ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
落ち着かない。
ものすごく、落ち着かない。
部屋の中を歩き回って、椅子に座って、すぐ立って、また窓の外を見て、意味もなくランドセルの横に置いた教科書を揃え直す。
何をしているんだろう、私は。
自分でも分からない。
ただ、じっとしていられなかった。
「イリヤさん、歩数がすごいことになっていますよ」
机の上から、ルビーが言った。
「今、感情が渋滞してる」
「交通整理します?」
「ルビーに任せたら事故が増えそう」
「信頼が薄い!」
「過去の実績」
「ぐうの音も出ません!」
いつものやり取り。
なのに、今日は少しだけ音が遠い。
ママが帰ってくる。
ルビーからそう聞かされてから、胸の中がずっと忙しかった。
会いたい。
怒りたい。
泣きたい。
抱きつきたい。
どうして言ってくれなかったの、と聞きたい。
でも、私のためだったんだよね、と言ってしまいそうでもある。
全部が一度に押し寄せてきて、感情の置き場所がない。
前世の会社なら、こういう時はタスク管理表に書き出した。
でも、母親への怒りと安心と寂しさと愛情を、表計算で整理できるわけがない。
人間の心は、セル結合しすぎである。
「イリヤ様」
部屋の扉が開いて、セラが顔を出した。
「アイリスフィール様の到着予定時刻が近づいております」
「うん」
「……お茶の準備はできております」
「それ、三回目じゃない?」
セラの表情がわずかに動く。
廊下の向こうからリズがひょこっと顔を出した。
「通常より、紅茶の準備が三回多い」
「リズ!」
「セラも緊張」
「していません」
「してる」
リズが淡々と言う。
セラは何か言い返そうとして、結局口を閉じた。
その様子を見て、少しだけ胸の重さが和らぐ。
セラもリズも、いつも通りに見えて、いつも通りじゃない。
それはたぶん、私だけじゃない。
「セラも、知ってたんだよね」
私が言うと、セラの表情が静かに沈んだ。
「……はい」
「リズも」
「少し」
リズが答える。
私は頷いた。
「怒ってる」
「はい」
セラは逃げなかった。
まっすぐに私を見ていた。
「でも、セラが私を大事にしてくれてたのも分かってる」
「イリヤ様……」
「だから、余計に難しい」
怒っている。
でも嫌いになったわけじゃない。
信じていたから、隠されていたことが痛い。
大事にされていたから、その大事の裏にいたクロが痛い。
感情って、どうして一つずつ来てくれないんだろう。
ちゃんと順番待ちしてほしい。
窓の外が、ふっと白く光った。
庭だ。
魔術の光。
胸が跳ねた。
「来た」
ルビーが小さく言う。
私は部屋を飛び出した。
廊下を走る。
セラが「イリヤ様、廊下を走っては」と言いかけて、途中で止めた。
今だけは、見逃してくれたらしい。
階段を下り、庭へ出る。
夕方の空気が肌に触れた。
庭の中央に、白い魔術陣が広がっている。
光の粒が舞い上がり、その中心に人影が形を取っていく。
白い髪。
白い服。
柔らかい雰囲気。
ずっと会いたかった人。
でも、今は会うのが少し怖かった人。
アイリスフィール・フォン・アインツベルン。
ママが、そこに立っていた。
「ただいま、イリヤ」
その一言で、喉が詰まった。
ただいま。
帰ってきた人が言う言葉。
そして、帰ってきた人を迎える言葉が、私の中で自然に浮かぶ。
おかえり。
ママには言える。
言えるのに。
クロには、まだ言えなかった。
その差が、胸に刺さる。
「……おかえり、ママ」
声が少し震えた。
ママは泣きそうな顔で笑った。
一歩、こちらへ近づく。
両腕が少しだけ上がる。
抱きしめようとしている。
いつもなら、きっと私は飛び込んでいた。
でも、足が止まった。
抱きつきたい。
でも怒っている。
安心したい。
でもまだ痛い。
その迷いに、ママは気づいた。
上げかけた腕を、そっと下ろす。
「触れてもいい?」
その聞き方が、ずるかった。
無理に抱きしめない。
でも、拒まれたらちゃんと止まるつもりでいる。
そう分かるから、余計に胸が痛む。
「……うん」
私が頷くと、ママはゆっくり私を抱きしめた。
白い髪が頬に触れる。
懐かしい匂いがした。
安心する。
怒っているのに、安心する。
それがずるいと思った。
「イリヤ」
ママの声が耳元で震えている。
「ごめんなさい」
「……今、それ言われると、何から怒ればいいか分からなくなる」
「ええ」
「でも、抱きしめられると安心する」
「ええ」
「ずるい」
「そうね」
ママは否定しなかった。
私は、しばらくそのまま動けなかった。
庭の光が消え、夜が少しずつ近づいてくる。
家の中に入って、居間ではなく奥の部屋に移動した。
セラとリズ。
ルビーとサファイアさん。
そして美遊。
美遊は、私が呼んだ。
一緒にいてほしかった。
私の話でもあるけれど、もうクロは美遊にも関わってしまっている。
それに、私が一人で聞くには、今の話は重すぎる。
ママは椅子に座り、私はその向かいに座った。
でも、落ち着かない。
膝の上で手を握ったり、開いたりしてしまう。
「ママに怒ってる」
私は最初に言った。
回り道をしたら、たぶん言えなくなる。
「ええ」
「私のためだったのは分かる」
「ええ」
「でも、私のことなのに、私だけ知らなかった」
「……ええ」
「それが、嫌だった」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙が出そうになる。
でも、今は泣くより話したかった。
泣いたら、怒りも悲しみも全部混ざってしまう気がしたから。
「ごめんなさい」
「謝られると、怒りにくい」
「怒っていいのよ」
「それも美遊に言われた」
隣の美遊を見ると、美遊はこくりと頷いた。
真面目な顔だった。
少しだけ、笑いそうになる。
でも、すぐに胸が重くなった。
「クロは、私のせいじゃないのかもしれない」
私はママを見る。
「でも、私の普通の裏にいた子なんだよね」
「そうね」
「じゃあ、私だけ普通でよかったって思えない」
ママの顔が苦しそうに歪んだ。
それを見ると、こちらも苦しくなる。
傷つけたいわけじゃない。
でも、優しい言葉だけでは進めない。
「私は母親として、あなたを選んだ」
ママが静かに言った。
「魔術師としてなら、間違いだったかもしれない。アインツベルンとしても、きっと間違いだった。でも、母親としては、あなたに普通に生きてほしかった」
「その結果、クロは?」
ママは目を伏せた。
「……私の罪よ」
「ママだけの罪にしないで」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
ママが顔を上げる。
「全部ママのせいにしたら、私が楽になる」
私は手を握る。
「でも、それでクロの痛みが消えるわけじゃない」
部屋が静かになる。
セラもリズも何も言わない。
ルビーも黙っている。
美遊だけが、私の横にいてくれる。
ママは泣きそうな顔で、でも泣かなかった。
「あなたは、本当に優しい子ね」
「今それ言われると、怒りにくくなるからやめて」
「ごめんなさい」
「謝罪が増えてる」
少しだけ、空気が緩んだ。
でも、すぐにまた沈む。
美遊が小さく口を開いた。
「クロは、怒っていた」
みんなの視線が美遊へ向く。
「でも、痛そうだった」
その声は静かだった。
「大事なものを取られた人の顔だった」
ママは目を閉じた。
その表情は、クロを知らない人のものではなかった。
知っていて、でも見ないようにしてきた痛みを、今ようやく見た人の顔だった。
「あなたがいてくれてよかったわ」
ママが美遊に言った。
美遊はまっすぐ答える。
「私も、いてよかったです」
「美遊さん、今日も直球」
「変?」
「変じゃない。助かってる」
美遊は少しだけ嬉しそうにした。
たぶん。
この少しの変化を見つけられるようになった自分に、ちょっとだけ驚く。
その時だった。
庭の方から、空気が揺れた。
冷たい魔力。
赤黒い気配。
ルビーが光る。
「イリヤさん」
「うん」
分かる。
来た。
クロだ。
私たちは庭へ出た。
夜の庭。
月明かり。
木々の影。
そして、庭木の枝の上に、クロがいた。
片膝を立てて座り、こちらを見下ろしている。
昨日と同じ顔。
私と同じ顔。
でも、私じゃない。
「感動の親子再会?」
クロが笑った。
空気が凍る。
ママがクロを見る。
その目が揺れた。
「……あなたが」
「そう」
クロは枝の上で軽く足を揺らす。
「押し込められてた方」
その言葉に、ママの表情が痛む。
私は一歩前に出た。
「クロ」
クロの目が、私へ向く。
「名前、呼ぶんだ」
「名前は、呼ぶ」
「おかえりは?」
言葉が詰まった。
喉の奥で止まる。
おかえり。
たった四文字。
ママには言えた。
でもクロには、まだ言えない。
「まだ、言えない」
クロの顔が冷えた。
でも、その奥で何かが傷ついたようにも見えた。
クロは視線をママへ移す。
「あなたがやったんでしょ」
ママは逃げなかった。
「ええ」
「普通の女の子にしたかった?」
「ええ」
「じゃあ、私は何?」
その声は静かだった。
静かだからこそ、痛かった。
ママはすぐに答えられない。
クロの口元が歪む。
「言えないんだ」
「あなたを、なかったことにするつもりはないわ」
「もうしたじゃない」
その一言が、庭の空気を裂いた。
ママが息を呑む。
クロは枝から降りた。
足音もなく、庭の土の上に立つ。
「ずっと外にいた」
一歩。
「名前も呼ばれなかった」
一歩。
「帰る場所もなかった」
一歩。
「それで今さら、なかったことにしない?」
クロは泣いていなかった。
でも、泣かないように怒っているのが分かった。
怒りで、痛みを固めている。
「クロ」
私が呼ぶと、クロは私を睨んだ。
「何?」
「怒っていいと思う」
「は?」
「私も怒ってる。ママに。ルビーに。セラたちに。自分にもちょっと」
ルビーが小さく揺れた。
セラが目を伏せる。
ママは黙って聞いている。
「でも、怒っていいのと、誰かを壊していいのは違う」
「綺麗ごと」
「うん。私もそう思う」
クロが少しだけ目を見開いた。
「認めるの?」
「認める。でも、言う」
私の声は震えていた。
でも止めなかった。
「綺麗ごとでも、言わないと何も残らない気がするから」
「そういうところが、むかつく」
「それも、もう何回か聞いた」
「何回でも言うわよ」
クロの足元に赤黒い魔力が広がる。
双剣が現れる。
美遊がすぐに横へ出る。
ママの前には、白い結界が展開された。
アイリスフィールの魔術。
柔らかく見えるのに、強い。
クロは一瞬、その結界を見て笑った。
「今さら守るの?」
そして次の瞬間、踏み込んだ。
アイリへ向かうように見せかけて、狙いは私の胸元。
分かっていても速い。
「イリヤ!」
美遊の射撃が走る。
私はルビーを構え、結界を張る。
不完全Installは使わない。
使えば対抗できるかもしれない。
でも、連続で使うのは危険だ。
何より、今ここであの赤い荒野に引っ張られるのが怖い。
クロの剣が私の結界にぶつかる。
重い。
でも受ける。
美遊の青い魔力が横からクロの足元を狙う。
ママの白い糸のような魔術が、クロの動きを一瞬だけ縛る。
「ママ、無理しないで!」
「あなたを守るためなら」
「その言い方、今一番危ない!」
思わず叫んだ。
それはお兄ちゃんにも、ママにも、アーチャーにも通じる危険ワードだ。
誰かを守るためなら、という言葉は、簡単に自分を数から外す。
今の私には、それが怖い。
ママは少しだけ目を見開いて、それから苦しそうに笑った。
「そうね。気をつけるわ」
「ほんとにね!」
クロが結界を蹴って距離を取る。
赤黒い魔力が揺れる。
クロはアイリを睨んだ。
「今さら守るの?」
「今さらでも、守るわ」
「私は?」
その問いに、すべてが止まった気がした。
クロの声は小さかった。
でも、何よりも重かった。
私は?
その一言には、怒りも痛みも寂しさも全部詰まっていた。
ママは一瞬言葉を失った。
でも、逃げなかった。
「あなたも」
「嘘」
「嘘じゃないわ」
「じゃあ、言ってよ」
クロの声が震えた。
私は息を呑む。
「私にも、おかえりって」
ママの唇が動く。
言おうとしたのだと思う。
でも、その前にクロが顔を背けた。
「やっぱりいい」
声が冷たくなる。
「今言われても、信じられない」
クロは後ろへ跳んだ。
木の枝に着地する。
逃げる準備。
でも、私は呼び止めた。
「クロ」
クロが止まる。
こちらは見ない。
でも、聞いている。
「おかえりは、まだ言えない」
クロの肩が、ほんの少しだけ動いた。
「でも、名前は呼ぶ」
私は続けた。
「あなたを“黒い私”とか、“知らない子”とかじゃなくて、クロって呼ぶ」
クロは何も言わない。
「それだけじゃ足りないのは分かってる」
自分でも、痛いくらい分かっている。
名前を呼ぶだけで、居場所になるわけじゃない。
おかえりの代わりにはならない。
でも。
「でも、今日はそこからにしたい」
クロはゆっくり振り返った。
月明かりの中で、私と同じ顔がこちらを見る。
その顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「……ほんと、むかつく」
声が少しだけ揺れていた。
「次は、そんな中途半端じゃ済まないから」
「うん」
「分かってるの?」
「分かってない。でも逃げない」
クロの目が細くなる。
「……嫌い」
そう言って、クロは夜の中へ消えた。
庭に静けさが戻る。
魔力の気配が薄れていく。
私は息を吐いた。
膝から力が抜けそうになったけれど、なんとか立っていた。
その横で、ママがふらりと揺れた。
「ママ!」
慌てて支える。
ママは大丈夫と言いかけて、私の顔を見て、言葉を変えた。
「……少し、座ってもいいかしら」
「うん。座って。むしろ寝て」
「そこまで?」
「そこまで」
庭の縁側に腰を下ろす。
ママは疲れた顔をしていた。
当然だ。
今のは、ママにとってもきつかったはずだ。
私は隣に座った。
「怒ってるよ」
「ええ」
「まだ、全然怒ってる」
「ええ」
「でも、倒れられるのも困る」
ママが少し笑った。
「あなた、本当に優しい子ね」
「今それ言われると、怒りにくくなるからやめて」
「ごめんなさい」
「また謝った」
「ええ」
私も少しだけ笑った。
でも、胸の奥はまだ痛かった。
クロは消えた。
でも終わっていない。
むしろ、始まったばかりなのだと思う。
おかえりは、まだ言えなかった。
でも、私は初めて、その子を“黒い私”ではなく名前で呼んだ。
クロ。
その一言で、クロの顔がほんの少しだけ歪んだ。
それが怒りなのか、痛みなのか、嬉しさなのか。
私には、まだ分からなかった。