ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
クロは消えた。
赤黒い魔力も、投影された剣も、河川敷の空気に溶けるように薄れていった。
残ったのは、夜風と水の音だけ。
川面が、街灯の光をゆらゆらと揺らしている。
さっきまでそこにあった戦いが嘘みたいに、静かだった。
「……帰り道で倒れるタイプの疲れ方してる」
私はその場に座り込んだまま、ぽつりと呟いた。
体が重い。
腕も痛い。
頭の奥もずきずきする。
でも、たぶん一番疲れているのは心だった。
不完全な夢幻召喚。
アーチャーの残響。
クロの怒り。
私自身の前世。
全部が一度に押し寄せてきて、今の私は正直、処理落ち寸前だった。
「歩ける?」
美遊が隣で聞いた。
「歩けるけど、心が歩きたくないって言ってる」
「なら、少し休む」
「うん。賛成」
美遊は頷くと、私の腕をそっと支えてくれた。
その手は相変わらず少し冷たい。
でも、今はその冷たさがありがたかった。
赤い荒野より、ずっと現実に近い。
私たちは河川敷から少し歩いて、近くの小さな公園に入った。
遊具は夜の中で静かに沈んでいる。
ブランコも、滑り台も、昼間とは違う顔をしていた。
街灯の下にベンチが一つ。
その近くには自販機がある。
私はベンチに腰を下ろした。
座った瞬間、全身から力が抜ける。
「はあ……」
「待ってて」
美遊が自販機の方へ歩いていく。
「え、美遊?」
「温かいもの」
短くそう言って、美遊は自販機の前に立った。
小銭を入れる音。
ボタンを押す音。
がこん、と缶が落ちる音。
戻ってきた美遊が、私に缶を差し出した。
「はい」
「ありがとう。……これ、おしるこ?」
「温かい」
「たしかに温かいけど、選択が渋い」
「嫌?」
「嫌じゃない。むしろ今は染みる気がする」
私は缶を両手で包んだ。
じんわり温かい。
手のひらから、少しずつ体に熱が戻ってくる。
美遊は隣に座った。
距離は近い。
でも、いつもの「近い!」とツッコむ感じではなかった。
今は、このくらいがちょうどいい。
私は缶のおしるこを一口飲んだ。
甘い。
ものすごく甘い。
疲れた体に、遠慮なく糖分がしみ込んでくる。
「……おしるこ、強い」
「強い?」
「うん。今の私に必要な強さ」
「よかった」
美遊は少しだけ安心したように見えた。
私たちはしばらく黙っていた。
夜風が吹く。
遠くで車の音がする。
川の水音が、まだ耳に残っている。
不思議だった。
さっきまで命がけで戦っていたのに、今はベンチでおしるこを飲んでいる。
魔法少女業務、落差が激しすぎる。
労働環境としては、やはり改善が必要だと思う。
「さっきの話だけど」
私は缶を見つめたまま言った。
美遊は何も言わず、こちらを見た。
「イリヤじゃなかった時の記憶」
「うん」
美遊の声は静かだった。
急かさない。
責めない。
ただ、聞く準備だけをしている声。
それがありがたくて、少しだけ怖かった。
「全部話すと、たぶんすごく長くなるし、私もまだうまく整理できてないんだけど」
「うん」
「私には、前世の記憶がある」
言葉にすると、思ったより胸が苦しくなった。
ずっと自分の中にあったもの。
当たり前みたいに抱えてきたもの。
でも、誰かに話すのは初めてだった。
「前は……大人だった。男の人で、仕事をしてて」
私は少しだけ笑った。
「まあ、仕事って言っても、今思うとかなりひどい環境だったんだけどね。朝から夜まで働いて、夜から朝まで働いて、休みの日も連絡が来て、気づいたら何のために生きてるのか分からなくなってた」
美遊は黙って聞いている。
その沈黙が、優しかった。
「自分がやれば早いって思ってた。私が我慢すればいいって。私が倒れるまでは、まだ大丈夫って」
大丈夫。
その言葉を口にした瞬間、少しだけ喉が詰まった。
「でも、全然大丈夫じゃなかった」
缶のおしるこを握る手に力が入る。
「たぶん、過労で死んだんだと思う。気づいたら、イリヤだった」
美遊の目が、ほんの少しだけ揺れた。
でも、驚きすぎたりはしなかった。
ただ、ちゃんと聞いていた。
「最初は、怖かったよ。体も違うし、年齢も違うし、性別も違うし、家族もいて、名前も違って」
私は自分の胸に手を当てた。
「でも、今はこの体で生きてきた時間がある。この名前で呼ばれてきた時間がある。お兄ちゃんに妹として見られて、セラに叱られて、リズに甘やかされて、学校に行って、友達ができて」
隣の美遊を見る。
「美遊にも会った」
美遊は静かにこちらを見ていた。
「だから私は、イリヤだって思ってる」
そこで、言葉が止まった。
思っている。
でも。
「でも、私の中にはイリヤじゃなかった時間もある」
クロの声が、頭の中で蘇る。
本当に、最初からイリヤなの?
変なのよ、あなた。
イリヤなのに、イリヤじゃないものが混ざってる。
「だから、クロに言われたこと、ちょっと刺さった」
「本当に最初からイリヤなのか」
「うん」
私は小さく頷いた。
「すぐに怒れなかった。違うって、即答できなかった。だって、私自身も分からないから」
夜の公園は静かだった。
その静けさが、今は怖くない。
美遊が隣にいるからだと思う。
「私は、前のイリヤを知らない」
美遊が言った。
「うん」
「イリヤじゃなかった時のイリヤも知らない」
「うん」
「でも、今のイリヤは知っている」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
美遊は指を一つずつ折るように、静かに続けた。
「怖がり」
「う」
「変な例えをする」
「そこは今言う?」
「痛い時に、痛いと言おうとする」
「……うん」
「私が前に出すぎると止める」
「それは止めるよ」
「帰ると言ったら、帰ろうとする」
美遊はまっすぐ私を見た。
「それが、私の知っているイリヤ」
目の奥が熱くなる。
泣きそうになった。
でも、泣いたら止まらなくなりそうで、私はおしるこの缶を見つめた。
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
「そっか……ありがとう」
「うん」
美遊の言葉は少ない。
でも、今日の私には、それくらいがちょうどよかった。
たくさん説明されるより、短い言葉が胸に残る。
今ここにいる私を見てくれる言葉。
それだけで、少しだけ足元が固くなった気がした。
「美遊も」
私は言った。
「うん?」
「話せることがあるなら、聞く。でも、無理には聞かない」
美遊は少しだけ目を伏せた。
その横顔に、街灯の光が落ちている。
「私にも、兄がいる」
「うん」
「大事な人」
「うん」
「たぶん、私のために、たくさんのものを捨てた人」
私は何も言わなかった。
ここで軽く返すのは違うと思った。
美遊は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「クロの“おかえり”が、少し分かる」
「美遊も?」
「帰る場所があることは、簡単じゃない」
その言葉は、とても静かだった。
でも、重かった。
「兄は、私に帰る場所をくれた」
美遊の手が、膝の上で少しだけ握られる。
「でも、私はそこに帰れていない」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
美遊が今話せるのは、きっとここまでだ。
でも、そこまで話してくれたことが嬉しかった。
「話してくれてありがとう」
「少しだけ」
「うん。少しずつでいい」
美遊が小さく頷く。
「少しずつ」
前に私が言った言葉を、美遊はちゃんと覚えていた。
そして今、私に返してくれている。
不思議だ。
言葉は、ちゃんと戻ってくる。
クロが求めた「おかえり」も、そういう言葉なのかもしれない。
「クロは、居場所を返してほしいって言ってた」
私は缶を両手で包み直した。
「でも、本当は“おかえり”って言われたかった」
「同じかもしれない」
「同じ?」
「居場所は、言葉でもできる」
私は顔を上げた。
居場所は、言葉でもできる。
その考えは、すとんと胸に落ちた。
家や部屋やベッドだけじゃない。
名前を呼ぶこと。
いていいと言うこと。
帰ってきていいと言うこと。
それも、居場所になる。
クロは、それがほしかったのかもしれない。
でも。
「まだ、言えない」
私は正直に言った。
「おかえりって言ったら、全部受け入れるみたいで怖い。クロのことも、私のことも、何が何だか分からないまま、言葉だけ先に出すのは……怖い」
「怖いなら、怖いと言っていい」
美遊が言った。
私は少し笑った。
「それ、私が言ったやつ」
「使い方、合っている?」
「合ってる。すごく」
美遊はほんの少しだけ誇らしそうにした。
たぶん。
美遊の表情は小さいから、たぶんだけど。
「イリヤさん」
ルビーが控えめに声を出した。
あまりにも控えめだったので、少しだけびっくりする。
「な、何?」
「不完全Installについてですが」
「今その話くる?」
「今しか言えなさそうなので」
「正論だけど、タイミングが重い」
ルビーは珍しくふざけなかった。
私の手の中で小さく光る。
「先ほどのものは、正式な夢幻召喚ではありません。アーチャーカードの残滓を、イリヤさんの内部反応に合わせて一時的に通した状態です」
「うん。言葉だけでもう怖い」
「長く使えば、アーチャーの記録に引っ張られる危険があります」
「それは分かる。さっき、だいぶ混ざった」
「さらに、イリヤさん内部の封印、そしてクロさん側との共鳴も強まる可能性があります」
「危険要素が渋滞してる」
「はい」
「否定して」
「できません」
「つらい」
私はベンチの背にもたれた。
空を見る。
夜空は普通に綺麗だった。
こんなに厄介な話をしているのに、星は平然と光っている。
世界、メンタルが強い。
「ただ」
ルビーが続ける。
「制御できれば、クロさんを傷つけずに止める手段になるかもしれません」
私は黙った。
夢幻召喚は怖い。
不完全Installはもっと怖い。
自分が自分でなくなるような感覚。
アーチャーの記憶。
前世の記憶。
クロの存在。
全部が混ざって、私は一瞬、自分が誰なのか分からなくなった。
でも。
クロを傷つけずに止める手段。
その言葉は、無視できなかった。
「……練習とか、できるの?」
「本来であれば、慎重な調整と安全な環境が必要です」
「本来であれば」
「はい」
「つまり、今回もだいぶ本来じゃなかった」
「かなり」
「やっぱり魔法少女業務、研修制度が終わってる」
「否定は難しいですねぇ」
「そこは否定してほしかった」
少しだけ空気が緩む。
でも、問題は残ったままだ。
私は、自分が自分であるまま力を借りる方法を探さなきゃいけない。
クロを止めるために。
クロを傷つけないために。
そして、私自身が壊れないために。
「それと」
ルビーの声が少しだけ改まる。
「アイリスフィール様が、こちらへ戻る準備をされています」
「ママが?」
「はい。クロさんの件は、通信だけでは限界があります」
胸の奥がきゅっとなる。
ママに会いたい。
それは本当だ。
でも、怖い。
会ったら、たぶん怒る。
泣くかもしれない。
何を聞けばいいのかも、まだ全部は分からない。
「会いたいけど、会ったら怒りそう」
ぽつりと言うと、美遊が短く答えた。
「怒っていい」
「いいの?」
「痛いなら、痛いと言っていい」
「美遊さん、今日めちゃくちゃ刺してくる」
「刺してない」
「言葉が刺さってる。良い意味で」
「良いなら、よかった」
本当に。
良い意味で、刺さっている。
私は怒っていい。
痛いと言っていい。
怖いと言っていい。
それを、少しずつ覚えている。
前世ではできなかったことを、今の私は覚え直している。
おしるこを飲み終えた頃には、少しだけ歩けそうになっていた。
缶をゴミ箱に捨てて、私たちは公園を出る。
夜道を、美遊と並んで歩いた。
ルビーは今日は珍しく静かにしている。
サファイアさんも、そっと美遊のそばにいる。
「美遊に話してよかった」
私は言った。
「私も、少し話せた」
「うん」
美遊は前を向いたまま、静かに言った。
「秘密は、全部話せばいいわけじゃない」
「そうだね」
「でも、一人で持つと重い」
「うん。重い」
「分けると、少し歩ける」
その言葉に、私は足を止めそうになった。
でも、止めずに歩いた。
少しだけ、歩けた。
「美遊、たまにすごく良いこと言うよね」
「たまに?」
「あ、いや、いつも。いつもです」
「そう」
「今のはちょっと圧があった」
「圧?」
「ううん、何でもない」
美遊の言葉は少ない。
でも、今日の私には、それくらいがちょうどよかった。
全部を説明しなくてもいい。
全部を分かってもらえなくてもいい。
でも、少しだけ分ける。
それだけで、歩けることがある。
私はまだ、自分が何者なのか全部は分からない。
美遊が知っている私。
クロが返せと言った私。
前世の記憶を持つ私。
アーチャーの力に触れた私。
その全部を、切り捨てずに考えたいと思った。
その頃。
冬木のどこかの屋根の上で、クロは一人座っていた。
夜風が、黒い髪を揺らす。
膝を抱えて、街を見下ろす。
どの家にも灯りがある。
どこかには夕食の匂いがあり、どこかには家族の声がある。
その全部が、少しだけ遠い。
「……ほんと、むかつく」
クロは小さく呟いた。
思い出すのは、河川敷でのイリヤの声。
まだ言えない。
でも、聞かなかったことにはしない。
何よ、それ。
言うなら言えばいい。
言えないなら、言えないまま黙っていればいい。
中途半端に手を伸ばさないでほしい。
そう思う。
そう思うのに。
その声が、耳に残って離れない。
「おかえりって、そんなに難しい?」
誰に聞くわけでもなく、クロは呟いた。
返してほしい。
奪い返したい。
そう思っているはずなのに。
本当は、たった一言でよかったのかもしれないと思ってしまう自分が、何より腹立たしかった。
夜風が吹く。
クロは膝を抱える腕に、少しだけ力を込めた。
「……ほんと、むかつく」
誰もいない屋根の上で、クロは小さく膝を抱えた。