ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

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第15話 居場所は、返せない

 

 

 眠れなかった。

 

 ……というより、寝るのを諦めた。

 

 布団の中で何度も寝返りを打って、目を閉じて、また開けて。

 

 そのたびに、昨日の言葉が頭の中でぐるぐる回った。

 

 普通の女の子として生きてほしかった。

 

 封じられた側。

 

 クロ。

 

 居場所を返して。

 

 私は枕に顔を埋めた。

 

 息が詰まる。

 

 でも、顔を上げても楽にはならない。

 

 だって、どこを見ても私の部屋だから。

 

 私のベッド。

 

 私の机。

 

 私の制服。

 

 私の教科書。

 

 私の生活。

 

 その全部が、急に「本当に私のものなの?」と聞いてくるみたいだった。

 

 私は、居場所を返せない。

 

 お兄ちゃんも、セラも、リズも、学校も、美遊も。

 

 全部、大事だ。

 

 返してと言われて、はいどうぞなんて言えるわけがない。

 

 でも。

 

 返せないと思った瞬間、クロの痛みを切り捨てている気もした。

 

 あの子は怒っていた。

 

 でも、痛そうだった。

 

 大事なものを取られた人の顔だった。

 

「……無理」

 

 小さく呟いた。

 

 何が無理なのか、自分でもよく分からない。

 

 考えるのが無理。

 

 眠るのが無理。

 

 何も知らなかった昨日までの自分に戻るのが無理。

 

 全部、無理。

 

 枕元で、ルビーが静かに浮いていた。

 

 いつもなら、ここで何か言う。

 

 妙に明るい声で、余計なことを言う。

 

 でも、今日は何も言わない。

 

 それが余計に怖かった。

 

「ルビー」

 

「はい」

 

「今日、静かだね」

 

「いつもの調子で喋ったら、怒られそうなので」

 

「うん。たぶん怒る」

 

「正直ですね……」

 

「正直に生きる方針なので」

 

 ルビーが少しだけ揺れた。

 

 いつもの軽い揺れではない。

 

 迷っているような、小さな揺れだった。

 

「イリヤさん」

 

「何?」

 

「……クロさんのことを、どう思っていますか」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 どう思っている。

 

 怖い。

 

 怒ってる。

 

 分からない。

 

 かわいそう。

 

 全部ある。

 

 全部あって、どれも一つだけでは足りない。

 

「分かんない」

 

 私は正直に言った。

 

「怖いし、腹も立つし、でも……知らないふりはできない」

 

「はい」

 

「あと、居場所は返せない」

 

「……はい」

 

「それは、たぶん変わらない」

 

 言った瞬間、胸が少し痛んだ。

 

 クロを拒絶したみたいで。

 

 でも、それでも言わなきゃいけないことだった。

 

「返せない。返したくない。だって、ここは私の場所でもあるから」

 

 ルビーは何も言わなかった。

 

 私は布団から体を起こす。

 

 カーテンの隙間から、夜明け前の薄い光が差し込んでいた。

 

 まだ朝ではない。

 

 でも、夜でもない。

 

 中途半端な時間。

 

 今の私みたいだ。

 

 普通の女の子。

 

 魔法少女。

 

 転生者。

 

 アインツベルンの器。

 

 封じられた誰かを抱えているかもしれない存在。

 

 どれが私なのか。

 

 どこからどこまでが私なのか。

 

 考えれば考えるほど、足元が柔らかく崩れていく気がした。

 

 その日の昼過ぎ。

 

 ルビーが反応を拾った。

 

 学校でも、家でもない時間。

 

 空気が少し湿っていて、夕方になる前の街がぼんやりとしていた頃だった。

 

「イリヤさん」

 

 ルビーの声が硬い。

 

「クロさんの魔力反応です」

 

 胸が跳ねた。

 

「向こうから来た?」

 

「いえ。これは……誘導されています」

 

「誘導?」

 

「はい。こちらに気づかせるように、わざと反応を残しているようです」

 

 逃げても無駄。

 

 そう言われている気がした。

 

 美遊は、すぐに来た。

 

 連絡したわけではない。

 

 でも、来た。

 

 どうやって分かったのか聞こうとして、やめた。

 

 美遊だから。

 

 最近、その一言で納得しそうになる自分がいる。

 

「行くの?」

 

 美遊が聞いた。

 

 私はルビーを握る手に力を込める。

 

「行きたくない」

 

「なら」

 

「でも、行かないとたぶん向こうから来る」

 

 美遊は少しだけ黙った。

 

 そして、いつもの静かな声で言う。

 

「一緒に行く」

 

「うん。お願い」

 

 その返事は、思ったより素直に出た。

 

 一人で行くなんて選択肢は、最初からなかった。

 

 クロの反応は、川沿いにあった。

 

 人気の少ない河川敷。

 

 橋の下。

 

 夕方と夜の間みたいな色が、川の水面に揺れている。

 

 水は鏡とは違う。

 

 形をはっきり映さない。

 

 でも、だからこそ嫌だった。

 

 歪んだ私が、何人もそこにいるみたいに見える。

 

 水面に映った銀色の髪。

 

 赤い瞳。

 

 波で崩れて、別の顔みたいになる。

 

「……鏡じゃないのに、嫌な感じ」

 

「イリヤ?」

 

「ううん。大丈夫じゃないけど、今は立ってる」

 

 美遊は頷いた。

 

 橋の欄干の上に、クロが座っていた。

 

 足をぶらぶらさせて、こちらを見下ろしている。

 

 昨日と同じ顔。

 

 私と同じ顔。

 

 でも、どう見ても私ではない。

 

「来たんだ」

 

 クロが笑う。

 

「呼んだの、そっちでしょ」

 

「逃げるかと思った」

 

「逃げたいよ。普通に」

 

「正直ね」

 

「嘘ついて余裕ぶれるほど強くないから」

 

 クロは少しだけ面白そうに目を細めた。

 

 でも、その奥にある怒りは消えていない。

 

 私は一歩前に出た。

 

 怖い。

 

 正直、今すぐ帰りたい。

 

 でも、言わなければいけないことがある。

 

「ママから、少し聞いた」

 

「少し?」

 

「全部じゃない。でも、あなたがただの敵じゃないことは分かった」

 

「それで?」

 

 クロの声は冷たい。

 

 私は息を吸った。

 

「居場所は返せない」

 

 クロの目が、すっと冷えた。

 

 言葉が空気を凍らせる。

 

 でも、止まらなかった。

 

「返せない。返したくない。お兄ちゃんも、セラも、リズも、学校も、美遊も、私の大事なものだから」

 

「へえ」

 

「でも、あなたを知らないふりもしない」

 

 私はクロを見る。

 

 逃げずに、ちゃんと見る。

 

「話は聞く。何が痛かったのか、ちゃんと聞く」

 

 クロは一瞬黙った。

 

 それから、ゆっくり笑った。

 

「聞くだけ?」

 

「……」

 

「聞くだけで、何か返した気にならないで」

 

 胸が痛んだ。

 

 それは、正しい。

 

 聞くことは返すことじゃない。

 

 寄り添うことは、奪われたものを戻すことではない。

 

 でも、聞かないよりはましだと言いたかった。

 

 それがまた、勝手な言い分のようにも思えた。

 

「あなたはいいわよね」

 

 クロが欄干から降りる。

 

 足音もなく、河川敷の地面に立つ。

 

「何も知らずに、全部持ってた」

 

 一歩。

 

「家も」

 

 一歩。

 

「家族も」

 

 一歩。

 

「友達も」

 

 一歩。

 

「名前も」

 

 私は動けなかった。

 

 クロの言葉は、剣よりも鋭く胸に刺さる。

 

「それで、聞いてあげる?」

 

 クロが私の目の前で止まる。

 

「優しいのね、イリヤ」

 

「……そういう言い方、ずるい」

 

「ずるいのはどっち?」

 

 クロの瞳が、私を覗き込む。

 

 同じ顔。

 

 違う目。

 

 その目が、私の奥を見ている気がした。

 

「ねえ、あなた」

 

 クロの声が低くなる。

 

「本当に、最初からイリヤなの?」

 

 息が止まった。

 

 美遊がわずかに反応する。

 

 ルビーも、手の中で硬直したように静かになった。

 

「何、言って……」

 

「変なのよ、あなた」

 

 クロは首を傾ける。

 

「私から見ても、あなたの中は少し変」

 

 心臓が嫌な音を立てる。

 

「イリヤなのに、イリヤじゃないものが混ざってる」

 

 それを言われるのは、ずるい。

 

 私はイリヤだ。

 

 イリヤとして生きてきた。

 

 この家で起きて、この学校に通って、お兄ちゃんと話して、セラに怒られて、リズに見守られて、友達と笑って。

 

 私は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンだ。

 

 そう思っていた。

 

 でも。

 

 私には前世の記憶がある。

 

 ブラック企業で働いて、壊れて、死んだ男だった記憶がある。

 

 性別が違うことにも、今ではほとんど戸惑わない。

 

 この体で生きてきた時間があるから。

 

 この声で話してきた時間があるから。

 

 この手で誰かを掴んできた時間があるから。

 

 でも。

 

 じゃあ、私は本当に、最初から全部イリヤなの?

 

 クロの言葉を、すぐに否定できなかった。

 

 それが一番怖かった。

 

「ほら」

 

 クロが笑う。

 

「答えられない」

 

「……」

 

「あなたも、何かを借りているんじゃないの?」

 

 その言葉で、足元が崩れそうになった。

 

 借りている。

 

 イリヤという名前を。

 

 イリヤという体を。

 

 イリヤという居場所を。

 

 もし、そうなら。

 

 私はクロに何を言えるの。

 

 居場所は返せないなんて、どの口で言えるの。

 

「イリヤ」

 

 美遊の声がした。

 

 静かで、まっすぐな声。

 

 美遊が私の横に立つ。

 

 クロから私を隠すのではなく、私の隣に並ぶ。

 

「イリヤは、イリヤ」

 

 クロの目が細くなる。

 

「あなたに何が分かるの?」

 

「全部は分からない」

 

 美遊は即答した。

 

 その声には嘘がなかった。

 

「でも、今ここにいるイリヤは、私が知っているイリヤ」

 

 私は美遊を見る。

 

 美遊は私を見ていない。

 

 クロを見ている。

 

 でも、その言葉は私に向けられていた。

 

「名前を書く時に迷っても、怖い時に怖いと言っても、変な例えをしても」

 

「変な例えは今言わなくてもよくない!?」

 

「それもイリヤ」

 

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。

 

 涙が出そうになって、でも今は泣けなかった。

 

 クロが苛立ったように舌打ちする。

 

「本当に、そっち側なのね」

 

「私は、イリヤの隣にいる」

 

 美遊は静かに言った。

 

 それは宣言だった。

 

 重くて、まっすぐで、今の私には救いだった。

 

 美遊がちらりと私を見る。

 

「あとで話せるなら、聞く」

 

「……うん」

 

「待つ」

 

「うん」

 

 私は息を吸う。

 

 まだ足は震えている。

 

 クロの言葉は刺さったままだ。

 

 でも、完全には崩れなかった。

 

 美遊が隣にいるから。

 

 今ここにいる私を、知っていると言ってくれたから。

 

 クロが右手を開いた。

 

「じゃあ、奪うしかないわね」

 

 赤黒い魔力が集まる。

 

 双剣が現れる。

 

 それだけではない。

 

 空中に、いくつもの剣の影が並んだ。

 

 前回より多い。

 

 前回より鋭い。

 

 本気だ。

 

「来る!」

 

 ルビーの声。

 

 私は変身の光に包まれる。

 

 美遊もサファイアさんを構えた。

 

 クロが地面を蹴る。

 

 速い。

 

 昨日よりもずっと速い。

 

 双剣が左右から迫る。

 

 私は結界を張る。

 

 けれど、心がまだ揺れているせいか、反応が遅れた。

 

 結界の端を斬られる。

 

 衝撃が腕に響く。

 

「っ!」

 

「イリヤ!」

 

 美遊の射撃が割り込む。

 

 クロはそれを身をひねって避け、空中の剣を落とす。

 

 雨のように降ってくる投影剣。

 

 私は防御を広げようとして、また一瞬迷う。

 

 迷っている場合じゃないのに。

 

 私が本当にイリヤなのか。

 

 私の中に何が混ざっているのか。

 

 そんな考えが、戦闘中なのに頭から離れない。

 

「守るって、大変よね」

 

 クロの声がした。

 

 クロは私ではなく、美遊を見ていた。

 

「守ってるつもりで、相手の痛みを増やすこともある」

 

 美遊の動きが一瞬だけ鈍る。

 

 その言葉は、美遊にも刺さる。

 

 美遊の兄。

 

 美遊の過去。

 

 まだ詳しくは知らない。

 

 でも、クロはそこにも触れてくる。

 

「美遊!」

 

 私は叫んだ。

 

 美遊が戻る。

 

 剣を撃ち落とす。

 

 でも、クロはもう近い。

 

 双剣が美遊へ向かう。

 

 その瞬間、頭の中で何かが切れた。

 

「今、それどころじゃない!」

 

 私は前へ出た。

 

 クロがこちらを見る。

 

「何?」

 

「私が本当にイリヤかどうかとか、どこからどこまで私なのかとか、考えなきゃいけないことは山ほどあるけど!」

 

 言葉が勝手に出る。

 

 前世。

 

 そう言いかけて、飲み込む。

 

 まだ言えない。

 

 まだ、言葉にできない。

 

「でも今は、美遊が傷つく方が嫌!」

 

 美遊が少しだけ目を見開いた。

 

 私はルビーを構える。

 

「だから止まって!」

 

「止まるわけないでしょ」

 

 クロの双剣が結界にぶつかる。

 

 重い。

 

 アーチャーの影ほどではない。

 

 でも、違う怖さがある。

 

 クロは私を壊そうとしているのではない。

 

 私の中から、何かを奪い返そうとしている。

 

 クロの狙いは、胸元。

 

 何度も、そこへ手を伸ばしてくる。

 

 私は下がる。

 

 美遊が横から射撃で牽制する。

 

 でもクロは止まらない。

 

「そこにある」

 

 クロが言った。

 

「私のもの」

 

「だから、何なの!」

 

「私が生きるためのものよ!」

 

 その叫びは、初めて聞くクロの本音みたいだった。

 

 怒りではなく。

 

 煽りでもなく。

 

 切実な声。

 

 生きるため。

 

 その言葉で、胸の奥が熱くなる。

 

 そこに何かがある。

 

 クロが欲しがっているもの。

 

 私には分からないもの。

 

 でも、クロにとっては生きるために必要なもの。

 

 それを私は持っている。

 

 知らないまま。

 

 分からないまま。

 

「イリヤさん、危険です!」

 

 ルビーの声が鋭い。

 

「分かってる!」

 

「クロさんの魔力が、イリヤさんの内部に干渉しようとしています!」

 

「もっと分かりやすく!」

 

「引き剥がされます!」

 

「怖い言い方!」

 

 クロが笑う。

 

「怖い? 私はずっとそうだったわ」

 

 その言葉に、息が詰まる。

 

 ずっと。

 

 ずっと、そうだった。

 

 押し込められて。

 

 封じられて。

 

 居場所の外にいて。

 

 それでも、存在していた。

 

 クロは攻撃してくる。

 

 でも、そこにあるのはただの悪意じゃない。

 

 生きたいという叫びだった。

 

 だからこそ、余計にきつい。

 

 私は後退する。

 

 足元が滑る。

 

 川の水面が視界の端で揺れた。

 

 そこに映る私は、歪んでいた。

 

 私なのか、クロなのか、一瞬分からない。

 

「イリヤさん……」

 

 ルビーが迷うように声を出した。

 

「何?」

 

「アーチャーカードの残滓が、まだあなたの中にあります」

 

「今その不穏情報出す!?」

 

「使えば、一時的に対抗できる可能性があります」

 

「使うって、何を?」

 

 ルビーは一瞬だけ黙った。

 

 その沈黙が怖い。

 

「夢幻召喚の、前段階です」

 

 空気が冷えた。

 

 夢幻召喚。

 

 その言葉だけで、胸の奥に赤い荒野が広がる気がした。

 

 アーチャーの記憶。

 

 剣の丘。

 

 正義の味方。

 

 自分を燃料にして戦い続けた誰か。

 

 あれを使う。

 

 私の中に、また別のものを入れる。

 

 ただでさえ、私の中には前世の私がいる。

 

 クロがいるかもしれない。

 

 そこにまた、アーチャーの残響まで入れるの?

 

 私は、どこまで私でいられるの?

 

「危険です」

 

 ルビーが言う。

 

「なら言わないでよ!」

 

「でも、このままでは押し切られます」

 

 美遊がクロの攻撃を受け止める。

 

 青い防御が揺れる。

 

 美遊の足が少し下がる。

 

「美遊!」

 

「まだ」

 

 美遊は耐えている。

 

 でも、クロは止まらない。

 

 このままでは、美遊が傷つく。

 

 私のせいで。

 

 私が迷っているせいで。

 

 私はルビーを握り直した。

 

「完全には、使わない」

 

「イリヤさん」

 

「でも、止めるために必要なら、少しだけ借りる」

 

「危険です」

 

「知ってる」

 

「本当に、危険です」

 

「知ってる!」

 

 声が震えた。

 

 怖い。

 

 怖いに決まっている。

 

 自分の中に知らないものが増えるのは、怖い。

 

 でも、美遊が傷つくのはもっと嫌だった。

 

 クロをこのまま暴れさせるのも嫌だった。

 

 私はクロを睨む。

 

「私は、あなたの痛みをなかったことにはしない」

 

 クロが目を細める。

 

「でも、だからって美遊を傷つけさせない」

 

「綺麗ごと」

 

「そうかもね!」

 

 私は叫んだ。

 

「でも、今の私にはそれしか言えない!」

 

 ルビーが光る。

 

 いつもの桃色の光。

 

 けれど、その奥に赤が混ざった。

 

 胸の奥で、何かが動く。

 

 赤い外套の影。

 

 剣の丘。

 

 双剣を握る感覚。

 

 まだ空っぽの手に、重さだけが重なった。

 

 気持ち悪い。

 

 怖い。

 

 逃げたい。

 

 でも、私は逃げなかった。

 

 美遊が私を見る。

 

「イリヤ?」

 

「大丈夫じゃない」

 

 私は正直に言った。

 

「でも、止める」

 

 クロの表情が変わる。

 

 初めて、余裕が少し消えた。

 

「……あなた」

 

 私の手元に、赤い魔力が走る。

 

 形にはならない。

 

 まだ剣はない。

 

 服も変わらない。

 

 でも、指先が双剣の柄を知っている。

 

 知らないはずなのに。

 

 知っている。

 

 ルビーの光が、さらに赤く滲んだ。

 

 胸の奥で、赤い外套の影が静かに目を開ける。

 

 双剣を握る感覚が、まだ空っぽの手に重なった。

 

 怖い。

 

 気持ち悪い。

 

 逃げたい。

 

 でも、美遊が傷つくのはもっと嫌だった。

 

 だから私は、震える手でルビーを握り直す。

 

「止めるよ、クロ」

 

 私の声に、ほんの少しだけ、知らない誰かの響きが混ざった。

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