ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
朝。
目が覚めて、最初に思ったことは。
鏡を見たくない。
だった。
昨日の夜。
アーチャーカードを回収したあと、鏡の中に一瞬だけ、知らない私がいた。
私と同じ顔。
私と同じ瞳。
でも、違う。
肌の色が少し違って見えて。
目つきが鋭くて。
まるで、私よりもずっと前から何かを待っていたみたいな顔をしていた。
あれは疲れのせい。
そう思いたかった。
アーチャーカード戦のあとだったし、記憶残響とかいう危険物に何度も触れたし、鏡面界は赤い荒野になるし、剣は降ってくるし、正義の味方は労災認定されないし。
疲れていない方がおかしい。
だから、見間違い。
そういうことにしたい。
したいけど。
でも。
「……起きないと」
私は布団から体を起こした。
部屋の空気はいつも通りだった。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。
机の上には教科書。
椅子の背には制服。
枕元には、当然のようにルビー。
いつも通り。
そのはずなのに、何かがずれている気がした。
「おはようございます、イリヤさん!」
ルビーが明るく跳ねる。
「……おはよう」
「今日も素敵な朝ですね!」
「素敵かどうかは、鏡を確認してから決める」
「鏡、ですか?」
ルビーの声が、ほんの少しだけ遅れた。
私はそれを聞き逃さなかった。
けれど、今は追及しない。
まずは、確認だ。
見たくない。
でも、見ない方が怖い。
前世でもそうだった。
未読メールは、開くまで増え続けているように感じる。
現実を確認しないと、恐怖だけが勝手に育つ。
だから見る。
私は息を吸って、鏡を見た。
そこに映っていたのは、普通の私だった。
銀色の髪。
赤い瞳。
少し眠そうな顔。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
昨日見た、知らない誰かではない。
「……よし。今日は普通の私」
「普通とは何か、哲学的ですね!」
「朝から哲学しないで」
少しだけ安心した。
安心して、髪を整える。
櫛を通して、前髪を直して、リボンを取ろうとした時。
鏡の中の私の目が、少しだけ鋭くなった。
「……っ」
手が止まる。
瞬きをする。
鏡の中の私は、いつも通りだった。
眠そうで、少し不安そうで、でもちゃんと私だった。
「イリヤさん?」
「今」
「はい?」
「今、ちょっと目つき悪くなかった?」
「寝起きですからねぇ」
「寝起きで済ませていいやつかな、これ」
ルビーは一瞬だけ黙った。
いつものルビーなら、ここで余計な軽口を挟む。
でも、今の沈黙は軽くなかった。
「ルビー」
「はい?」
「隠し事してる?」
「してませんよ?」
「声が契約初日の時と似てる」
「その分類、そろそろやめません!?」
ルビーはいつも通り騒いでいる。
でも、その声は少しだけ浮いていた。
私は鏡をもう一度見た。
普通の私。
普通の朝。
なのに、胸の奥に違和感が残っている。
昨夜、私は夢を見た。
真っ暗な場所だった。
上下も左右も分からない。
足元があるのかも分からない。
けれど、誰かがいた。
姿は見えない。
声だけがした。
返して。
それだけ。
何を。
誰に。
分からない。
でも、その声は他人のものではなかった。
私の声に似ていた。
けれど、私の声ではなかった。
近すぎる。
夢にしては、近すぎた。
学校へ向かう道は、いつも通りだった。
朝の空気。
通学路。
ランドセルの重さ。
すれ違う人たち。
何も変わっていない。
けれど、私の中だけが少し遅れている。
イリヤ。
そう呼ばれた気がして、振り返るのが一瞬遅れた。
いや、実際には誰も呼んでいなかった。
ただ、頭の奥で誰かが私の名前を確認したみたいだった。
イリヤ。
本当に?
そんなふうに。
「イリヤ」
今度は本当に呼ばれた。
横を見ると、美遊がいた。
いつものように静かな顔。
いつものように、私の少し近く。
「おはよう、美遊」
「おはよう」
美遊は私の顔をじっと見た。
「今日、少し違う」
「早い。観察が早い」
「いるけど、遠い」
「美遊さんの観察精度が怖い」
「怖くない。心配」
真顔でそう言われると、いつものようにツッコみきれない。
私は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
美遊が手を伸ばす。
たぶん、いつものように私の手を取ろうとしたのだと思う。
けれど、その手が近づいた瞬間。
私は反射的に手を引いた。
「あ」
自分で驚いた。
美遊も止まった。
彼女の表情はあまり変わらない。
でも、目がほんの少しだけ揺れた。
「ごめん」
私はすぐに言った。
「今の、嫌だったわけじゃない。たぶん、私じゃない……いや、私なんだけど」
言いながら、自分でも分からなくなる。
私じゃない。
でも私。
じゃあ、誰。
美遊は手を下ろした。
「イリヤ?」
「うん。イリヤ……のはず」
冗談みたいに言ったのに、冗談にならなかった。
美遊は何も言わない。
ただ、私の隣を歩く。
今日は手を握らない。
でも、離れない。
その距離が、ありがたかった。
学校はいつも通りだった。
龍子が元気に話しかけてくる。
美々が優しく笑う。
雀花がツッコむ。
那奈亀が首を傾げる。
教室には朝のざわめきがある。
机。
椅子。
黒板。
窓の外の空。
日常。
この日常に、鏡の中の知らない私なんて似合わない。
それなのに。
「イリヤー!」
龍子の声がした。
私は一瞬、反応が遅れた。
名前を呼ばれた。
それは分かる。
でも、その名前がほんの少しだけ遠く聞こえた。
まるで、誰かが私の代わりに返事をしようとして、でも迷ったみたいに。
「イリヤ?」
龍子が顔を覗き込んでくる。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「眠いの?」
「眠いというか……自分の中で通信障害が起きてる感じ」
「つうしん?」
「心の電波が悪い」
「よく分かんないけど大変そう!」
「うん。大変」
龍子の明るさに少し救われる。
美々が心配そうに言った。
「無理しないでね」
「ありがとう。無理しない」
そう言えたことに、少し安心した。
無理しない。
帰る。
ちゃんと言う。
それは最近の私が必死に覚えている、新しい生き方だった。
授業中。
私は何度か手元を見た。
自分の手。
小さい手。
白い指。
鉛筆を持つ手。
戦う手ではない。
剣を握る手でもない。
誰かを切る手でもない。
そう思った瞬間、指先がわずかに動いた。
まるで、そこにない剣を握るみたいに。
「……」
私は慌てて鉛筆を握り直す。
違う。
今のは違う。
私の動きじゃない。
前世の私でもない。
小学生のイリヤでもない。
もっと戦い慣れた誰かの動きだった。
休み時間。
廊下で男子たちがふざけて走っていた。
そのうちの一人が曲がり角でバランスを崩し、私の方へぶつかりそうになる。
いつもなら、驚いて固まるか、少し避けるくらいだったと思う。
でも、体が勝手に動いた。
半歩ずれる。
相手の腕の軌道を見る。
手首を取ろうとして。
直前で止まる。
「うわっ、ごめん!」
男子が慌てて謝る。
「う、ううん。大丈夫」
言ってから、少しだけ嫌な気持ちになる。
大丈夫。
その言葉を雑に使わないって、決めたばかりなのに。
でも今は、それよりも自分の動きが怖かった。
美遊が見ていた。
廊下の少し先。
いつの間にか、こちらを見ている。
「今の」
「うん。私も聞きたい」
私は自分の手を見た。
「今の動き、私じゃない」
「でも、イリヤが動いた」
「そう。だから余計に怖い」
美遊は近づいてきた。
今度は、私の手を取ろうとはしなかった。
ただ、隣に立つ。
「今日は、離れない」
「言い方は重いけど、正直助かる」
「助かるなら、近くにいる」
「近いの意味、今日は物理でも許可します」
「許可」
美遊が一歩近づいた。
いつもなら、近い、とツッコんでいたと思う。
でも今日は、その距離に安心した。
自分が自分からずれていくような時、隣に誰かがいるだけで、こんなに心強い。
放課後。
私と美遊は校舎裏の木陰へ向かった。
人通りはほとんどない。
夕方の光が、校舎の壁を淡く染めている。
ルビーは私の鞄から顔を出し、サファイアさんも美遊のそばに浮かぶ。
私は深呼吸してから、ルビーを見た。
「ルビー」
「はい」
「アーチャーカード、私に何をしたの?」
ルビーはすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えみたいなものだった。
「した、というより……反応した、という方が近いかと」
「何に?」
「それは」
ルビーが言い淀む。
私は目を細めた。
「アーチャーカードの反応、私に残ってるよね?」
「微量には」
「微量って言葉で安心させようとしてる?」
「少しだけ」
「正直でよろしい」
でも、全然安心できない。
微量でも毒は毒だ。
微量でも残業は残業だ。
微量でも知らない自分が鏡に映るのは、普通にホラーである。
サファイアさんが静かに言った。
「アーチャーカードと、イリヤ様の内部にある何かが共鳴した可能性があります」
「内部にある何か?」
私は思わず聞き返した。
内部。
私の中。
誰かの影。
返して、と言った声。
「それ、何?」
ルビーは黙った。
「ルビー」
「……私からは、まだ」
「まだ、ってことは知ってるんだ」
ルビーは答えない。
いつものようにふざけない。
茶化さない。
それが一番怖かった。
「話せないことは、ある」
美遊が静かに言った。
私は美遊を見る。
彼女はルビーを責めるでもなく、ただまっすぐ見ていた。
「でも、危ないなら言うべき」
その言葉に、私は少し驚いた。
「美遊さん、成長してる……!」
「イリヤが言った」
「言った。すごく偉い」
「偉い」
美遊は小さく頷く。
ルビーは困ったように揺れた。
「イリヤさん。私は、あなたを危険にしたいわけではありません」
「うん」
「でも、今ここで中途半端に話せば、もっと危険になることもあります」
「それ、信用していいやつ?」
「……信用していただけるよう努力します」
「努力目標なんだ」
「はい」
「不安だなあ」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
でも、問題は何も解決していない。
私の中に何かがある。
アーチャーカードはそれに反応した。
ルビーは何かを知っている。
そして、私はまだ知らされていない。
前世なら、情報共有不足の危険案件として上長に報告しているところだ。
いや、上長どこ。
魔法少女業務の組織図、いまだに不明である。
その日の帰り道、美遊は本当に離れなかった。
いつもより少しだけ距離が近い。
でも、今日はそれがありがたかった。
「美遊」
「何?」
「近い」
「許可された」
「されたけど、運用がきっちりしてる」
「近くにいる」
「うん。いて」
美遊は頷いた。
何も聞かない。
でも、離れない。
それが今の私にはちょうどよかった。
家に帰ると、普段通りの空気が出迎えてくれた。
玄関。
廊下。
部屋。
何も変わっていない。
変わっているのは、私だけ。
そう思うと、少し怖くなる。
夜。
私は自室で鏡の前に立った。
ルビーは机の上にいる。
いつもより静かだ。
「見るのですか?」
「見ない方が怖いから」
「イリヤさんらしいですね」
「そうかな」
「はい。怖がりなのに、確認はするところが」
「褒めてる?」
「かなり」
私は息を吸った。
鏡を見る。
普通の私。
銀色の髪。
赤い瞳。
少し疲れた顔。
変わっていない。
そう思った。
けれど、しばらく見ていると、鏡の中の私が笑った。
私は笑っていない。
「……っ」
喉が詰まる。
鏡の中の少女は、私と同じ顔で、私ではない笑みを浮かべていた。
目が鋭い。
口元が冷たい。
まるで、やっとこちらに気づいたと言うように。
鏡の中の少女が、口を動かした。
声は聞こえない。
でも、口の形で分かった。
返して。
背筋が冷たくなる。
何を。
何を返せばいいの。
私は何を持っているの。
何を奪ったの。
「イリヤさん!」
ルビーが光った。
その瞬間、鏡は元に戻った。
いつもの私。
震えている私。
知らない笑みなんて、どこにもない。
「今の」
声が震える。
「見えたよね?」
ルビーは黙っていた。
「ルビー」
「……はい」
「見えたんだね」
「はい」
認めた。
その事実だけで、膝から力が抜けそうになる。
見間違いではない。
疲れのせいでもない。
夢でもない。
鏡の中に、誰かがいる。
私と同じ顔をした、誰かが。
「返してって言ってた」
私は小さく言った。
「私、何を持ってるの?」
ルビーは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
答えたくなかったのかもしれない。
どちらにしても、沈黙は重かった。
その夜。
私はなかなか眠れなかった。
布団の中で丸くなる。
目を閉じると、鏡の中の笑みが浮かぶ。
返して。
その声が、耳の奥に残っている。
私は何も奪ったつもりはない。
普通に生きてきただけだ。
いや。
普通に生きてきた。
その言葉が、急に怖くなった。
私が普通に生きるために、誰かが普通じゃない場所にいたのだとしたら。
その誰かが、今、返してと言っているのだとしたら。
「……やめよう」
考えすぎると、沈む。
そういう時は、息をする。
今ここにあるものを確認する。
布団。
枕。
部屋。
ルビー。
自分の手。
自分の名前。
イリヤ。
イリヤスフィール。
私は、私。
そう言い聞かせて、目を閉じた。
――その夜。
冬木の屋根の上に、一人の少女が立っていた。
私と同じ顔をした少女。
けれど、色が違う。
雰囲気が違う。
目が違う。
月明かりの下で、その少女は街を見下ろしていた。
その瞳は、私よりずっと冷たく、ずっと鋭い。
赤い光が、夜に細く揺れる。
少女は小さく笑った。
「見つけた」
その声は、私の声によく似ていた。