ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
結論から言うと、俺は死んだ。
死因はたぶん、剣でも魔術でも呪いでも聖杯でもない。
残業。
睡眠不足。
エナジードリンク。
そして、上司の「これ、明日の朝までにお願いね」の合わせ技である。
人間、寝ないと死ぬ。
魔術回路がどうとか、根源がどうとか、そういう難しい話以前に、人は寝ないと壊れる。
前世の俺は、その当たり前の事実を、自分の命で証明してしまった。
実に笑えない。
いや、少しだけ笑えるかもしれない。
だって、前世の俺はそれなりに創作が好きで、神話だの英雄だの魔術だの、そういう非日常にちょっとした憧れを持っていたのだ。
なのに実際に俺を殺したのは、魔王でも怪物でもなく、納期だった。
夢がないにもほどがある。
毎朝、鳴り響くアラームを止めるところから一日が始まる。
起きた瞬間から体が重い。
まぶたは鉛みたいで、胃はすでに痛い。
朝食なんて優雅なものは存在しない。口に入れるのは、コンビニで買った菓子パンか、駅の売店で掴んだ栄養ゼリーか、あるいはエナジードリンク。
カフェインは友達。
いや、あれは友達の顔をした借金取りだった気もする。
会社に着けば、机の上には昨日終わらなかった仕事。
メールボックスには、深夜に送られてきた未読の山。
チャットには「確認お願いします」の文字。
確認しても確認しても、次が来る。
終わらない。
終わるはずがない。
人がひとりで抱えていい量を、明らかに超えていた。
けれど、俺は断れなかった。
「若いんだから大丈夫だろ」
「みんな頑張ってるから」
「ここで踏ん張れば成長できるよ」
「やりがいのある仕事だから」
やりがい。
その言葉を聞くたびに、俺の中の何かが少しずつ削れていった。
やりがいで飯は食えない。
やりがいで睡眠時間は増えない。
やりがいで壊れた体は治らない。
そんなこと、本当は分かっていた。
分かっていたのに、俺は何も言えなかった。
俺がやれば早い。
俺が我慢すれば丸く収まる。
俺が壊れるまでは、まだ大丈夫。
そう思っていた。
今にして思えば、だいぶ駄目だった。
いや、だいぶどころではない。
完全にアウトである。
労働環境が聖杯の泥より黒かった。
最後の日のことは、ぼんやりと覚えている。
終電ぎりぎりの電車。
蛍光灯の白い光。
スマホに届く、明日の予定を知らせる通知。
指先が震えて、画面をうまく押せなかった。
体が寒いのに、変な汗だけが止まらなかった。
駅からアパートまでの道が、やけに遠く感じた。
何度も立ち止まりながら、俺はそれでも歩いた。
帰らないと。
明日も仕事だから。
寝ないと。
でも、資料の修正もしないと。
そんなことを考えていた自分に、今なら全力でツッコミたい。
寝ろ。
まず寝ろ。
資料より命を優先しろ。
当たり前のことだ。
けれど、その時の俺にはもう、当たり前を選ぶ余裕すら残っていなかった。
鍵を開けて、部屋に入った。
電気をつける気力もなく、鞄を床に落とした。
そのまま、膝から崩れた。
冷たい床に頬がつく。
視界の端で、スマホの画面が光っていた。
また通知だ。
見なければ。
返信しなければ。
そう思ったのに、腕が動かなかった。
ああ。
もう無理だ。
そう思った。
不思議と、怖さはあまりなかった。
ただ、疲れていた。
とても疲れていた。
ちゃんと寝たい。
ちゃんと飯を食いたい。
朝、胃が痛くならない生活がしたい。
誰かに「おかえり」と言われたい。
できれば、次はもう少しまともに生きたい。
そんな、ひどく小さな願いを最後に、俺の意識はそこで途切れた。
そして。
次に目を覚ました時、俺は赤ん坊だった。
まず、視界がぼやけていた。
次に、体がまったく言うことを聞かなかった。
手足は短い。
声を出そうとしても、出るのは泣き声だけ。
自分の意思で寝返りすら打てない。
発言権という意味では、前世の会議よりも低かった。
いや、前世の会議も大概だったけど。
それでも、こちらを覗き込む人たちの顔は優しかった。
白い髪の女性。
柔らかな声。
大きな手。
そして、何度も呼ばれる名前。
「イリヤスフィール」
イリヤスフィール。
……いや、待て。
名前が強い。
そして長い。
前世の社内システムのログインパスワードより長い。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
その名前を理解した瞬間、赤ん坊のくせに内心で固まった。
アインツベルン。
イリヤ。
冬木。
衛宮。
どこかで聞いたことがあるどころではない。
前世の俺が知っている、かなり面倒な世界の名前だった。
そう。
いわゆる、Fateの世界である。
正確に言えば、俺の知っているものと完全に同じかどうかは分からない。
何しろ赤ん坊だ。
情報収集能力が泣く、寝る、ミルクを飲むの三択しかない。
ネット検索もできない。
原作確認もできない。
自分の置かれた状況を整理しようにも、まず首がすわっていない。
人間、無力すぎる。
とはいえ、成長するにつれて、いくつかのことは分かってきた。
私は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとして生まれた。
父さんは衛宮切嗣。
母さんはアイリスフィール。
兄さんは衛宮士郎。
家にはセラとリズがいる。
そしてここは、冬木市。
単語だけ並べれば、前世の知識が全力で警鐘を鳴らしてくる布陣である。
普通なら、ここで絶望してもおかしくない。
だが、現実の私はというと。
寝て、起きて、泣いて、ミルクを飲んで、また寝ていた。
赤ん坊は忙しい。
世界の命運より、まず自分の首を支える方が重要だった。
性別が変わったことへの混乱も、思ったより長続きしなかった。
もちろん、最初は戸惑った。
前世の記憶がある以上、「俺は男だったはずでは?」と思わなかったわけではない。
けれど、赤ん坊からやり直しである。
立つ練習。
喋る練習。
スプーンを持つ練習。
服を着る練習。
毎日毎日、できないことをひとつずつ覚えていくうちに、前世の男だった感覚は少しずつ遠くなっていった。
気づけば、鏡に映る銀髪の少女を見ても、そこに違和感はなかった。
今の私は、普通にイリヤだ。
イリヤスフィール。
長いので、みんなからはイリヤと呼ばれている。
ただし、たまに前世の社畜が顔を出す。
具体的には、誰かが「頑張れば何とかなる」と言った時とか。
その言葉は危険だ。
頑張れば何とかなる、は、頑張っている人間にさらに荷物を積む時に使われがちな呪文である。
経験者は語る。
そんなわけで、私はそれなりに警戒しながら成長した。
けれど、意外なことに、私の日常は平和だった。
父さんと母さんは、家を空けることが多い。
何をしているのか、子どもの私には詳しく教えてもらえない。
でも、捨てられているわけではなかった。
帰ってくれば、母さんは私を抱きしめてくれる。
父さんは少し不器用だけど、ちゃんと私を見てくれる。
セラは口うるさいけれど、毎日の生活を整えてくれる。
リズは相変わらずよく分からないけれど、隣にいると不思議と落ち着く。
そして、にいさん。
衛宮士郎。
前世の知識を考えれば、かなり警戒すべき名前である。
なにせ衛宮士郎だ。
自己犠牲と正義の味方を煮詰めて人型にしたような存在である。
いや、この世界の兄さんがどこまでそうなのかは分からない。
少なくとも、今のお兄ちゃんは優しい。
とても優しい。
優しすぎて、たまに怖い。
「イリヤ、朝ごはんできたぞ」
その日も、お兄ちゃんはいつものように台所から顔を出した。
食卓には、温かいご飯。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
湯気が立っている。
朝ごはんがある。
誰かが作ってくれる。
しかも温かい。
前世では、朝食といえばエナジードリンクか、駅の売店で買った菓子パンだった。
それが今では、兄が作った朝ごはんである。
何これ。
福利厚生が手厚すぎる。
「イリヤ? どうした?」
兄さんが不思議そうに首を傾げる。
私は箸を持ったまま、しみじみと答えた。
「ううん。お兄ちゃんの存在がホワイト企業すぎるなって」
「ほわいと……?」
「こっちの話」
兄さんはよく分からないという顔をしながらも、私の前に味噌汁を置いてくれた。
優しい。
優しすぎる。
だから心配になる。
「熱いから気をつけろよ。あと、何か困ったことがあったら言えよ。俺が何とかするから」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「その台詞、禁止」
「え?」
兄さんが目を丸くする。
私は真剣な顔で箸を置いた。
「“俺が何とかする”って言う人は、大体自分を勘定に入れてないから危険です」
「そうかな?」
「そうです。特に衛宮姓の人間が言うと危険度が跳ね上がります」
「衛宮姓限定なのか……?」
「限定です」
兄さんは困ったように笑った。
その笑顔がまた優しい。
優しい人間ほど、自分を後回しにする。
前世で嫌というほど見た。
できる人に仕事が集まる。
断らない人に責任が積まれる。
優しい人が便利に使われる。
だから、私はその手の匂いに敏感になった。
兄さんはいい人だ。
いい兄だ。
だからこそ、要観察である。
学校生活も、私にとっては驚くほど平和だった。
授業は時間通りに始まり、時間通りに終わる。
休み時間がある。
給食が出る。
放課後には帰っていい。
すごい。
学校、かなりホワイトだ。
宿題という名の持ち帰り業務はあるけれど、前世の残業に比べればかわいいものである。
いや、算数ドリルは普通に面倒だけど。
友達もできた。
他愛ないことで笑って、給食の好き嫌いで盛り上がって、休み時間に走り回る。
前世の俺が見たら、たぶん泣く。
子どもでいられる。
ただそれだけのことが、こんなに贅沢だなんて知らなかった。
もちろん、不安がないわけではない。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
衛宮士郎。
冬木市。
その単語が並んでいる時点で、前世の知識はずっと警鐘を鳴らしている。
何かが起きるかもしれない。
いつか、この平和が壊れるかもしれない。
私は、本来ならもっと違う運命を辿るはずだったのかもしれない。
けれど、この世界は私の知る物語とは少し違っていた。
父さんも母さんも生きている。
兄さんは兄さんで、私は普通の小学生だ。
アインツベルンの城に閉じ込められているわけでもない。
聖杯戦争のための道具として育てられているわけでもない。
朝起きて、学校に行って、友達と笑って、家に帰る。
夜になれば布団で眠る。
それだけの毎日が、私には眩しいくらいだった。
だから私は、胸を張って言える。
前世は負けた。
労働環境に負けた。
睡眠不足に負けた。
エナジードリンクにも、たぶん負けた。
けれど、今世は違う。
温かい家がある。
優しい兄がいる。
学校がある。
友達がいる。
ちゃんと寝られる布団がある。
そして何より、定時どころか労働そのものがない。
勝った。
今世、完全に勝った。
もう二度と、ブラックな業務になんて巻き込まれない。
そう思っていた時期が、私にもありました。