ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。   作:健全な中に隠れた性癖

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第6話 セイバーカードと嫌な既視感

 

 

 朝。

 

 玄関を出た瞬間、私は固まった。

 

 家の前に、美遊がいた。

 

 青い髪。

 

 静かな目。

 

 きちんと整った制服。

 

 そして、いつもの無表情。

 

「おはよう、イリヤ」

 

「おはよう、美遊……え、いつからいたの?」

 

「少し前」

 

「少しって何分?」

 

「三十分」

 

「それは少しじゃない!」

 

 朝からいきなり心臓に悪い。

 

 三十分。

 

 小学生の朝における三十分は、かなり大きい。

 

 私ならその時間、布団の中で健康管理という名の二度寝をしている。

 

 美遊は真顔のまま、少しだけ首を傾げた。

 

「イリヤと一緒に行きたかったから」

 

「……」

 

 直球。

 

 朝から直球。

 

 社会人時代には受けたことのない純度の好意である。

 

 前世で朝に待っていたものといえば、未読メールと未処理タスクと上司のチャット通知だった。

 

 それが今世では、美遊が待っている。

 

 何この落差。

 

 心が処理落ちする。

 

「えっと……待っててくれたのは嬉しいけど、寒くなかった?」

 

「少し」

 

「寒かったんだ」

 

「でも、イリヤと行きたかった」

 

「二回目の直球!」

 

 私は思わず胸を押さえた。

 

 これは友情。

 

 健全な友情。

 

 大丈夫。

 

 美遊はただ、友達と一緒に登校したいだけ。

 

 でも、言い方の破壊力が高い。

 

 真顔で言われると、情緒に来る。

 

「次からは、もう少し遅くていいからね」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「努力する」

 

「努力対象なんだ……」

 

 美遊はこくりと頷いた。

 

 この子、たぶん本気で三十分前を少しだと思っている。

 

 危ない。

 

 距離感と時間感覚が少し危ない。

 

 私が今後調整していく必要がある。

 

 健全な友情には、適切な待ち合わせ時間が必要だ。

 

 学校までの道を、美遊と二人で歩く。

 

 美遊は私の少し隣。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 ただ、私が少し歩幅を変えると、すぐに合わせてくる。

 

 精度が高い。

 

 見守られている感じがする。

 

 ありがたい。

 

 ありがたいけれど、微妙に落ち着かない。

 

「美遊、歩幅合わせるの上手いね」

 

「イリヤが歩きやすい方がいい」

 

「ありがとう。でも朝から気遣いの精度が高すぎて、ちょっとびっくりする」

 

「びっくり?」

 

「嬉しいけど、少し重い」

 

「重い」

 

「あ、悪い意味だけじゃないよ?」

 

「重さは、悪い?」

 

「荷物なら悪い時もある。気持ちなら……時と場合による」

 

 美遊は真剣に考え込んだ。

 

 しまった。

 

 この子は言葉をそのまま受け取る。

 

 私は慌てて言い足した。

 

「美遊が一緒に来てくれるのは嬉しいよ。だから大丈夫。ただ、寒い中で三十分は待ちすぎ」

 

「分かった。明日は二十分にする」

 

「減らし方が刻みすぎる!」

 

 せめて五分前でいい。

 

 そう言うと、美遊はまた真剣に頷いた。

 

 前途多難である。

 

 でも、嫌ではなかった。

 

 教室に入ると、龍子たちがすぐに寄ってきた。

 

「イリヤ、美遊と一緒に来たの?」

 

「うん。途中で会って」

 

 厳密には家の前で待っていた。

 

 でも、それをそのまま言うと色々誤解を招きそうなので、表現をやわらかくした。

 

 美遊は隣で静かに言う。

 

「待っていた」

 

「美遊さん!?」

 

「三十分」

 

「詳細まで!」

 

 龍子が目を丸くする。

 

「すごーい! 美遊、早起きだね!」

 

「イリヤと行きたかったから」

 

 美々が両手を合わせた。

 

「仲良しだね」

 

「健全な友情です」

 

「誰も変なこと言ってないよ?」

 

 雀花に笑われた。

 

 しまった。

 

 先手を打ちすぎた。

 

 でも仕方ない。

 

 ルビーが近くにいたら絶対に茶化す。

 

 そういう空気に対して、私は常に健全防衛ラインを引いておかなければならない。

 

 授業中。

 

 私は黒板を見ているふりをしながら、何度か視線を感じた。

 

 敵意ではない。

 

 監視でもない。

 

 たぶん心配。

 

 いや、心配にしては少し長い。

 

 横目で見ると、美遊がこちらを見ていた。

 

 目が合う。

 

 美遊は、何事もなかったように黒板へ視線を戻した。

 

 私は小さく息を吐く。

 

 観察対象になっている。

 

 完全に。

 

 休み時間。

 

 龍子たちと話していると、美遊が少し離れたところでこちらを見ていた。

 

「美遊もこっち来なよ!」

 

 龍子が手招きする。

 

 美遊は少し考えてから、静かに答えた。

 

「イリヤが楽しそうだから、見ている」

 

「観察対象になってる!?」

 

「見ているだけ」

 

「それを観察って言うんだよ!」

 

 美遊は首を傾げた。

 

 美々がにこにこしている。

 

「美遊ちゃん、イリヤちゃんのこと好きなんだね」

 

「好き」

 

「即答!?」

 

 私は変な声を出した。

 

 美遊は相変わらず真顔だ。

 

 彼女にとっては、たぶん深い意味ではない。

 

 友達として。

 

 安心できる相手として。

 

 そういう意味だ。

 

 そういう意味のはずだ。

 

 健全。

 

 これは健全。

 

 私は自分に言い聞かせた。

 

「イリヤ、顔赤い?」

 

 那奈亀が不思議そうに聞いてきた。

 

「赤くない。これは室温」

 

「室温?」

 

「そう。室温のせい」

 

 たぶん違う。

 

 でもそういうことにした。

 

 放課後。

 

 宿題の量を確認していると、美遊が私の机の前に立った。

 

「今日は、宿題が少ない」

 

「うん、そうだね」

 

「だから一緒に帰れる」

 

「なんで私の宿題量を把握してるの?」

 

「同じクラスだから」

 

「理屈は合ってるけど、運用が少し重い!」

 

 美遊は不思議そうにしている。

 

 この子の中では、同じクラスだから把握できる、把握できるから問題ない、ということになっているらしい。

 

 間違ってはいない。

 

 間違ってはいないけど、距離感が強い。

 

「いやあ、美遊さん、着々とイリヤさんマイスターになってますねぇ」

 

 どこからともなく、ルビーの声がした。

 

 私は即座にランドセルを押さえる。

 

 そこに隠れていた。

 

「変な資格を作らないで」

 

「称号です!」

 

「もっと駄目」

 

「姉さん、言い方に問題があります」

 

 サファイアさんの落ち着いた声が続く。

 

「サファイアちゃん、最近私に厳しくないですか!?」

 

「事実を述べているだけです」

 

「妹が冷静!」

 

 ルビーが震える。

 

 相変わらずだ。

 

 この二本のステッキは、存在しているだけで空気を賑やかにする。

 

 できれば、学校内では静かにしていてほしい。

 

 主に私の社会的安全のために。

 

 放課後、人気の少ない公園に呼び出された。

 

 そこには、凛さんとルヴィアさんがいた。

 

 私はその時点で嫌な予感を覚えた。

 

 この二人が揃っている。

 

 つまり、何かある。

 

 そして、だいたい私にとって嬉しくない。

 

「次のカード反応が出たわ」

 

 凛さんが真剣な顔で言った。

 

「来たか、継続案件」

 

「仕事みたいに言わないの」

 

「実際、業務委託っぽいので」

 

「契約は結んでませんわよ?」

 

 ルヴィアさんが優雅に言う。

 

「なおさら悪質では?」

 

「……」

 

 ルヴィアさんが扇子の向こうで黙った。

 

 よし。

 

 今日も一刺し成功。

 

 凛さんが咳払いをする。

 

「今回の反応は前回以上に強いわ」

 

「前回以上?」

 

 前回。

 

 ライダー。

 

 速すぎて見えなくて、当たったら死にそうで、実際に美遊が怪我をした。

 

 あれ以上。

 

 嫌すぎる。

 

「クラスは?」

 

 美遊が静かに聞いた。

 

 凛さんの表情が引き締まる。

 

「セイバーよ」

 

 その単語だけで、胸の奥が冷たくなった。

 

 セイバー。

 

 前世の知識がざわつく。

 

 青い騎士。

 

 見えない剣。

 

 王。

 

 勝利の剣。

 

 どれも、断片的だ。

 

 でも、危険だということだけは分かる。

 

「……セイバーって、やっぱり強いんですよね?」

 

「基本七クラスの中でも最優と言われるクラスね」

 

「初任務の次に出していい敵じゃない」

 

「イリヤさん、成長が早いですね!」

 

 ルビーが楽しそうに言う。

 

「運営の難易度調整が雑!」

 

「カードの出現順は私たちが決めているわけではありませんわ」

 

「それはそうなんでしょうけど、現場は不満です」

 

「現場って……」

 

 凛さんが頭を抱えた。

 

 私は両手を腰に当てる。

 

「では、出発前に安全確認会議を行います」

 

「また会議?」

 

「またじゃなくて、今までが足りなかったんです」

 

 議題。

 

 一、撤退基準。

 

 二、美遊の単独突撃禁止。

 

 三、ルビーの精神論禁止。

 

 四、凛さんとルヴィアさんの喧嘩禁止。

 

 五、負傷時は即時中止または後退。

 

 凛さんが半眼になる。

 

「あんた、完全に現場監督みたいになってきたわね」

 

「現場の安全は大事です」

 

「魔法少女というより、安全衛生委員会ですわ」

 

「その委員会、今から設置してください」

 

 私は真顔で言った。

 

 ルヴィアさんは少しだけ笑いを堪えていた。

 

 笑い事ではない。

 

 命がかかっている。

 

「私は、イリヤの近くにいる」

 

 美遊が静かに言った。

 

「うん。それは助かる」

 

「イリヤが危なくなったら、私が前に出る」

 

「それは助からない!」

 

「難しい」

 

「少しずつ覚えようね」

 

 美遊は真剣に頷く。

 

 たぶん、彼女の中では「守る=自分が前に出る」になっている。

 

 それを少しずつ変えないといけない。

 

 守るために自分が壊れるのは、違う。

 

 美遊には、そこを覚えてほしい。

 

 鏡面界に入ると、空気が変わった。

 

 前回のライダー戦とは違う。

 

 音が消えた街。

 

 人の気配がない道路。

 

 そこまでは同じ。

 

 けれど、空気の張り詰め方が違う。

 

 まるで、街全体が一本の刃物になったみたいだった。

 

 そこにいるだけで、肌が切られそうになる。

 

 速いとか、危ないとか、そういう話じゃない。

 

 もっと重い。

 

 もっと鋭い。

 

「美遊様、正面に反応です」

 

 サファイアさんが言う。

 

「イリヤさん、気合いです!」

 

「精神論禁止って言ったばかり!」

 

「では、根性です!」

 

「言い換えただけ!」

 

 そんなやり取りをしていないと、足がすくみそうだった。

 

 暗がりの奥。

 

 ゆっくりと、人影が現れた。

 

 青い鎧を思わせる影。

 

 顔は黒く塗りつぶされている。

 

 けれど、その立ち姿には隙がなかった。

 

 騎士。

 

 そんな言葉が、自然と頭に浮かぶ。

 

 手には剣。

 

 ただし、見えない。

 

 空気だけが歪んでいる。

 

 そこに何かがあると、分かるのに見えない。

 

 最悪だ。

 

 見えない武器ほど怖いものはない。

 

 労働契約の隠し条項と同じくらい怖い。

 

 知っている。

 

 いや、正確には、知っている気がする。

 

 青い鎧。

 

 見えない剣。

 

 王の気配。

 

 画面越しに見たはずの存在が、今、目の前にいる。

 

「来る!」

 

 凛さんの声。

 

 次の瞬間、セイバーの影が剣を振るった。

 

 見えない斬撃が地面を裂いた。

 

 アスファルトが割れ、風圧が頬をかすめる。

 

「何今の!? 見えないんだけど!」

 

「剣が不可視化されてる!」

 

「初心者に見えない武器を出すな!」

 

「敵に言って!」

 

「こっちの事情も考えてほしい!」

 

 ルビーが光る。

 

「イリヤさん、防御を!」

 

「分かってる!」

 

 私は咄嗟に結界を張った。

 

 次の斬撃が、透明な壁にぶつかる。

 

 重い。

 

 ライダーの鎖とは違う。

 

 あれは速かった。

 

 これは重い。

 

 一撃一撃が、こちらの防御ごと叩き潰そうとしてくる。

 

 腕がしびれる。

 

 歯を食いしばる。

 

「美遊、前に出すぎない!」

 

「でも」

 

「一緒に!」

 

 美遊が一瞬だけ止まった。

 

 そして、私の横に立つ。

 

「横」

 

「そう、横!」

 

「前じゃなくて」

 

「うん、前じゃなくて!」

 

 美遊は頷いた。

 

 小さなことだけど、すごく大事なことだった。

 

 前に出て全部受けるのではなく、横に立つ。

 

 一緒に戦う。

 

 少しずつ。

 

 本当に少しずつだけど、美遊は覚えてくれている。

 

「見えない剣って、労働契約の隠し条項みたいで最悪!」

 

「戦闘中に何言ってんのよ!」

 

「見えない危険が一番怖いんです!」

 

 凛さんの声に叫び返しながら、私は結界を張り直す。

 

 セイバーの影は、容赦なく間合いを詰めてくる。

 

 美遊が魔力弾を撃つ。

 

 サファイアさんの指示に従い、角度を変え、距離を取る。

 

 私は防御と牽制。

 

 攻撃はまだ下手だ。

 

 けれど、前回より少しだけ分かる。

 

 どこに立てば美遊が動きやすいのか。

 

 どこを防げば斬撃を逸らせるのか。

 

 怖い。

 

 怖いけれど、まったく何もできないわけではない。

 

「イリヤの横にいる」

 

 美遊が言った。

 

「うん、横にいて!」

 

「イリヤが危なければ、引く」

 

「そう! 一緒に引く!」

 

「分かった」

 

 よし。

 

 言葉が通っている。

 

 それだけで、少しだけ心が軽くなる。

 

 けれど、セイバーの影は甘くなかった。

 

 何度目かの攻防のあと、影がふいに動きを止めた。

 

 剣を構える。

 

 見えない剣なのに、構えただけで空気が変わった。

 

 周囲の魔力が一点に集まっていく。

 

 凛さんの声が鋭く飛ぶ。

 

「まずい、あれは受けちゃ駄目!」

 

 分かる。

 

 言われなくても分かる。

 

 あれは駄目だ。

 

 防御とか、根性とか、そういう話じゃない。

 

 当たったら終わる。

 

 美遊が一歩前へ出ようとした。

 

「私が――」

 

「駄目!」

 

 私は美遊の手を掴んだ。

 

 冷たい手。

 

 でも、確かにそこにある手。

 

「一緒に下がる!」

 

「でも」

 

「一緒!」

 

 美遊が私を見る。

 

 一瞬だけ、迷ったような顔をした。

 

 そして頷く。

 

「分かった」

 

 私たちは後ろへ飛んだ。

 

 けれど、完全には避けきれなかった。

 

 セイバーの影が剣を振り下ろす。

 

 見えない何かが、空間ごと叩き割るように迫ってくる。

 

「ルビー、防御!」

 

「全力で!」

 

 結界を展開する。

 

 斬撃の余波がぶつかった。

 

 体ごと吹き飛ばされそうになる。

 

 その瞬間。

 

 視界が変わった。

 

 炎。

 

 燃える街。

 

 黒い泥。

 

 白い城。

 

 金色の光。

 

 誰かが叫んでいる。

 

 アイリ、と。

 

 遠くで、少女が泣いている。

 

 青い騎士が剣を握っている。

 

 低い声が命じる。

 

 壊せ、と。

 

「……っ!」

 

 息が止まった。

 

 胸の奥に、知らない感情が流れ込んでくる。

 

 後悔。

 

 怒り。

 

 屈辱。

 

 守れなかったもの。

 

 届かなかった願い。

 

 私のものではない。

 

 なのに、痛い。

 

 焼けるように痛い。

 

「イリヤ?」

 

 美遊の声が聞こえた。

 

 現実に引き戻される。

 

 でも、体が動かなかった。

 

 セイバーの影が追撃に入る。

 

「イリヤ、下がって」

 

 美遊が私の横に立った。

 

 青い防御が広がる。

 

 斬撃を受け、衝撃で彼女の髪が揺れる。

 

 でも、美遊は前に出すぎていなかった。

 

 私を置いて受けに行ったのではない。

 

 横に立って、支えてくれていた。

 

「美遊……!」

 

「一緒に下がる」

 

 その言葉に、私は目を見開いた。

 

 美遊が。

 

 美遊が、そう言った。

 

 一人で前に出るのではなく。

 

 自分だけで受けるのではなく。

 

 一緒に下がる、と。

 

「うん……!」

 

 私は頷いた。

 

 凛さんの声が響く。

 

「一度撤退するわ!」

 

「撤退判断! 素晴らしい!」

 

「今それ言う!?」

 

「でも本当に素晴らしいです!」

 

 撤退。

 

 なんて素晴らしい言葉だろう。

 

 前世の現場にも、もっと必要だった。

 

 危険なら下がる。

 

 無理なら止める。

 

 できないなら仕切り直す。

 

 それは逃げではない。

 

 生きるための判断だ。

 

「作戦名、戦略的撤退ですね!」

 

 ルビーが言う。

 

「その言い方は好き!」

 

「やりました!」

 

「でもルビーの精神論はまだ許してない!」

 

「厳しい!」

 

 ルヴィアさんが術式を展開する。

 

 凛さんが補助する。

 

 私と美遊は後退しながら、鏡面界の出口へ向かった。

 

 セイバーの影は追ってくる。

 

 けれど、出口が開く方が早かった。

 

 世界が歪む。

 

 音が戻る。

 

 風が戻る。

 

 現実の冬木市へ戻った瞬間、私は膝をついた。

 

「イリヤさん?」

 

 ルビーの声。

 

 少し心配そうだった。

 

 珍しい。

 

 私は自分の手を見た。

 

 震えている。

 

 寒いわけではない。

 

 怖いだけでもない。

 

 あの映像。

 

 炎。

 

 泥。

 

 白い城。

 

 青い騎士。

 

 アイリという声。

 

 それが、頭から離れない。

 

「……今の、何?」

 

 声がかすれた。

 

 凛さんが顔を覗き込む。

 

「何か見えたの?」

 

「分からない。炎と、泥と……誰かの声が」

 

 説明しようとして、言葉が詰まる。

 

 どう言えばいいのか分からない。

 

 私の記憶ではない。

 

 でも、知らないはずなのに、知っている気がした。

 

「顔色が悪い」

 

 美遊が私の前にしゃがんだ。

 

 その目は静かだけれど、昨日よりもずっとこちらを見ている。

 

 観察ではなく、心配。

 

 私は少しだけ笑おうとして、うまくできなかった。

 

「大丈夫……じゃないかも」

 

 美遊が瞬きをした。

 

 ほんの少しだけ目を見開く。

 

 私が大丈夫と言わなかったことに気づいたのだろう。

 

「なら、休む」

 

「うん。休む」

 

 美遊は私の手を取った。

 

「美遊?」

 

「手が冷たい」

 

「あ、うん」

 

「温める」

 

「……真顔でそういうこと言うの、情緒に来るから」

 

「情緒」

 

「今はちょっと弱ってるから、優しく扱って」

 

「分かった。優しくする」

 

「言い方!」

 

 私は反射的にツッコんだ。

 

 少しだけ、空気が緩む。

 

 ルビーが嬉しそうに揺れた。

 

「いやあ、青春ですねぇ」

 

「健全な友情です!」

 

「姉さん、茶化しすぎです」

 

「サファイアちゃん、最近本当に厳しい!」

 

 いつものやり取り。

 

 それに救われる。

 

 怖かった。

 

 今も怖い。

 

 でも、現実に戻ってきた。

 

 美遊の手がある。

 

 ルビーがうるさい。

 

 サファイアさんが冷静に刺す。

 

 凛さんとルヴィアさんが難しい顔で相談している。

 

 それだけで、少しだけ息ができた。

 

 その日は、それ以上の戦闘はなかった。

 

 セイバーカードは回収できなかった。

 

 作戦を立て直すことになった。

 

 家に帰って、変身を解いて、ベッドに倒れ込む。

 

 体は疲れている。

 

 けれど、眠れそうにない。

 

 目を閉じると、また炎が見えた。

 

 燃える街。

 

 黒い泥。

 

 白い城。

 

 そして、青い騎士の横顔。

 

 知っている。

 

 そんなはずはないのに、私はそれを知っている気がした。

 

「次は作戦会議ですね!」

 

 ルビーが明るく言った。

 

「やっと会議が先に来た……」

 

 私は布団に顔を埋める。

 

 本来なら、そこは喜ぶべきところだ。

 

 説明より先に契約。

 

 研修より先に実戦。

 

 そういう流れよりは、ずっと健全である。

 

 でも、今はうまく笑えなかった。

 

 セイバーカード。

 

 あれは、ただの英霊の力じゃない。

 

 英霊の記録だけじゃない。

 

 もっと別の何かが混ざっている。

 

 そんな気がした。

 

 私は目を閉じる。

 

 炎が揺れる。

 

 黒い泥が流れる。

 

 誰かの声が、遠くで響く。

 

 ――壊せ。

 

 胸の奥が、冷たくなった。

 

 セイバーカード。

 

 あれは、たぶん。

 

 ただのクラスカードじゃない。

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