英雄をやめた日から 作:自給自足
瘴気が崩れた街路の低い位置を這っていた。
夜ではない。
だが空は黒く曇り、砕けた城壁の向こうから灰が降り続けているせいで、昼でもずっと薄暗い。
瓦礫の隙間を小さな部隊が無言で進んでいた。
先頭を歩くのはユートだった。
黒灰色の軽鎧は泥と乾いた血で汚れ、胸部を締める拘束帯が呼吸に合わせて軋む。右手には短めの厚い剣。切断よりも衝撃伝達に特化した、無骨な刃。
その後ろを、リアナが歩く。
白と青を基調にした軽装は、かつて英雄と呼ばれた頃よりずっと実戦的だった。長い銀髪は後ろで固定され、表情には余計な感情がない。
さらに後方。
セラは半ば俯いたまま、耳当て状の索敵装置に指を添えていた。
彼女だけが、ときおり空間の音を聞いているような顔をする。
「左側、崩落建築内部」
小さく言う。
「小型三。動いてます。……まだ気づいてません」
ユートが片手を上げる。
隊列が止まった。
次の瞬間。
瓦礫の隙間から、黒い甲殻の塊が飛び出した。
犬ほどの大きさの黒殻種。
棘だらけの脚を鳴らしながら、一直線にユートの喉へ飛びかかる。
ユートは踏み込まない。
半歩だけ横へズラす。
直後、剣を短く振った。
鈍い衝突音。
刃が継ぎ目に食い込み、魔力の震えが甲殻内部へ流れ込む。
黒殻種の身体が、内側から砕けた。
紫色の亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、殻が崩落する。
間髪入れず、二体目。
今度は右側面。
ユートは身体を回転させず、剣だけを最短で振る。
刃が継ぎ目に食い込む。
破砕。
飛び散った体液が石壁を腐食させ、白煙を上げた。
だが三体目が死角から飛び込む。
その瞬間。
白紫の細い光が横一線に走った。
音が遅れて届く。
黒殻種の上半身が滑るように落ちた。
切断面の内部から紫色の光が爆ぜ、内側から焼け崩れる。
リアナは剣を振り抜いた姿勢のまま、小さく息を吐いた。
静かだった。
かつて空を裂いた大規模魔術の面影は、もうない。
あるのは、“一点だけを確実に殺す”ための刃。
「先を急ぐわよ」
リアナが言う。
誰も返事はしない。
隊は再び動き出した。
三日前。
指令部は、彼らに正式名称を与えた。
――リアナ隊。
発端は、前回の防衛戦だった。
本来なら壊滅していた撤退線を、少数で突破。最上位個体を撃破。結果として、周辺一帯の群体活動が急激に弱体化した。
報告を受けた上層部は、即座に判断した。
防衛線を維持するより、頭を狩った方が効率が良い。
だから彼らは独立運用された。
期待されたわけではない。
単純に、使えるから。
壊れるまで投入する価値があると判断された。
『避難民護衛隊を囮として運用する』
『敵群を引き寄せ、その間に最上位個体を急襲』
『討伐成功時、周辺区域の黒殻種活動低下が見込まれる』
『生存率は考慮しない』
会議室で淡々と告げられた言葉を、ユートはまだ覚えている。
リアナは最後まで黙っていた。
ただ、一度だけ視線を伏せた。
地下水路へ降りる階段は、途中で崩落していた。
ユートが先に飛び降りる。
浅い水が跳ねた。
腐臭。
湿気。
遠くから響く甲殻音。
水路の壁には、古い避難誘導標識が残っていた。
もう誰も使わない道。
だが今の彼らには、最適な侵入経路だった。
「……セラ」
リアナが低く呼ぶ。
「どう」
セラは返事をしない。
耳当てに指を押し当てたまま、じっと暗闇を見つめている。
彼女の索敵は、音だけではない。
残留魔力。
振動。
空気流。
群体特有の“反響”。
普通の索敵兵なら拾えない情報まで、彼女は拾ってしまう。
だからこそ、後方勤務を希望していた少女は、最前線に立たされている。
「……三分後」
ようやくセラが言った。
「東側水路、崩れます」
「規模は」
「大きいです。逃げ遅れます」
誰が。
とは言わなかった。
だが全員分かっていた。
囮部隊だ。
セラは、そういうものが見えてしまう。
どこが崩れるか。
誰が死ぬか。
どの退路が潰れるか。
戦場がどう終わるかを、誰より先に知ってしまう。
セラが小さく唇を噛む。
「……間に合いません」
リアナは沈黙した。
ユートが前へ進む。
「予定通り行く」
セラが顔を上げた。
「でも――」
「ここで止まれば、囮が死ぬだけで終わる」
ユートの声は静かだった。
「最上位を落とせば、生き残る区域は増える」
それは正論だった。
だが、正論は痛みを消さない。
セラは俯いた。
「……見えるんです」
小さな声。
「助からないって」
リアナは何も言えなかった。
彼女自身、まだ答えを持っていない。
英雄だった頃なら、「全員助ける」と言えたのかもしれない。
だが今は違う。
それが嘘だと知っている。
だから、言えない。
「……行くわよ」
最終的に、リアナはそう言った。
その声は硬かった。
自分に言い聞かせるような声だった。
地下水路を抜けた先。
崩壊した礼拝堂跡地の地下空洞で、セラが急停止した。
瞬間。
彼女の顔色が変わる。
「……いた」
空気が重い。
呼吸が浅くなる。
壁面に黒い粘液が脈動している。
奥から響く、巨大な甲殻の擦過音。
そして。
低く、濁った咆哮。
セラの声が震えた。
「最上位個体……確認」
誰も動かなかった。
空洞の奥。
巨大な黒い影が、ゆっくりと身じろぎする。
崩れた柱より大きい。
濃紫の甲殻。
無数の傷跡。
その周囲を、上位個体が巡回している。
まるで王を守る兵士のように。
セラが息を呑む。
「護衛……予想より多い……」
ユートが剣を握り直した。
拘束帯が軋む。
リアナは静かに目を閉じ、ゆっくり開く。
そして。
「――始めるわよ」
小さく告げた。
最初に動いたのは、敵だった。
最上位個体の周囲を巡回していた上位個体が、同時に頭部を持ち上げる。
甲殻が擦れる音。
次の瞬間、礼拝堂地下に警戒音のような低い唸りが広がった。
「来る!」
セラの叫びと同時。
黒い巨体が瓦礫を砕きながら突進した。
速い。
四メートルを超える上位個体が、異様な速度で地面を滑る。
前腕の巨大な殻が槍のように変形し、ユートへ叩き込まれた。
轟音。
ユートは真正面では受けない。
踏み込みと同時に身体を斜めへ流し、衝突角度をズラす。
それでも重い。
空気が肺から押し出され、拘束帯が軋んだ。
剣を下から振り上げる。
衝撃が甲殻へ走った。
黒い殻に紫色の亀裂が走る。
だが浅い。
硬い。
上位個体はひるまず、触手を広げた。
棘付きの触手が鞭のように襲いかかる。
ユートは避けきれない。
左肩をかすめる。
軽鎧が裂け、血が飛んだ。
だが、その一瞬。
白紫の光が走る。
リアナが横を抜けた。
静かな踏み込み。
最小限の動き。
薄い刃が上位個体の継ぎ目へ沈み込む。
音はしない。
しかし次の瞬間、内部から紫色の光が爆ぜた。
甲殻の内側が焼き砕かれ、上位個体の身体が崩れ落ちる。
「右二!」
セラの声。
後方。
暗闇から小型群が雪崩れ込んでくる。
別の隊員が前へ出た。
双剣。
速い。
黒殻種の脚を切り払う。
だが数が多い。
小型群は死骸を踏み越えながら押し寄せる。
後衛の魔導銃が火を吹いた。
圧縮された魔力弾が黒殻種の頭部を砕く。
腐食液が飛び散り、石床を溶かした。
「押さえろ!」
「隊長を通せ!」
怒号。
金属音。
咆哮。
地下空洞全体が震える。
だが。
最上位個体だけは、まだ動かない。
巨大な甲殻の奥で、ゆっくりとこちらを見ている。
観察している。
まるで戦場全体を計算しているように。
セラの顔色が変わった。
「……だめ」
「護衛、収束してる」
「統制が速い……!」
その瞬間。
最上位個体が低く咆哮した。
空気が震える。
直後、周囲の群体が一斉にリアナへ向きを変えた。
守護本能。
核を狙う存在を理解したのだ。
「リアナ!」
ユートが叫ぶ。
上位個体が二体、同時に突撃してくる。
ユートは前へ出た。
一体目の突進。
真正面から剣を叩き込む。
甲殻が割れる。
だが完全には抜けない。
衝撃が両腕を痺れさせる。
二体目が横から迫る。
触手。
棘。
腐食液。
ユートは回避を捨てた。
肩で受ける。
肉が裂ける音。
激痛。
その代わり、一歩踏み込めた。
剣を継ぎ目へ押し込む。
振動を流し込む。
甲殻内部が耐えきれず、内側から崩壊した。
上位個体が倒れる。
しかし。
ユートの呼吸も乱れていた。
拘束帯の下で、内臓が軋む。
遅れてくる鈍痛。
リアナが力を使うたび、ユートの身体にも負荷が返ってくる。
内臓が熱を持つ。
焼けるようだった。
それでもユートは前へ出る。
「今だ!」
リアナが走った。
白銀の髪が揺れる。
最上位個体が初めて動く。
巨大な脚が石床を砕き、触手が空間を埋め尽くした。
暴風のような一撃。
リアナは止まらない。
紙一重で潜り抜ける。
触手が肩を裂く。
白い戦装束に血が滲む。
だが速度は落ちない。
最上位個体の甲殻表面に、魔力の流れが走る。
硬い。
異常な密度。
普通の攻撃では通らない。
リアナは呼吸を止めた。
刃に、極限まで魔力を圧縮する。
細い光。
静かな熱。
ユートに反動が流れ込むのを感じる。
それでも。
リアナは踏み込む。
最上位個体が咆哮した。
巨大な前腕が振り下ろされる。
ユートが割り込んだ。
鈍い衝突音。
剣と甲殻がぶつかる。
衝撃で床が砕ける。
ユートの足元から血が散った。
耐え切れていない。
それでも押し返す。
「行け……!」
一瞬、リアナの目が揺れる。
だが、その迷いを振り切るように前へ出た。
刃が甲殻の継ぎ目へ沈み込む。
音はない。
静かだった。
ただ、紫色の光だけが内部へ沈み込む。
次の瞬間。
最上位個体の内部が爆ぜた。
巨大な亀裂が甲殻全体へ走る。
紫色の光が内側から噴き出し、核が砕け散った。
沈黙。
そして。
周囲の黒殻種が、一斉に動きを止めた。
上位個体が混乱し、互いに衝突する。
小型群が意味もなく暴れ始める。
礼拝堂地下が崩れ始めた。
「……撃破成功」
セラが呆然と呟く。
だがその声には、達成感がなかった。
リアナは荒い呼吸を繰り返す。
刃が消える。
指先が震えていた。
ユートは片膝をついていた。
口元から血が垂れる。
それでも彼は、崩れ始めた黒殻種を見ていた。
群体の咆哮が、少しずつ弱くなっていく。
「……崩れてる」
隊員の一人が呟いた。
信じられないものを見る目だった。
たった一体。
あの巨大個体を落としただけで、戦場全体の流れが変わっていく。
セラは耳当てに触れたまま、遠くを見ていた。
「東側群体、後退開始……」
「北防衛線、圧力低下……」
誰かが、小さく息を吐いた。
だがその空気を切るように、リアナが言う。
「撤退する」
短かった。
勝利を噛み締める時間などない。
地下空洞は崩壊を始めていた。
天井の石材が落下し、瘴気を含んだ砂塵が広がる。
ユートが立ち上がろうとして、ふらついた。
胸の奥が焼ける。
反動が遅れて全身を殴り始めていた。
リアナがすぐ支える。
その瞬間、ユートの表情がわずかに歪んだ。
「……悪い」
「喋らないで」
リアナの声は硬い。
だが、その手は離れなかった。
地下水路へ戻る途中。
群体の混乱はさらに広がっていた。
黒殻種同士が互いを攻撃し、通路を塞いでいる。
本来なら絶望的な数だったはずの敵が、今は連携を失い、まともな追撃すらできない。
隊員たちは最低限の戦闘だけで通路を突破していく。
ユートが前へ出る。
剣を短く振るう。
衝撃が甲殻内部を砕く。
だが斬撃のたびに、腕が痺れた。
限界が近い。
それでも止まらない。
止まれば、全員死ぬ。
「右、来ます!」
セラの声。
直後、横穴から中型個体が飛び出した。
ユートが迎撃に動く。
しかし一歩遅い。
黒殻種の前腕が迫る。
その瞬間。
矢が飛んだ。
甲殻の継ぎ目へ正確に突き刺さる。
わずかに体勢がズレた。
「ユートさん!」
セラ。
ユートは反射的に踏み込み、剣を叩き込む。
甲殻が内側から砕けた。
黒殻種が崩れる。
セラは弓を下ろしたまま、小さく息を吐いていた。
震えている。
だが目には力があった。
地上へ出た頃には、空が赤黒く染まり始めていた。
遠くの防衛線では、まだ戦闘音が響いている。
だが明らかに押し返していた。
群体の動きが鈍い。
連携が崩れている。
最上位個体撃破の影響は、確実に戦場全体へ広がっていた。
隊員の一人が呟く。
「……本当に変わるんだな」
ユートは答えなかった。
代わりに、崩れた外壁の近くへ視線を向ける。
そこには黒い布が並べられていた。
囮部隊。
回収された遺体。
識別票。
血。
泥。
セラが足を止める。
ゆっくりと、その場所へ近づいた。
誰も止めない。
彼女は膝をつき、識別票を一枚ずつ並べ始める。
まだ十八歳の、小さな手だった。
「……ここ、崩れるって」
ぽつりと呟く。
「分かってたんです」
指先が震えていた。
「どこで死ぬかも……大体、見えてた」
リアナが隣へ座る。
白い戦装束には、まだ乾ききらない血が残っていた。
セラは俯いたまま言う。
「これで良かったんですか」
リアナはすぐには答えなかった。
遠くでは、まだ黒殻種の咆哮が響いている。
終わっていない。
何一つ。
「……分からない」
ようやく、リアナは言った。
「でも、選ばなかったら……もっと死んでた」
セラは黙る。
少しして、小さく聞いた。
「それ、違いになりますか」
リアナは答えられなかった。
沈黙が落ちる。
風が灰を運ぶ。
そのとき。
後ろで、ユートが静かに口を開いた。
「違いにするために、次を更新する」
セラが振り返る。
ユートは壁に背を預けたまま、遠くの戦場を見ていた。
「今日のやり方で救えなかったなら、次は変える」
「少しでも、生き残る数を増やせるように」
咳き込む。
血が落ちる。
それでも彼は続けた。
「……その繰り返ししかない」
セラは何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
遠くの防衛線では、まだ灯りが残っていた。
生き延びた人々の灯りが。