ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

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第18話 おかえりは、まだ言えない

 

 

 落ち着かない。

 

 ものすごく、落ち着かない。

 

 部屋の中を歩き回って、椅子に座って、すぐ立って、また窓の外を見て、意味もなくランドセルの横に置いた教科書を揃え直す。

 

 何をしているんだろう、私は。

 

 自分でも分からない。

 

 ただ、じっとしていられなかった。

 

「イリヤさん、歩数がすごいことになっていますよ」

 

 机の上から、ルビーが言った。

 

「今、感情が渋滞してる」

 

「交通整理します?」

 

「ルビーに任せたら事故が増えそう」

 

「信頼が薄い!」

 

「過去の実績」

 

「ぐうの音も出ません!」

 

 いつものやり取り。

 

 なのに、今日は少しだけ音が遠い。

 

 ママが帰ってくる。

 

 ルビーからそう聞かされてから、胸の中がずっと忙しかった。

 

 会いたい。

 

 怒りたい。

 

 泣きたい。

 

 抱きつきたい。

 

 どうして言ってくれなかったの、と聞きたい。

 

 でも、私のためだったんだよね、と言ってしまいそうでもある。

 

 全部が一度に押し寄せてきて、感情の置き場所がない。

 

 前世の会社なら、こういう時はタスク管理表に書き出した。

 

 でも、母親への怒りと安心と寂しさと愛情を、表計算で整理できるわけがない。

 

 人間の心は、セル結合しすぎである。

 

「イリヤ様」

 

 部屋の扉が開いて、セラが顔を出した。

 

「アイリスフィール様の到着予定時刻が近づいております」

 

「うん」

 

「……お茶の準備はできております」

 

「それ、三回目じゃない?」

 

 セラの表情がわずかに動く。

 

 廊下の向こうからリズがひょこっと顔を出した。

 

「通常より、紅茶の準備が三回多い」

 

「リズ!」

 

「セラも緊張」

 

「していません」

 

「してる」

 

 リズが淡々と言う。

 

 セラは何か言い返そうとして、結局口を閉じた。

 

 その様子を見て、少しだけ胸の重さが和らぐ。

 

 セラもリズも、いつも通りに見えて、いつも通りじゃない。

 

 それはたぶん、私だけじゃない。

 

「セラも、知ってたんだよね」

 

 私が言うと、セラの表情が静かに沈んだ。

 

「……はい」

 

「リズも」

 

「少し」

 

 リズが答える。

 

 私は頷いた。

 

「怒ってる」

 

「はい」

 

 セラは逃げなかった。

 

 まっすぐに私を見ていた。

 

「でも、セラが私を大事にしてくれてたのも分かってる」

 

「イリヤ様……」

 

「だから、余計に難しい」

 

 怒っている。

 

 でも嫌いになったわけじゃない。

 

 信じていたから、隠されていたことが痛い。

 

 大事にされていたから、その大事の裏にいたクロが痛い。

 

 感情って、どうして一つずつ来てくれないんだろう。

 

 ちゃんと順番待ちしてほしい。

 

 窓の外が、ふっと白く光った。

 

 庭だ。

 

 魔術の光。

 

 胸が跳ねた。

 

「来た」

 

 ルビーが小さく言う。

 

 私は部屋を飛び出した。

 

 廊下を走る。

 

 セラが「イリヤ様、廊下を走っては」と言いかけて、途中で止めた。

 

 今だけは、見逃してくれたらしい。

 

 階段を下り、庭へ出る。

 

 夕方の空気が肌に触れた。

 

 庭の中央に、白い魔術陣が広がっている。

 

 光の粒が舞い上がり、その中心に人影が形を取っていく。

 

 白い髪。

 

 白い服。

 

 柔らかい雰囲気。

 

 ずっと会いたかった人。

 

 でも、今は会うのが少し怖かった人。

 

 アイリスフィール・フォン・アインツベルン。

 

 ママが、そこに立っていた。

 

「ただいま、イリヤ」

 

 その一言で、喉が詰まった。

 

 ただいま。

 

 帰ってきた人が言う言葉。

 

 そして、帰ってきた人を迎える言葉が、私の中で自然に浮かぶ。

 

 おかえり。

 

 ママには言える。

 

 言えるのに。

 

 クロには、まだ言えなかった。

 

 その差が、胸に刺さる。

 

「……おかえり、ママ」

 

 声が少し震えた。

 

 ママは泣きそうな顔で笑った。

 

 一歩、こちらへ近づく。

 

 両腕が少しだけ上がる。

 

 抱きしめようとしている。

 

 いつもなら、きっと私は飛び込んでいた。

 

 でも、足が止まった。

 

 抱きつきたい。

 

 でも怒っている。

 

 安心したい。

 

 でもまだ痛い。

 

 その迷いに、ママは気づいた。

 

 上げかけた腕を、そっと下ろす。

 

「触れてもいい?」

 

 その聞き方が、ずるかった。

 

 無理に抱きしめない。

 

 でも、拒まれたらちゃんと止まるつもりでいる。

 

 そう分かるから、余計に胸が痛む。

 

「……うん」

 

 私が頷くと、ママはゆっくり私を抱きしめた。

 

 白い髪が頬に触れる。

 

 懐かしい匂いがした。

 

 安心する。

 

 怒っているのに、安心する。

 

 それがずるいと思った。

 

「イリヤ」

 

 ママの声が耳元で震えている。

 

「ごめんなさい」

 

「……今、それ言われると、何から怒ればいいか分からなくなる」

 

「ええ」

 

「でも、抱きしめられると安心する」

 

「ええ」

 

「ずるい」

 

「そうね」

 

 ママは否定しなかった。

 

 私は、しばらくそのまま動けなかった。

 

 庭の光が消え、夜が少しずつ近づいてくる。

 

 家の中に入って、居間ではなく奥の部屋に移動した。

 

 セラとリズ。

 

 ルビーとサファイアさん。

 

 そして美遊。

 

 美遊は、私が呼んだ。

 

 一緒にいてほしかった。

 

 私の話でもあるけれど、もうクロは美遊にも関わってしまっている。

 

 それに、私が一人で聞くには、今の話は重すぎる。

 

 ママは椅子に座り、私はその向かいに座った。

 

 でも、落ち着かない。

 

 膝の上で手を握ったり、開いたりしてしまう。

 

「ママに怒ってる」

 

 私は最初に言った。

 

 回り道をしたら、たぶん言えなくなる。

 

「ええ」

 

「私のためだったのは分かる」

 

「ええ」

 

「でも、私のことなのに、私だけ知らなかった」

 

「……ええ」

 

「それが、嫌だった」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

 涙が出そうになる。

 

 でも、今は泣くより話したかった。

 

 泣いたら、怒りも悲しみも全部混ざってしまう気がしたから。

 

「ごめんなさい」

 

「謝られると、怒りにくい」

 

「怒っていいのよ」

 

「それも美遊に言われた」

 

 隣の美遊を見ると、美遊はこくりと頷いた。

 

 真面目な顔だった。

 

 少しだけ、笑いそうになる。

 

 でも、すぐに胸が重くなった。

 

「クロは、私のせいじゃないのかもしれない」

 

 私はママを見る。

 

「でも、私の普通の裏にいた子なんだよね」

 

「そうね」

 

「じゃあ、私だけ普通でよかったって思えない」

 

 ママの顔が苦しそうに歪んだ。

 

 それを見ると、こちらも苦しくなる。

 

 傷つけたいわけじゃない。

 

 でも、優しい言葉だけでは進めない。

 

「私は母親として、あなたを選んだ」

 

 ママが静かに言った。

 

「魔術師としてなら、間違いだったかもしれない。アインツベルンとしても、きっと間違いだった。でも、母親としては、あなたに普通に生きてほしかった」

 

「その結果、クロは?」

 

 ママは目を伏せた。

 

「……私の罪よ」

 

「ママだけの罪にしないで」

 

 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。

 

 ママが顔を上げる。

 

「全部ママのせいにしたら、私が楽になる」

 

 私は手を握る。

 

「でも、それでクロの痛みが消えるわけじゃない」

 

 部屋が静かになる。

 

 セラもリズも何も言わない。

 

 ルビーも黙っている。

 

 美遊だけが、私の横にいてくれる。

 

 ママは泣きそうな顔で、でも泣かなかった。

 

「あなたは、本当に優しい子ね」

 

「今それ言われると、怒りにくくなるからやめて」

 

「ごめんなさい」

 

「謝罪が増えてる」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

 でも、すぐにまた沈む。

 

 美遊が小さく口を開いた。

 

「クロは、怒っていた」

 

 みんなの視線が美遊へ向く。

 

「でも、痛そうだった」

 

 その声は静かだった。

 

「大事なものを取られた人の顔だった」

 

 ママは目を閉じた。

 

 その表情は、クロを知らない人のものではなかった。

 

 知っていて、でも見ないようにしてきた痛みを、今ようやく見た人の顔だった。

 

「あなたがいてくれてよかったわ」

 

 ママが美遊に言った。

 

 美遊はまっすぐ答える。

 

「私も、いてよかったです」

 

「美遊さん、今日も直球」

 

「変?」

 

「変じゃない。助かってる」

 

 美遊は少しだけ嬉しそうにした。

 

 たぶん。

 

 この少しの変化を見つけられるようになった自分に、ちょっとだけ驚く。

 

 その時だった。

 

 庭の方から、空気が揺れた。

 

 冷たい魔力。

 

 赤黒い気配。

 

 ルビーが光る。

 

「イリヤさん」

 

「うん」

 

 分かる。

 

 来た。

 

 クロだ。

 

 私たちは庭へ出た。

 

 夜の庭。

 

 月明かり。

 

 木々の影。

 

 そして、庭木の枝の上に、クロがいた。

 

 片膝を立てて座り、こちらを見下ろしている。

 

 昨日と同じ顔。

 

 私と同じ顔。

 

 でも、私じゃない。

 

「感動の親子再会?」

 

 クロが笑った。

 

 空気が凍る。

 

 ママがクロを見る。

 

 その目が揺れた。

 

「……あなたが」

 

「そう」

 

 クロは枝の上で軽く足を揺らす。

 

「押し込められてた方」

 

 その言葉に、ママの表情が痛む。

 

 私は一歩前に出た。

 

「クロ」

 

 クロの目が、私へ向く。

 

「名前、呼ぶんだ」

 

「名前は、呼ぶ」

 

「おかえりは?」

 

 言葉が詰まった。

 

 喉の奥で止まる。

 

 おかえり。

 

 たった四文字。

 

 ママには言えた。

 

 でもクロには、まだ言えない。

 

「まだ、言えない」

 

 クロの顔が冷えた。

 

 でも、その奥で何かが傷ついたようにも見えた。

 

 クロは視線をママへ移す。

 

「あなたがやったんでしょ」

 

 ママは逃げなかった。

 

「ええ」

 

「普通の女の子にしたかった?」

 

「ええ」

 

「じゃあ、私は何?」

 

 その声は静かだった。

 

 静かだからこそ、痛かった。

 

 ママはすぐに答えられない。

 

 クロの口元が歪む。

 

「言えないんだ」

 

「あなたを、なかったことにするつもりはないわ」

 

「もうしたじゃない」

 

 その一言が、庭の空気を裂いた。

 

 ママが息を呑む。

 

 クロは枝から降りた。

 

 足音もなく、庭の土の上に立つ。

 

「ずっと外にいた」

 

 一歩。

 

「名前も呼ばれなかった」

 

 一歩。

 

「帰る場所もなかった」

 

 一歩。

 

「それで今さら、なかったことにしない?」

 

 クロは泣いていなかった。

 

 でも、泣かないように怒っているのが分かった。

 

 怒りで、痛みを固めている。

 

「クロ」

 

 私が呼ぶと、クロは私を睨んだ。

 

「何?」

 

「怒っていいと思う」

 

「は?」

 

「私も怒ってる。ママに。ルビーに。セラたちに。自分にもちょっと」

 

 ルビーが小さく揺れた。

 

 セラが目を伏せる。

 

 ママは黙って聞いている。

 

「でも、怒っていいのと、誰かを壊していいのは違う」

 

「綺麗ごと」

 

「うん。私もそう思う」

 

 クロが少しだけ目を見開いた。

 

「認めるの?」

 

「認める。でも、言う」

 

 私の声は震えていた。

 

 でも止めなかった。

 

「綺麗ごとでも、言わないと何も残らない気がするから」

 

「そういうところが、むかつく」

 

「それも、もう何回か聞いた」

 

「何回でも言うわよ」

 

 クロの足元に赤黒い魔力が広がる。

 

 双剣が現れる。

 

 美遊がすぐに横へ出る。

 

 ママの前には、白い結界が展開された。

 

 アイリスフィールの魔術。

 

 柔らかく見えるのに、強い。

 

 クロは一瞬、その結界を見て笑った。

 

「今さら守るの?」

 

 そして次の瞬間、踏み込んだ。

 

 アイリへ向かうように見せかけて、狙いは私の胸元。

 

 分かっていても速い。

 

「イリヤ!」

 

 美遊の射撃が走る。

 

 私はルビーを構え、結界を張る。

 

 不完全Installは使わない。

 

 使えば対抗できるかもしれない。

 

 でも、連続で使うのは危険だ。

 

 何より、今ここであの赤い荒野に引っ張られるのが怖い。

 

 クロの剣が私の結界にぶつかる。

 

 重い。

 

 でも受ける。

 

 美遊の青い魔力が横からクロの足元を狙う。

 

 ママの白い糸のような魔術が、クロの動きを一瞬だけ縛る。

 

「ママ、無理しないで!」

 

「あなたを守るためなら」

 

「その言い方、今一番危ない!」

 

 思わず叫んだ。

 

 それはお兄ちゃんにも、ママにも、アーチャーにも通じる危険ワードだ。

 

 誰かを守るためなら、という言葉は、簡単に自分を数から外す。

 

 今の私には、それが怖い。

 

 ママは少しだけ目を見開いて、それから苦しそうに笑った。

 

「そうね。気をつけるわ」

 

「ほんとにね!」

 

 クロが結界を蹴って距離を取る。

 

 赤黒い魔力が揺れる。

 

 クロはアイリを睨んだ。

 

「今さら守るの?」

 

「今さらでも、守るわ」

 

「私は?」

 

 その問いに、すべてが止まった気がした。

 

 クロの声は小さかった。

 

 でも、何よりも重かった。

 

 私は?

 

 その一言には、怒りも痛みも寂しさも全部詰まっていた。

 

 ママは一瞬言葉を失った。

 

 でも、逃げなかった。

 

「あなたも」

 

「嘘」

 

「嘘じゃないわ」

 

「じゃあ、言ってよ」

 

 クロの声が震えた。

 

 私は息を呑む。

 

「私にも、おかえりって」

 

 ママの唇が動く。

 

 言おうとしたのだと思う。

 

 でも、その前にクロが顔を背けた。

 

「やっぱりいい」

 

 声が冷たくなる。

 

「今言われても、信じられない」

 

 クロは後ろへ跳んだ。

 

 木の枝に着地する。

 

 逃げる準備。

 

 でも、私は呼び止めた。

 

「クロ」

 

 クロが止まる。

 

 こちらは見ない。

 

 でも、聞いている。

 

「おかえりは、まだ言えない」

 

 クロの肩が、ほんの少しだけ動いた。

 

「でも、名前は呼ぶ」

 

 私は続けた。

 

「あなたを“黒い私”とか、“知らない子”とかじゃなくて、クロって呼ぶ」

 

 クロは何も言わない。

 

「それだけじゃ足りないのは分かってる」

 

 自分でも、痛いくらい分かっている。

 

 名前を呼ぶだけで、居場所になるわけじゃない。

 

 おかえりの代わりにはならない。

 

 でも。

 

「でも、今日はそこからにしたい」

 

 クロはゆっくり振り返った。

 

 月明かりの中で、私と同じ顔がこちらを見る。

 

 その顔が、ほんの少しだけ歪んだ。

 

「……ほんと、むかつく」

 

 声が少しだけ揺れていた。

 

「次は、そんな中途半端じゃ済まないから」

 

「うん」

 

「分かってるの?」

 

「分かってない。でも逃げない」

 

 クロの目が細くなる。

 

「……嫌い」

 

 そう言って、クロは夜の中へ消えた。

 

 庭に静けさが戻る。

 

 魔力の気配が薄れていく。

 

 私は息を吐いた。

 

 膝から力が抜けそうになったけれど、なんとか立っていた。

 

 その横で、ママがふらりと揺れた。

 

「ママ!」

 

 慌てて支える。

 

 ママは大丈夫と言いかけて、私の顔を見て、言葉を変えた。

 

「……少し、座ってもいいかしら」

 

「うん。座って。むしろ寝て」

 

「そこまで?」

 

「そこまで」

 

 庭の縁側に腰を下ろす。

 

 ママは疲れた顔をしていた。

 

 当然だ。

 

 今のは、ママにとってもきつかったはずだ。

 

 私は隣に座った。

 

「怒ってるよ」

 

「ええ」

 

「まだ、全然怒ってる」

 

「ええ」

 

「でも、倒れられるのも困る」

 

 ママが少し笑った。

 

「あなた、本当に優しい子ね」

 

「今それ言われると、怒りにくくなるからやめて」

 

「ごめんなさい」

 

「また謝った」

 

「ええ」

 

 私も少しだけ笑った。

 

 でも、胸の奥はまだ痛かった。

 

 クロは消えた。

 

 でも終わっていない。

 

 むしろ、始まったばかりなのだと思う。

 

 おかえりは、まだ言えなかった。

 

 でも、私は初めて、その子を“黒い私”ではなく名前で呼んだ。

 

 クロ。

 

 その一言で、クロの顔がほんの少しだけ歪んだ。

 

 それが怒りなのか、痛みなのか、嬉しさなのか。

 

 私には、まだ分からなかった。

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