ブラック企業で過労死した俺、今世はイリヤに転生しました。なお魔法少女業務は聞いてません。 作:健全な中に隠れた性癖
眠った気がしなかった。
目を閉じれば、炎が見えた。
燃える街。
黒い泥。
白い城。
誰かが、誰かを呼ぶ声。
アイリ、と。
それから、青い騎士。
剣を握り、何かを耐えるように立っていた横顔。
あれは夢だ。
そう思いたかった。
けれど、夢にしては感情が生々しすぎた。
怒り。
後悔。
屈辱。
届かなかった願い。
私のものではないはずなのに、胸の奥に焼きついて離れなかった。
目覚まし時計が鳴る。
いつもなら地獄の門の開閉音だとツッコミを入れるところだけれど、今日はその余裕もなかった。
ただ、音が遠い。
体は布団の中にあるのに、心だけまだあの炎の中に置き去りにされているみたいだった。
「イリヤ様」
扉の向こうから、セラの声がした。
「起床のお時間です」
「……起きてる」
声がかすれた。
正確には、起きているというより、眠れていなかった。
扉が開く。
セラが部屋に入ってきて、すぐに眉をひそめた。
「イリヤ様、お顔の色が優れませんが」
「心が残業してました……」
「また妙なことを」
セラはため息をつきながらも、私の額に手を当ててくれる。
熱はない。
たぶん、体調不良ではない。
いや、心の体調不良ではある。
「イリヤ、寝不足?」
リズがひょこっと顔を出した。
「たぶん。あと記憶酔い」
「記憶酔い」
「自分でもよく分からない」
リズは少し考え込んだあと、こくりと頷いた。
「大変」
「うん。大変」
分かっているのかは不明だけど、その一言だけで少し楽になった。
説明しろと言われない。
何があったのか詰められない。
ただ、大変だね、と受け止められる。
それだけで、今はありがたかった。
制服に着替え、鏡を見る。
銀色の髪の少女が、少し青ざめた顔でこちらを見返していた。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
今の私。
でも昨夜、見えたものは何だったのだろう。
私の記憶ではない。
少なくとも、今の私の記憶ではない。
前世の記憶でもない。
あんな炎も、泥も、白い城も、私は経験していない。
それなのに、知っている気がする。
それが一番、気持ち悪かった。
朝食の席につくと、お兄ちゃんがすぐに気づいた。
「イリヤ、顔色悪いぞ。今日は無理するなよ」
「お兄ちゃんもね」
「俺は大丈夫だって」
「禁止ワード二連続」
「またか」
いつものやり取り。
だけど、今日は少しだけ違って聞こえた。
お兄ちゃんの「大丈夫」と、美遊の「問題ない」は似ている。
どちらも、相手を安心させるための言葉。
けれど、本人が本当に大丈夫かどうかは、別の話だ。
お兄ちゃんは優しい。
美遊は静かだ。
でも、どちらも自分を後回しにする匂いがする。
前世で何度も見た。
そういう人は、静かに壊れる。
壊れる直前まで、自分でも気づかない。
「イリヤ?」
お兄ちゃんが心配そうに覗き込んでくる。
私は慌てて味噌汁を飲んだ。
「大丈夫……じゃなくて、ちょっと寝不足。でも学校には行ける」
「無理はするなよ」
「だから、その言葉はお兄ちゃんにも返すからね」
「分かった分かった」
「分かってなさそう」
お兄ちゃんは苦笑した。
その笑い方が優しくて、少し怖い。
でも、今は深く考えない。
目の前の朝ごはんを食べる。
温かい味噌汁。
白いご飯。
卵焼き。
この日常がある。
炎ではなく、朝の湯気がある。
そう確認するように、私はゆっくり箸を動かした。
家を出ると、美遊がいた。
昨日と同じように、家の前に立っている。
きちんと制服を着て、背筋を伸ばし、静かにこちらを見ていた。
「おはよう、イリヤ」
「おはよう、美遊。……まさかまた三十分前から?」
「違う」
「よかった」
「四十分前」
「増えてる!」
思わず声が裏返った。
美遊は真顔のままだ。
「イリヤの顔色が悪かったから」
「まだ会う前だよね?」
「昨日の帰り、悪かった」
「観察記録が継続されてる!」
「うん」
「肯定した!」
美遊は悪びれない。
いや、悪いことをしている意識がないのだろう。
彼女にとっては、私が心配だから見ている。
ただそれだけ。
それだけなのに、距離感が強い。
「昨日、イリヤは大丈夫じゃないと言った」
「うん」
「だから、今日は見る」
「見るの方向性が強いけど……心配してくれてるのはありがとう」
「うん」
美遊は小さく頷いた。
私は少しだけ息を吐く。
重い。
若干重い。
でも、悪くない重さだ。
心配という形でこちらに向けられているものだから、雑に拒む気にもなれない。
ただし、四十分前待機は修正対象である。
「明日からは五分前でお願いします」
「五分」
「そう。健全な待ち合わせ時間」
「……努力する」
「努力対象なんだね……」
前途多難だった。
学校では、私はいつもよりぼんやりしていた。
黒板の文字を見ているはずなのに、一瞬、白いチョークの線が炎の揺らぎに見える。
赤い丸が、黒い泥に沈む光に見える。
瞬きをすると、ただの板書に戻る。
ただの疲れ。
ただの寝不足。
そう思おうとしても、胸の奥がざわざわした。
「イリヤちゃん、今日すごく眠そう」
美々が心配そうに声をかけてくれた。
「心が夜勤明け」
「夜更かししたの?」
龍子が首を傾げる。
「ある意味、夜勤」
「イリヤ、たまに言うことが大人みたい」
「大人にはならなくていいよ。特に前世の私みたいな大人には」
「ぜんせ?」
「こっちの話」
先生に当てられた時、私は一瞬答えに詰まった。
黒板の問題は分かる。
たぶん分かる。
でも、意識が少し遅れていた。
すると隣から、小さな声がした。
「三十二」
美遊だった。
私はそれをそのまま答える。
先生が頷く。
助かった。
「ありがとう、美遊」
「イリヤの補助」
「補助はありがたいけど、業務感がすごい」
美遊は少し考える。
「友達の補助」
「うん、そっちは可愛い」
美遊が瞬きをした。
ほんの少しだけ、顔が柔らかくなった気がした。
たぶん気のせいではない。
最近、私は美遊の表情のわずかな変化が少しずつ分かるようになってきた。
それが嬉しいような。
危ないような。
いや、健全。
これは健全な友達理解である。
放課後。
凛さんとルヴィアさんに呼び出された場所は、ルヴィアさんの屋敷の一室だった。
広い。
とても広い。
机が長い。
椅子が高そう。
紅茶の香りがする。
会議室というより、貴族の作戦本部である。
ただし、議題は魔法少女業務の安全管理。
落差がすごい。
私は鞄からノートを取り出し、机の上に置いた。
凛さんが眉を上げる。
「あんた、それ何?」
「会議資料です」
「会議資料!?」
ルヴィアさんが扇子を広げた。
「小学生が持ってくるものではありませんわね」
「小学生を危険任務に出す方がもっと変です」
「それは……」
「また正論で殴ってくるわね、あんた」
「今回は本当に必要です」
私はノートを開いた。
前世で嫌というほど作らされた会議資料。
まさか転生後、小学生になってまで役立つとは思わなかった。
いや、役立ってほしくなかった。
でも命が関わるなら話は別だ。
「健全な魔法少女会議を開催します」
ルビーが空中で震えた。
「夢がない!」
「夢だけで死にかけたので」
「ぐうっ」
「姉さん、イリヤ様の判断は妥当かと」
「サファイアちゃんまで!」
サファイアさんは今日も冷静だった。
信頼できる。
ルビーと同じステッキとは思えない。
「議題は八つです」
私はノートを指で押さえる。
「一、セイバーカードの能力整理。二、見えない剣への対策。三、宝具級攻撃への撤退基準。四、美遊の単独前進禁止。五、ルビーの精神論禁止。六、凛さんとルヴィアさんの喧嘩禁止。七、私が見た謎の記憶について。八、再戦するか、一時保留するか」
凛さんが頬を引きつらせた。
「思ったより本格的ね……」
「前世で嫌というほど会議資料を作らされました」
「前世って何なのよ、本当に」
「こっちの話です」
ルヴィアさんが資料を覗き込む。
「しかし、内容は合理的ですわ」
「同意いたします」
サファイアさんも頷く。
ルビーだけが不満そうに揺れた。
「私だけ禁止事項に入ってません?」
「入ってます」
「なぜ!?」
「前科」
「前科!?」
「妥当かと」
「サファイアちゃん、妹なのに容赦がない!」
まずはセイバーカードの能力整理。
凛さんとルヴィアさんが説明する。
セイバーは基本七クラスの中でも最優。
高い身体能力。
高い対魔力。
正面戦闘に強く、一撃が重い。
そして、剣が見えない。
昨日のあの大技のような魔力収束攻撃は、まともに受けてはいけない。
「つまり、正面から殴り合うのは駄目」
「そうね」
「でも、正面突破が一番早い」
美遊が静かに言った。
私は彼女を見た。
「美遊さん?」
「……禁止?」
「禁止」
「分かった」
美遊が素直に頷いた。
私は思わず少し笑った。
「ちゃんと止まれた。偉い」
「偉い」
美遊が小さく繰り返した。
表情はあまり変わらない。
でも、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
しまった。
褒めた時の美遊、ちょっと可愛い。
健全な意味で。
あくまで健全な意味で。
「次に、見えない剣への対策です」
私はノートに書いた図を見せる。
かなり雑な図だ。
棒人間。
セイバーの影。
剣の予想範囲。
防御結界。
小学生のノートとしては頑張った。
前世の会議資料としては完全にアウトである。
でも今は十分だ。
「剣が見えないなら、風圧と地面の切れ方で軌道を見る。防御は広めに張る。美遊は近づきすぎない。私は防御と牽制。凛さんとルヴィアさんは拘束術式。サファイアさんは美遊の射撃補助。ルビーは私の魔力制御補助」
「つまり私は盾役?」
自分で言ってから、少し嫌な予感がした。
凛さんが頷く。
「あなた、防御は比較的安定してるし」
「適性があるから仕事が増えるやつだ」
「今回は安全のためです!」
ルビーが元気よく言う。
「その言い方、信用できるようで信用できない」
「なぜですか!?」
「歴史が浅い信用なので」
「イリヤさん、私との信頼関係を育てる気あります!?」
「まず契約詐欺を反省してから」
ルビーが沈んだ。
ステッキなのに沈んだ。
美遊が静かに言う。
「なら、私が盾になる」
「ならない」
「即答」
「盾は役割であって、自己犠牲ではありません。そこ重要」
美遊は少し考える。
「役割と、自己犠牲は違う」
「そう。役割は交代できる。自己犠牲は美談に見せかけた一方通行だから駄目」
「難しい」
「うん。難しい。でも大事」
美遊はこくりと頷いた。
次は撤退基準。
ここが一番大事だ。
私はノートのページをめくる。
「セイバーの影が大技を構えたら、即時撤退。防御で受けない。無理に止めない。美遊が前に出ない。凛さんかルヴィアさんが撤退指示を出した場合も即撤退。あと、私が撤退と言ったら全員下がる」
凛さんが眉を上げる。
「あんたが撤退指示出すの?」
「私が一番逃げる判断が早いので」
「それ、自慢になるの?」
「生き残るには強みです」
ルヴィアさんが少し感心したように頷く。
「確かに、逃げる判断が早いことは悪いことではありませんわ」
「一理あります」
サファイアさんも同意する。
ルビーだけが楽しそうだ。
「魔法少女らしからぬ強みですね!」
「褒めてないよね?」
「褒めてます!」
「信用が浅い」
「また信用問題!」
空気が少し緩んだところで、私はノートの次の項目を見た。
七番目。
私が見た謎の記憶について。
部屋の空気が、少しだけ変わる。
自分で書いた議題なのに、喉が詰まった。
話すべきだ。
分かっている。
危険な情報を共有しないのは、前世の悪い現場そのものだ。
でも、あれを言葉にするのは怖かった。
炎。
泥。
アイリ。
青い騎士。
壊せ。
あれを口に出せば、何かが本当にこちら側へ来てしまいそうで。
「怖いなら、言わなくてもいい」
美遊が静かに言った。
私は顔を上げる。
「……美遊に言われると、ちょっと効くね」
「イリヤが言った」
「うん。言ったね」
怖いなら怖いって言っていい。
痛いなら痛いって言っていい。
私は美遊にそう言った。
なら、私もそうするべきだ。
「怖い」
私は小さく言った。
「でも、言う」
美遊が頷く。
ルビーも、サファイアさんも、凛さんも、ルヴィアさんも、黙ってこちらを見ている。
私はゆっくり話し始めた。
「セイバーの攻撃を防いだ時、変なものが見えました」
炎に包まれた街。
黒い泥。
白い城。
金色の光。
誰かが、アイリと呼ぶ声。
青い騎士。
そして、壊せという命令。
言葉にするたび、胸の奥が冷えていく。
凛さんの表情が変わった。
ルヴィアさんも、扇子を下ろしている。
「アイリ……って」
凛さんが呟く。
私は頷いた。
「ママの名前だよね」
部屋が静かになった。
その沈黙が、さっきまでのコメディとはまるで違っていた。
「でも、あれは私の記憶じゃない」
私は自分の手を見る。
「少なくとも、今の私の記憶じゃない」
前世の記憶でもない。
そう言いかけて、やめた。
転生のことは、まだ言えない。
言っていいのかも分からない。
この世界にとって、それがどういう意味を持つのかも分からない。
「普通のクラスカード反応とは少し違うわね」
凛さんが真剣な声で言った。
「クラスカードに英霊の記録が宿っていること自体はおかしくない。でも、あなたが見たものは……英霊の記録だけとは思えない」
ルヴィアさんが続ける。
「カードに宿る英霊の情報に、別系統の記憶が混線している可能性がありますわ」
「混線って、記憶にも通信障害あるんですか?」
「魔術的には、あり得ます」
「魔術、便利なようで怖い」
「カレイド的にも、ないとは言い切れませんねぇ」
ルビーが珍しく真面目な声を出した。
私は思わずルビーを見る。
「そこで急に真面目になるのやめて。怖いから」
「私だって真面目な時はあります!」
「普段の信用が浅い」
「また!」
ルヴィアさんが考え込むように言った。
「記録というより、残響のようなものかもしれませんわね」
「残響」
その言葉が、妙に耳に残った。
記憶の残響。
誰かの過去が、カードを通して響いている。
そう考えると、少しだけしっくりくる。
でも、だからといって怖くなくなるわけではない。
美遊がそっと私の近くに来た。
「また見えたら、言って」
「うん」
「一人で見ないで」
「……それ、いい言葉だね」
「イリヤが一人で怖いのは、嫌」
「真顔で重いこと言わないで。嬉しいけど」
「重い?」
「今のは、ちょっとだけいい重さ」
「いい重さ」
「たぶん」
美遊は真剣に頷いた。
また新しい概念を覚えた顔をしている。
私は少しだけ笑った。
美遊は重い。
少しずつ、確実に重くなっている。
でも、その重さは今のところ、私を押し潰すものではなかった。
隣にいてくれる重さ。
一人にしないための重さ。
それなら、悪くない。
たぶん。
会議は続いた。
最終的に、作戦はこう決まった。
初手は距離を取る。
私は広域防御。
美遊は中距離支援。
凛さんとルヴィアさんが後方から拘束術式。
セイバーの影が大技を構えたら即撤退。
無理に止めない。
剣筋は風圧と地面の裂け方で読む。
可能なら拘束の隙に攻撃を叩き込む。
目的は、まず情報収集。
無理なら撤退。
「作戦名、プリズマ☆セイバー大攻略作戦!」
ルビーが元気よく提案した。
「却下。目立つし長い」
「ええっ!?」
「安全再戦プランでよろしいかと」
サファイアさんが言う。
「採用」
「地味!」
「地味でいいの。安全が大事」
美遊がぽつりと言った。
「イリヤが危ない時は?」
「一緒に逃げる」
「それでも危ない時は?」
「一緒に防ぐ」
「それでも」
「美遊だけが壊れる選択肢はありません」
美遊が黙った。
ほんの少しだけ、目を伏せる。
「……難しい」
「一緒に覚えよう」
「一緒に」
「うん。一緒に」
その言葉を、美遊は大事そうに繰り返した。
会議が一段落したあと、凛さんが私を見た。
「あんた、変な子ね」
「最近よく言われます」
「でも、悪くないわ。魔術師はこういう安全確認を軽く見がちだから」
「凛さんがそれを言うと説得力がすごい」
「どういう意味よ」
「遠坂凛は反面教師として優秀ですものね」
「ルヴィア!」
「喧嘩禁止事項、もう破りましたね」
二人が黙った。
サファイアさんが静かに頷く。
ルビーが小さく拍手している。
何の拍手だ。
再戦の時間が近づく。
出発前、屋敷の廊下で美遊が私を呼び止めた。
「イリヤ」
「何?」
「怖い?」
私は少し黙った。
怖い。
もちろん怖い。
あの青い騎士の影。
見えない剣。
炎の記憶。
黒い泥。
全部怖い。
前なら、平気なふりをしたかもしれない。
でも、今は違う。
「怖いよ」
「そう」
「でも、言えたから大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
「難しい」
「私も難しい」
美遊が手を差し出した。
「なら、一緒に」
私はその手を見た。
小さくて、少し冷たい手。
昨日より、少しだけ近くなった手。
「うん。一緒に」
私は握り返した。
鏡面界への入り口が開く。
前回と同じ、重い空気が流れ込んでくる。
それでも、前回とは違う。
ちゃんと準備した。
ちゃんと怖いと言った。
ちゃんと逃げ道も決めた。
それでも、足は震えていた。
怖い。
逃げたい。
帰って寝たい。
でも、美遊の手は隣にあった。
だから私は、ルビーを握り直す。
怖いまま、行こう。
青い騎士の影が、再び夜の向こうに立っていた。