ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
# 第10話 正義の味方は、労災認定されますか?
眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
部屋の明かりも消した。
けれど、まぶたの裏に赤い荒野が焼きついて離れなかった。
無数の剣が突き刺さった丘。
錆びた空。
赤い外套の背中。
そして、喉の奥に残った言葉。
正義の味方。
昔なら、きっときらきらした言葉に聞こえたのだと思う。
困っている人を助ける人。
悪いものを倒す人。
誰かの涙を止める人。
けれど、昨日見たあれは違った。
誰かを助けるために、自分を削る。
誰かを救うために、自分を燃やす。
自分が壊れても、結果が残ればそれでいい。
その理屈を、私は知っている。
前世で何度も、自分に言い聞かせた理屈だったから。
俺がやれば早い。
俺が我慢すれば丸く収まる。
俺が壊れるまでは、まだ大丈夫。
違う。
それは違う。
今なら分かる。
でも、あの頃の私は、それを正しいと思い込もうとしていた。
正しくないと気づいたら、もう立っていられなかったから。
「……正義の味方って、労災認定されるのかな」
小さく呟くと、机の上に立てかけられていたルビーが、ぴくりと揺れた。
「されないと思います!」
「即答しないで。夢がない」
「イリヤさんが最初に夢のない質問をしたんですよ!?」
「じゃあ正義の味方制度、労働環境としては危険だね」
「制度じゃありませんからね!?」
ルビーの声はいつも通り明るい。
けれど、その明るさが今日は少しだけありがたかった。
赤い荒野に引きずられそうになる私を、現実側に引っ張ってくれる。
うるさいけど。
かなりうるさいけど。
「イリヤさん」
「何?」
「大丈――」
ルビーがそこで止まった。
私も目を向ける。
ルビーは少しだけ気まずそうに揺れた。
「……いえ。調子はどうですか?」
「言い換えた」
「学習しました」
「えらい」
「褒められました!」
少し笑えた。
笑えたけれど、胸の重さは消えない。
「調子は、よくない」
「はい」
「でも、生きてる」
「はい」
「それと、ちゃんと帰るつもりはある」
ルビーはしばらく黙っていた。
それから、いつもより少しだけ落ち着いた声で言った。
「それは、大事ですね」
「うん」
帰る。
その言葉を、私は胸の奥で繰り返した。
誰かを救うために壊れるのではなく。
誰かを守るために消えるのでもなく。
ちゃんと帰る。
前世の私に、最後まで足りなかった言葉だった。
翌朝。
制服に着替えて廊下に出ると、お兄ちゃんが洗濯かごを抱えていた。
朝の光が廊下に差し込んでいる。
かごの中には、乾いたタオルやシャツが山のように積まれていた。
「おはよう、イリヤ」
「おはよう。……お兄ちゃん、それ今やるの?」
「セラが他の用事してるからな。畳んでおこうと思って」
「朝から?」
「ついでだよ。このくらいならすぐ終わる」
出た。
このくらい。
小さな負担を、小さいまま数えない人の言葉だ。
私は思わず、お兄ちゃんの顔をじっと見た。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「その“このくらい”が積もると、人は壊れます」
「洗濯物で?」
「最初はみんな、洗濯物くらい、資料一枚くらい、残業一時間くらい、って言うんだよ」
「何の話だ……?」
「人生の話」
お兄ちゃんは困ったように笑った。
その笑い方が、また優しい。
優しいから、余計に心配になる。
「でも、誰かが忙しそうなら、できる範囲で手伝った方がいいだろ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
できる範囲。
その範囲を、どこまで広げるつもりなのだろう。
自分の時間まで。
体力まで。
痛みまで。
命まで。
赤い外套の背中が、ふと頭をよぎる。
「お兄ちゃんってさ」
「ん?」
「正義の味方になりたいって思ったことある?」
お兄ちゃんの手が、ほんの少しだけ止まった。
洗濯物を畳む指先が、空中で迷う。
「急だな」
「うん。急」
「正義の味方ってほど大げさじゃないけど……困ってる人は、放っておけないかな」
「それが危ないんだよ」
「危ない?」
「困ってる人を助けるのはいい。でも、自分を数に入れない助け方は駄目」
お兄ちゃんは、少し驚いたような顔をした。
「イリヤ、何かあったのか?」
「あったけど、まだ言えない」
「そっか」
それ以上、無理には聞いてこなかった。
ただ、洗濯かごを床に置いて、私の目線に合わせるように少しだけ身をかがめる。
「言えるようになったら言えよ」
「“俺が何とかする”は禁止だからね」
「じゃあ……一緒に考える」
その言葉に、少しだけ息がしやすくなった。
一緒に考える。
俺が何とかする、ではなく。
一人で背負う、でもなく。
一緒に。
「うん。その言い方なら安心できる」
「そうか?」
「そう」
私は頷いた。
お兄ちゃんは、洗濯物の山を見下ろしてから、少し笑う。
「じゃあ、これも一緒に畳むか?」
「登校前に労働を増やさないで」
「労働って……」
「でも、一枚だけなら手伝う」
「一枚だけか」
「小さい負担は、小さいうちに止める練習です」
私はタオルを一枚だけ畳んだ。
それ以上は手伝わない。
お兄ちゃんも、それ以上頼まない。
たぶん、これくらいでいい。
誰かを助けることと、自分を差し出すことは同じじゃない。
それを、私はお兄ちゃんにも、自分にも、ちゃんと覚えさせたかった。
学校では、図書の時間があった。
いつもの教室ではなく、図書室。
木の机。
本棚の匂い。
窓から差し込む柔らかい光。
赤い荒野や鏡面界とは、まるで別の世界だった。
龍子は冒険物の本を手に取り、美々は可愛い挿絵のある物語を選んでいる。
雀花と那奈亀は、二人で図鑑を眺めていた。
私は何となく、偉人伝の棚の前で立ち止まる。
英雄。
偉人。
誰かのために戦った人。
国を救った人。
世界を変えた人。
そういう文字が、背表紙に並んでいる。
前なら、素直にすごいと思えたかもしれない。
でも今は、その言葉の裏側を考えてしまう。
その人たちは、ちゃんと帰れたのだろうか。
助けたあと、自分も救われたのだろうか。
それとも、誰かの物語のために、自分の痛みを置き去りにしたのだろうか。
「イリヤ」
隣に美遊が立っていた。
気配が静かすぎて、少しびっくりする。
「美遊。いつからいたの?」
「少し前」
「その少し、今日は本当に少し?」
「二分」
「よし。健全」
美遊は小さく頷いた。
手には一冊の本を持っている。
家族についての物語だった。
表紙には、兄妹らしき二人の絵が描かれている。
「その本、読むの?」
「少し、気になった」
「家族の話?」
「うん」
美遊は表紙を見つめたまま、少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「私にも、兄がいる」
胸の奥で、何かがそっと鳴った。
美遊の声は、いつも通り静かだった。
けれど、その静けさの奥に、いつもより深いものが沈んでいる気がした。
「そうなんだ」
「うん」
「大事な人?」
美遊はすぐには答えなかった。
本を抱く指に、わずかに力が入る。
「大事」
短い答え。
でも、とても重い答えだった。
私は、それ以上すぐには聞かなかった。
美遊が話せるところまででいい。
私が勝手に踏み込んでいい場所じゃない。
「今は、ここにはいないの?」
「うん」
「そっか」
美遊は表紙から目を離さない。
「イリヤのお兄ちゃんに、少し似ている」
「私のお兄ちゃんに?」
「うん。でも、違う」
「似てるけど、違う?」
「うん」
美遊の声は揺れていなかった。
でも、言葉を選んでいるようだった。
話したくないのではない。
話せる形を探している。
そんな気がした。
「昨日のアーチャーの背中を見た時も、少し思い出した」
「お兄さんのこと?」
「うん」
美遊はようやく私を見る。
「でも、今はまだ、うまく話せない」
「うん。無理に話さなくていいよ」
「いい?」
「いい」
私は頷いた。
「話せる時に、少しずつでいい」
「少しずつ」
「そう。少しずつ」
美遊はその言葉を、大事なものみたいに口の中で転がす。
「私も、イリヤに聞いてほしい」
「うん」
「でも、まだ難しい」
「じゃあ、難しくなくなるまで待つ」
美遊が瞬きをした。
ほんの少しだけ。
「待つ?」
「うん。友達だから」
美遊は、少しだけ視線を落とした。
その表情は、悲しいようにも、安心したようにも見えた。
「友達」
「そう。友達」
図書室の静けさの中で、美遊がその言葉を小さく繰り返した。
龍子が遠くから手を振る。
「イリヤー! この本、ドラゴン出るよ!」
「今行くー」
私は返事をして、美遊に笑いかける。
「行こう。友達と本を選ぶのも、友達活動の一つです」
「友達活動」
「業務じゃないからね」
「業務ではない」
「よし」
美遊は本を胸に抱いたまま、私の隣を歩いた。
放課後。
私たちはルヴィア邸へ向かった。
前回の会議室ではなく、今回は地下の訓練室だった。
広い床。
魔術式の刻まれた壁。
中央には、簡易的な立体地図のような魔術投影が浮かんでいる。
冬木市の鏡面界を模したものらしい。
「今日は資料じゃないのね」
凛さんが少し意外そうに言った。
「前回と同じだと既視感があるので」
「何の話?」
「こっちの話です」
私は地図の前に立つ。
紙の資料ではなく、今回は配置を動かしながら話す。
赤い駒。
青い駒。
白い駒。
そして、赤い外套を示す黒い駒。
見た目は少しゲームみたいだ。
でも内容は命に関わる。
そこが全然可愛くない。
「議題は、正義の味方は労災認定されるのか、です」
「されないわよ!」
凛さんが即答した。
「じゃあ正義の味方制度、やっぱり危険ですね」
「だから制度じゃないって言ってるでしょ!」
「夢が台無しですねぇ!」
ルビーがふわふわ浮かぶ。
「夢だけで人を働かせると危ないです」
「魔法少女の発言ではありませんね!」
「しかし、自己犠牲の常態化は問題かと」
サファイアさんが静かに言う。
「サファイアちゃんまで真面目に乗らないで!」
「姉さんはもう少し真面目に考えるべきです」
「妹が今日も厳しい!」
ルヴィアさんが訓練室の地図を指し示す。
「アーチャーカードについて、分かっていることを整理いたしましょう」
アーチャー。
本来は遠距離戦を得意とするクラス。
けれど、昨日の影は双剣で接近戦を仕掛けてきた。
遠距離から剣を撃ち込み、近距離では二本の剣で斬り込む。
戦闘経験が異様に多い。
相手の動きを読む。
セイバーのような重さではなく、ライダーのような速さでもない。
厄介なのは、対応力。
こちらの行動を見て、次の手を変えてくること。
「それから、魔力反応に妙なノイズがあるのよ」
凛さんが腕を組む。
「自己破壊的なノイズ、とでも言うのかしら」
「自己破壊的」
「自分の消耗を前提にしてるような反応なのよ。普通なら避ける損耗を、最初から計算に入れてる感じ」
ルヴィアさんが続ける。
「イリヤさんの言葉を借りるなら、自分を予算に入れていない作戦、というところでしょうか」
「最悪です」
即答した。
その表現は、あまりにも分かりやすくて、あまりにも嫌だった。
自分を予算に入れていない。
壊れるまで使う。
壊れても、結果が出ればいい。
そんなもの、作戦じゃない。
ただの消耗だ。
「でも、強い」
美遊が言った。
「強いけど、正しくない」
「強いのに?」
「強さと正しさは別」
美遊は黙った。
その言葉を、彼女なりに飲み込もうとしているようだった。
私は黒い駒を見つめる。
「昨日、私が見たものを話します」
訓練室の空気が、少しだけ重くなる。
「剣の丘。赤い空。正義の味方。救えなかった人たち。自分を数に入れない戦い方。契約。それから、最後に残る空っぽな感じ」
凛さんが「契約」という言葉に反応した。
「英霊としての契約かしら」
ルヴィアさんが目を細める。
「守護者、あるいはそれに類する存在の記録が混ざっている可能性もありますわね」
「守護者?」
「確定ではないわ」
凛さんが慎重に言う。
「ただ、守るために自分を使い続ける存在、という面があるのは否定できない」
「それ、やっぱり危険です」
冗談のつもりだった。
でも、声は思ったより硬かった。
美遊がぽつりと言う。
「兄は、そういうもの?」
「違う」
私はすぐに否定した。
美遊がこちらを見る。
「少なくとも、そうであってほしくない」
「でも、イリヤのお兄ちゃんは?」
「だから心配してる」
美遊は視線を伏せた。
「私の兄も」
そこで、美遊は言葉を止めた。
訓練室の明かりが、彼女の横顔に淡く落ちている。
「美遊?」
「……今は、まだうまく言えない」
私は頷いた。
「うん。今はそれでいい」
「いい?」
「さっきも言ったでしょ。少しずつでいい」
「少しずつ」
美遊の指が、ほんの少しだけ胸元を押さえた。
「でも、痛い」
「言えた。えらい」
「えらい」
「うん。すごくえらい」
美遊は小さく頷いた。
作戦は、前回とは変えた。
セイバー戦では、私が盾として広域防御を担当した。
でもアーチャーは読んでくる。
同じ動きを続ければ、そこを突かれる。
だから今回は、配置を固定しない。
私と美遊の位置を入れ替える。
凛さんとルヴィアさんが結界で遠距離攻撃の範囲を制限する。
近接に入られたら、美遊が牽制し、私が足止め。
投げられた剣の軌道で、次の攻撃位置を読む。
記憶残響に飲まれたら、美遊が呼び戻す。
私が無理なら即撤退。
「イリヤが見たら、私が呼ぶ」
美遊が言った。
「うん。お願い」
「呼んでも戻らなかったら?」
「その時は……」
言葉が詰まる。
美遊は私をまっすぐ見た。
「私が連れて帰る」
「一人で無茶して、じゃないよね?」
「一緒に帰る」
「よし。満点」
「満点」
美遊が少しだけ嬉しそうにする。
その変化が分かる自分に、少し驚く。
たぶん私は、思っている以上に美遊を見ている。
美遊が私を見ているのと同じくらい、とは言わないけれど。
出撃前。
携帯が震えた。
お兄ちゃんからのメッセージだった。
『遅くなるなら連絡しろよ。無理はするな』
胸の奥が、きゅっと痛む。
無理はするな。
優しい言葉。
でも、その言葉を言う人ほど、自分は無理をしている気がする。
「優しいお兄さんですねぇ」
ルビーが覗き込んで言った。
「うん。だから怖い」
美遊が私を見る。
「大事だから?」
「大事だから」
「なら、帰る」
「うん。ちゃんと帰る」
私はお兄ちゃんに返信を打った。
『遅くなる時は連絡するね。ちゃんと帰る』
送信してから、少しだけ息を吐く。
ちゃんと帰る。
それは約束だ。
誰に対してかは分からない。
お兄ちゃんに。
美遊に。
それとも、前世で帰れなかった自分に。
鏡面界へ入ると、乾いた空気が肺に入った。
赤い空の錯覚。
金属の匂い。
剣の丘の気配。
前回よりも、はっきりしている。
「空間侵食が強まっていますわ」
ルヴィアさんが険しい顔をする。
「カードの残響が鏡面界に影響してる……?」
凛さんが呟く。
「残業が空間にまで漏れてる感じですか?」
「その例えはよく分からないけど、嫌さは伝わるわ」
ルビーが私の手元で光る。
「イリヤさん、緊張しています?」
「しています」
「正直!」
「正直に言う方針です」
怖い。
嫌だ。
見たくない。
でも、帰るために進む。
帰ると決めたから進む。
前方。
赤い影がいた。
今回は建物の上ではない。
地上に立っている。
赤い外套。
白い髪。
両手の双剣。
こちらを見ている。
私は息を呑んだ。
隣で、美遊の手がわずかに震えた。
「美遊?」
「分からない」
「何が?」
「あの背中を、知らないはずなのに」
言葉はそこで途切れた。
赤い影が双剣を構える。
その背中を見た瞬間、隣で美遊の手がもう一度震えた。
どうして、と聞く前に、アーチャーの影がこちらへ踏み込んでくる。
私たちはまだ、その背中の意味を知らない。