ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
夜の冬木市は、思っていたよりも綺麗だった。
街灯の光。
遠くに見える川。
家々の窓に灯る明かり。
空気は冷たくて、頬を撫でる風は少しだけ気持ちいい。
だけど。
それはそれとして。
「まず地面に降ろして! 空中会議は危ない!」
私は半泣きで叫んだ。
現在、私は魔法少女になっている。
いや、なっているというか、された。
契約書なし。
保護者説明なし。
安全研修なし。
夜間勤務開始。
しかも初日から空中移動。
控えめに言って、前世のブラック企業よりコンプライアンス意識が低い。
「空中会議、ロマンがありません?」
手元のマジカルルビーが、実に楽しそうな声を出す。
「ロマンより安全基準!」
「イリヤさんは本当に現実的ですねぇ」
「現実的じゃなかった結果、前世で死んでるからね!」
「え?」
「こっちの話!」
危ない。
また漏れた。
今夜は情報量が多すぎて、前世の記憶が口からぽろぽろ出てくる。
魔法少女になった。
空を飛ばされた。
夜間労働が始まった。
責任者らしき二人は喧嘩している。
そして、同業者らしき小学生がすでに現場入りしていた。
いや、同業者って何。
魔法少女を職種で見るな。
「確かに、一度下りた方がいいわね」
赤い服の少女――遠坂凛さんが、ようやくまともなことを言った。
私は思わず目を向ける。
「ようやく責任者っぽい発言が出た……!」
「さっきから責任者責任者って、あんたね……」
「実際、責任者ですよね?」
「……まあ、そうだけど」
凛さんが気まずそうに視線を逸らした。
その隣で、金髪縦ロールの少女――ルヴィアさんが優雅に微笑む。
「遠坂凛に責任者という言葉は荷が重いのではなくて?」
「あんたも同じ立場でしょうが!」
「わたくしは責任ある行動を心がけておりますわ」
「どの口が言うのよ!」
「はい、そこまで」
私は両手を上げた。
いや、片手にはルビーがいるので、実質片手だ。
「空中で責任の押しつけ合いをしないでください。落ちたらどうするんですか」
「魔法少女ですから落ちませんよ!」
「ルビーは黙ってて。信用がないから」
「ひどい!」
結局、私たちは近くのビルの屋上へ降りることになった。
足が地面についた瞬間、私は深く息を吐いた。
地面。
なんて素晴らしいものだろう。
人類が基本的に地上で生活している理由がよく分かる。
屋上の向こう側には、さっき見えた青い光の少女が立っていた。
小柄な体。
青を基調にした衣装。
落ち着いた目。
そして、彼女のそばには、もう一本のステッキが浮かんでいる。
ルビーとは違い、静かで、品があり、なぜか見ているだけで安心感があった。
「こちらがサファイアちゃんです!」
ルビーが胸を張るように言った。
ステッキに胸はないけど、雰囲気としては胸を張っていた。
青いステッキが、丁寧に一礼する。
「お初にお目にかかります。マジカルサファイアと申します」
「丁寧……!」
私は思わず声を漏らした。
「同じステッキなのに、こんなに社会性が違う……!」
「イリヤさん!? その比較、私に対してあまりにも不利では!?」
「自覚あるんだ」
「ありません!」
「ないんだ」
サファイアさんは落ち着いた声で続ける。
「姉の非礼、大変失礼いたしました」
「姉なんだ……」
「はい。姉です」
「姉妹格差がすごい」
「イリヤさん!?」
ルビーが空中で震える。
今のところ、私の中でサファイアさんの信頼度は高い。
初対面の印象だけなら、ルビーとの差は大きい。
契約詐欺師と受付担当くらい違う。
「それで」
青い少女が、静かにこちらを見た。
「あなたが、ルビーの契約者?」
声は平坦だった。
冷たいわけではない。
ただ、感情の起伏が薄い。
私は一瞬だけ言葉に詰まった。
綺麗な子だ。
静かな子だ。
でも、静かすぎる。
夜の屋上で、危険な任務の話を聞く小学生の顔じゃない。
「えっと、イリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
「美遊。美遊・エーデルフェルト」
「……」
「……」
美遊は少しだけ沈黙したあと、ぽつりと言った。
「長い」
「それは本当にそう」
初対面でそこを突かれるとは思わなかった。
いや、分かる。
私も最初に自分の名前を認識した時、前世の社内システムのパスワードより長いと思った。
「イリヤでいいよ」
「分かった。イリヤ」
美遊は短く頷いた。
距離感は近くない。
でも、拒絶でもない。
ただ必要なことだけを確認している。
そんな印象だった。
「それで、これから二人には協力してクラスカードを回収してもらうわ」
凛さんが説明を始める。
ようやく説明。
本当にようやく説明。
契約後。
変身後。
空中連行後。
屋上集合後。
そこで、ようやく説明である。
順番がおかしい。
会社なら炎上している。
いや、会社じゃなくても炎上している。
「分かりました」
美遊が即答した。
私は思わず隣を見る。
「分かるの早くない?」
「任務だから」
「任務だからで納得する年齢じゃないよ、私たち」
美遊は不思議そうに首を傾げた。
「必要なら、やる」
その一言に、胸の奥が小さく引っかかった。
必要なら、やる。
聞き覚えがある。
前世で何度も聞いた。
本人が納得しているようで、本当は選択肢を持っていない人の言葉だ。
自分がやらなければならない。
自分がやればいい。
自分が前に出れば済む。
そうやって、どんどん荷物を背負っていく人間の声。
私はそれを、嫌というほど知っている。
「待ってください」
私は手を上げた。
凛さんが眉をひそめる。
「何?」
「説明会を要求します」
「説明会?」
「業務内容、危険性、撤退基準、責任者、報酬、契約解除条件。最低限そこは確認させてください」
ルヴィアさんが扇子を口元に当てる。
「妙に実務的ですわね……」
「命が関わる現場で実務的じゃない方が怖いです」
「まあ、確かに」
凛さんが腕を組む。
「でも魔法少女って、もっと勢いでやるものじゃないの?」
「勢いで危険現場に出すな」
「うっ」
「イリヤ様のご懸念はもっともかと」
サファイアさんが静かに言った。
「サファイアちゃん!?」
ルビーが悲鳴を上げる。
「姉さんは、もう少し説明責任を果たすべきかと」
「説明責任という言葉を妹から聞く日が来るなんて!」
「いい妹さんですね」
「イリヤさんまで!」
私はサファイアさんへの信頼をさらに上げた。
同じステッキでも、ここまで違うものなのか。
育成環境の差だろうか。
いや、ステッキに育成環境って何だ。
「分かったわよ。説明するわ」
凛さんが軽く息を吐いた。
「今、冬木市には七枚のクラスカードが出現しているの」
「七枚」
「それぞれに英霊の力が宿っていて、放置するとかなり危険。私たちの任務は、それを回収すること」
英霊。
クラス。
カード。
冬木。
前世の知識が、全力で叫んでいる。
やっぱりFateじゃん、と。
いや、分かっていた。
イリヤスフィールとして生まれた時点で、何となく覚悟はしていた。
でも、聖杯戦争ではなく魔法少女業務として来るとは思わなかった。
ジャンルの殴り込みが激しい。
「その英霊って、具体的にどのくらい危険なんですか?」
「まあ、普通の魔術師なら即死しかねないくらい?」
「小学生に任せる話じゃないですね」
「だからルビーたちの補助があるのよ」
「補助役が契約詐欺師なんですが」
「名誉毀損です!」
「事実陳列です」
ルビーが悲しげに震えた。
しかし事実は事実である。
説明前に契約した時点で、信用は地に落ちている。
凛さんは咳払いして続けた。
「回収には鏡面界に入る必要があるわ。簡単に言えば、現実世界とは少しズレた空間ね。人目を気にせず戦える代わりに、普通の空間とは勝手が違う」
「安全対策は?」
「そこは臨機応変に」
「出た。現場に丸投げする時の言葉」
「いちいち刺さるわね、あんた……」
ルヴィアさんが優雅に言う。
「撤退判断は、わたくしたちが行いますわ」
「なら撤退基準を数値でください」
「数値?」
「魔力残量何割で撤退とか、負傷したら中止とか、敵の強さが想定以上なら一時撤退とか、そういう基準です」
「それは……状況次第ですわね」
「……まさか決めてない?」
凛さんとルヴィアさんが、そろって視線を逸らした。
私は額を押さえた。
「ブラック現場だ」
「ブラックって何よ」
「説明不足、撤退基準なし、責任の所在曖昧、現場に小学生投入。かなり黒いです」
「言い方!」
「問題ない」
美遊が静かに言った。
私はそちらを見る。
美遊は表情を変えず、まっすぐ前を見ていた。
「私が前に出る」
「問題あるよ!」
思わず声が出た。
美遊がこちらを見る。
「私は慣れている」
「慣れてるから安全ってわけじゃない!」
「そう?」
「そう!」
美遊は本気で不思議そうな顔をしていた。
それが怖い。
この子は、危険を危険として数えていない。
自分が前に出ることを、当然だと思っている。
それは、よくない。
とても、よくない。
「とりあえず、お兄ちゃんに言います」
「待ちなさい!」
凛さんが慌てた。
「魔術関連を一般人に話すわけにはいかないの!」
「未成年を危険業務に巻き込んでおいて、保護者への説明を拒否するんですか?」
「その言い方、本当にやめて……」
「でも事実です」
「ぐっ」
ルヴィアさんが小さく笑う。
「遠坂凛、完全に押されていますわね」
「あなたも同罪です」
「……わたくしもですの?」
「当たり前です」
ルヴィアさんが扇子の向こうで少し黙った。
よし。
両方に刺さった。
「じゃあせめて、私が危ない時はすぐ帰してもらえますか?」
凛さんは真面目な顔になる。
「それはもちろん」
「本当に?」
「ええ」
ルヴィアさんも頷く。
「その点は約束いたしますわ」
「“本当に”って言う人ほど怪しいんですよね」
「どんだけ疑い深いのよ」
「前世で鍛えられました」
「だから前世って何なのよ」
「こっちの話です」
このやり取りもだいぶ慣れてきた。
よくない。
そのうち誰かに本気で突っ込まれそうだ。
「じゃあ、最低限の使い方を確認するわよ」
凛さんが言った。
「使い方?」
「魔法よ。ルビーと契約した以上、簡単な魔術行使はできるはずだから」
「いや、初めての火器訓練を夜の屋上でやるみたいなこと言われても」
「火器じゃないわよ」
「危険性は似たようなものでは?」
「否定しきれないのが腹立つわね……」
まずは飛行。
ルビーが私の周りで楽しそうに光る。
「イリヤさん、先ほども飛べていましたし、簡単ですよ!」
「あれは飛んだんじゃなくて飛ばされたの!」
「では、今度は自主的に」
「高所作業なのに安全帯なし……」
私は恐る恐る浮いた。
足が屋上から離れる。
胃がきゅっと縮む。
「無理無理無理、やっぱり地面がいい!」
「慣れれば快適です!」
「慣れる前提で高所に出すな!」
次に魔力弾。
ルビーが説明する。
「えいっと気持ちを込めて撃つ感じです!」
「説明が感覚派すぎる」
「魔法少女ですから!」
「それで全部通そうとするのやめて」
手を向ける。
光が集まる。
小さな魔力弾が飛んで、屋上の端に設置された簡易結界に弾けた。
「おお……」
少しだけ感動した。
魔法だ。
本当に魔法を使っている。
前世の私が見たら、たぶんかなり興奮する。
ただし、今の私はそれ以上に安全面が気になる。
「これ、誤射したらどうなるの?」
「痛いです」
「痛いで済む?」
「出力次第です」
「怖い」
次に防御。
透明な壁のようなものを展開する。
これは素直にありがたかった。
「防御は大事。これは評価します」
「イリヤさん、上から目線ですねぇ」
「防御手段がある現場は良い現場です」
「なるほど?」
「でも、これで安全と言い切るのは危険」
「疑り深い!」
美遊は隣で、同じ動作を淡々とこなしていた。
飛行も、魔力弾も、防御も。
無駄がない。
動きが綺麗で、迷いがない。
悔しいけれど、美遊は上手い。
きっと努力したのだろう。
もしくは、そうせざるを得ない環境にいたのか。
どちらにせよ、その上手さが少し怖かった。
訓練の合間、私は美遊に近づいた。
「美遊」
「何?」
「美遊は、怖くないの?」
「怖い?」
「カード回収とか、戦うこととか」
美遊は少しだけ考えた。
それから、いつもの平坦な声で言う。
「必要なら、する」
「それ、答えになってないよ」
「……そう?」
「うん」
美遊はまた少し考え込む。
「怖いかどうかは、考えたことがなかった」
「それは、怖いより怖い」
「……?」
美遊は意味が分からないという顔をした。
私はその顔を見て、胸が少し痛くなった。
怖いかどうかを考える余裕もなくなる。
痛いかどうかを後回しにする。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う。
そういう人は、壊れる時まで自分が壊れていることに気づかない。
前世の私は、そうだった。
だから、分かる。
「美遊はさ」
「うん」
「怖かったら、怖いって言っていいんだよ」
美遊は瞬きをした。
ほんの少しだけ。
「……必要?」
「必要。すごく」
「そう」
それだけ言って、美遊は視線を逸らした。
分かったのかどうかは分からない。
でも、その言葉は少しだけ彼女の中に残ったような気がした。
「ちょっと、遠坂凛。あなたの説明、やはり雑すぎますわ」
「はあ!? あんたの説明が回りくどすぎるのよ!」
「品性の差ですわ」
「今ここで品性の話する!?」
凛さんとルヴィアさんがまた喧嘩を始めた。
私はため息をつく。
せっかく少し真面目な空気だったのに。
いや、重くなりすぎないのは助かるけど。
「大人が喧嘩すると、子どもがしっかりせざるを得ないんですよ」
「うっ」
「正論ですわね」
「ルヴィアさんも当事者です」
「……」
ルヴィアさんが黙った。
凛さんも黙った。
よし。
今夜何回目か分からない現場整理成功である。
その時、ルビーとサファイアさんが同時に光った。
凛さんの表情が変わる。
「カード反応が強くなったわ」
ルヴィアさんも夜の空を見た。
「今夜中に確認すべきですわね」
「今、説明会の途中なんですけど」
「現場で学びましょう!」
ルビーが明るく言った。
「また実戦研修!」
前世で一番聞きたくなかった言葉ランキング上位である。
実戦で覚えろ。
やりながら慣れろ。
分からなかったら聞いて。
でも聞く暇はない。
そうして人は壊れていく。
「行く」
美遊が前へ出た。
「待って、美遊。行くの早い」
「必要だから」
「だからその“必要だから”が危ないんだって」
美遊はやはり首を傾げる。
駄目だ。
この子、本当に危険に対するブレーキが薄い。
私は息を吐いた。
正直、逃げたい。
帰りたい。
寝たい。
パジャマに着替えて布団に入りたい。
明日、何事もなかった顔で学校に行きたい。
でも、ここで私だけ帰ったら、美遊はたぶん一人で前に出る。
それは、嫌だった。
「分かりました。行きます」
凛さんが少し驚いた顔をする。
「いいの?」
「よくはないです。でも、行きます。ただし条件があります」
「条件?」
「危ないと思ったら撤退。怪我したら中止。美遊が無理しそうになったら止める。あと、ルビーは勝手に契約内容を増やさない」
「最後だけ私指定!?」
「一番信用がないから」
「イリヤさん!?」
「妥当かと」
サファイアさんが静かに言った。
「サファイアちゃんまで!?」
ルビーが絶望したように震える。
美遊が私を見る。
「私は、問題ない」
「美遊の問題ないは、一旦保留にします」
「保留?」
「信用してないんじゃなくて、心配してるの」
美遊は、そこで少しだけ黙った。
ほんのわずかに、目が揺れた気がした。
「心配」
「うん。心配」
「……そう」
美遊はそれ以上何も言わなかった。
でも、さっきよりも少しだけ、私を見る目が変わった気がした。
凛さんとルヴィアさんが術式を展開する。
屋上の空気が震えた。
夜の景色が、薄い膜越しに見るように歪む。
鏡面界。
現実とはズレた空間。
その入り口が、ゆっくりと開いていく。
私は喉を鳴らした。
怖い。
普通に怖い。
足がすくむ。
手が冷たい。
心臓がうるさい。
でも、怖いと思えるなら、まだ大丈夫だ。
前世の私は、怖いと思う余裕もなく働いていた。
痛いとも、苦しいとも、休みたいとも言えなかった。
今の私は、怖いと言える。
それだけで、少しだけマシだ。
隣で、美遊が静かに前へ進む。
美遊は怖いと言わない。
だから余計に、目が離せなかった。
「さあ、初任務です!」
ルビーが明るく言った。
「帰っていいですか?」
「駄目」
凛さんが即答した。
「知ってた」
私はルビーを握り直す。
美遊が隣に立つ。
サファイアさんが静かに光る。
そして、私たちは鏡の向こうの冬木市へ踏み込んだ。
音が消えた。
風が止まった。
街の灯りはあるのに、人の気配がない。
いつもの冬木市に似ているのに、どこか違う。
空気が重い。
暗がりの奥で、何かが動いた。
私は息を呑む。
怖い。
逃げたい。
帰って寝たい。
けれど、隣の女の子が少しも怖がっていないことの方が、私にはずっと怖かった。