続く。

セラが壁にもたれたまま、頭を押さえていた。

「……まだ遠い」

「どれくらいだ」

「分からない……でも、中心が動いてる」

ユートは地図を広げる。

濡れて滲んでいる。

まともに読めない。

それでもルートを決める。

「最短で行く」

「長引けば囲まれる」

「本当にやるの……?」

セラが掠れた声で言った。

「最上位なんて……討伐例、ほとんど——」

リアナが遮る。

「でも、今はそれを選ぶしかない」

沈黙。

誰も希望なんか持っていない。

あるのは、生き残れる可能性だけだった。

リアナがゆっくり立ち上がる。

「前進する」

短い言葉。

だが、その声で全員が動き始める。

地下排水路を進む。

崩落した通路を這い、

腐食液の溜まった水を渡り、

息を殺して巡回群をやり過ごす。

長い。

ひたすら長い潜伏だった。

時折、上から振動が響く。

地上ではまだ戦っている。

まだ死んでいる。

その現実を抱えたまま、彼らは進む。

やがてセラが足を止めた。

顔色が悪い。

唇が震えている。

「……いる」

その瞬間だった。

壁の向こうから、重い震動が響く。

ドン。

ドン。

巨大な心臓みたいな音。

地下空間の奥。

崩れた大空洞の中心で、それは動いていた。

巨大だった。

蟹のような黒紫の甲殻。

建物ほどの体躯。

周囲には上位個体が群がり、触手を震わせている。

そして異様だったのは、周囲の群れ全部が、この個体の呼吸に合わせて動いていることだった。

まるで巨大な神経核。

群れそのものの脳。

セラが掠れた声を漏らす。

「……これが」

最上位個体。

その瞬間、巨大個体の触角がわずかに動いた。

気づかれた。

「来る!」

セラが叫ぶ。

直後。

周囲の群体が一斉に動いた。

黒い波。

上位個体が突進する。

ユートが前へ出た。

「リアナ!」

返事はない。

だが次の瞬間、彼女はもう動いていた。

白い影が地を滑る。

上位個体の触手が迫る。

ユートが割り込んだ。

剣を振り上げる。

衝突。

重い。

腕が軋む。

甲殻へ振動を叩き込み、強引に軌道を逸らす。

その隙にリアナが駆け抜ける。

最短距離。

最上位個体へ。

群体が咆哮する。

護衛群が一斉に殺到。

双剣使いが迎撃。

重火器兵が炸裂弾を撃ち込む。

地下空洞が閃光で白く染まる。

その中央を、リアナだけが一直線に進む。

巨大個体の前脚が振り下ろされる。

避けきれない。

だがユートが飛び込んだ。

衝撃。

拘束帯が軋む。

肺が潰れそうになる。

それでも彼は押し返した。

「行け!」

リアナが跳ぶ。

銀白の髪が舞う。

細い刃を巨大甲殻の継ぎ目、過去、最上位個体にとどめを刺した個所へ沈み込ませる。

一瞬、静止。

次の瞬間。

紫光が、最上位個体の内部全体へ走った。

空洞そのものが揺れる。

絶叫。

いや、群体全体の悲鳴だった。

最上位個体の甲殻が内側から崩壊する。

周囲の黒殻種が、一斉に動きを乱した。

互いに衝突し、

触手を振り回し、

統制を失って暴れ始める。

セラが呆然と呟く。

「……崩れた」

ユートは荒い呼吸のまま立っていた。

腕が痺れている。

肺が焼けるように痛い。

リアナからの負荷が流れ込んでくる。

だが、見えた。

黒殻種が撤退していく。

巨大な波が、崩れていく。

誰もが血と埃にまみれていた。

誰も勝った顔をしていない。

助けられなかった場所が、確かにある。

それでも。

生き残った兵士が震える声で言った。

「……この後は、どうすれば」

沈黙。

リアナは崩れた最上位個体を見つめた。

静かに。

長く。

そして言う。

「まだ戦える人間を集める」

彼女はゆっくり前を向く。

「次も、同じように狩る」

ユートが続けた。

「全部は守れない」

その言葉は、苦い現実だった。

「だから、奴らを崩していく」

崩れた地下空洞の向こう。

統制を失った黒殻種が後退していく。

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