英雄をやめた日から 作:自給自足
外壁の向こうで、夜が割れていた。
黒い波が崩れた城壁の裂け目から雪崩れ込んでくる。
砲撃の閃光が煙を白く染め、そのたびに無数の甲殻が濡れたように光った。耳を潰すような金属音。腐臭。焼けた魔力の匂い。誰かの悲鳴。
アルティア第七码頭防衛線。
長年続いた戦争の中でも、最悪に近い崩れ方だった。
「東側崩壊!東側崩壊!」
「中型個体、壁内侵入!」
「避難路が塞がった!」
「後退しろ、後退——」
通信が途中で途切れる。
次の瞬間、外壁の一角が内側から弾け飛んだ。
巨大な黒殻種が砕けた石材を撒き散らしながら前脚を振り下ろす。
地面が沈んだ。
兵士がまとめて吹き飛び、瓦礫に叩きつけられる。
さらに後方から小型群が雪崩れ込んだ。
黒い。
とにかく数が多い。
犬ほどの大きさの黒殻種が、人間の足に噛みつき、倒れた兵へ群がる。鎧の隙間へ触手を差し込み、緑色の腐食液を流し込む。
悲鳴。
肉の焼ける音。
銃槍の炸裂音。
その混沌の中を、一人の青年が駆け抜けた。
「左、開けろ!」
低い声。
ユート・レーヴェン。
黒灰色の軽装鎧。胸と腹部を締め上げる拘束帯。呼吸をするたびに、内部から軋むような音が鳴る。
彼は瓦礫を蹴り上げながら、前方の黒殻種へ踏み込んだ。
振るわれた剣は、華麗さとは無縁だった。
短く、重い。
斬るというより、叩き込む。
甲殻の継ぎ目へ刃が潜り込んだ瞬間、刀身が低く震える。
甲高い異音。
次の瞬間、黒殻の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
内部から緑色の光が漏れる。
黒殻種が痙攣し、そのまま崩れ落ちた。
「走れ!」
ユートが怒鳴る。
避難民と負傷兵が、その横を転がるように駆け抜けていく。
だが数が多すぎた。
次の瞬間、右側建物の壁面を突き破って大型個体が現れる。
四本脚。
潰れた蟹のような巨体。
前脚が振り下ろされる。
ユートは咄嗟に横へ飛んだ。
衝撃。
石畳が爆ぜる。
破片が肩を裂いた。
だが着地と同時に再加速する。
止まれば囲まれる。
後ろには避難民がいる。
大型個体が再び脚を持ち上げた、その瞬間。
白紫の光が、横から走った。
音は小さい。
だが異様だった。
細い光刃が大型個体の脚部へ触れた瞬間、甲殻内部から紫光が膨張する。
——爆ぜた。
内側から。
脚部が崩落し、黒い巨体が傾く。
リアナ・ヴァルディスは、その横を静かに駆け抜ける。
長い銀白髪が煤で汚れていた。
かつて空を焼いた英雄。
だが今の彼女は違う。
広域殲滅魔術は使わない。
いや、使えない。
彼女の手にあるのは、短い、淡紫色の刃だけだった。
近づかなければ殺せない。
一体ずつしか壊せない。
それでも彼女は進む。
「ユート、後ろ!」
声と同時に、二匹の中型個体が瓦礫を飛び越えた。
ユートは振り返りざまに踏み込み、片方の顎を剣で弾き上げる。
もう一匹が横から突進。
避けきれない。
だがその瞬間、リアナが割り込んだ。
白い戦装束が翻る。
細い刃が、甲殻の隙間へ沈む。
静かな一閃。
次の瞬間、黒殻種の内部が焼け崩れた。
近すぎる距離。
返り血ではなく、腐食液が白布を汚す。
リアナの呼吸がわずかに乱れる。
ユートはそれを一瞬だけ見た。
だが何も言わない。
言う暇がない。
前方で再び悲鳴が上がる。
撤退路が崩れ始めていた。
「西通路が持ちません!」
「まだ民間人が残ってる!」
「援護を——」
爆発。
建物上階が崩落し、通路を埋める。
兵士たちの顔から色が消える。
逃げ道が消えた。
その時だった。
後方から、若い女の声が飛ぶ。
「……待って」
誰もが振り向く。
瓦礫の上に、一人の少女が立っていた。
暗灰色の軽装。
耳当て型の探知装置。
索敵兵だ。
まだ若い。
十八か、それくらい。
少女——セラ・リーヴェルトは、青ざめた顔で遠くを見ていた。
「違う……」
「これ、ただの群れじゃない」
彼女の声が震えている。
頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら、それでも視線を外さない。
「全部、動きが繋がってる……」
「誘導されてる……」
ユートが眉を寄せる。
「何が見えてる」
セラは答える前に、一度息を呑んだ。
恐怖を飲み込むように。
そして、崩壊した市街地の中心を指さす。
「……いる」
遠く。
煙と炎の奥。
巨大な影が、ゆっくり動いた。
周囲の黒殻種の動きが、一瞬で変わる。
散漫だった波が、一つの意志みたいに収束する。
兵士たちが飲み込まれていく。
「最上位個体……!」
誰かが絶望混じりに呟いた。
空気が変わる。
あれがいる限り、この区域は崩れる。
撤退も、防衛も、間に合わない。
セラの唇が小さく震えていた。
遠くで、最上位個体が低く咆哮する。
それに呼応するように、群体全体が動いた。
まるで巨大な生物の神経みたいに。
ユートは静かに周囲を見た。
崩れた外壁。
塞がれた退路。
増え続ける黒殻種。
疲弊した兵士。
生き残り。
普通に逃げれば全滅する。
彼は短く息を吐いた。
「……全部を相手にしたら終わる」
リアナが彼を見る。
ユートは、煙の向こうの巨大影を見据えたまま言った。
「なら、中心だけ壊す」
沈黙。
誰も意味を理解できない。
だがリアナだけは分かった。
それが何を意味するか。
遠くで、炎が上がる。
まだ逃げ遅れた人々がいる。
リアナはそれを見つめる。
長く。
苦しそうに。
そして静かに目を閉じた。
かつてなら、全部を焼き払って守れたかもしれない。
だが今の自分にはできない。
できないまま、選ばなければならない。
ゆっくりと、彼女は目を開ける。
その瞳には、迷いが残っていた。
消えてはいない。
それでも。
「……行くわ」
静かな声だった。
だが確かに、自分で決めた声だった。
「私が、最上位個体を狩る」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ユートはすぐに動いた。
「生き残りを集めろ。動けるやつだけでいい」
「重傷者は?」
「連れて行けば全滅する」
冷たい言葉だった。
だが誰も反論できない。
もう全部を助ける段階は終わっていた。
通信兵の男が歯を食いしばる。
「……了解」
セラはまだ煙の奥を見ていた。
頭痛が酷い。
残響が多すぎる。
崩壊音。
悲鳴。
黒殻種の振動。
甲殻同士が擦れる音。
その全ての中心に、巨大な脈動がある。
最上位個体。
あれが群れを動かしている。
「北西……崩落区画の中心」
「大型が集まってる」
「でも動きが偏ってる……護衛してるんだ」
ユートが頷く。
「道は?」
セラは目を閉じる。
耳当て型の探知装置が淡く震える。
膨大な情報。
だが、その中に僅かな隙間がある。
「地下排水路……」
「完全には塞がってない」
「でも途中で崩れてる。狭い」
「十分だ」
ユートは即答した。
再編した部隊とともに地下水路を目指す。
その間にも、黒殻種は迫ってくる。
小型群が瓦礫を越え、壁を這い、天井から降ってくる。
近くにいた兵士が喉を裂かれた。
血飛沫。
次の瞬間、ユートが踏み込む。
剣が低く唸った。
黒殻種の顎へ叩き込む。
振動。
甲殻内部が軋む音。
小型個体の頭部が内側から砕け散った。
ユートは止まらない。
振り抜きざまに二匹目の脚関節を断ち、蹴り飛ばす。
その死体を踏み台にして前へ出る。
「通路開ける!走れ!」
部隊が動き始める。
後方ではリアナが迎撃していた。
白紫の刃が閃く。
小さい。
静かだ。
だが異様だった。
黒殻種へ触れた瞬間、甲殻内部が紫色に発光する。
次の瞬間には、内側から崩壊している。
切断ではない。
内部破壊。
まるで生物の中心だけ焼き潰しているようだった。
中型個体が触手を振り下ろす。
リアナは半歩だけ身体をずらす。
触手が肩を掠め、白い布が裂ける。
それでも止まらない。
最短距離。
最小動作。
刃が関節奥へ沈む。
紫光。
中型個体の脚が一瞬で崩れ落ちる。
その背後から大型個体が突進してきた。
「リアナ!」
ユートが叫ぶ。
だがリアナは下がらない。
大型個体の前脚が振り下ろされる直前、彼女は懐へ飛び込んだ。
重圧。
暴風みたいな衝撃。
砕けた石材が頬を裂く。
だがその瞬間、細い刃が巨大甲殻の継ぎ目へ触れた。
沈黙。
一拍遅れて、内部から紫光が爆ぜる。
大型個体の半身が崩壊した。
腐食液が雨みたいに降り注ぐ。
リアナがよろめく。
呼吸が浅い。
ユートは即座に彼女の腕を引く。
「行くぞ!」
その直後。
大型個体の死骸を踏み越え、小型群が雪崩れ込んできた。
数が異常だった。
床。
壁。
天井。
全部から来る。
「っ……!」
双剣使いの女が一匹を斬る。
だが二匹目に噛みつかれる。
ユートが横から突っ込んだ。
剣を振り下ろす。
甲殻が砕ける。
さらに蹴り飛ばす。
「止まるな!」
全員が地下排水路へ飛び込む。
直後、上階が崩落した。
轟音。
粉塵。
暗闇。
そして静寂。
地下は冷えていた。
湿った空気。
腐った水の臭い。
遠くで、黒殻種の甲殻が擦れる音だけが響いている。
誰も喋らない。
ただ荒い呼吸だけが続く。
セラが壁にもたれたまま、頭を押さえていた。
「……まだ遠い」
「どれくらいだ」
「分からない……でも、中心が動いてる」
ユートは地図を広げる。
濡れて滲んでいる。
まともに読めない。
それでもルートを決める。
「最短で行く」
「長引けば囲まれる」
「本当にやるの……?」
セラが掠れた声で言った。
「最上位なんて……討伐例、ほとんど——」
リアナが遮る。
「でも、今はそれを選ぶしかない」
沈黙。
誰も希望なんか持っていない。
あるのは、生き残れる可能性だけだった。
リアナがゆっくり立ち上がる。
「前進する」
短い言葉。
だが、その声で全員が動き始める。
地下排水路を進む。
崩落した通路を這い、
腐食液の溜まった水を渡り、
息を殺して巡回群をやり過ごす。
長い。
ひたすら長い潜伏だった。
時折、上から振動が響く。
地上ではまだ戦っている。
まだ死んでいる。
その現実を抱えたまま、彼らは進む。
やがてセラが足を止めた。
顔色が悪い。
唇が震えている。
「……いる」
その瞬間だった。
壁の向こうから、重い震動が響く。
ドン。
ドン。
巨大な心臓みたいな音。
地下空間の奥。
崩れた大空洞の中心で、それは動いていた。
巨大だった。
蟹のような黒紫の甲殻。
建物ほどの体躯。
周囲には上位個体が群がり、触手を震わせている。
そして異様だったのは、周囲の群れ全部が、この個体の呼吸に合わせて動いていることだった。
まるで巨大な神経核。
群れそのものの脳。
セラが掠れた声を漏らす。
「……これが」
最上位個体。
その瞬間、巨大個体の触角がわずかに動いた。
気づかれた。
「来る!」
セラが叫ぶ。
直後。
周囲の群体が一斉に動いた。
黒い波。
上位個体が突進する。
ユートが前へ出た。
「リアナ!」
返事はない。
だが次の瞬間、彼女はもう動いていた。
白い影が地を滑る。
上位個体の触手が迫る。
ユートが割り込んだ。
剣を振り上げる。
衝突。
重い。
腕が軋む。
甲殻へ振動を叩き込み、強引に軌道を逸らす。
その隙にリアナが駆け抜ける。
最短距離。
最上位個体へ。
群体が咆哮する。
護衛群が一斉に殺到。
双剣使いが迎撃。
重火器兵が炸裂弾を撃ち込む。
地下空洞が閃光で白く染まる。
その中央を、リアナだけが一直線に進む。
巨大個体の前脚が振り下ろされる。
避けきれない。
だがユートが飛び込んだ。
衝撃。
拘束帯が軋む。
肺が潰れそうになる。
それでも彼は押し返した。
「行け!」
リアナが跳ぶ。
銀白の髪が舞う。
細い刃を巨大甲殻の継ぎ目、過去、最上位個体にとどめを刺した個所へ沈み込ませる。
一瞬、静止。
次の瞬間。
紫光が、最上位個体の内部全体へ走った。
空洞そのものが揺れる。
絶叫。
いや、群体全体の悲鳴だった。
最上位個体の甲殻が内側から崩壊する。
周囲の黒殻種が、一斉に動きを乱した。
互いに衝突し、
触手を振り回し、
統制を失って暴れ始める。
セラが呆然と呟く。
「……崩れた」
ユートは荒い呼吸のまま立っていた。
腕が痺れている。
肺が焼けるように痛い。
リアナからの負荷が流れ込んでくる。
だが、見えた。
黒殻種が撤退していく。
巨大な波が、崩れていく。
誰もが血と埃にまみれていた。
誰も勝った顔をしていない。
助けられなかった場所が、確かにある。
それでも。
生き残った兵士が震える声で言った。
「……この後は、どうすれば」
沈黙。
リアナは崩れた最上位個体を見つめた。
静かに。
長く。
そして言う。
「まだ戦える人間を集める」
彼女はゆっくり前を向く。
「次も、同じように狩る」
ユートが続けた。
「全部は守れない」
その言葉は、苦い現実だった。
「だから、奴らを崩していく」
崩れた地下空洞の向こう。
統制を失った黒殻種が後退していく。