ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

2 / 21
第1話 今世こそ健全に生きたい

 

 

 朝が来た。

 

 枕元の目覚まし時計が、やたら元気よく鳴っている。

 

 前世なら、この音は地獄の門が開く合図だった。

 

 起きたくない。

 

 行きたくない。

 

 でも行かなければならない。

 

 そんな、胃の奥がぎゅっと縮むような音。

 

 けれど、今は違う。

 

 今の私は小学生。

 

 出社はない。

 

 満員電車もない。

 

 朝一番の会議もない。

 

 上司の「昨日頼んだ件だけど」もない。

 

 あるのは学校。

 

 授業。

 

 給食。

 

 友達。

 

 そして放課後。

 

 最高か?

 

 人類はもっと小学生生活の福利厚生を評価するべきだと思う。

 

「……あと五分」

 

 私は布団の中から、非常に建設的な提案をした。

 

 睡眠は大事だ。

 

 これは前世の命をかけて得た教訓である。

 

 つまり、あと五分寝ることは怠惰ではない。

 

 健康管理である。

 

「イリヤ様」

 

 扉の向こうから、よく通る声がした。

 

 セラだ。

 

「起床のお時間です」

 

「あと五分……」

 

「その五分を許した結果、十五分後に泣くのはイリヤ様です」

 

「正論で起こすタイプの目覚ましだ……」

 

 布団の中で呻く。

 

 セラは厳しい。

 

 しかし、その厳しさには生活を守るための愛情がある。

 

 前世の上司のように、仕事を増やすための厳しさではない。

 

 そこが大事だ。

 

 なお、起きたくないことには変わりない。

 

 扉が開く音がした。

 

 続いて、ぼんやりした声。

 

「イリヤ、寝坊?」

 

 リズだった。

 

 私は布団から顔だけ出す。

 

「違う。これは戦略的二度寝」

 

「戦略?」

 

「うん。睡眠時間を最大化するための高度な判断」

 

「失敗してる」

 

「リズにまで正論を言われた……」

 

 駄目だ。

 

 この家、朝に強い人間が多すぎる。

 

 いや、リズが朝に強いかどうかは怪しいけれど、少なくとも私より起きている。

 

 それはもう敗北である。

 

「イリヤ様」

 

 セラが、にっこりと微笑んだ。

 

 目が笑っていなかった。

 

「五分後に起きられない場合、朝食の時間が短くなります」

 

「起きます」

 

 私は即座に布団から出た。

 

 朝食の時間が短くなる。

 

 それは重大な損失だ。

 

 前世でまともな朝ごはんを食べられなかった身としては、温かい朝食を逃すわけにはいかない。

 

 顔を洗い、制服に着替える。

 

 鏡の前に立つと、銀色の髪の少女がこちらを見返していた。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 

 長い。

 

 相変わらず名前が長い。

 

 けれど、鏡に映る姿にはもう違和感はない。

 

 私は私だ。

 

 今は普通にイリヤである。

 

 ただ、たまに前世の社畜が心の奥から顔を出す。

 

 たとえば今みたいに、朝の支度をしながら「この時間にメールチェックをしなくていいって素晴らしいな」と思ってしまう時とか。

 

 小学生の朝は忙しい。

 

 でも、出社がない。

 

 その一点だけで百点満点だ。

 

 階段を降りると、台所からいい匂いがした。

 

「おはよう、イリヤ」

 

 お兄ちゃんが振り返る。

 

 衛宮士郎。

 

 私のお兄ちゃん。

 

 前世の知識的には、いろいろ警戒したくなる名前である。

 

 しかし、今のところは朝ごはんを作ってくれる優しい兄だ。

 

 食卓には、ご飯と味噌汁。

 

 焼き魚。

 

 卵焼き。

 

 それから、私のお弁当。

 

 朝から弁当を作れる人間はすごい。

 

 前世の私は、朝にネクタイを結ぶだけで人生に負けていた。

 

「お兄ちゃん、保護者力が高すぎる」

 

「なんだそれ」

 

「朝からお弁当まで作れる兄のこと」

 

「普通だろ」

 

「普通じゃないよ。福利厚生が手厚すぎるよ」

 

「ふくり……?」

 

「こっちの話」

 

 私は席につき、手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 温かい味噌汁を飲む。

 

 体に染みる。

 

 前世の私が見たら泣くと思う。

 

 いや、泣く。

 

 確実に泣く。

 

 朝に温かいものを食べる。

 

 それだけで、人はかなり救われる。

 

「イリヤ、宿題は入れたか?」

 

「入れた」

 

「筆箱は?」

 

「入れた」

 

「体育着は?」

 

「入れた。お兄ちゃん、確認が完全に上司じゃなくて保護者のそれ」

 

「兄だからな」

 

 兄だから。

 

 なんて強い言葉だろう。

 

 前世に兄はいなかったけれど、兄という概念はこんなにも福利厚生が厚いものなのか。

 

 ありがたい。

 

 ありがたいが、少し心配でもある。

 

 兄さんは優しい。

 

 優しすぎる。

 

 優しい人間は、自分の負担を負担として数えないことがある。

 

 それを前世で嫌というほど見てきた。

 

「何かあったら、すぐ言えよ」

 

 お兄ちゃんが何気なく言った。

 

 私は箸を止めた。

 

「お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「今、“俺が何とかする”って言ってないよね?」

 

「言ってないけど……そこまで警戒するのか?」

 

「衛宮家の危険ワードだから」

 

「危険ワード」

 

「“大丈夫”と“俺が何とかする”は、だいたい大丈夫じゃない人が言う台詞です」

 

「そうなのか?」

 

「そうです。経験者は語ります」

 

 お兄ちゃんは困ったように笑った。

 

 その笑顔がまた優しい。

 

 優しい。

 

 優しすぎる。

 

 要観察である。

 

 私は心の中のメモ帳に、今日も衛宮士郎の項目へ赤線を引いた。

 

 自己犠牲気質、疑いあり。

 

 早期発見、早期対応が大切だ。

 

 朝食を終え、ランドセルを背負う。

 

 セラが髪を整えてくれた。

 

「イリヤ様、忘れ物はありませんね?」

 

「大丈夫」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「その返答が一番信用できません」

 

「正論が痛い」

 

 リズが私のランドセルを軽く叩いた。

 

「いってらっしゃい」

 

「うん。行ってきます」

 

 玄関で靴を履く。

 

 お兄ちゃんが見送ってくれる。

 

「気をつけてな」

 

「お兄ちゃんも、無理しないでね」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「“本当に”って言う人ほど怪しいんだよね」

 

「イリヤ、俺そんなに信用ないか?」

 

「信用はある。油断はしてない」

 

「厳しいな……」

 

 お兄ちゃんが苦笑する。

 

 私は小さく手を振って、家を出た。

 

 朝の空気は少し冷たい。

 

 けれど、嫌な冷たさではない。

 

 駅へ急ぐ大人たちとは違う方向へ、私は歩いていく。

 

 通勤ではなく通学。

 

 出社ではなく登校。

 

 業務開始ではなく一時間目。

 

 言葉が違うだけで、こんなにも心拍数が違う。

 

 前世の私に教えてあげたい。

 

 人生には、出勤しない朝が存在するのだと。

 

「イリヤー!」

 

 後ろから元気な声が飛んできた。

 

 振り返ると、龍子がこちらへ走ってくる。

 

 美々、那奈亀、雀花も一緒だ。

 

「おはよー!」

 

「おはよう、龍子」

 

「今日の体育、ドッジボールだって!」

 

「朝から戦闘予告をしないで」

 

「戦闘じゃないよ、体育だよ!」

 

「小学生の体育、たまに戦場みたいになるから……」

 

 龍子は首を傾げた。

 

 前世の会議室よりは健全な戦場だと思う。

 

 少なくとも、ボールは飛んできても理不尽な仕様変更は飛んでこない。

 

「イリヤちゃん、今日も髪さらさらだね」

 

 美々が、じっと私を見る。

 

 素直な好意。

 

 真っ直ぐな目。

 

 前世の社会人生活では、なかなか受けなかった類のものだ。

 

「ありがとう。朝から素直な好意を受けると、社会人経験者は処理に困ります」

 

「しゃかいじん?」

 

「なんでもない」

 

「イリヤ、また変なこと言ってる」

 

 龍子が笑う。

 

 うん。

 

 このくらいでいい。

 

 前世のことは、誰かに話せるものではない。

 

 話したところで困らせるだけだ。

 

 だから私は、適当に誤魔化して笑う。

 

 それで十分だった。

 

 学校に着くと、いつものように一日が始まった。

 

 授業。

 

 休み時間。

 

 授業。

 

 給食。

 

 掃除。

 

 また授業。

 

 素晴らしい。

 

 時間割がある。

 

 終了時刻が決まっている。

 

 チャイムが鳴れば授業が終わる。

 

 前世の会議にもチャイムを導入するべきだった。

 

 いや、本当に。

 

 どれだけ議題が残っていても、チャイムが鳴ったら終了。

 

 人類の生産性は、たぶんそれだけで上がる。

 

 算数の時間。

 

 黒板に図形の問題が書かれる。

 

 私は鉛筆を持ったまま、少し固まった。

 

 前世で社会人をやっていたからといって、小学生の算数が全部楽勝とは限らない。

 

 なぜなら、人生で使わないタイプの図形問題は普通に忘れるからである。

 

 社会に出てから使った計算といえば、残業時間と足りない睡眠時間くらいだった。

 

 しかも計算したところで、現実は改善しなかった。

 

 そういう意味では、算数の方がずっと誠実だ。

 

 答えがあるから。

 

「イリヤちゃん、ここ分かる?」

 

 隣の席の美々が、小声で聞いてくる。

 

「うん。たぶん、ここはこう」

 

 説明すると、美々はぱっと顔を明るくした。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 誰かに教えて、お礼を言われる。

 

 それだけで少し嬉しい。

 

 前世では、仕事を片付けても「次これお願い」で終わることが多かった。

 

 感謝は大事だ。

 

 人間の心を守る。

 

 給食の時間は、もっと素晴らしい。

 

 決まった時間に食事が出る。

 

 しかも温かい。

 

 給食制度、労働者にも導入するべきでは?

 

 前世の会社に給食があったら、少なくとも昼食が栄養ゼリーだけの日は減ったと思う。

 

「うげ、野菜……」

 

 龍子が皿を見て顔をしかめた。

 

「龍子、野菜も食べよう」

 

「イリヤがお母さんみたいなこと言ってる!」

 

「前世の生活が荒れていたせいで、栄養バランスにはうるさいの」

 

「ぜんせ?」

 

「こっちの話」

 

「イリヤって、たまにおばあちゃんみたいなこと言うよね」

 

「せめてお母さんで止めてほしかった」

 

 雀花がくすくす笑う。

 

 那奈亀は静かに牛乳を飲んでいた。

 

 平和だ。

 

 あまりにも平和だ。

 

 この時間を守りたいと思う。

 

 給食を食べて、友達と話して、授業を受けて、放課後に帰る。

 

 ただそれだけのことが、私には宝物みたいだった。

 

 放課後。

 

 龍子が元気よく手を上げた。

 

「イリヤ、今日遊べる?」

 

「うーん……今日は宿題してからかな」

 

「えー」

 

「宿題を溜めると未来の自分が死ぬ」

 

「大げさだよ」

 

「大げさじゃない。締切は人を殺す」

 

「宿題で死なないよ!」

 

 そう思うだろう。

 

 でも、締切という概念は育つと本当に恐ろしい姿になる。

 

 今は算数ドリルでも、将来は資料提出期限や納期に進化する。

 

 早めに対処する癖をつけるのは大切だ。

 

 私は今世における健全生活ルールを決めている。

 

 一、夜更かししない。

 

 二、無理しない。

 

 三、宿題は溜めない。

 

 四、体調不良を無視しない。

 

 五、困ったら相談する。

 

 六、自己犠牲は禁止。

 

 七、怪しい契約にはサインしない。

 

 特に最後。

 

 怪しい契約にはサインしない。

 

 これは前世で得た人生の教訓である。

 

 まあ、まさか小学生生活で契約書が必要になるとは思っていなかったけれど。

 

「また明日ね、イリヤちゃん」

 

「うん。また明日」

 

 友達と別れ、私は通学路を歩く。

 

 夕方の冬木市。

 

 赤く染まった空。

 

 帰る家がある。

 

 おかえりと言ってくれる人がいる。

 

 それだけで、足取りは軽い。

 

 その時だった。

 

 視界の端を、何かが横切った。

 

 ぴかっと光る、ピンク色の何か。

 

 星の飾り。

 

 細長い形。

 

 杖、のような。

 

「……ん?」

 

 私は足を止め、空を見上げた。

 

 何もない。

 

 電線。

 

 夕焼け。

 

 鳥。

 

 それだけだ。

 

 いや。

 

 今、何か飛んでいなかった?

 

 空飛ぶ、ステッキみたいな何かが。

 

「……ないない」

 

 私は首を振った。

 

 疲れているのかもしれない。

 

 いや、小学生生活で疲れているとか言ったら、前世の私に怒られる。

 

 あの頃の疲労と比べたら、今日の疲れなんて羽毛みたいなものだ。

 

 でも、空飛ぶステッキなんているわけがない。

 

 いるわけがない。

 

 いたら困る。

 

 ここが冬木市であることは分かっている。

 

 前世の知識が、何かとんでもないことが起きてもおかしくない土地だと告げている。

 

 でも、いくらなんでもステッキはない。

 

 聖杯戦争はともかく、魔法少女はジャンルが違う。

 

 ……いや。

 

 Fateならジャンルくらい平然と越えてくるかもしれない。

 

「考えるのやめよう」

 

 私は歩き出した。

 

 こういう時は、見なかったことにするのが一番だ。

 

 危険なものに近づかない。

 

 怪しいものには触れない。

 

 契約という単語を使う存在とは距離を取る。

 

 健全な人生には、危機回避能力が必要である。

 

 家に帰ると、玄関でお兄ちゃんの声がした。

 

「おかえり、イリヤ」

 

「ただいま」

 

 その一言だけで、胸の奥が少し温かくなる。

 

 おかえり。

 

 ただいま。

 

 前世の私は、そのやりとりをほとんど持っていなかった。

 

 夜遅くに帰っても、部屋は暗い。

 

 返ってくる声はない。

 

 スマホの通知だけが光っていた。

 

 だから今、こうして誰かに迎えられるだけで、私は少し救われる。

 

「どうした? ぼーっとして」

 

「ううん。今日も家がホワイトだなって」

 

「またそれか」

 

「大事なことだから」

 

 夕食を食べ、宿題をして、風呂に入る。

 

 健全。

 

 あまりにも健全。

 

 これこそ私が求めていた生活だ。

 

 夜、自室でノートを閉じる。

 

 宿題終了。

 

 持ち帰り業務、完了。

 

 私は伸びをして、ふと窓の外を見た。

 

 夕方の出来事を思い出す。

 

 空飛ぶステッキ。

 

 いやいや、ない。

 

 そんなものはない。

 

 もし本当にいたとしても、私は関わらない。

 

 怪しいものには近づかない。

 

 怪しい契約にはサインしない。

 

 健全な生活を守るための鉄則である。

 

 その時。

 

 窓の外で、何かがきらりと光った。

 

「……」

 

 私はゆっくりとカーテンに近づいた。

 

 少しだけ開ける。

 

 夜の空。

 

 庭。

 

 街灯。

 

 そして一瞬、視界の端に、ピンク色の細長い影が見えた。

 

 星の飾りが、ちらりと光る。

 

 次の瞬間には、もう消えていた。

 

「……気のせい」

 

 私はカーテンを閉めた。

 

「そう。気のせい」

 

 空飛ぶステッキなんて、現実にいるわけがない。

 

 そう思っていた。

 

 その時の私は、まだ知らなかった。

 

 あいつが、前世のブラック企業を超える契約詐欺師だということを。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。