ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
ルビーの光が、赤く滲んだ。
いつもの桃色ではない。
柔らかくて、きらきらしていて、どこか胡散臭いくらい明るい魔法少女の光ではない。
もっと硬くて。
もっと熱くて。
剣を熱した時のような、赤。
私の手元に、その魔力が絡みついていた。
「……なに、これ」
自分の声が震えている。
怖い。
気持ち悪い。
なのに、指先だけが妙に冷静だった。
知らない。
こんな握り方、私は知らない。
剣なんて、まともに握ったことはない。
前世だって、握っていたのは剣じゃなくてマウスと栄養ドリンクと、終わらない業務のチェックリストだった。
なのに。
指が知っている。
手首が知っている。
肩の動かし方まで、勝手に分かる。
どう構えれば折れないか。
どう受ければ流せるか。
どう踏み込めば届くか。
頭では知らないことを、体が知っていた。
便利だ。
ものすごく便利だ。
でも、便利なのに、気持ち悪い。
「……あなた、それ」
クロの声から、初めて余裕が少し消えた。
私と同じ顔。
でも、私じゃない顔。
その目が、赤く滲む私の手元を見ている。
「私にもよく分かってない!」
「分からないまま使う気?」
「分からないまま襲ってきた人に言われたくないんだけど!」
叫び返す。
声に力を入れないと、足がすくみそうだった。
ルビーが私の手の中で震える。
「イリヤさん、これは正式な夢幻召喚ではありません」
「正式じゃないの!?」
「アーチャーカードの残滓と、イリヤさんの内部反応が無理やり噛み合っている状態です」
「つまり!?」
「雑に言えば、説明書なしで危険な機械を起動しています」
「最悪!」
思わず叫んだ。
何その現場猫案件。
ヨシじゃない。
全然ヨシじゃない。
「中止を推奨します」
サファイアさんが冷静に言った。
美遊が私を見る。
「止める?」
止めたい。
ものすごく止めたい。
できるなら今すぐ家に帰って、布団に潜って、明日の自分に全部丸投げしたい。
でも、目の前のクロは双剣を握ったまま、こちらを見ている。
あの目は止まらない。
あの子は、止まってくれない。
「止めたいけど、止めたらクロも止まってくれないよね」
クロが笑った。
「当然」
「正直で嫌!」
クロの足元から赤黒い魔力が広がる。
空中に剣が生まれた。
一本。
二本。
三本。
前より多い。
前より鋭い。
前より、怒っている。
「それも私のものよ」
「また所有権の話!?」
「あなたが使うな」
クロが踏み込んだ。
速い。
美遊が前に出る。
いや、違う。
私の横から、守れる位置へ滑るように動く。
「イリヤに触らせない」
「あなた、本当に邪魔」
「邪魔でいい」
美遊の声は静かだった。
でも、その静けさが頼もしかった。
サファイアさんの光が美遊を包む。
青い魔力弾が放たれ、クロの剣を弾く。
クロはそれを読んでいたように体をひねり、地面すれすれを走った。
狙いは私。
正確には、私の胸の奥にある何か。
「そこ、どいて!」
私は叫びながら手を伸ばした。
美遊へ迫るクロの双剣。
このままでは間に合わない。
そう思った瞬間、赤い魔力が形を取った。
私の右手に、短い剣が現れる。
いや、剣のようなもの。
輪郭は崩れていて、刃は不安定で、今にもほどけそうだった。
それでも。
クロの剣を受け止めた。
甲高い音が、河川敷に響く。
「え、出た!?」
「出ました!」
「出ましたじゃない!」
手の中に重さがある。
知らない重さ。
なのに、なぜかしっくりくる重さ。
クロが目を見開いた。
「どうして、あなたが」
「こっちが聞きたい!」
クロの剣を押し返そうとした瞬間、体が勝手に動いた。
押し返すんじゃない。
流す。
相手の力を殺さずに横へ逃がす。
足を半歩ずらす。
肩の力を抜く。
視線は剣先ではなく、相手の重心。
分かる。
分かってしまう。
クロの次の動きが、前より見える。
怖い。
強くなっている。
だから怖い。
自分じゃない動きで助かっていることが、怖い。
「イリヤ、動きが違う」
美遊の声。
「私も違うと思ってる!」
クロが双剣を振るう。
私は未完成の剣で受け、結界を薄く重ねて角度をずらす。
今までなら、受け止めるだけで精一杯だった。
でも今は、受け流せる。
反撃の角度まで浮かぶ。
そこを狙えばいい。
そう体が言っている。
違う。
私はそんなこと知らない。
知らないはずなのに。
知っている。
その瞬間、視界が揺れた。
剣の丘。
赤い外套。
焼けた空。
誰かを救えなかった手。
何度も何度も伸ばして、それでも届かなかった手。
その景色に、別のものが混ざる。
深夜のオフィス。
青白い蛍光灯。
未読メールの数字。
机の上の栄養ドリンク。
終電を逃したスマホの画面。
上司の通知音。
剣の丘。
会議室。
赤い外套。
くたびれたスーツ。
助けを求める声。
チャットの着信音。
混ざる。
混ざっていく。
これは誰の記憶?
これは誰の痛み?
私は誰?
「ほら」
クロの声がした。
「あなた、もうぐちゃぐちゃじゃない」
「うるさい……!」
「イリヤの中に、知らないものがいっぱいある」
クロの剣が私の未完成の刃を叩く。
赤い火花が散った。
「それなのに、私だけ追い出された」
その言葉が刺さった。
否定できなかった。
私の中には、前世の私がいる。
アーチャーの残響が流れ込んでいる。
クロの求める何かも、あるのかもしれない。
なのに、クロだけが外にいる。
クロだけが、返してと叫んでいる。
「ずるい」
クロの声が震えた。
「あなたばっかり」
未完成の剣が、私の手の中で軋む。
赤い魔力が暴れる。
視界がまた揺れる。
私は立っているはずなのに、足元が剣の丘になっていく。
違う。
ここは河川敷。
美遊がいる。
ルビーがいる。
クロがいる。
でも、赤い荒野が近い。
近すぎる。
「イリヤ」
美遊の声が聞こえた。
遠い。
返事ができない。
「イリヤ」
もう一度。
今度は少し近い。
「今ここにいるイリヤ」
その言葉が、赤い荒野にひびを入れた。
「私が知っているイリヤ」
息が戻る。
剣の丘が薄れる。
目の前に、美遊がいた。
青い瞳が、まっすぐ私を見ている。
「……美遊」
「戻った?」
「半分くらい」
「なら、残りも戻す」
「美遊さん、頼もしい……」
本当に頼もしい。
いつの間に、こんなに支えられているんだろう。
私は息を吸った。
手の中の未完成の剣を見る。
これは私じゃない。
でも、今の私が使っている力だ。
飲まれるのは違う。
明け渡すのも違う。
でも、怖いから何もしないのも違う。
借りる。
必要な分だけ借りる。
そして、返す。
私を手放さない。
「ルビー」
「はい」
「完全に混ぜないで」
「はい?」
「必要な分だけ、通して」
「そんな繊細な調整、初回で要求します!?」
「ブラック現場なら初日から無茶振りされる!」
「比較対象が悪い!」
「でもやるしかないでしょ!」
サファイアさんが静かに言った。
「方針としては妥当です」
「サファイアちゃん!?」
ルビーが悲鳴のような声を上げる。
でも、次の瞬間、ルビーの光が少しだけ整った。
荒れた赤が、細い線になって私の腕を走る。
右手の剣が安定する。
左手にも、もう一本。
未完成の双剣。
完全な形ではない。
刃先は少し揺らぎ、輪郭も曖昧。
でも、さっきよりはずっと握れる。
服装は大きく変わらない。
けれど、袖口やリボンの端に赤黒い魔力の線が走った。
目の奥に、赤い荒野が一瞬だけ映る。
「一時的な限定接続です!」
ルビーが叫ぶ。
「長くは持ちません!」
「制限時間つき変身とか、魔法少女っぽくなってきた!」
「いつも魔法少女です!」
「そうだった!」
叫び返した瞬間、クロが動いた。
双剣同士がぶつかる。
火花が散る。
さっきより、見える。
クロの踏み込み。
肩の揺れ。
剣の角度。
全部が完全に分かるわけじゃない。
でも、対応できる。
私はクロの剣を受け流し、左手の剣で牽制する。
クロが後ろへ跳ぶ。
空中に投影剣を展開。
美遊がそれを撃ち落とす。
「イリヤ、右」
「ありがとう!」
美遊の声に合わせて体を動かす。
右から来る剣を弾く。
足元を狙う一撃を避ける。
クロの表情が険しくなった。
「その力で、私を止めるつもり?」
「うん」
「私のものを使って?」
「あなたのものかどうかも、まだ分からない!」
「分からないなら使わないで!」
「分からないから、止めて聞くの!」
剣がぶつかる。
言葉もぶつかる。
どちらも譲らない。
クロの怒りは分かる。
分かってしまう。
でも、だからって黙って奪われることはできない。
クロの剣が私の頬をかすめた。
痛みが走る。
美遊が息を呑む。
「イリヤ」
「平気!」
言ってから、少しだけ考える。
「いや、平気じゃないけど動ける!」
「分かった」
美遊が頷く。
最近の私たちは、少しずつ言葉の精度が上がっている気がする。
クロが笑った。
「余裕あるのね」
「ないよ!」
「じゃあ、なんでそんなふうに立ってるの」
クロの声が低くなる。
「私は、ただそこにいたかっただけなのに」
剣が止まった。
ほんの一瞬。
「名前を呼ばれたかった」
クロの顔から、怒りの表情が薄れる。
残ったのは、痛みだった。
「おかえりって言われたかった」
胸が締めつけられる。
その言葉は、反則だった。
だって、分かってしまう。
帰る場所がほしい。
名前を呼ばれたい。
ただ、そこにいていいと言われたい。
それは、きっと当たり前の願いだ。
「じゃあ、そう言ってよ!」
私は叫んだ。
クロが笑う。
泣きそうな笑い方だった。
「言って、くれるの?」
「何を?」
「私にも、おかえりって」
言葉が詰まった。
言いたい。
言ってあげたい。
でも、言えない。
簡単に言っていい言葉じゃない気がした。
おかえり。
それは、居場所を認める言葉だ。
家に入れる言葉だ。
私が今、クロにそれを言うには、まだ知らないことが多すぎる。
怖い。
私自身の居場所も揺れているのに、クロに居場所を渡すような言葉を言うのが怖い。
その沈黙を、クロは見逃さなかった。
「ほらね」
短い言葉。
でも、刃より痛かった。
次の瞬間、クロの魔力が跳ね上がる。
空中に無数の剣が展開された。
河川敷の空気が赤黒く染まる。
「接続が不安定です!」
ルビーが叫ぶ。
「イリヤ、不完全Installが軋んでいます!」
「言い方が怖い!」
美遊が私の横に来る。
「下がる?」
「下がりたいけど、今下がったらクロがもっと壊れる!」
クロの魔力は荒れていた。
剣が増えるたびに、クロ自身の輪郭も少し揺れている。
怒りに任せて力を出している。
このままぶつかれば、私たちだけじゃない。
クロも危ない。
「止める」
私は双剣を握り直した。
「攻撃じゃなくて、止める」
「分かった」
美遊が頷く。
サファイアさんの光が美遊を包む。
私は前へ出た。
剣の雨が降る。
未完成の双剣で弾く。
全部は弾けない。
結界も重ねる。
腕が痛い。
頭が熱い。
赤い荒野がまた近づく。
でも、美遊の声が隣にある。
今ここ。
河川敷。
クロ。
美遊。
私。
「クロ!」
「何よ!」
クロが叫ぶ。
私は剣を受けながら、さらに前へ出た。
「まだ言えない!」
クロの動きが一瞬止まる。
「おかえりって、今すぐ言えるほど、私はできた人間じゃない!」
声が震える。
情けない。
でも、本当だ。
「でも、聞かなかったことにはしない!」
クロの目が揺れる。
「あなたがそこにいたかったことも、名前を呼ばれたかったことも、聞いた!」
美遊の青い拘束が、クロの足元に絡む。
ほんの一瞬。
その一瞬で十分だった。
私は双剣を交差させ、クロの剣を弾いた。
赤黒い魔力が散る。
クロが後ろへ跳ぶ。
拘束を引きちぎり、距離を取る。
完全には止められなかった。
でも、暴走は途切れた。
クロは肩で息をしていた。
私も同じくらい息が荒い。
不完全な双剣が、手の中で薄れていく。
「……ほんと、むかつく」
「それは昨日も聞いた!」
「何回でも言うわよ。むかつくものはむかつくの」
クロは私を睨む。
でも、その目にさっきまでの荒れた怒りだけはなかった。
もっと複雑なもの。
悔しさ。
痛み。
期待しそうになった自分への怒り。
そんなものが混ざっていた。
「次は、ちゃんと言わせるから」
「何を?」
クロは塀の方へ跳ぶ。
振り返らずに言った。
「決まってるでしょ」
その声が、少しだけ震えた気がした。
「おかえり、って」
クロの姿が消えた。
赤黒い魔力も、河川敷の空気から薄れていく。
私の手の中の双剣が完全にほどけた。
同時に、膝から力が抜ける。
「わっ」
倒れかけたところを、美遊が支えてくれた。
「イリヤ」
「戻ってる?」
自分で聞くのが怖かった。
美遊は私の顔をじっと見た。
「うん。私が知っているイリヤ」
その言葉に、胸がほどけた。
「その言葉、今日めちゃくちゃ効く……」
「なら、何度でも言う」
「それはちょっと照れる」
少しだけ笑えた。
体は重い。
頭も痛い。
心はもっとぐちゃぐちゃだ。
でも、笑えた。
それだけで、まだ戻ってこられている気がした。
河川敷に、夜の風が吹いた。
ルビーは静かだった。
美遊も、すぐには何も聞かなかった。
でも、しばらくしてから、ぽつりと言った。
「さっき」
「うん」
「前世って、言いかけた」
心臓が跳ねた。
私は美遊を見る。
美遊は責めるような目をしていなかった。
ただ、聞いていた。
いつものように。
待っている目だった。
「聞こえてた?」
「うん」
「……そっか」
逃げようと思えば、逃げられた。
聞き間違いだよ、と言えた。
でも、美遊にそれを言いたくなかった。
さっき、美遊は私に言ってくれた。
今ここにいるイリヤは、私が知っているイリヤだと。
なら、私も少しだけ、本当のことを言いたかった。
「私ね」
声が小さくなる。
「イリヤじゃなかった時の記憶がある」
美遊は黙っていた。
私は続ける。
「それが、今の私を作ってる」
言葉にすると、怖かった。
でも、少し楽にもなった。
「だからクロに言われたこと、ちょっと刺さった」
「本当に最初からイリヤなのか」
「うん」
私は手を見る。
さっきまで双剣を握っていた手。
今は何も持っていない手。
「私、自分でも分からなくなる時がある。どこまでがイリヤで、どこからが前の私なのか。さっきみたいにアーチャーの力まで混ざると、余計に」
美遊は静かに聞いていた。
否定しない。
驚きすぎもしない。
ただ、受け止めようとしてくれている。
「それでも」
美遊が言った。
「今ここにいるイリヤは、イリヤ」
私は顔を上げる。
「……うん」
その言葉を、私はすぐには信じきれなかった。
でも、美遊がそう言ってくれたことだけは、信じたいと思った。
私はイリヤ。
そう言い切るには、まだ少し怖い。
それでも、隣にいる美遊の声は、赤い荒野よりもずっと近かった。