ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

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第12話 鏡の中の私は、誰ですか?

 

 

 朝。

 

 目が覚めて、最初に思ったことは。

 

 鏡を見たくない。

 

 だった。

 

 昨日の夜。

 

 アーチャーカードを回収したあと、鏡の中に一瞬だけ、知らない私がいた。

 

 私と同じ顔。

 

 私と同じ瞳。

 

 でも、違う。

 

 肌の色が少し違って見えて。

 

 目つきが鋭くて。

 

 まるで、私よりもずっと前から何かを待っていたみたいな顔をしていた。

 

 あれは疲れのせい。

 

 そう思いたかった。

 

 アーチャーカード戦のあとだったし、記憶残響とかいう危険物に何度も触れたし、鏡面界は赤い荒野になるし、剣は降ってくるし、正義の味方は労災認定されないし。

 

 疲れていない方がおかしい。

 

 だから、見間違い。

 

 そういうことにしたい。

 

 したいけど。

 

 でも。

 

「……起きないと」

 

 私は布団から体を起こした。

 

 部屋の空気はいつも通りだった。

 

 カーテンの隙間から朝の光が入っている。

 

 机の上には教科書。

 

 椅子の背には制服。

 

 枕元には、当然のようにルビー。

 

 いつも通り。

 

 そのはずなのに、何かがずれている気がした。

 

「おはようございます、イリヤさん!」

 

 ルビーが明るく跳ねる。

 

「……おはよう」

 

「今日も素敵な朝ですね!」

 

「素敵かどうかは、鏡を確認してから決める」

 

「鏡、ですか?」

 

 ルビーの声が、ほんの少しだけ遅れた。

 

 私はそれを聞き逃さなかった。

 

 けれど、今は追及しない。

 

 まずは、確認だ。

 

 見たくない。

 

 でも、見ない方が怖い。

 

 前世でもそうだった。

 

 未読メールは、開くまで増え続けているように感じる。

 

 現実を確認しないと、恐怖だけが勝手に育つ。

 

 だから見る。

 

 私は息を吸って、鏡を見た。

 

 そこに映っていたのは、普通の私だった。

 

 銀色の髪。

 

 赤い瞳。

 

 少し眠そうな顔。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 

 昨日見た、知らない誰かではない。

 

「……よし。今日は普通の私」

 

「普通とは何か、哲学的ですね!」

 

「朝から哲学しないで」

 

 少しだけ安心した。

 

 安心して、髪を整える。

 

 櫛を通して、前髪を直して、リボンを取ろうとした時。

 

 鏡の中の私の目が、少しだけ鋭くなった。

 

「……っ」

 

 手が止まる。

 

 瞬きをする。

 

 鏡の中の私は、いつも通りだった。

 

 眠そうで、少し不安そうで、でもちゃんと私だった。

 

「イリヤさん?」

 

「今」

 

「はい?」

 

「今、ちょっと目つき悪くなかった?」

 

「寝起きですからねぇ」

 

「寝起きで済ませていいやつかな、これ」

 

 ルビーは一瞬だけ黙った。

 

 いつものルビーなら、ここで余計な軽口を挟む。

 

 でも、今の沈黙は軽くなかった。

 

「ルビー」

 

「はい?」

 

「隠し事してる?」

 

「してませんよ?」

 

「声が契約初日の時と似てる」

 

「その分類、そろそろやめません!?」

 

 ルビーはいつも通り騒いでいる。

 

 でも、その声は少しだけ浮いていた。

 

 私は鏡をもう一度見た。

 

 普通の私。

 

 普通の朝。

 

 なのに、胸の奥に違和感が残っている。

 

 昨夜、私は夢を見た。

 

 真っ暗な場所だった。

 

 上下も左右も分からない。

 

 足元があるのかも分からない。

 

 けれど、誰かがいた。

 

 姿は見えない。

 

 声だけがした。

 

 返して。

 

 それだけ。

 

 何を。

 

 誰に。

 

 分からない。

 

 でも、その声は他人のものではなかった。

 

 私の声に似ていた。

 

 けれど、私の声ではなかった。

 

 近すぎる。

 

 夢にしては、近すぎた。

 

 学校へ向かう道は、いつも通りだった。

 

 朝の空気。

 

 通学路。

 

 ランドセルの重さ。

 

 すれ違う人たち。

 

 何も変わっていない。

 

 けれど、私の中だけが少し遅れている。

 

 イリヤ。

 

 そう呼ばれた気がして、振り返るのが一瞬遅れた。

 

 いや、実際には誰も呼んでいなかった。

 

 ただ、頭の奥で誰かが私の名前を確認したみたいだった。

 

 イリヤ。

 

 本当に?

 

 そんなふうに。

 

「イリヤ」

 

 今度は本当に呼ばれた。

 

 横を見ると、美遊がいた。

 

 いつものように静かな顔。

 

 いつものように、私の少し近く。

 

「おはよう、美遊」

 

「おはよう」

 

 美遊は私の顔をじっと見た。

 

「今日、少し違う」

 

「早い。観察が早い」

 

「いるけど、遠い」

 

「美遊さんの観察精度が怖い」

 

「怖くない。心配」

 

 真顔でそう言われると、いつものようにツッコみきれない。

 

 私は少しだけ笑った。

 

「……ありがとう」

 

 美遊が手を伸ばす。

 

 たぶん、いつものように私の手を取ろうとしたのだと思う。

 

 けれど、その手が近づいた瞬間。

 

 私は反射的に手を引いた。

 

「あ」

 

 自分で驚いた。

 

 美遊も止まった。

 

 彼女の表情はあまり変わらない。

 

 でも、目がほんの少しだけ揺れた。

 

「ごめん」

 

 私はすぐに言った。

 

「今の、嫌だったわけじゃない。たぶん、私じゃない……いや、私なんだけど」

 

 言いながら、自分でも分からなくなる。

 

 私じゃない。

 

 でも私。

 

 じゃあ、誰。

 

 美遊は手を下ろした。

 

「イリヤ?」

 

「うん。イリヤ……のはず」

 

 冗談みたいに言ったのに、冗談にならなかった。

 

 美遊は何も言わない。

 

 ただ、私の隣を歩く。

 

 今日は手を握らない。

 

 でも、離れない。

 

 その距離が、ありがたかった。

 

 学校はいつも通りだった。

 

 龍子が元気に話しかけてくる。

 

 美々が優しく笑う。

 

 雀花がツッコむ。

 

 那奈亀が首を傾げる。

 

 教室には朝のざわめきがある。

 

 机。

 

 椅子。

 

 黒板。

 

 窓の外の空。

 

 日常。

 

 この日常に、鏡の中の知らない私なんて似合わない。

 

 それなのに。

 

「イリヤー!」

 

 龍子の声がした。

 

 私は一瞬、反応が遅れた。

 

 名前を呼ばれた。

 

 それは分かる。

 

 でも、その名前がほんの少しだけ遠く聞こえた。

 

 まるで、誰かが私の代わりに返事をしようとして、でも迷ったみたいに。

 

「イリヤ?」

 

 龍子が顔を覗き込んでくる。

 

「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 

「眠いの?」

 

「眠いというか……自分の中で通信障害が起きてる感じ」

 

「つうしん?」

 

「心の電波が悪い」

 

「よく分かんないけど大変そう!」

 

「うん。大変」

 

 龍子の明るさに少し救われる。

 

 美々が心配そうに言った。

 

「無理しないでね」

 

「ありがとう。無理しない」

 

 そう言えたことに、少し安心した。

 

 無理しない。

 

 帰る。

 

 ちゃんと言う。

 

 それは最近の私が必死に覚えている、新しい生き方だった。

 

 授業中。

 

 私は何度か手元を見た。

 

 自分の手。

 

 小さい手。

 

 白い指。

 

 鉛筆を持つ手。

 

 戦う手ではない。

 

 剣を握る手でもない。

 

 誰かを切る手でもない。

 

 そう思った瞬間、指先がわずかに動いた。

 

 まるで、そこにない剣を握るみたいに。

 

「……」

 

 私は慌てて鉛筆を握り直す。

 

 違う。

 

 今のは違う。

 

 私の動きじゃない。

 

 前世の私でもない。

 

 小学生のイリヤでもない。

 

 もっと戦い慣れた誰かの動きだった。

 

 休み時間。

 

 廊下で男子たちがふざけて走っていた。

 

 そのうちの一人が曲がり角でバランスを崩し、私の方へぶつかりそうになる。

 

 いつもなら、驚いて固まるか、少し避けるくらいだったと思う。

 

 でも、体が勝手に動いた。

 

 半歩ずれる。

 

 相手の腕の軌道を見る。

 

 手首を取ろうとして。

 

 直前で止まる。

 

「うわっ、ごめん!」

 

 男子が慌てて謝る。

 

「う、ううん。大丈夫」

 

 言ってから、少しだけ嫌な気持ちになる。

 

 大丈夫。

 

 その言葉を雑に使わないって、決めたばかりなのに。

 

 でも今は、それよりも自分の動きが怖かった。

 

 美遊が見ていた。

 

 廊下の少し先。

 

 いつの間にか、こちらを見ている。

 

「今の」

 

「うん。私も聞きたい」

 

 私は自分の手を見た。

 

「今の動き、私じゃない」

 

「でも、イリヤが動いた」

 

「そう。だから余計に怖い」

 

 美遊は近づいてきた。

 

 今度は、私の手を取ろうとはしなかった。

 

 ただ、隣に立つ。

 

「今日は、離れない」

 

「言い方は重いけど、正直助かる」

 

「助かるなら、近くにいる」

 

「近いの意味、今日は物理でも許可します」

 

「許可」

 

 美遊が一歩近づいた。

 

 いつもなら、近い、とツッコんでいたと思う。

 

 でも今日は、その距離に安心した。

 

 自分が自分からずれていくような時、隣に誰かがいるだけで、こんなに心強い。

 

 放課後。

 

 私と美遊は校舎裏の木陰へ向かった。

 

 人通りはほとんどない。

 

 夕方の光が、校舎の壁を淡く染めている。

 

 ルビーは私の鞄から顔を出し、サファイアさんも美遊のそばに浮かぶ。

 

 私は深呼吸してから、ルビーを見た。

 

「ルビー」

 

「はい」

 

「アーチャーカード、私に何をしたの?」

 

 ルビーはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙が、答えみたいなものだった。

 

「した、というより……反応した、という方が近いかと」

 

「何に?」

 

「それは」

 

 ルビーが言い淀む。

 

 私は目を細めた。

 

「アーチャーカードの反応、私に残ってるよね?」

 

「微量には」

 

「微量って言葉で安心させようとしてる?」

 

「少しだけ」

 

「正直でよろしい」

 

 でも、全然安心できない。

 

 微量でも毒は毒だ。

 

 微量でも残業は残業だ。

 

 微量でも知らない自分が鏡に映るのは、普通にホラーである。

 

 サファイアさんが静かに言った。

 

「アーチャーカードと、イリヤ様の内部にある何かが共鳴した可能性があります」

 

「内部にある何か?」

 

 私は思わず聞き返した。

 

 内部。

 

 私の中。

 

 誰かの影。

 

 返して、と言った声。

 

「それ、何?」

 

 ルビーは黙った。

 

「ルビー」

 

「……私からは、まだ」

 

「まだ、ってことは知ってるんだ」

 

 ルビーは答えない。

 

 いつものようにふざけない。

 

 茶化さない。

 

 それが一番怖かった。

 

「話せないことは、ある」

 

 美遊が静かに言った。

 

 私は美遊を見る。

 

 彼女はルビーを責めるでもなく、ただまっすぐ見ていた。

 

「でも、危ないなら言うべき」

 

 その言葉に、私は少し驚いた。

 

「美遊さん、成長してる……!」

 

「イリヤが言った」

 

「言った。すごく偉い」

 

「偉い」

 

 美遊は小さく頷く。

 

 ルビーは困ったように揺れた。

 

「イリヤさん。私は、あなたを危険にしたいわけではありません」

 

「うん」

 

「でも、今ここで中途半端に話せば、もっと危険になることもあります」

 

「それ、信用していいやつ?」

 

「……信用していただけるよう努力します」

 

「努力目標なんだ」

 

「はい」

 

「不安だなあ」

 

 少しだけ、いつもの空気が戻った。

 

 でも、問題は何も解決していない。

 

 私の中に何かがある。

 

 アーチャーカードはそれに反応した。

 

 ルビーは何かを知っている。

 

 そして、私はまだ知らされていない。

 

 前世なら、情報共有不足の危険案件として上長に報告しているところだ。

 

 いや、上長どこ。

 

 魔法少女業務の組織図、いまだに不明である。

 

 その日の帰り道、美遊は本当に離れなかった。

 

 いつもより少しだけ距離が近い。

 

 でも、今日はそれがありがたかった。

 

「美遊」

 

「何?」

 

「近い」

 

「許可された」

 

「されたけど、運用がきっちりしてる」

 

「近くにいる」

 

「うん。いて」

 

 美遊は頷いた。

 

 何も聞かない。

 

 でも、離れない。

 

 それが今の私にはちょうどよかった。

 

 家に帰ると、普段通りの空気が出迎えてくれた。

 

 玄関。

 

 廊下。

 

 部屋。

 

 何も変わっていない。

 

 変わっているのは、私だけ。

 

 そう思うと、少し怖くなる。

 

 夜。

 

 私は自室で鏡の前に立った。

 

 ルビーは机の上にいる。

 

 いつもより静かだ。

 

「見るのですか?」

 

「見ない方が怖いから」

 

「イリヤさんらしいですね」

 

「そうかな」

 

「はい。怖がりなのに、確認はするところが」

 

「褒めてる?」

 

「かなり」

 

 私は息を吸った。

 

 鏡を見る。

 

 普通の私。

 

 銀色の髪。

 

 赤い瞳。

 

 少し疲れた顔。

 

 変わっていない。

 

 そう思った。

 

 けれど、しばらく見ていると、鏡の中の私が笑った。

 

 私は笑っていない。

 

「……っ」

 

 喉が詰まる。

 

 鏡の中の少女は、私と同じ顔で、私ではない笑みを浮かべていた。

 

 目が鋭い。

 

 口元が冷たい。

 

 まるで、やっとこちらに気づいたと言うように。

 

 鏡の中の少女が、口を動かした。

 

 声は聞こえない。

 

 でも、口の形で分かった。

 

 返して。

 

 背筋が冷たくなる。

 

 何を。

 

 何を返せばいいの。

 

 私は何を持っているの。

 

 何を奪ったの。

 

「イリヤさん!」

 

 ルビーが光った。

 

 その瞬間、鏡は元に戻った。

 

 いつもの私。

 

 震えている私。

 

 知らない笑みなんて、どこにもない。

 

「今の」

 

 声が震える。

 

「見えたよね?」

 

 ルビーは黙っていた。

 

「ルビー」

 

「……はい」

 

「見えたんだね」

 

「はい」

 

 認めた。

 

 その事実だけで、膝から力が抜けそうになる。

 

 見間違いではない。

 

 疲れのせいでもない。

 

 夢でもない。

 

 鏡の中に、誰かがいる。

 

 私と同じ顔をした、誰かが。

 

「返してって言ってた」

 

 私は小さく言った。

 

「私、何を持ってるの?」

 

 ルビーは答えなかった。

 

 答えられなかったのかもしれない。

 

 答えたくなかったのかもしれない。

 

 どちらにしても、沈黙は重かった。

 

 その夜。

 

 私はなかなか眠れなかった。

 

 布団の中で丸くなる。

 

 目を閉じると、鏡の中の笑みが浮かぶ。

 

 返して。

 

 その声が、耳の奥に残っている。

 

 私は何も奪ったつもりはない。

 

 普通に生きてきただけだ。

 

 いや。

 

 普通に生きてきた。

 

 その言葉が、急に怖くなった。

 

 私が普通に生きるために、誰かが普通じゃない場所にいたのだとしたら。

 

 その誰かが、今、返してと言っているのだとしたら。

 

「……やめよう」

 

 考えすぎると、沈む。

 

 そういう時は、息をする。

 

 今ここにあるものを確認する。

 

 布団。

 

 枕。

 

 部屋。

 

 ルビー。

 

 自分の手。

 

 自分の名前。

 

 イリヤ。

 

 イリヤスフィール。

 

 私は、私。

 

 そう言い聞かせて、目を閉じた。

 

 ――その夜。

 

 冬木の屋根の上に、一人の少女が立っていた。

 

 私と同じ顔をした少女。

 

 けれど、色が違う。

 

 雰囲気が違う。

 

 目が違う。

 

 月明かりの下で、その少女は街を見下ろしていた。

 

 その瞳は、私よりずっと冷たく、ずっと鋭い。

 

 赤い光が、夜に細く揺れる。

 

 少女は小さく笑った。

 

「見つけた」

 

 その声は、私の声によく似ていた。

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