ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
凛さんとルヴィアさんが来た。
それだけで、家の空気が一気に騒がしくなった。
いや、二人ともまだ玄関に立っているだけだ。
立っているだけなのに、なぜかもう騒がしい。
「というわけで、とにかく一回捕まえるわよ」
凛さんが腕を組んで、開口一番そう言った。
私は思わずまばたきした。
「え、いきなり?」
「いきなりじゃないわよ。あれだけ自由に動き回ってるのよ? 危ないったらないわ」
「ですが、遠坂凛。捕まえる、という言い方は少々野蛮ではありませんこと?」
ルヴィアさんが優雅に髪を払う。
「まずは保護、と表現すべきですわ」
「やること同じでしょ」
「言葉の品位が違いますの」
「中身が同じなら一緒よ!」
「クロを野良猫みたいに言わないでください!」
思わず割って入った。
すると、ルビーがぴょこんと浮かぶ。
「でも性格はだいぶ野良ですね!」
「否定しきれないのが嫌!」
クロの顔が頭に浮かぶ。
屋根の上にいたり、塀の上にいたり、急に現れては煽って消える。
うん。
否定しきれない。
でも、だからといって本当に野良猫扱いするのは違う。
たぶん。
たぶん違う。
居間には、ママとセラとリズ、美遊がいた。
ただ、お兄ちゃんはいない。
少し前に、セラが妙に自然な顔で買い出しを頼んだからだ。
「お兄ちゃん、今から?」
「はい。できれば、こちらの品をお願いいたします」
セラはいつもの落ち着いた声でそう言って、メモを渡した。
お兄ちゃんは少しだけ首を傾げたけれど、セラの表情を見て、それ以上は聞かなかった。
「分かった。すぐ行ってくる」
玄関の扉が閉まる。
その音を確認してから、ルヴィアさんが指を鳴らした。
居間の空気が、薄い膜に包まれる。
「遮音結界ですわ」
「家庭の居間に遮音結界って、会議室より物騒なんですけど……」
「必要な配慮です」
サファイアさんが静かに言った。
うん。
分かってる。
お兄ちゃんには、魔術もルビーもクロの本当のことも、まだ見せられない。
巻き込めば、きっとお兄ちゃんは自分を数に入れずに動く。
それが怖い。
だから今は、知らないままでいてもらう。
知らないままにしていることが、少し苦しいけれど。
「アイリスフィールさん。状況は?」
凛さんがママを見る。
さっきまでの勢いとは違って、声が真面目になっていた。
ママも静かに頷く。
「クロは、まだ不安定よ。アーチャーカードを核にして形を保っているけれど、感情の揺れがそのまま存在の揺れに繋がっている」
「放っておけば、本人も周囲も危険」
「ええ」
凛さんは小さく息を吐いた。
「だから、一度動きを止める必要があるわ」
「そこまでは、分かります」
私は頷いた。
「でも、捕まえるって言われると、なんか……」
「嫌?」
美遊が隣で聞いた。
「うん。嫌」
自分でも意外なくらい、はっきり言葉が出た。
「クロが危ないのは分かる。止めなきゃいけない時があるのも分かる。でも、捕まえるって言い方をされると、また閉じ込めるみたいで嫌」
凛さんは少しだけ目を細めた。
怒ったわけではない。
たぶん、分かっているけれど譲れない顔だ。
「その感覚は大事にしなさい。でも、感覚だけでは守れない時もあるわ」
「……はい」
「だから作戦を立てるのよ。無闇に力ずくで縛るんじゃなくて、なるべく安全に止めるためにね」
「作戦」
それなら、少しだけ聞ける。
たぶん。
凛さんはテーブルの上に冬木市の簡易地図を広げた。
ルヴィアさんが隣から、やたら豪華な魔術式の図を出す。
紙がきらきらしている。
なんで作戦資料が光ってるの。
「まず、クロの移動経路を予測します」
「屋根、塀、公園、人気の少ない道。だいたい高所を使う傾向がありますわね」
「逃げ足は速いし、アーチャーカードの力で近接も遠距離もできる。真正面から追うと撒かれる」
「そこで、わたくしの華麗なる包囲結界を――」
「派手すぎるのよ、あんたの術式は!」
「派手で何が悪いのです! 美しさと実用性は両立しますわ!」
「その結果、前に街灯三本巻き込んだの誰よ!」
「細部の犠牲ですわ!」
「犠牲にしないでください!」
私は思わず叫んだ。
すでに作戦会議が崩壊しかけている。
これが魔術師の会議。
いや、たぶん違う。
この二人がこうなだけだ。
「提案があります!」
ルビーが元気よく手を挙げるように跳ねた。
「何?」
嫌な予感しかしない。
「お菓子で誘き寄せるのはいかがでしょう!」
「クロを本当に野良猫扱いし始めた!」
「ですが、糖分は心に効きます!」
「それは私には効くけど!」
凛さんが少し真面目な顔で考え込む。
「案外効くかも」
「効きそうなのも嫌!」
「では、高級菓子を用意いたしましょう。ルヴィア家の力をもってすれば、世界中の一級品を――」
「それ捕獲作戦じゃなくて接待になってます!」
セラが横から静かに言った。
「イリヤ様。お菓子で誘導する場合、衛生面と摂取量の管理が必要です」
「セラまで乗らないで!?」
リズがぽつりと言う。
「クロ、チョコ好きそう」
「なんでみんなちょっと本気なの!?」
駄目だ。
この家、クロ捕獲に関してお菓子案が妙に強い。
クロが聞いたら絶対怒る。
たぶん怒りながら一個くらい食べる。
そんな気がするのも嫌だ。
その時、ルビーがぴくりと揺れた。
「……イリヤさん」
「何?」
「外に魔力反応です」
空気が変わった。
凛さんとルヴィアさんも、すぐに表情を変える。
美遊がサファイアを手に取った。
ママが窓の方を見る。
遮音結界の外。
庭の木の上に、小さな影があった。
クロだ。
片膝を立て、枝の上に座っている。
私と同じ顔で、私ではない笑みを浮かべて。
「クロ!」
私が呼ぶと、クロの肩がほんの少しだけ動いた。
本当に少し。
でも、私は見逃さなかった。
「何か楽しそうなこと、してるじゃない」
クロが言った。
窓越しなのに、声がはっきり届く。
アーチャーカードの力なのか、クロ自身の魔力なのかは分からない。
「相談の中身までは聞こえなかったけど、魔力が騒がしすぎるのよ。捕まえる気満々って感じ」
凛さんが顔をしかめた。
「げっ」
「げっ、じゃありませんわ。気配を悟られるとは、遠坂凛の詰めが甘いのでは?」
「今あんたの派手な術式も混ざってたでしょ!」
「わたくしの術式は高貴な輝きですわ!」
「目立つってことよ!」
クロは呆れたように笑う。
「捕まえる相談をそんな濃い魔力でやる方が悪いんじゃない?」
「正論やめて!」
私は頭を抱えた。
クロは枝の上から、軽く足を揺らした。
「で? 捕まえるんでしょ?」
凛さんが一歩前に出る。
「悪いけど、そうさせてもらうわ」
「できるならね」
クロが枝を蹴った。
黒い影が宙を舞う。
「待って、クロ!」
「待つわけないでしょ」
その一言を残して、クロは屋根の上へ跳んだ。
凛さんが叫ぶ。
「追うわよ!」
「え、今から!?」
「今逃がしたらまた探すの面倒でしょ!」
「理由が実務的!」
ルヴィアさんが即座に窓へ向けて魔術を展開した。
「周辺に認識阻害を張りますわ。近隣住民に見られる心配は減らしておきます」
「ありがとうございます! そういう配慮大事!」
「当然ですわ。美しくない騒動は好みませんもの」
「今からかなり騒動になる気がしますけど!」
美遊がすでにサファイアを構えていた。
「行く」
「うん!」
ルビーが私の手元に飛び込む。
「ではイリヤさん、華麗に追跡開始です!」
「華麗かどうかは保証しない!」
庭を抜け、人目の少ない路地へ出たところで、私は変身した。
光が走る。
魔法少女の姿になる。
お兄ちゃんはいない。
認識阻害も張られている。
それでも、何となく胸が落ち着かない。
隠していることが増えると、心の荷物も増える。
でも今は、クロを追う。
住宅街の屋根の上を、クロが軽々と跳んでいく。
速い。
しかも動きが読みにくい。
まっすぐ逃げるのではなく、わざとこちらをからかうように曲がる。
屋根。
塀。
電柱。
公園の木。
使えるものを全部足場にしていく。
「遅いわよ、イリヤ」
「小学生の脚力に無茶言わないで!」
「魔法少女ですから飛べますよ!」
「そうだった!」
私はルビーに引っ張られるように空を飛ぶ。
美遊は横から静かに追ってくる。
美遊の飛び方は無駄がない。
私の飛び方は、たぶん必死感がすごい。
そこへ凛さんの声が飛ぶ。
「右へ回り込んで!」
「右!? どっちの右!?」
「自分から見た右に決まってるでしょ!」
「空中だと方角の概念が雑になるんです!」
「落ち着きなさい!」
ルヴィアさんが別方向から結界を展開する。
「逃がしませんわ!」
金色に光る網のような術式が、クロの進路を塞いだ。
クロは一瞬だけ目を細める。
そして、体をひねって網の端を滑るように抜けた。
「惜しい」
「おのれ、すばしっこいですわね!」
「ルヴィアさんの術式、派手だから避ける場所が分かりやすいんじゃ……」
「イリヤさん!?」
「ごめんなさい!」
クロが屋根の上で振り返る。
「仲良しね」
「今のどこを見て!?」
「騒がしいところ」
「そこは否定できない!」
凛さんが宝石を構える。
「クロ、止まりなさい!」
「嫌よ」
赤黒い魔力がクロの手元に集まり、双剣が現れる。
投げられた剣が凛さんの結界に弾かれ、空中で光を散らした。
凛さんが舌打ちする。
「ほんっと面倒な子ね!」
「本人に聞こえてますよ!」
「聞かせてるのよ!」
「大人げない!」
クロは公園の方へ降りた。
夕方の公園。
人は少ない。
認識阻害の影響で、通りかかる人の視線もこちらへ向かない。
遊具の影が長く伸びている。
クロは滑り台の上に立ち、こちらを見下ろした。
「鬼ごっこはもう終わり?」
「鬼ごっこじゃなくて捕獲作戦よ」
凛さんが言う。
「やっぱり野良猫扱いじゃない」
「そこは反省してます!」
私が叫ぶと、クロが少しだけ口元を緩めた。
でもすぐに、双剣を構える。
「じゃあ、次は何? お菓子?」
「聞こえてたの!?」
「少しだけね。魔力より声が大きいのよ、あなたたち」
「うそでしょ!?」
ルビーがぴかっと光る。
「イリヤさん、キャスターカードの簡易展開で動きを止めましょう!」
「攻撃じゃなくて、ちょっと止めるだけ!」
「了解です! キャスターカード、簡易展開!」
ルビーの先端から、細い魔術糸が伸びる。
紫がかった光の糸。
それは空中で細かく分かれ、クロの周囲へ回り込んだ。
完全な夢幻召喚じゃない。
ただ、カードの力を少しだけ借りる。
クロを傷つけず、動きを止めるために。
「甘いわね」
クロが双剣を振るう。
魔術糸が何本か切られる。
「こっちは甘くしようとしてるの!」
「優しさが戦闘向きではありませんね!」
「分かってる!」
それでも、何本かの糸がクロの足元に絡んだ。
動きが一瞬だけ止まる。
その瞬間。
指先に、冷たい感覚が走った。
誰かを縛るための魔術。
逃がさないための糸。
それが、ほんの少しだけ嫌だった。
私は無意識に力を弱めた。
クロはその隙に糸を切り、後ろへ跳ぶ。
「イリヤ、緩めた?」
美遊が聞く。
「……うん。ちょっと嫌だった」
「そう」
美遊はそれ以上、責めなかった。
凛さんとルヴィアさんが左右から回り込む。
「今度こそ!」
「逃がしませんわ!」
二人の結界が同時に展開した。
赤い術式。
金色の術式。
珍しく息が合っている。
クロの逃げ道が塞がれた。
「ちっ」
クロが舌打ちする。
右へ行けない。
左も塞がれた。
上にはルヴィアさんの結界。
下には凛さんの封鎖。
美遊が射線を押さえ、私は正面にいる。
捕まる。
そう思った瞬間。
クロの顔から、余裕が消えた。
それは怒りではなかった。
悔しさでもなかった。
恐怖だった。
「……っ」
クロの肩が小さく震えた。
ほんの一瞬。
でも、見えた。
あ。
今の顔。
捕まるのが嫌なんじゃない。
また閉じ込められるのが怖い顔だ。
「今よ!」
凛さんが叫ぶ。
結界がクロへ向かって収束する。
私は反射的に叫んでいた。
「待って!」
凛さんの手が止まる。
「何よ、今いいところ!」
「分かってます! 分かってるけど!」
言葉がうまく出ない。
でも、止めなきゃいけない気がした。
「その顔のまま捕まえたら駄目!」
「はあ!?」
凛さんが本気で困惑する。
ルヴィアさんも眉をひそめた。
「イリヤさん、今のは絶好の機会ですわ!」
「分かってます!」
「ではなぜ!」
「分かんないけど嫌だったの!」
自分でも無茶苦茶だと思う。
でも、本当にそれしか言えなかった。
理屈ではない。
クロが危ないのは分かる。
止めなきゃいけないのも分かる。
でも、あの顔のまま閉じ込めたら、何か決定的に間違える気がした。
クロが私を見る。
「……何それ」
「私にも分かんない!」
「分かんないのに止めたの?」
「分かんないけど嫌だったの!」
クロは呆れたように私を見た。
でも、その目の奥に、ほんの少しだけ別のものが混ざった気がした。
その隙に、クロは結界の緩んだ部分をすり抜けた。
「あっ!」
凛さんが声を上げる。
クロは公園の木の枝に着地し、こちらを見下ろした。
「甘いわね」
「うん。たぶん」
「認めるの?」
「たぶん本当に甘いから」
「そういうところ、ほんと嫌い」
「それも、たぶん本当なんだよね」
クロの表情が少しだけ歪む。
「……むかつく」
その声は、いつもより少し弱かった。
クロは背を向ける。
「次は止められないわよ」
「うん」
「分かってるの?」
「分かってないけど、分かろうとはしてる」
「ほんと、意味分かんない」
そう吐き捨てて、クロは屋根の向こうへ消えた。
残された私たちは、公園の真ん中でしばらく立ち尽くしていた。
「イリヤ」
凛さんの声が低い。
「はい」
「あんたねえ……!」
「すみません!」
「謝るくらいなら最初から止めない!」
「それは無理です!」
「無理なの!?」
「無理です!」
凛さんが頭を抱えた。
ルヴィアさんは小さくため息をつく。
「ですが、遠坂凛。今のクロエさんの表情、わたくしにも見えましたわ」
凛さんは黙った。
「……分かってるわよ」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「でもね、イリヤ。気持ちは分かるけど、あの子は危険よ」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
「分かってるけど、納得できない顔です」
「面倒くさいわね、あんた」
「自覚あります」
凛さんは深く息を吐いた。
それから、真面目な顔で言う。
「次に捕まえたら、何かしらの拘束か制御は必要になるわ」
その言葉に、胸が冷える。
「制御って言い方、嫌です」
「嫌でも必要な時があるのよ」
「……」
「クロを閉じ込めたいわけじゃない。でも、止められなければ誰かが傷つく。クロ自身もね」
分かっている。
それは分かっている。
でも、分かることと飲み込めることは違う。
美遊が隣に立つ。
「イリヤ」
「うん」
「守ることと、閉じ込めることは違う」
「……うん」
「でも、止めないと守れない時もある」
美遊の言葉は静かだった。
だから余計に、逃げられなかった。
私はルビーを握る手に力を込める。
クロを閉じ込めたくない。
でも、止められなければ誰かが傷つく。
守ることと縛ることの境目は、思っていたよりずっと細かった。
その夜。
クロは一人で屋根の上にいた。
風が髪を揺らす。
街の灯りは遠い。
捕まりかけた瞬間の感覚が、まだ体に残っていた。
結界。
閉じていく光。
逃げ道がなくなる感覚。
また、押し込められる。
そう思った。
怖かった。
怖かったことが、腹立たしかった。
「……ほんと、むかつく」
でも、それだけではなかった。
イリヤの声が耳に残っている。
待って。
その顔のまま捕まえたら駄目。
分かんないけど嫌だった。
何それ。
意味が分からない。
捕まえようとしたくせに。
閉じ込めようとしたくせに。
それなのに、あの子は途中で止めた。
分かんないけど嫌だった。
そんな理由で。
「……ほんと、意味分かんない」
そう呟いたクロの声は、怒っているはずなのに。
少しだけ迷子みたいだった。