ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
第19話 名前を呼ぶだけじゃ足りない
家にママがいる。
それは、嬉しい。
本当に嬉しい。
廊下の向こうから聞こえる声が一つ増えただけで、家の空気が少し柔らかくなった気がする。
セラの背筋はいつもより伸びているし、リズは気づけばママの近くにいる。
お兄ちゃんも、何か聞きたいことがある顔をしながら、それでも無理には踏み込んでこない。
いつもの家。
でも、いつもとは違う家。
嬉しい。
安心する。
だけど、それだけで済まないことが増えすぎていた。
「イリヤ」
居間でぼんやりしていると、ママが静かに私の名前を呼んだ。
「少し、話してもいいかしら」
「うん」
私は頷いた。
テーブルの上には、セラが淹れてくれた紅茶がある。
いい香りがする。
でも、今の私には少し上品すぎる気がした。
できればおしるこくらい分かりやすい甘さがほしい。
心が疲れている時、気品より糖分である。
ママはカップに手を添えたまま、少しだけ目を伏せた。
「クロのことだけれど」
その名前が出た瞬間、胸の奥が小さく動いた。
クロ。
昨日、私は初めてその子を名前で呼んだ。
黒い私でも、知らない子でもなく。
クロ、と。
でも、それだけでは足りない。
そんなことは、分かっていた。
「あの子は、あなたと無関係ではないわ。でも、ただの分身でもない」
「うん」
「あなたの中から切り離され、封じられていたもの。それが、アーチャーカードを核のようにして形を持っている」
「アーチャーカード……」
赤い外套。
双剣。
剣の丘。
胸の奥がざわつく。
あのカードの残響は、今もまだ私のどこかに残っている気がする。
「つまり、アーチャーカード本体はクロ側にあるんだよね?」
私が聞くと、ママは頷いた。
「ええ。今のあなたが触れたアーチャーの力は、カードそのものではなく、残滓や共鳴に近いものよ」
「残滓って、言葉だけでもう不穏なんだけど」
ルビーがそっと浮かぶ。
「前回の不完全Installは、正式な夢幻召喚ではありません。クロさん側にあるアーチャーカード本体と、イリヤさんの内部に残った反応が一時的につながった状態です」
「つまり、あれを何回もやるのは危険ってことだよね」
「はい」
即答だった。
否定してほしかった。
「他のカードは?」
私は聞いた。
「他のカードなら使えるの?」
「使用自体は可能です」
ルビーが答える。
ママも続けた。
「ただし、あなたの場合、カードに残る記憶の残響に強く触れる傾向があるわ。どのカードも、安全とは言い切れない」
「安全なカード業務、存在しないの?」
「魔法少女は基本的に現場対応です!」
「やっぱり研修制度が死んでる」
思わず頭を抱えた。
原作というか、この世界の魔法少女運用、あまりにも現場任せすぎる。
前世のブラック企業でも、もう少しマニュアルがあった。
役に立つかは別として。
ママは少しだけ困ったように笑ったけれど、すぐに真面目な顔へ戻る。
「クロは、まだ存在として不安定よ」
「不安定」
「怒り、執着、強い願い。そういう感情で、自分の形を保っている可能性がある」
その言葉が、ひどく胸に刺さった。
「怒ってないと、いられないってこと?」
「可能性としては」
「それ、しんどすぎるでしょ」
怒りは疲れる。
ずっと怒っているのは、ずっと傷口を押さえ続けているようなものだ。
でも、その怒りがなければ自分でいられないのだとしたら。
クロは、どれだけ苦しいのだろう。
「イリヤ」
ふいに、お兄ちゃんの声がした。
振り向くと、居間の入口にお兄ちゃんが立っていた。
いつからいたのかは分からない。
でも、全部を聞いていたわけではなさそうだった。
「最近、何か隠してるよな」
胸が跳ねた。
お兄ちゃんの声は怒っていなかった。
ただ、心配している声だった。
「……うん」
ごまかせなかった。
「無理に聞かないけど、危ないことなら言ってくれ」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
言いたい。
でも言えない。
クロのことを話したら、お兄ちゃんはきっと何かしようとする。
自分を数に入れずに、当たり前みたいに動こうとする。
その優しさが、今は怖い。
「お兄ちゃんに話すと」
「うん」
「お兄ちゃんが自分を数に入れない気がして怖い」
お兄ちゃんは目を瞬かせた。
「そんなに信用ないか?」
「優しさ方面の信用がありすぎる」
「それは……褒められてるのか?」
「危険視してます」
「そっか」
お兄ちゃんは困ったように笑った。
その笑い方が、やっぱり優しくて、やっぱり少し怖い。
「じゃあ、せめて一人で抱えるなよ」
「それ、お兄ちゃんにも返すね」
「努力する」
「努力目標、まだ不安」
少しだけ笑えた。
お兄ちゃんも小さく笑った。
でも、彼の目にはまだ心配が残っていた。
私はそれを見て、少しだけ視線をそらした。
ごめん。
まだ、全部は言えない。
その頃。
クロは衛宮家の外にいた。
高い塀の影。
隣家の屋根の端。
そこから、庭の一部が見えた。
覗き込んでいるつもりはなかった。
ただ、気づいたらそこにいた。
それだけ。
……そういうことにしたかった。
庭には、士郎がいた。
洗濯物を取り込んでいる。
白いシャツ。
タオル。
小さなハンカチ。
風で少し絡んだ洗濯物を、手際よく外している。
別に、特別なことではない。
戦いでもない。
魔術でもない。
ただの家事。
ただの日常。
それなのに、クロは視線を外せなかった。
あれが、イリヤのお兄ちゃん。
呼べば振り向いてくれる人。
帰れば、そこにいてくれる人。
寒くないかと聞いてくれる人。
イリヤが当たり前みたいに持っているもの。
胸の奥がざらつく。
見なければよかった。
そう思うのに、足は動かなかった。
士郎がふと顔を上げた。
視線が合う。
「イリヤ?」
クロは固まった。
その声は、まっすぐこちらに向けられていた。
けれど、それはクロを呼んだ声ではない。
イリヤを呼んだ声だ。
分かっている。
分かっているのに。
胸が、一瞬だけ変なふうに跳ねた。
「そんなところで何してるんだ? 寒くないか?」
優しい声。
何の疑いもない声。
家族に向ける声。
クロは息を吸った。
何かを言いそうになる。
でも、その前に言葉を噛み殺した。
「……違う」
「え?」
「私は、あの子じゃない」
士郎の表情が変わった。
違和感に気づいた顔。
でも、警戒より先に心配が出るような顔。
それが余計に腹立たしかった。
クロは地面を蹴った。
屋根を伝って、衛宮家から離れる。
後ろから士郎の声は追ってこなかった。
追ってこないことに、少しだけほっとした。
少しだけ、寂しかった。
人気のない路地まで来て、クロは足を止めた。
胸がうるさい。
何よ。
ただ、間違えられただけ。
イリヤと間違えられただけ。
私を呼んだわけじゃない。
私に向けられた優しさじゃない。
なのに。
どうして一瞬だけ嬉しかったの。
「ほんと、むかつく」
小さく吐き捨てる。
でも、その声は誰にも届かなかった。
夕方。
お兄ちゃんが、私にその話をした。
「さっき、イリヤに似た子を見た」
私は一瞬で固まった。
部屋の空気が変わる。
ママも、セラも、ルビーも、すぐに反応した。
「でも、イリヤじゃなかった」
「何かされた!?」
思ったより大きな声が出た。
お兄ちゃんが少し驚く。
「いや。話しかけたら逃げた」
「怪我は? 変なこと言われた?」
「いや、本当に少し話しただけだ」
よかった。
そう思った。
でも、すぐに別の感情が来る。
クロが、お兄ちゃんを見た。
私の居場所を。
私が普通に持っているものを。
それを、見てしまった。
胸の奥が冷える。
クロがどんな顔をしたのか、想像したくないのに想像してしまう。
「私、行く」
立ち上がる。
ママが静かに言った。
「イリヤ」
「分かってる。危ないのは分かってる」
「それだけじゃないわ」
ママは私を見た。
「あの子は、今とても不安定よ」
「うん」
「そして、あなたも不安定なの」
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
でも、否定はできなかった。
「……分かってる」
ルビーが浮かぶ。
「他カード使用の準備を」
「今回は、まず話す」
ルビーが止まる。
「力を出したら、クロがもっと遠くなる気がする」
「危険です」
「知ってる。でも、今日はそれでいきたい」
すると、横から美遊が静かに言った。
「私がいる」
振り向くと、美遊がいつの間にか立っていた。
「美遊」
「一緒に行く」
「うん。頼りにしてる」
美遊は小さく頷いた。
それだけで、少しだけ足が前に出せる気がした。
クロの気配は、住宅街を見下ろせる小さな高台にあった。
夕暮れの空が広がっている。
赤というより、薄い橙。
家々の屋根が並び、その中に衛宮家もある。
クロは柵の上に座っていた。
足を揺らしながら、街を見下ろしている。
その背中は小さい。
でも、近づきがたいくらい尖って見えた。
「来たんだ」
クロは振り向かずに言った。
「お兄ちゃんに会ったんでしょ」
「会ったというほどじゃないわ」
「でも、話した」
クロは少しだけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「イリヤって呼ばれた」
胸が痛む。
「私じゃなくて、あなたを」
その言葉は、責める声ではなかった。
でも、責められるより痛かった。
「名前を呼ばれるって、変ね」
クロが街を見たまま言う。
「一瞬だけ、私のことみたいに聞こえた」
私は何も言えなかった。
「でも違った」
クロはようやくこちらを見る。
私と同じ顔。
でも、少し泣きそうに怒っている顔。
「あれは、あなたの場所だった」
風が吹く。
高台の草が揺れる。
私は一歩前に出た。
「名前だけじゃ足りないのは分かってる」
クロの目が細くなる。
「分かってるなら、何?」
「でも、足りないからって、呼ばない理由にはしたくない」
「……」
「私は、あなたを知らない子扱いには戻したくない」
言葉を選ぶ。
間違えないように。
押しつけにならないように。
でも、逃げないように。
「だから、クロって呼ぶところから逃げたくない」
クロは黙っていた。
その沈黙が怖い。
でも、私は続けた。
「それで何かできた気になってるわけじゃない」
「……分かったような顔しないで」
「分かってないよ」
私は首を振った。
「だから、聞きに来た」
クロの顔が少しだけ歪む。
怒りなのか、痛みなのか、迷いなのか。
たぶん、全部だった。
「名前を呼ばれても、帰る場所がなければ意味がない」
「うん」
「おかえりって言われても、信じられなければ意味がない」
「うん」
「じゃあ、どうするのよ」
私は答えられなかった。
答えなんて、まだ持っていない。
でも、目をそらさなかった。
「まだ、分からない」
「またそれ?」
「でも、分からないから逃げる、はしない」
クロは舌打ちした。
「……むかつく」
「うん」
「そこで頷くのもむかつく」
「ごめん」
「謝るのもむかつく」
「難しい……」
美遊が隣で静かに立っている。
何も言わない。
でも、いつでも動ける距離にいる。
クロの足元に赤黒い魔力が揺れた。
双剣が現れる。
けれど、前のような殺気ではない。
もっと乱れている。
感情が形になって、こぼれたような魔力だった。
「クロ」
「何よ」
「戦いに来たんじゃない」
「じゃあ何しに来たの」
私はルビーを握った。
変身するべきか、一瞬迷う。
でも、まだしない。
ここで力を見せたら、クロはきっともっと遠くに行く。
「名前を呼びに来た」
クロの動きが止まった。
高台の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
「それだけじゃ足りないって言ってるでしょ」
「うん。足りない」
私は頷いた。
「でも、そこから逃げたくない」
「中途半端」
「うん」
「何も返せないくせに」
「うん」
「それでも来るの?」
「うん」
クロが私を睨む。
「……嫌い」
その声は、鋭かった。
でも、前より少しだけ弱かった。
嫌い。
そう言わないと、何かを保てないみたいに聞こえた。
クロは柵から降りると、私たちに背を向けた。
「もう一度あの声で呼ばれたら」
小さく言う。
「たぶん、もっと嫌いになる」
私はその背中を見る。
嘘だ、とは言えなかった。
でも、本当だけでもない気がした。
クロは夕暮れの中へ消えていった。
追わなかった。
今追えば、きっとまた逃げる。
だから、私はその場で立ち尽くすしかなかった。
イリヤ。
クロ。
どちらも、クロを呼んだ声だった。
でも、意味はまるで違った。
お兄ちゃんの「イリヤ」は、私に向けられたもの。
私が当たり前に受け取ってきたもの。
私が持っていた居場所の声。
私の「クロ」は、まだ始まったばかりの声。
足りない声。
届くかどうかも分からない声。
でも。
呼ばない理由には、したくなかった。
その夜。
クロは一人、古い建物の屋上にいた。
風が強い。
街の明かりが遠い。
屋根の下には、いくつもの家がある。
誰かが帰る家。
誰かを待つ家。
その全部が、遠い。
耳の奥に、二つの声が残っていた。
イリヤ?
寒くないか?
それは、自分を呼んだ声ではない。
分かっている。
あれは、イリヤのものだ。
そして。
クロ。
その声は、自分に向けられていた。
でも、足りない。
名前を呼ぶだけでは足りない。
帰る場所もないまま名前だけ呼ばれても、どうすればいいのか分からない。
それなのに、どちらの声も耳から離れない。
「名前を呼ぶだけじゃ、足りないのよ」
そう呟いたクロの声は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、ほんの少しだけ震えていた。