英雄をやめた日から   作:自給自足

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8話

瘴気が崩れた街路の低い位置を這っていた。

夜ではない。

だが空は黒く曇り、砕けた城壁の向こうから灰が降り続けているせいで、昼でもずっと薄暗い。

瓦礫の隙間を小さな部隊が無言で進んでいた。

先頭を歩くのはユートだった。

黒灰色の軽鎧は泥と乾いた血で汚れ、胸部を締める拘束帯が呼吸に合わせて軋む。右手には短めの厚い剣。切断よりも衝撃伝達に特化した、無骨な刃。

その後ろを、リアナが歩く。

白と青を基調にした軽装は、かつて英雄と呼ばれた頃よりずっと実戦的だった。長い銀髪は後ろで固定され、表情には余計な感情がない。

さらに後方。

セラは半ば俯いたまま、耳当て状の索敵装置に指を添えていた。

彼女だけが、ときおり空間の音を聞いているような顔をする。

「左側、崩落建築内部」

小さく言う。

「小型三。動いてます。……まだ気づいてません」

ユートが片手を上げる。

隊列が止まった。

次の瞬間。

瓦礫の隙間から、黒い甲殻の塊が飛び出した。

犬ほどの大きさの黒殻種。

棘だらけの脚を鳴らしながら、一直線にユートの喉へ飛びかかる。

ユートは踏み込まない。

半歩だけ横へズラす。

直後、剣を短く振った。

鈍い衝突音。

刃が継ぎ目に食い込み、魔力の震えが甲殻内部へ流れ込む。

黒殻種の身体が、内側から砕けた。

紫色の亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、殻が崩落する。

間髪入れず、二体目。

今度は右側面。

ユートは身体を回転させず、剣だけを最短で振る。

刃が継ぎ目に食い込む。

破砕。

飛び散った体液が石壁を腐食させ、白煙を上げた。

だが三体目が死角から飛び込む。

その瞬間。

白紫の細い光が横一線に走った。

音が遅れて届く。

黒殻種の上半身が滑るように落ちた。

切断面の内部から紫色の光が爆ぜ、内側から焼け崩れる。

リアナは剣を振り抜いた姿勢のまま、小さく息を吐いた。

静かだった。

かつて空を裂いた大規模魔術の面影は、もうない。

あるのは、“一点だけを確実に殺す”ための刃。

「先を急ぐわよ」

リアナが言う。

誰も返事はしない。

隊は再び動き出した。

 

三日前。

指令部は、彼らに正式名称を与えた。

――リアナ隊。

発端は、前回の防衛戦だった。

本来なら壊滅していた撤退線を、少数で突破。最上位個体を撃破。結果として、周辺一帯の群体活動が急激に弱体化した。

報告を受けた上層部は、即座に判断した。

防衛線を維持するより、頭を狩った方が効率が良い。

だから彼らは独立運用された。

期待されたわけではない。

単純に、使えるから。

壊れるまで投入する価値があると判断された。

『避難民護衛隊を囮として運用する』

『敵群を引き寄せ、その間に最上位個体を急襲』

『討伐成功時、周辺区域の黒殻種活動低下が見込まれる』

『生存率は考慮しない』

会議室で淡々と告げられた言葉を、ユートはまだ覚えている。

リアナは最後まで黙っていた。

ただ、一度だけ視線を伏せた。

 

地下水路へ降りる階段は、途中で崩落していた。

ユートが先に飛び降りる。

浅い水が跳ねた。

腐臭。

湿気。

遠くから響く甲殻音。

水路の壁には、古い避難誘導標識が残っていた。

もう誰も使わない道。

だが今の彼らには、最適な侵入経路だった。

「……セラ」

リアナが低く呼ぶ。

「どう」

セラは返事をしない。

耳当てに指を押し当てたまま、じっと暗闇を見つめている。

彼女の索敵は、音だけではない。

残留魔力。

振動。

空気流。

群体特有の“反響”。

普通の索敵兵なら拾えない情報まで、彼女は拾ってしまう。

だからこそ、後方勤務を希望していた少女は、最前線に立たされている。

「……三分後」

ようやくセラが言った。

「東側水路、崩れます」

「規模は」

「大きいです。逃げ遅れます」

誰が。

とは言わなかった。

だが全員分かっていた。

囮部隊だ。

セラは、そういうものが見えてしまう。

どこが崩れるか。

誰が死ぬか。

どの退路が潰れるか。

戦場がどう終わるかを、誰より先に知ってしまう。

セラが小さく唇を噛む。

「……間に合いません」

リアナは沈黙した。

ユートが前へ進む。

「予定通り行く」

セラが顔を上げた。

「でも――」

「ここで止まれば、囮が死ぬだけで終わる」

ユートの声は静かだった。

「最上位を落とせば、生き残る区域は増える」

それは正論だった。

だが、正論は痛みを消さない。

セラは俯いた。

「……見えるんです」

小さな声。

「助からないって」

リアナは何も言えなかった。

彼女自身、まだ答えを持っていない。

英雄だった頃なら、「全員助ける」と言えたのかもしれない。

だが今は違う。

それが嘘だと知っている。

だから、言えない。

「……行くわよ」

最終的に、リアナはそう言った。

その声は硬かった。

自分に言い聞かせるような声だった。

 

地下水路を抜けた先。

崩壊した礼拝堂跡地の地下空洞で、セラが急停止した。

瞬間。

彼女の顔色が変わる。

「……いた」

空気が重い。

呼吸が浅くなる。

壁面に黒い粘液が脈動している。

奥から響く、巨大な甲殻の擦過音。

そして。

低く、濁った咆哮。

セラの声が震えた。

「最上位個体……確認」

誰も動かなかった。

空洞の奥。

巨大な黒い影が、ゆっくりと身じろぎする。

崩れた柱より大きい。

濃紫の甲殻。

無数の傷跡。

その周囲を、上位個体が巡回している。

まるで王を守る兵士のように。

セラが息を呑む。

「護衛……予想より多い……」

ユートが剣を握り直した。

拘束帯が軋む。

リアナは静かに目を閉じ、ゆっくり開く。

そして。

「――始めるわよ」

小さく告げた。

最初に動いたのは、敵だった。

最上位個体の周囲を巡回していた上位個体が、同時に頭部を持ち上げる。

甲殻が擦れる音。

次の瞬間、礼拝堂地下に警戒音のような低い唸りが広がった。

「来る!」

セラの叫びと同時。

黒い巨体が瓦礫を砕きながら突進した。

速い。

四メートルを超える上位個体が、異様な速度で地面を滑る。

前腕の巨大な殻が槍のように変形し、ユートへ叩き込まれた。

轟音。

ユートは真正面では受けない。

踏み込みと同時に身体を斜めへ流し、衝突角度をズラす。

それでも重い。

空気が肺から押し出され、拘束帯が軋んだ。

剣を下から振り上げる。

衝撃が甲殻へ走った。

黒い殻に紫色の亀裂が走る。

だが浅い。

硬い。

上位個体はひるまず、触手を広げた。

棘付きの触手が鞭のように襲いかかる。

ユートは避けきれない。

左肩をかすめる。

軽鎧が裂け、血が飛んだ。

だが、その一瞬。

白紫の光が走る。

リアナが横を抜けた。

静かな踏み込み。

最小限の動き。

薄い刃が上位個体の継ぎ目へ沈み込む。

音はしない。

しかし次の瞬間、内部から紫色の光が爆ぜた。

甲殻の内側が焼き砕かれ、上位個体の身体が崩れ落ちる。

「右二!」

セラの声。

後方。

暗闇から小型群が雪崩れ込んでくる。

別の隊員が前へ出た。

双剣。

速い。

黒殻種の脚を切り払う。

だが数が多い。

小型群は死骸を踏み越えながら押し寄せる。

後衛の魔導銃が火を吹いた。

圧縮された魔力弾が黒殻種の頭部を砕く。

腐食液が飛び散り、石床を溶かした。

「押さえろ!」

「隊長を通せ!」

怒号。

金属音。

咆哮。

地下空洞全体が震える。

だが。

最上位個体だけは、まだ動かない。

巨大な甲殻の奥で、ゆっくりとこちらを見ている。

観察している。

まるで戦場全体を計算しているように。

セラの顔色が変わった。

「……だめ」

「護衛、収束してる」

「統制が速い……!」

その瞬間。

最上位個体が低く咆哮した。

空気が震える。

直後、周囲の群体が一斉にリアナへ向きを変えた。

守護本能。

核を狙う存在を理解したのだ。

「リアナ!」

ユートが叫ぶ。

上位個体が二体、同時に突撃してくる。

ユートは前へ出た。

一体目の突進。

真正面から剣を叩き込む。

甲殻が割れる。

だが完全には抜けない。

衝撃が両腕を痺れさせる。

二体目が横から迫る。

触手。

棘。

腐食液。

ユートは回避を捨てた。

肩で受ける。

肉が裂ける音。

激痛。

その代わり、一歩踏み込めた。

剣を継ぎ目へ押し込む。

振動を流し込む。

甲殻内部が耐えきれず、内側から崩壊した。

上位個体が倒れる。

しかし。

ユートの呼吸も乱れていた。

拘束帯の下で、内臓が軋む。

遅れてくる鈍痛。

リアナが力を使うたび、ユートの身体にも負荷が返ってくる。

内臓が熱を持つ。

焼けるようだった。

それでもユートは前へ出る。

「今だ!」

リアナが走った。

白銀の髪が揺れる。

最上位個体が初めて動く。

巨大な脚が石床を砕き、触手が空間を埋め尽くした。

暴風のような一撃。

リアナは止まらない。

紙一重で潜り抜ける。

触手が肩を裂く。

白い戦装束に血が滲む。

だが速度は落ちない。

最上位個体の甲殻表面に、魔力の流れが走る。

硬い。

異常な密度。

普通の攻撃では通らない。

リアナは呼吸を止めた。

刃に、極限まで魔力を圧縮する。

細い光。

静かな熱。

ユートに反動が流れ込むのを感じる。

それでも。

リアナは踏み込む。

最上位個体が咆哮した。

巨大な前腕が振り下ろされる。

ユートが割り込んだ。

鈍い衝突音。

剣と甲殻がぶつかる。

衝撃で床が砕ける。

ユートの足元から血が散った。

耐え切れていない。

それでも押し返す。

「行け……!」

一瞬、リアナの目が揺れる。

だが、その迷いを振り切るように前へ出た。

刃が甲殻の継ぎ目へ沈み込む。

音はない。

静かだった。

ただ、紫色の光だけが内部へ沈み込む。

次の瞬間。

最上位個体の内部が爆ぜた。

巨大な亀裂が甲殻全体へ走る。

紫色の光が内側から噴き出し、核が砕け散った。

沈黙。

そして。

周囲の黒殻種が、一斉に動きを止めた。

上位個体が混乱し、互いに衝突する。

小型群が意味もなく暴れ始める。

礼拝堂地下が崩れ始めた。

「……撃破成功」

セラが呆然と呟く。

だがその声には、達成感がなかった。

リアナは荒い呼吸を繰り返す。

刃が消える。

指先が震えていた。

ユートは片膝をついていた。

口元から血が垂れる。

それでも彼は、崩れ始めた黒殻種を見ていた。

群体の咆哮が、少しずつ弱くなっていく。

「……崩れてる」

隊員の一人が呟いた。

信じられないものを見る目だった。

たった一体。

あの巨大個体を落としただけで、戦場全体の流れが変わっていく。

セラは耳当てに触れたまま、遠くを見ていた。

「東側群体、後退開始……」

「北防衛線、圧力低下……」

誰かが、小さく息を吐いた。

だがその空気を切るように、リアナが言う。

「撤退する」

短かった。

勝利を噛み締める時間などない。

地下空洞は崩壊を始めていた。

天井の石材が落下し、瘴気を含んだ砂塵が広がる。

ユートが立ち上がろうとして、ふらついた。

胸の奥が焼ける。

反動が遅れて全身を殴り始めていた。

リアナがすぐ支える。

その瞬間、ユートの表情がわずかに歪んだ。

「……悪い」

「喋らないで」

リアナの声は硬い。

だが、その手は離れなかった。

 

地下水路へ戻る途中。

群体の混乱はさらに広がっていた。

黒殻種同士が互いを攻撃し、通路を塞いでいる。

本来なら絶望的な数だったはずの敵が、今は連携を失い、まともな追撃すらできない。

隊員たちは最低限の戦闘だけで通路を突破していく。

ユートが前へ出る。

剣を短く振るう。

衝撃が甲殻内部を砕く。

だが斬撃のたびに、腕が痺れた。

限界が近い。

それでも止まらない。

止まれば、全員死ぬ。

「右、来ます!」

セラの声。

直後、横穴から中型個体が飛び出した。

ユートが迎撃に動く。

しかし一歩遅い。

黒殻種の前腕が迫る。

その瞬間。

矢が飛んだ。

甲殻の継ぎ目へ正確に突き刺さる。

わずかに体勢がズレた。

「ユートさん!」

セラ。

ユートは反射的に踏み込み、剣を叩き込む。

甲殻が内側から砕けた。

黒殻種が崩れる。

セラは弓を下ろしたまま、小さく息を吐いていた。

震えている。

だが目には力があった。

 

地上へ出た頃には、空が赤黒く染まり始めていた。

遠くの防衛線では、まだ戦闘音が響いている。

だが明らかに押し返していた。

群体の動きが鈍い。

連携が崩れている。

最上位個体撃破の影響は、確実に戦場全体へ広がっていた。

隊員の一人が呟く。

「……本当に変わるんだな」

ユートは答えなかった。

代わりに、崩れた外壁の近くへ視線を向ける。

そこには黒い布が並べられていた。

囮部隊。

回収された遺体。

識別票。

血。

泥。

セラが足を止める。

ゆっくりと、その場所へ近づいた。

誰も止めない。

彼女は膝をつき、識別票を一枚ずつ並べ始める。

まだ十八歳の、小さな手だった。

「……ここ、崩れるって」

ぽつりと呟く。

「分かってたんです」

指先が震えていた。

「どこで死ぬかも……大体、見えてた」

リアナが隣へ座る。

白い戦装束には、まだ乾ききらない血が残っていた。

セラは俯いたまま言う。

「これで良かったんですか」

リアナはすぐには答えなかった。

遠くでは、まだ黒殻種の咆哮が響いている。

終わっていない。

何一つ。

「……分からない」

ようやく、リアナは言った。

「でも、選ばなかったら……もっと死んでた」

セラは黙る。

少しして、小さく聞いた。

「それ、違いになりますか」

リアナは答えられなかった。

沈黙が落ちる。

風が灰を運ぶ。

そのとき。

後ろで、ユートが静かに口を開いた。

「違いにするために、次を更新する」

セラが振り返る。

ユートは壁に背を預けたまま、遠くの戦場を見ていた。

「今日のやり方で救えなかったなら、次は変える」

「少しでも、生き残る数を増やせるように」

咳き込む。

血が落ちる。

それでも彼は続けた。

「……その繰り返ししかない」

セラは何も言わなかった。

ただ、その言葉を聞いていた。

遠くの防衛線では、まだ灯りが残っていた。

生き延びた人々の灯りが。

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