ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

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第14話 私の知らない、私の話

 

 帰ってきたはずなのに、帰ってきた気がしなかった。

 

 玄関の匂い。

 

 廊下の明かり。

 

 少し遠くから聞こえるリズの足音。

 

 いつもの家。

 

 いつもの衛宮家。

 

 なのに、胸の奥にずっとクロの声が残っていた。

 

 返して。

 

 あなたの居場所を返して。

 

 居場所。

 

 その言葉が重すぎて、ランドセルを下ろす手が少し止まった。

 

 居場所って何。

 

 家。

 

 学校。

 

 お兄ちゃん。

 

 セラ。

 

 リズ。

 

 友達。

 

 美遊。

 

 私が普通に持っていると思っていたもの。

 

 何の疑問もなく、ここにいていいと思っていた場所。

 

 それを返して、と言われた。

 

 しかも、私と同じ顔をした女の子に。

 

 怖い。

 

 わけが分からない。

 

 でも、わけが分からないまま無視できるほど、軽い話じゃないことだけは分かっていた。

 

「イリヤ様」

 

 廊下の向こうから、セラが歩いてきた。

 

 いつものように背筋が伸びていて、表情も大きくは変わらない。

 

 けれど、私の顔を見るなり、その眉がほんの少しだけ動いた。

 

「お顔の色が優れません」

 

「今日ちょっと、自分と同じ顔の知らない子に会って」

 

「……」

 

「反応が重い」

 

 セラが黙った。

 

 その沈黙が、答えみたいで嫌だった。

 

「セラ?」

 

「……イリヤ様。今、ルビーは?」

 

「ここにいる」

 

 鞄の中から、ルビーがゆっくりと浮いた。

 

 いつものような派手な登場ではなかった。

 

 光も弱い。

 

 声も、静かだった。

 

「セラさん」

 

「状況は?」

 

「クロと接触しました」

 

 クロ。

 

 その名前をルビーが自然に呼んだ。

 

 まるで、初めて聞いた名前ではないみたいに。

 

 私は胸の奥が冷えるのを感じた。

 

「ルビー」

 

「……はい」

 

「やっぱり、知ってたんだね」

 

 ルビーはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙だけで十分だった。

 

 セラも目を伏せる。

 

 リズが廊下の角から顔を出した。

 

「イリヤ」

 

「リズも、知ってるの?」

 

 リズは少しだけ考えてから、短く答えた。

 

「少し」

 

「みんな少しずつ知ってるのに、私だけ知らないの、結構しんどいんだけど」

 

 言葉にした瞬間、自分でも驚くくらい胸が痛んだ。

 

 怒っている。

 

 たぶん、怒っている。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 置いていかれた感じ。

 

 自分のことなのに、自分以外のみんなが先に知っている感じ。

 

 それが、すごく嫌だった。

 

「ごめんなさい、イリヤ様」

 

 セラが静かに言った。

 

「謝るってことは、謝るようなことなんだ」

 

「……」

 

「それも、きついなあ」

 

 笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。

 

 ルビーが私の前に浮かぶ。

 

「イリヤさん」

 

「うん」

 

「アイリスフィール様へ連絡します」

 

 その名前が出た瞬間、胸が跳ねた。

 

 ママ。

 

 アイリスフィール。

 

 今まで何度も、会いたいと思った人。

 

 でも今は、少しだけ怖い。

 

 ママはきっと知っている。

 

 クロのことも。

 

 私のことも。

 

 私が知らない、私の話を。

 

「つまり、ママは知ってるんだ」

 

 ルビーは否定しなかった。

 

 否定してほしかったわけじゃない。

 

 でも、否定されないと、やっぱり怖かった。

 

 その時、居間の方からお兄ちゃんの声がした。

 

「イリヤ? 帰ってきたのか?」

 

 足音が近づいてくる。

 

 私は反射的にルビーを鞄に押し込みかけて、やめた。

 

 もう、隠すことだらけなのに疲れていた。

 

 でも、全部を話す勇気もまだない。

 

 お兄ちゃんが廊下に出てきて、私の顔を見るなり表情を変えた。

 

「イリヤ、何かあったのか?」

 

「あった」

 

 言ってから、少しだけ息を吸う。

 

「でも、お兄ちゃんに今話すと、お兄ちゃんが絶対に何とかしようとするから、今は待って」

 

 お兄ちゃんは黙った。

 

 困ったような顔をするかと思った。

 

 でも、少しだけ真剣な目で私を見た。

 

「……そっか」

 

「うん」

 

「じゃあ、せめて一つだけ約束してくれ」

 

「何?」

 

「一人で抱え込まないこと」

 

 胸が少し痛んだ。

 

 そういうところだ。

 

 そういう優しさが怖い。

 

 でも、今の言葉は少し違った。

 

 俺が何とかする、じゃない。

 

 一人で抱え込むな、だった。

 

「お兄ちゃんもね」

 

「俺も?」

 

「そう。お兄ちゃんも、一人で何とかしようとしないこと」

 

 お兄ちゃんは少しだけ苦笑した。

 

「分かった」

 

「今の“分かった”は信用していいやつ?」

 

「努力する」

 

「努力目標……」

 

 少しだけ、いつもの感じが戻った。

 

 ほんの少しだけ。

 

 それでも、ありがたかった。

 

「じゃあ、待つ」

 

 お兄ちゃんはそう言った。

 

「話せる時に話してくれ」

 

「うん」

 

 お兄ちゃんはそれ以上聞かなかった。

 

 それが救いだった。

 

 同時に、少し申し訳なかった。

 

 居間ではなく、奥の小さな部屋に移動した。

 

 セラがカーテンを閉める。

 

 リズがドアの前に立つ。

 

 美遊もそこにいた。

 

 クロは美遊にも言った。

 

 あなた、そっち側なんだ。

 

 だから、美遊にも聞く権利があると思った。

 

 それに、今は一人で聞きたくなかった。

 

「美遊、いてくれる?」

 

「うん」

 

 美遊は迷わず頷いた。

 

「私が、いたいからいる」

 

「真顔で言うと破壊力が高いんだけど」

 

「破壊?」

 

「今は気にしないで」

 

 少しだけ息が抜けた。

 

 ルビーとサファイアさんが部屋の中央に浮かぶ。

 

 小さな魔法陣が空中に広がり、淡い光が部屋を照らした。

 

 通信。

 

 光が揺れる。

 

 白い輪郭が形を作っていく。

 

 そして、その向こうにママが現れた。

 

 アイリスフィール・フォン・アインツベルン。

 

 柔らかい白い髪。

 

 優しい目。

 

 いつもの、少し現実離れした綺麗な姿。

 

 でも今日のママは、笑っていなかった。

 

「イリヤ」

 

「ママ」

 

 声を聞いた瞬間、安心した。

 

 でも、同時に怖くなった。

 

 ママは知っている。

 

 きっと、知っている。

 

「ルビーから聞いたわ」

 

「じゃあ、単刀直入に聞くね」

 

 私は手を握った。

 

 手のひらが少し冷たい。

 

「あの子のこと、知ってるんだよね」

 

 ママはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙だけで、もう十分だった。

 

「……ええ」

 

「そっか」

 

 短い返事しかできなかった。

 

 もっと怒ると思っていた。

 

 どうして言ってくれなかったの、と叫ぶと思っていた。

 

 でも、実際に聞くと、胸の奥が冷えて、言葉が少なくなった。

 

「クロって、何?」

 

 ママの表情が揺れた。

 

 苦しそうな顔だった。

 

 それを見て、また怖くなる。

 

 そんな顔をするような話なのだ。

 

「あの子は、あなたではないわ」

 

「うん」

 

「でも、あなたと無関係でもない」

 

「一番困る説明なんだけど」

 

「ごめんなさい」

 

「謝られると、余計に本当なんだって分かる」

 

 ママは目を伏せた。

 

 ルビーも黙っている。

 

 セラもリズも、何も言わない。

 

 美遊だけが、隣で静かに私を見ていた。

 

「イリヤ」

 

 ママがゆっくり話し始める。

 

「あなたは本来、アインツベルンの器として生まれた子だった」

 

 器。

 

 その言葉は、冷たかった。

 

 人に向ける言葉じゃない気がした。

 

「でも私は、あなたに普通の女の子として生きてほしかった」

 

 ママの声が少しだけ震えた。

 

「魔術のためでも、聖杯のためでもなく。ただ、笑って、泣いて、怒って、誰かと一緒にご飯を食べて、学校に行って、帰ってくる。そんなふうに生きてほしかった」

 

 嬉しい。

 

 それは、嬉しい。

 

 ママが私を愛してくれていたのは分かる。

 

 普通に生きてほしかった。

 

 その願いは、たぶん本物だ。

 

 でも。

 

「そのために、何をしたの?」

 

 ママは唇を結んだ。

 

「あなたの中にあった、聖杯としての機能。記録。魔術的な可能性。その一部を封じたわ」

 

「封じた」

 

「ええ」

 

「消したんじゃなくて?」

 

「完全には、消せなかった」

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 いや、冷たくなる。

 

 どちらか分からない。

 

「あの子は、その封じられたもの?」

 

 ママは少しだけ目を閉じた。

 

「あの子は、封じられた側が形を持とうとしている存在よ」

 

「……」

 

「アーチャーカードが、きっかけになったのだと思う。カードの力と、あなたの中に封じられていたものが共鳴した。だから、あの子は外に出てきた」

 

 クロ。

 

 私と同じ顔をした子。

 

 返して、と言った子。

 

 居場所を返して、と言った子。

 

 それは、知らない敵ではなかった。

 

 私の外に出てきた、私の知らない私の一部。

 

 そう言われたようなものだった。

 

「私は、普通に生きてきた」

 

 声が小さくなった。

 

「ええ」

 

「お兄ちゃんがいて、セラとリズがいて、学校があって、友達がいて」

 

「ええ」

 

「それは、嬉しい」

 

 本当に。

 

 本当に嬉しい。

 

 今の私にとって、その全部が大事だ。

 

「嬉しいけど……その間、あの子はどこにいたの?」

 

 部屋が静かになった。

 

 ママは答えなかった。

 

 答えられなかったのかもしれない。

 

 その沈黙が、答えだったのかもしれない。

 

「私は普通に生きてきた」

 

 言葉が震える。

 

「でも、その普通の外に、あの子がいたなら」

 

 喉が詰まる。

 

「私、どう喜べばいいの?」

 

「イリヤ」

 

「私が悪いわけじゃないって言うんでしょ」

 

 ママが息を呑む。

 

 私は続けた。

 

「それは分かる。私が選んだわけじゃない。私が封じたわけでもない。私は知らなかった」

 

 でも。

 

「でも、あの子が苦しくなかったことにはならないでしょ」

 

 ママの顔が歪んだ。

 

 その顔を見て、胸が痛んだ。

 

 ママを傷つけたいわけじゃない。

 

 でも、言わないと、自分の中で何かが壊れそうだった。

 

「私は、居場所を返せない」

 

 そう言った瞬間、自分でも驚くくらいはっきりした。

 

「お兄ちゃんも、セラも、リズも、学校も、美遊も、私の大事なものだから。返してって言われても、はいって渡せない」

 

 美遊がわずかにこちらを見る。

 

 私は続けた。

 

「でも、だからって、あの子を知らないふりはできない」

 

 クロの顔が浮かぶ。

 

 怒っていた。

 

 笑っていた。

 

 でも、痛そうだった。

 

「私が普通に生きてきた裏側にあの子がいたなら、ちゃんと聞く」

 

 美遊が静かに言った。

 

「私も聞く」

 

「うん。一緒に」

 

 美遊は頷いた。

 

 ママが、美遊を見る。

 

「あなたが、美遊さんね」

 

「はい」

 

「イリヤのそばにいてくれて、ありがとう」

 

 美遊は少しも迷わなかった。

 

「私が、いたいからいます」

 

「だから真顔で言うと破壊力が高いんだって……」

 

 思わず小声で言うと、美遊がこちらを見る。

 

「破壊?」

 

「今はいい。ほんとに今はいい」

 

 少しだけ空気が緩んだ。

 

 でも、美遊はすぐに真面目な顔に戻る。

 

「クロは、痛そうだった」

 

 その言葉に、私は頷いた。

 

「うん」

 

「怒っていた。でも、痛そうだった」

 

 美遊の声は静かだった。

 

 でも、どこか自分自身の遠い記憶をなぞっているようにも聞こえた。

 

「大事なものを取られた人の顔だった」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 居場所を返して。

 

 あれは、ただの脅しではなかった。

 

 クロにとって、本当に奪われたものなのだ。

 

「ルビー」

 

 私は視線を向けた。

 

 ルビーが小さく揺れる。

 

「いつから知ってたの?」

 

「断片的に、です」

 

「断片的」

 

「確信したのは、アーチャーカードがイリヤさんに反応した時です」

 

「じゃあ、その時に言ってほしかった」

 

「……申し訳ありません」

 

 ルビーがちゃんと謝った。

 

 いつものようにふざけない。

 

 だから、余計に重かった。

 

「怒ってる」

 

「はい」

 

「でも、今は怒るより、知らなきゃいけないことがある」

 

「はい」

 

「あとで怒るかもしれない」

 

「……はい」

 

「覚悟しておいて」

 

「はい」

 

 ルビーは素直に頷いた。

 

 それが少しだけ珍しくて、でも今は笑えなかった。

 

「ママ」

 

 私は通信の向こうを見る。

 

「クロは敵なの?」

 

 ママはすぐには答えなかった。

 

 その迷いが、答えを難しくしている。

 

「今のあの子は、危険よ」

 

「うん」

 

「でも、ただの敵として扱っていい子ではないわ」

 

「それ、一番難しいやつ」

 

「ええ」

 

「倒せば終わり、じゃないんだよね」

 

「終わらないわ」

 

 やっぱり。

 

 そんな気はしていた。

 

 クロは倒せば終わる敵ではない。

 

 だって、あの子は私と無関係ではない。

 

 私の知らない、私の話なのだから。

 

 通信の光が少し揺れた。

 

 ママの表情が寂しそうになる。

 

「イリヤ、ごめんなさい」

 

 その言葉は、重かった。

 

 ずっと言えなかった言葉なのかもしれない。

 

 何度も言おうとして、言えなかった言葉なのかもしれない。

 

 でも、私はすぐに受け取れなかった。

 

「今は、そのごめんなさいを受け取る余裕ない」

 

 ママの顔が少しだけ痛そうに歪む。

 

 私は慌てて首を振った。

 

「でも、話してくれてありがとう」

 

「……ええ」

 

「まだ全部じゃないんだよね」

 

「そうね」

 

「そこは、ちょっと怒ってる」

 

「ええ」

 

「でも、今日はここまでじゃないと、私の頭が処理落ちする」

 

 ママが少しだけ、泣きそうに笑った。

 

「あなたらしいわ」

 

「私らしいのか分からなくなってるところに、それ言う?」

 

「ごめんなさい」

 

「謝罪二回目」

 

 少しだけ笑えた。

 

 本当に少しだけ。

 

 通信が切れる。

 

 部屋に静けさが戻った。

 

 情報量が多すぎる。

 

 私はその場に座り込んだ。

 

 床が冷たい。

 

 でも、その冷たさが今はありがたかった。

 

「情報量が多すぎる」

 

 ぽつりと言う。

 

 美遊が隣に座った。

 

「休む?」

 

「休みたい。でも、頭が休ませてくれない」

 

「なら、隣にいる」

 

「うん。今日はそれが助かる」

 

 美遊は黙って隣にいた。

 

 何も聞かない。

 

 何も急かさない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 それだけで、少し呼吸ができた。

 

 その夜。

 

 眠れそうになくて、私は庭に出た。

 

 風に当たりたかった。

 

 部屋にいると、考えがぐるぐる回り続ける。

 

 夜の庭は静かだった。

 

 月明かりが木の葉に落ちている。

 

 遠くで虫の声がした。

 

 こんなに静かなのに、私の中だけがうるさい。

 

 普通に生きてほしかった。

 

 封じられた側。

 

 クロ。

 

 居場所。

 

 返して。

 

 私は庭の真ん中で立ち止まった。

 

「聞いたんだ」

 

 声がした。

 

 見上げると、屋根の上にクロがいた。

 

 月明かりを背にして、こちらを見下ろしている。

 

 昨日と同じ顔。

 

 私と同じ顔。

 

 でも、やっぱり私ではない顔。

 

「クロ」

 

「少しは分かった?」

 

「少しだけ」

 

「少し、ね」

 

 クロは笑った。

 

「全部はまだ分からない」

 

「でしょうね」

 

「でも、何も知らなかった時よりは、少しだけ分かった」

 

 クロの目が細くなる。

 

 私は逃げなかった。

 

 怖い。

 

 でも、逃げなかった。

 

「じゃあ、次はちゃんと選んでね」

 

「選ぶ?」

 

「私を押し込めたまま、その居場所に座り続けるのか」

 

 クロの声が冷たくなる。

 

「それとも、返すのか」

 

 胸が痛む。

 

 でも、言わなければいけない。

 

「返せないものもある」

 

 クロの目が冷える。

 

「なら奪うだけ」

 

「でも」

 

 私は続けた。

 

「返せないからって、あなたを知らないふりはしない」

 

 クロは一瞬だけ黙った。

 

 それは、本当に一瞬だった。

 

 すぐに彼女は笑った。

 

「綺麗ごと」

 

「そうかもしれない」

 

「そういうの、一番嫌い」

 

「うん」

 

「……むかつく」

 

 クロは踵を返した。

 

 屋根の上から、夜の闇へ溶けるように消えていく。

 

 最後に、声だけが残った。

 

「次は、本気で取りに行くから」

 

 クロが消えたあとも、夜風は冷たかった。

 

 私は、私の居場所を返せない。

 

 返したくない。

 

 でも、返せないと言った瞬間に、あの子の痛みをなかったことにはしたくなかった。

 

 私の知らない、私の話。

 

 それはもう、知らないままではいられないところまで来ていた。

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